タキオンの活動休止に纏わる世間のほとぼりも収まりだし、早々とトレセン学園に慣れた今年度の入学ウマ娘たちも存在感を増しつつ、5月へと入った。
アグネスタキオンは、期限を定めぬ休養を宣言したのを良いことに、筋力維持のための軽いトレーニングを行う時以外は、自分が勝手に実験室と定めた理科準備室に籠っていた。GⅠレース出走に向けて調整していた頃は、ほぼ立ち寄る暇も無かった空き教室である。
トレーニングへ呼ぶため鷹木が覗きに来るたび、独りタキオンは目的も知れぬ実験の真似事をしたり、あるいはパソコンを開いて他のウマ娘が走るレース動画を眺めたりであった。
もとよりさして交友関係も広くない彼女であったが、知り合いを呼び込める機会にはここぞとばかりに準備を整える程度には、知己との語らいを楽しみにしているらしい。
その日、5月2日、タキオンが久々に自分の実験室へと呼び込んだウマ娘は、確かに鷹木としても会って話を聞きたいと感じていた存在ではあった。
「カフェー!やっと会えたねぇ、なかなかスケジュールの都合がつかないものだから、永遠に会えないのではないかと思うほどだったよ!」
「タキオンさんは、お暇でしょうに……。私も、ですけれど。」
タキオンがどこから拾って来たのか、鷹木も知らぬ間に設置されていた古びたソファに腰掛け、すすめられたコーヒーを一啜りしているのはマンハッタンカフェである。湯を沸かす電気ケトルも、タキオンが自分用の紅茶を淹れるために勝手に持ち込んでいた。
ちょっと目を離していたら物が勝手に増えていくタキオンの巣の様相はさておき、マンハッタンカフェとタキオンが会話の場を持つのは、およそ3カ月ぶりのことであった。
タキオンがインスタントの粉にお湯を注いだだけのコーヒーは、マンハッタンカフェの耳を徐々に垂れさせていた。
「さぁさ遠慮せずに、合いそうなお菓子もトレーナーくんに買わせたんだ、コーヒーのお代わりもあるからねぇ!」
「いえ……それにしても、本当に久しぶりですね、タキオンさん。」
話題を進めつつ、一口すすっただけでカップを置いたカフェ。おそらく、コーヒーにこだわりのある彼女としては及第点に至らぬコーヒーだったのだろう。
タキオンのもてなしが若干空回りしていたとしても無理はない。きさらぎ賞やアーリントンカップなど、カフェが不調な中で懸命にレースへと出走している時期は邪魔するわけにいかなかったし、4月まではタキオンの方が皐月賞に向けて余念のない時期であった。
そして何よりも、カフェの不調の原因として推測される元凶……ウマ娘レースに起きている異変をどのように捉えているのか、彼女に尋ねる機会もまた、なかなか訪れなかった。
「今日の天皇賞は、アドマイヤベガ先輩も出走だったねぇ。結城トレーナーも彼女について行ったことと思われるが、エアシャカール先輩はどうしているんだい?」
「シャカール先輩は、今月末に金鯱賞へ出走ですので……今も、個別練習場で、トレーニングの真っ最中です。」
おそらくエアシャカール相手にマンハッタンカフェが併走練習することもあったろうが、身体がなかなか本調子に戻らない自分がシャカールの練習の邪魔になっていないか、と気にするところはカフェにもあったのだろう。
そうでもなければ、顔を合わせるたびに面倒な話題を持ち掛けてくるタキオンの呼びかけに応じたりはしないだろうから……そう考えながら、テーブルの上に買ってきたお菓子類を広げつつ小さく頷いている鷹木へ、タキオンは鋭く視線を向けた。
「トレーナーくん、何か失礼な事でも考えていないかい?」
「えっ?いや、別に……」
「そうかねぇ?シャカール先輩ではなく、この私と共に居ることを選んだカフェには、よほどの理由があるに違いない、とでも思いながら今、頷いていたようにも見えたがねぇ。」
