金鯱賞の翌日、アグネスタキオンはウキウキとした様子で、エアシャカールとの待ち合わせへと向かっていた。
今回の待ち合わせ場所は、結城トレーナーが指導を行っている個別練習場ではない。シャカールが自ら指定したのは実験室……という名の、タキオンが勝手に占拠している理科準備室であった。
「私がお邪魔していた今までとは違って、シャカール先輩が私のことを呼んでくれるとはねぇ。やはり、私の立てた説でなければ理解できない現象が起きていると認めざるを得ないのだろうねぇ。」
「タキオンに縋る他ないほどに、理不尽な現象と直面している、って言った方が正確かもしれないけどな。」
タキオンも、同行する鷹木トレーナーも、シャカールが自分たちを呼び寄せた用件の心当たりは既に付いている。
昨日の金鯱賞は、去年と全く同じ展開であった。レース出走ウマ娘も、レース中の展開も、結果としての着順も、各ウマ娘の着差も。
「またしても、天候まで去年と同じになるとはねぇ。直前までの天気予報は雨、天気図を参照しても前線が中京競馬場付近まで来ていたというのに、発走時刻間際になって雨雲が吹き払われてしまった。」
「去年の金鯱賞が録画されていれば、あるいは現地で自前で撮影できていればなぁ……いや、今年の様相と比べるのも、ちょっと気味が悪いが。」
いつでもネット上で過去のアーカイブを閲覧できる環境に慣れてしまい、自前での記録を怠っていたことを悔やむ鷹木であったが、しかし実際に全く同じ状況であることを視認するのもそれなりに勇気が要る。
レース展開が去年と全く同じという時点で、それは単なる偶然を遥かに超えた、非現実性のあらわれである。
明確に残された動画と比較を行った際、レース展開どころか、場内の歓声、アナウンサーによる実況、そして空に浮かぶ雲の形まで、何もかも去年と全く同じであることに気づくとしたら……自分の正気をまず疑うことになるだろう。
タキオンの場合は、そんな感情面よりも自分の好奇心を優先する思いの方が強かったが。
「後悔は先に立たないが、しかし知ることが出来た後から対処は可能だねぇ。既に私は今年のウマ娘レースの映像データを保存し、複数のメモリでバックアップを取っている。情報端末の不具合に左右されぬよう、紙媒体でもレース展開を書き残している。来年もまた同じ現象が繰り返されるとしたら、これらのデータを参照するのが楽しみだよ!」
「こんなこと、起きない方がいい……いや、こんなことが起きているのが何かの間違いであるはずなんだがな……。」
全員が全力で走り、勝ちを獲りに行っているにもかかわらず、既に定まった結果の通りにしかならないレース。
そんなことが、ウマ娘レースであってはならないのだ。
平常通りに愉快そうな笑いを装っているタキオンの目の色が、心の底から晴れてはいない様を鷹木は充分に読み取れていた。
実験室、という体でタキオンが勝手に占拠している理科実験室の前で、エアシャカールはいつも持ち歩いているノートPCの画面を睨みながら待っていた。
「シャカール先輩、勝手に入って待っていてくれればよかったんだがねぇ。鍵は開いているとも、私の実験室と知って覗きに来る物好きが入り込めるようにね。」
「開いてんのかよ、お前が用意した実験器具を勝手に触られるかもしれねェってのに……ンなことするほどヒマな奴、トレセンには滅多に居ねェか。」
タキオンが実験室をしっかり施錠しているものと思い込んでいたシャカールは、タキオンに言われて初めてドアに手をかけ、ガラリと開けて先に中へ入っていった。
シャカールの言う通り、そもトレセン学園に入学するウマ娘はレースの舞台に向けて一心に練習する者たちばかりである。アグネスタキオンの実験室へと侵入するほどに好奇心を持て余したウマ娘は、今年に入ってはタニノギムレットの一例のみであった。
さほど掃除も行き届いておらず、タキオンが何を買って来たのか積まれている段ボール箱が床面積を狭めつつある室内。通行の邪魔になる箱を脚で押しのけながら、シャカールは室内を見回している。
「他人に立ち聞きされねェようにと思ってここを待ち合わせにしたのは良いが、落ち着いて座ってられンのか、この部屋は。」
「私にとっては充分に落ち着ける空間だがねぇ。あぁ、座るための椅子の心配をしているのなら、ほら、トレーナーくんが用意してくれるねぇ。」
タキオンの目くばせを受け取る前に、既に鷹木は散乱する段ボール箱を跨ぎながら部屋の奥へ進み、壁に雑に立てかけられている折り畳みのパイプ椅子を抱えてくる。
いずれもタキオンが粗大ゴミ置き場から勝手に拾って来た代物で、半ばガタついた椅子ばかりであった。
体重を掛けた途端にパイプ椅子の接合部分が外れないか……と恐る恐るシャカールが腰掛けているのを前にしながら、クッションが破れ綿がはみ出ているオフィスチェアにタキオンも腰掛けながら語り始める。
「さて、シャカール先輩が私と話し合おうとしている用件は、昨日の金鯱賞について、だろうね?」
「あァ。既に気づいてるだろうが、金鯱賞も去年と全く同じ結果になった……Parcaeによる予測とも、完全に一致してやがる。」
「すなわち、私が提言する『可能性世界』で確定したレース結果をなぞる形となった、というわけだねぇ。」
タキオンが「可能性世界」という言葉を口にした瞬間、シャカールの眉間の皺が僅かに深くなった。
“運命”と称するよりは、まだ非科学的な響きは薄かったものの、実際に走る前からレース結果が既に決まってしまっているという忌避すべき仮説を象徴するような表現だったためだ。
何よりも、その表現はシャカールが可能性を超える能力を発揮できていなかったこと……昨日の金鯱賞でも、そのためにParcaeが示した敗北を覆せなかったことを、否応なしに実感させられるものであった。
その点についてタキオンは少々無神経であったが、相手の情動を瞬間的に読み取る程度の感覚は有していた。
「いやすまない、シャカール先輩の可能性が閉ざされているなどと言うつもりはないのだがねぇ。」
「全部言っちまってんじゃねェよ、俺は一言もンなこと言ってねェよ。」
「その通りだねぇ、シャカール先輩は可能性の塊だよ。」
「テメェが言うと嫌味にしか聞こえねェよ。」
先輩ウマ娘に対して無礼なタキオンの言動はさておき、シャカールが金鯱賞で遭遇した現象に正面から向き合える程度には気力が温まったのは、たった今のやり取りのおかげではあった。
タキオンの側も、無駄話をするつもりでここに来ているわけではない。
さっそく、いつも羽織っている白衣の深いポケットに手を突っ込み、丸まって多少皺の寄った紙片を一枚取り出した。びっしりと、ボールペンの字でタキオンの仮説が書きつけられている。
「データで送れればシャカール先輩にも手間が無くてよかったかもしれないが、万一のことがあるからねぇ。アナログな手段で私の仮説をまとめておいたよ。」
「ンだよ万一のことって……狭い紙に細けェ字で書いてんじゃねェよ、読みづれェ。」
「万一、私とシャカール先輩との連絡が傍受されていたら、この世界の摂理が歪んでいる事実に我々が気づいていることを、何らかの機関に気づかれてしまうかもしれないからねