ネオユニヴァースが制した春の天皇賞、かきつばた記念でのアグネスデジタルの復帰、とウマ娘レースの話題に事欠かない5月。
当然ながら、それらが過ぎ去った後、世間の関心は5月末に行われる東京優駿、日本ダービーへと移っていった。
話題の中心にあったのは、やはりジャングルポケットである。アグネスタキオンもマンハッタンカフェも居ない現時点のクラシック級において、最速クラスのウマ娘として多くが想起する存在であった。
続くは、デビュー以降昨年のホープフルステークスにてタキオンに敗れた以外は一着続きのクロフネや、同じくタキオンと競い合った経験を有するウマレナガラノ、そして皐月賞ではスタートが出遅れたジャングルポケットを交わして二着についたダンツフレーム、等の名が挙がる。
……が、そのいずれも、「アグネスタキオンが出ていないから」という消極的な条件付きの評価であった。
「思い出すわね、あの時も……グラスさんやエルさんが出ていれば、だなんて無神経な評価が飛んでいたわ。」
キングヘイローはスマホ画面に流れてくる情報をざっと流し見しながら、小さく溜息をついていた。練習に余念のないジャングルポケットに代わり、情報収集をするのは彼女のトレーナーたる者の役目である。
5年前の日本ダービーでは、怪我のため一時的に退いていたグラスワンダー、マイルカップへと進んだエルコンドルパサーが不在の状態で、キングヘイロー、スペシャルウィーク、セイウンスカイら黄金世代が競い合った。
結果としては、化け物のごとき加速で駆けあがってきたスペシャルウィークが二着に5バ身もの大差をつけて勝利、文句なしのダービーウマ娘となったのだが……そこまで見せつけてもなおネガティブな下バ評は暗がりに囁かれた。
その後、グラスワンダーがスペシャルウィークから勝利を2度奪うことがあったために、その噂はますます補強されるような形となってしまったものの、当のスペシャルウィークが他者からの評価をさして気に病まない性格であったため、無責任な噂は事も無げに流されたのであった。
とはいえ、ウマ娘レースの歴史に刻まれた勝敗に、世間一般が下す評価が一定でないことは今もなお続いていた。
殊にダービーは特別だ。一生に一度、得られるのは毎年、たった一名のウマ娘。
「ダービーウマ娘の栄冠は、無条件に讃えられるべきよ。ジャングルポケットさんがそれを手にするのは、ほぼ確実だというのに……私ひとりが気を揉んでも仕方のないことだけれど。」
「トレーナーにそう言ってもらえんのなら、それだけで心強ぇよ。ぜってー勝ってやる、俺が今考えられんのはそのことだけだ。」
キングヘイローが顔を上げれば、ウォーミングアップを終えたジャングルポケットがこちらを覗き込んでいた。
体操着姿の彼女は、ますます完璧な仕上がりに限りなく近づいている体つきが露わとなっていた。
東京レース場の2400mを走り切るスタミナを秘めたすらりとした脚には、ジャングルポケット最大の武器である爆発的な加速力を可能にする筋肉が無駄なく発達している。
ジャングルポケットは、この身体能力本格化をいよいよ迎えようとしているクラシック路線の只中で、完成形へ至ろうとしていた。残すは、本番までにどれだけ彼女の強みを磨きあげられるか、である。
スマホを仕舞い、キングヘイローは立ち上がってジャングルポケットと共に練習コースへ向かう。
「そうね。勝った後の話を、今考えていても仕方ないですもの。先日復帰したアグネスデジタルさんも、既に次のレースに向かうことだけを考えておられるようですし。」
「今朝早くから、もう練習場で走ってたよな。つーか、デジタル先輩の名前で、世の中の連中がアグネスタキオンのことを思い出しちまったんじゃねーか?どいつもこいつも、口を開けばアグネスアグネス言ってやがるし。」
「いえいえ、それは考えすぎ……」
「往々にして単純な連想というものは何気ない思考のきっかけとなるものだねぇ。全くこちらとしても不本意な話だよ、アグネスデジタル先輩の活躍は喜ばしいが、ついでのごとくタキオンというウマ娘も居たとばかりに思い出されるのはねぇ。」
ジャングルポケットを伴って歩くキングヘイロー、その背後に自然と並んで歩いていたアグネスタキオンの声に、両者ともども尻尾の毛を逆立てて振り向いた。
先ほどは自分が勝つことだけを考えていると述べたジャングルポケットも、やはり自分の評価の中で常にチラつくタキオンの名に苛立ちを覚えていないわけではないのだろう、眉を顰め目を逸らしつつも言葉を返す。
「何しに来やがったんだよ、今さら。まだ、自分ならジャングルポケットに勝てる、とでも言いてぇのか。」
「まさかまさか、私はこの通り走れない脚だからねぇ。日本ダービーに出走できないのはいよいよもって無念だ、こうしてジャングルポケットくんの応援をしに来ることしか出来ないからねぇ。あぁそうだ、私がこれまで収集したデータの提供をお望みなら、喜んで応じるが、いかがかねぇ?」