相変わらず観察眼の鋭いタキオンであったが、今は鷹木への糾弾ではなく、マンハッタンカフェへ本題を持ち出すための前置きとしてダシに使ったような形であった。
マンハッタンカフェの方も、タキオンの今の発言と同時に表情が僅かに硬くなった。
自分から言い出すべきか、そもそもタキオンが自分と同じ異変に気付いているのか……カフェの立場からは知り得ないことであったが、そんな彼女の逡巡も見越したようにタキオンは単刀直入に切り出した。
「確かに丁度良い状況なんだ、結城トレーナーも、先輩ウマ娘たちもいない場でカフェと語り合えるのは。カフェ、最近奇妙な事がウマ娘レースで起きたのは気づいているかな?具体的には、2月の京都記念、3月の阪神大賞典にて。」
「……はい。……その……」
はっきりと緊張感を増した顔で、マンハッタンカフェは同席するタキオンへと目を向け、次いで鷹木へも顔を向ける。
カフェの案じるようなことなど全て見通しているのか、タキオンは彼女の迷う様子について問い質すことなく、すかさず口を開いた。
「気にする必要はない、むろん私はカフェと同じものに気づいているし、ここにいるトレーナーくんとも既に話し合っている。実はシャカール先輩とも情報は共有しているのだが、あまり大人数で囲まれてもカフェが話しづらいだろうと思ってねぇ。」
「……そう、ですか……では、タキオンさんも、鷹木トレーナーも、お気づきだったんですね……京都記念と、阪神大賞典が、昨年と全く同じレースを繰り返していることに。」
タキオンはすかさず頷き、鷹木もそれに倣う。この場においては、タキオンが自分の洞察力をひけらかすためというよりも、カフェの不安を和らげるために首肯を遅れさせまいとの判断であった。
とはいえ、タキオンや鷹木、そしてシャカールとも認識を共にしていることは、カフェにとっても安堵感に繋がる事実ではなかった。
「私だけが、妙なものを見てしまっているのかと……そう思っていたのですが……いえ、その方が、良かったのかもしれません……」
「これが単なる記憶違いや思い違いであれば、そのほうがマシだと感じる思いには同意するが、しかし気に病んでも仕方がないねぇ、事実として認識されてしまっているのだから。私は嬉しいんだよ、カフェをも我々と同じ不可解のなかに引きずり込めたことが。」
「はた迷惑な方ですね……。」
この異変はタキオンが引き起こしたものではなく、世間が気づいていない異変にタキオンが真っ先に気づいたと称した方が正確だったのだが、カフェから迷惑だと言われた彼女はむしろ嬉しそうであった。
マンハッタンカフェが独り抱え続ける悩みを、自分の研究のテーブルに引っ張り上げられた実感がそうさせたのかもしれない。
タキオンは張り切って声を張り上げかけ、しかしいったん口を閉じて鷹木へ目くばせを送った。この実験室の入り口の様子を見てこいと視線で誘導したのである。
別に扉が半開きであろうが、タキオンの話している声が漏れていようが、いつも通りに突拍子もない仮説をタキオンが喋っているだけだ、と思われて終わりであろう。
が……せっかく気分がノってきたタキオンの調子を崩すつもりもなく、鷹木は廊下に顔を出して周囲に誰もいないことを確認し、扉をピタリと閉めて戻って来た。
「ご苦労、トレーナーくん。さて、現時点での我々の認識を改めて整理しようか。少なくとも今の段階で、京都記念、および阪神大賞典は、1年前と全く同じ出走者が揃い、レース展開も去年と全く同じだと確認されている。ばかりか、天候やバ場状態、あろうことか日付までも同じだ……あくまで、記憶の限りだけれどねぇ。」
「ちょうど1年前なら、曜日がずれるはずだから、そこもおかしいんだよな。トレーナーがアクセスできるデータベースで探しても、去年のレースの記録ではなく、一昨年の記録が見つかる。シャカールは、外部からのハッキングを疑えと言っていたな。」
ここまでほぼ黙っていた鷹木も、タキオンの語りに合わせ、まるで調査結果を補足する研究助手のように喋っている。
その場の様相は、研究者ごっこ遊びにトレーナーが付き合っているようなものだったが、深刻な表情を突き合わせて語り合うよりも、遊びの一環であるような形をとる方がむしろやりやすかった。
ウマ娘レースの結果が、既に定まったものをなぞっているだけだ、などと、考えるだけでもゾッとする。担当トレーナーの立場からしてもそうなのだから、実際に死力を尽くして走っているウマ娘にしてみればますます受け入れがたい事態だろう。
自分以外にも同じ異変を認識している者がおり、去年と全く同じレースが繰り返されている様を事実だと認めざるを得ないのだと悟ったカフェはしばらく項垂れていたが、この鷹木とタキオンの振る舞いを前にして多少なりと気力を取り戻したらしい。
一方のタキオンはますます興が乗ってきたためか、席から立ち上がって少々オーバーな身振りを伴いつつ語り続けている。
「あぁ、仮にトレセン学園のデータベースを勝手に書き換えるほどのハッキングが行われればそれも看過すべからざる事態ではあるが、しかし世間では何らの騒動も起きていない!むろん走ったウマ娘自身も違和感を抱いた旨を口にしていない、すなわち異変に気付かぬ者にとってはごく自然にレースが行われたという認識となっているわけだねぇ!」
「今年自体が、去年そのものを繰り返している……ってワケでもないんだよな。特にクラシック級ウマ娘のレースは、今年でなければ出走できないウマ娘が揃うんだから。カフェがデビューすることも、タキオンが皐月賞を走ることも、去年では決して起こらないはずの出来事だ。」
鷹木の言に、タキオンは芝居がかった身振りで大きく頷き、カフェも小さく頷きつつ、先ほどテーブルに置いたコーヒーのカップを手に取った。
彼女自身も、自分でなければ語れないことを抱えているのだろう。それを吐き出すためには、タキオンの淹れたさほど美味くもないコーヒーを口に含むことが必要となるのだろう。
コーヒーを一啜りしたカフェは、目を少し細め、やはり不満のあるコーヒーに口元を少し歪め、言葉を秘めていた胸中を開く活力を湧きたてたようであった。
「事実の整理は、タキオンさんと鷹木トレーナーにお任せいたします……ですが、おそらく私にしか見えていない存在が、ありました……今年の京都記念と、阪神大賞典には。」
「そうさカフェ、それを待っていたんだ私は。やっぱり“お友だち”かねぇ?」
カフェの目が更に細められて、タキオンを横目で睨む。普段静かな眼差しを浮かべている彼女からは、想像もつかない鋭い眼光が飛ぶ。
それは順を追って説明しようとする矢先に邪魔をするなとの意思表示でもあり、先ほどまで消沈していたカフェの気力が、今はかなり持ち直している証左でもあった。
タキオンは口を噤み、目を見開いて口角をあげた独特の表情のまま、大人しく椅子に座り直す。タキオンが静かになったのを見て、カフェは再び喋りはじめた。
「実際のところ、確かにお友だちの姿は見えていました。京都記念でも、阪神大賞典でも……しかし、それはあり得ない光景だとも思っていました。」
「……けれど、走っているレースの最中に“お友だち”の姿が見えることは、これまでもあったんじゃないのか?」
自重して黙っているタキオンの代わりに、鷹木が口を開く。
以前であれば、例えばアドマイヤベガが普段得意とする走り方とは異なる走りを見せた時、彼女に別のウマ娘の魂のような存在がとり憑いている様をマンハッタンカフェは目撃していた。
しかし、ここに来てカフェ自身が「あり得ない」と感じる光景は、確かに今までとはかけ離れた様相であった。
「……京都記念でも、阪神大賞典でも……私には、お友だちしか出走していないように見えたのです。」