「申し出は有難いのですが、タキオンさん、これからジャングルポケットさんは練習に入らなければなりませんので、ご用件は手短にお願いするわ。」
アグネスタキオンもジャングルポケットに並び大事な後輩ウマ娘であるとはいえ、日本ダービーを控えたポッケの練習時間、無神経に割り込んでくるタキオン相手にさすがのキングヘイローも多少神経を尖らせつつあった。
とはいえタキオンとて、そういった相手の情動を理解できぬウマ娘ではない。背後を振り返って何者かに手招きしつつ、すぐさま本題に入った。
「むろん私自身もジャングルポケットくんの走りに興味はあるが、ここに来させてもらったのは練習風景を見学したがっている後輩を案内するためだ……私の後輩ウマ娘、すなわち先月入学したばかりの子だねぇ。」
「へぇ、タキオン、テメェが後輩の面倒を見るような性質だったとはな。」
言い返しつつ、ジャングルポケットの中にも好奇心が少なからず湧いてきていた。
もちろん自分の練習風景を見学したがる後輩が居てくれるのも吝かではない、と感じた部分もある。しかし何よりも好奇心を刺激していたのは、あの自分中心にしか振舞わないアグネスタキオンが、後輩のことを気に掛けているという意外過ぎる側面であった。
……が、その「面倒を見る」というのが一種消去法的な成り行き……要するに、アグネスタキオン、その担当トレーナーである鷹木でなければ面倒を見たがらない、面倒臭い後輩であったためであることは、すぐに理解することとなる。
タキオンの手招きに応じて出てきたのは、ポッケの練習場に邪魔している状況にて恐縮しきった様子の鷹木トレーナー、そして眼帯をつけ片目を隠した、見た目からして癖の強いウマ娘であった。
「紹介しよう、今年度から新たにトレセン学園における第一歩を踏み出した、私たちの後輩、未来のダービーウマ娘だ。さ、自己紹介を。」
「エルブルズの頂は、まだ遠く―――だが賽は投げられた(アーレタ・ヤクタ・エスト)!ククッ……これが歓喜(フロイテ)か!あぁ、感じるぞ、秘めたる戦神(アーレース)の狂乱を!我が名は刹那の眩い輝き(ギムレット)!……もう一匙のジンを待て。」
「お、おう……?」
ジャングルポケットとキングヘイローは、あまりにも独特過ぎる自己紹介を唐突に聞かされて、目をぱちくりさせながら茫然とするばかりであった。
突飛な言動をする相手はアグネスタキオンで慣れたつもりであったが、それをさらに上回るウマ娘が現れるとは考えたことも無かった。さらには、よりにもよって、その両名が自分と対峙する側に並んで立っている。
キングヘイローは、ジャングルポケットが我に返るよりも先に鷹木トレーナーへと助け船を求める目を向けたが、彼女らに引っ張って来られただけのような鷹木には場を収拾する術が見出せていないらしかった。
幸いにも、その日のタキオンは特に上機嫌であり、理解が及んでいない相手に解説する言葉を惜しむ気は無かった。
「実に個性的な後輩だろう?彼女の名前はタニノギムレット、きみに会えて嬉しい、と言っている。道のり険しくとも、自分もいずれ同じレースの舞台に立つつもりだから、期待して待っていてほしい、とのことだ。」
「そっ……そう、か。頼もしい限りだな、ギムレット、俺もお前と走れる日が楽しみだぜ。」
「あぁ、神話(ミュートス)への導きを得たがごとき、躍動する鼓動(エラン・ビタール)―――!既に始まっているのだ、我等の戦史(クロニクル)は!ハハハハッ……!これより先は、これまで以上に刻(クロノス)を愛することになるだろう……だが今は、言葉を尽くすまい。甘露(アムリタ)は口にしてこそ、魂(プシュケー)を変革させる。神秘(ミュステーリオン)とは黙し、不可解であるからこそだ。」
「おう……あぁ……うん……頑張るぜ。」
もはやギムレットが喋っている途中から、ジャングルポケットは相手の言葉を理解するのを諦め、曖昧な笑みを浮かべながら頷き返すだけに徹していた。
調子を狂わされる云々という次元に収まっている相手ではなかったが、ともかくジャングルポケットに会えたことを喜んでいるらしい情動だけは確かに伝わってきたため、悪い気はしなかった。
さておき、せっかく済ませたウォーミングアップの効果が薄れる前にコース上を走り始めたジャングルポケット。
奇抜な言動が目立つタニノギムレット、そして遠慮とは無縁そうに見えるアグネスタキオン、双方ともに最低限の弁えは心得ているためか、両者は居並んでポッケの走りに視線を注いでいる。
「ごらんよ、ジャングルポケット君の落ち着いた走りを。コーナーに入るまでの位置取り争いで、スタミナを浪費しないようにとの意識が全身に行きわたっているんだねぇ。」