「“お友だち”だけ、かい?それは例えば、出走していたはずのアヤベ先輩やトプロ先輩の姿が無かった、ということかい?」
さすがに我慢できなくなったのか、タキオンが質問を踏み込んでいく。
しかし、カフェは即座に首を横に振った。実際には出走ウマ娘が姿を見せ、ターフ上を走っているところを幾万人もの観客が見ているのだから、その事実に揺るぎはないはずだ。
「アドマイヤベガ先輩も、ナリタトップロード先輩も、たしかにそこに居て、他のウマ娘たちと競っていました。明らかに普通と違っていたのは、皆さんの姿がお友だちそのものだった、ということです。」
マンハッタンカフェとの会話を幾度も繰り返してきた者でなければ「姿がお友だちそのもの」などという表現が意味するところは理解しづらい。
鷹木やタキオンは、それはおそらく幽霊のように実体のない存在だろう、程度の認識であったため、なんとなく意味を掴むことは出来た。タキオンは、自らの得たイメージを確認するようにカフェへ尋ねる。
「言うなれば、全ての出走ウマ娘が半透明か、あるいはフワフワと宙に浮いているようにでも見えたのかい?……そも、私はカフェが“お友だち”の姿をどのように見ているのか、知らないのだけれどねぇ。」
「……お友だちは……別に、わざわざ浮いたり透明になったりはしません。たまに、物理的にあり得ない位置に居る事もありますが……ウマ娘の姿をして、普通のウマ娘同様に地に足を付けて歩き、あるいは走っています……。」
「じゃあ、普通のウマ娘と、“お友だち”として見える存在を、いかにしてカフェは見分けているんだい?」
それはマンハッタンカフェが幼少期に直面した問題であったろう。自分は普通にウマ娘の友だちへと話しかけているつもりが、周囲からは虚空と会話しているように見られるという経験もあったのだろう。
幾度もの不本意な経験が、カフェに明確な識別手段を編み出させていた。
「お友だちは……姿かたちこそウマ娘ですが……顔が見えません……いえ、顔はあるのですが……表情が見えない、と表現したほうが正確でしょう……。」
「なるほど、言うなれば目や鼻や口、眉毛などはあっても、そこから明確な表情が読み取れない姿で現れる、といったところかねぇ?」
タキオンの具体的すぎるまとめ方は少々カフェの感覚からずれていたろうが、他に形容の仕方も無かったのだろう。カフェは少々時間を置いてから、小さく頷いた。
その場に居るようで、物理的に存在はしない。そんな“お友だち”の姿で、今年の京都記念や阪神大賞典の出走ウマ娘たちが見えた。
カフェが伝えた内容を理解しようとして、タキオンは少なからず興奮すると同時にますます頭を抱えることとなった。
「私の仮説に当てはめれば、昨年と全く同じレース展開となったのは可能性世界にて確定した結果が反映されたためだ。だとすればカフェの見る“お友だち”は、やはり可能性世界におけるウマ娘の姿ではあるまいか?可能性世界とこの現実世界が強く重なりあった、そんな状況が今年の京都記念や阪神大賞典のレース場にて起きたのかもしれないねぇ。」
「じゃあ、そんなレースを見て何も違和感を抱かなかった観客たちも、可能性世界の観客と意識が重なった、ってことだろうか?」
「おぉ、いい点を突くじゃないかトレーナーくん!カフェ、その時、観客席はキミの目にどう見えていたかな?」
「えっ……いや、さすがに、レース中に観客席の方を注視することは、ありませんので……。」
カフェは困り顔を浮かべながら、急に早口になって語り出したタキオンと、彼女の仮説に付き合ってこちらも独自の説を出し始めた鷹木トレーナーを交互に見比べていた。
鷹木はまだまだタキオンに振り回される立場のつもりであったのだが、第三者から見れば既に鷹木もタキオンと似た者同士になっていたらしい。