「ククッ……獣性を宿した薔薇(アンチノミー)―――暴君(タイラント)の出現を待ち望んだ鑑賞者(ビホルダー)は、まずは鮮烈なる破壊(カタストロフィ)を味わうだろう……そして、いずれ見せつけられるのだろう、あの輝きの一端(ルイン)を!」
「その通りさ、全ては彼女にとって最大の強み、直線での末脚を最高効率で発揮するためにある。見事なまでに組み立てられた走りだねぇ。」
何故かスムーズに成立する会話を続けているタキオンとギムレットの背中を眺めつつ、キングヘイローと鷹木もトレーナー同士で隣り合って座っていた。
キングは、指導を担当する立場としてジャングルポケットの脚運びから目を離していなかったが、同時に申し訳なさそうにしている鷹木へと声をも掛けていた。
「ジャングルポケットさんの走りに、動揺は見られませんわね。熱烈なファンの子を連れて来ていただいてありがとうございます、日本ダービーに向けての励みになります。」
「いや本当に申し訳ない、今回の件はひとえにタキオンの行動を制御できなかった自分に責任が……」
「あ、いえ、皮肉とかではなく、本心から感謝しているのですよ!トレセン学園内での練習に明け暮れていては、どうしても真っすぐ声援を受け取る機会は無いものですから……。あのギムレットという子は、鷹木トレーナーが新たに担当されるウマ娘でしょうか?」
キングヘイローがそう尋ねたのは、これまで鷹木が担当してきた面々を思い起こしてのことだろう。
練習や授業にマトモに顔を出さなかったテイエムオペラオー、同じく自分の意思を優先して授業出席数が足りなくなっていたタキオン……と問題児な振る舞いを見せるウマ娘は鷹木が担当しているという印象があったことは間違いない。
もちろん、個々のウマ娘の性格を踏まえて学園側が決めているという側面もあったが、殊にタキオンなどはわざと目立つような騒ぎを起こし、入学早々に鷹木が面倒を見るよう仕向けていた。
が、キングヘイローからの問いかけに対し、鷹木は首を横に振った。
「違うんだ、タキオンが何故か気に入ったらしくて……同時に、ギムレットの側も何故かウマが合うらしくて、顔を合わせるたびに学園内を案内すると称してタキオンが連れ回しているだけなんだ。」
「な、なるほど……タキオンさんも、長期休養期間中に、面倒を見てあげられる後輩を見つけたのは、良いことかもしれませんね。」
「お互い、他に心置きなく喋りあえる相手が居ないせいかもしれないけれど。」
確かに、アグネスタキオンの場合、マンハッタンカフェやジャングルポケットのように彼女自らが絡みに行く相手は居れども、友達付き合いをしていると言える相手はそう居ない。
タニノギムレットの方も、あまりに個性的すぎる言動のため、入学からひと月の今、同じ学年の面々の中に親しく付き合っている相手は未だ出来ていないだろう。双方、付き合いを広く得たいと考える性格ではなかったが、それでも気の合う相手が居ることは悪いものでもないらしい。
練習コース上では、ジャングルポケットがコーナーを回って最終直線へと向かおうとしている。
その日最初の走り込み練習のため、完全に本気を解放しているわけではなかったが、居並んでジャングルポケットの走りを見つめているタキオンとギムレットは共に興奮して立ち上がっていた。
「いいねぇポッケくん!また加速の切れ味が増したんじゃないかねぇ!ひょっとすると、この私にも勝てるかもしれないねぇ!」
「野趣に溢れた烈日の輝き(セーラス)!あらゆる未来が混沌(カオス)へと導かれる、至上の破壊(デストロイ)とビターズ!」
各々が口にしている言葉はさておき、ジャングルポケットの走りが変わり者な面々をも魅了し、レース本番をも思わせる熱気でひとつにまとめていることは確かであった。
彼女らの背を見つめながら、キングヘイローは走りのタイムよりも何よりも、ジャングルポケットが栄冠を戴くだけの格を備えている実感を強く得ていた。
最も強いウマ娘が勝つ、日本ダービー。思い返せば、キング自身が走った時の、スペシャルウィークもそうだった。
作戦も実力も備え……その上に、並みのウマ娘では届かない、全てのウマ娘ならば無条件に感じ取る、畏敬にも似た感動を、走りで顕わとするのだ、ダービーウマ娘は。
「担当トレーナーの贔屓目かもしれませんけれども……ジャングルポケットさんは勝ちます、ダービーを。」
「あぁ、ダンツフレームやクロフネ、ウマレナガラノも強敵だが、今のポッケなら十分な実力を持っているだろうな。」
鷹木はキングヘイローに返答しつつ、自分が感じているところがキングとはズレているのだろうとも思っていた。
それは、アグネスタキオンとの1年以上にもわたる付き合いによって、ようやく磨かれ始めた感覚であった。人間ではなく、ウマ娘だからこそ、得られる確信というものがあるのだ。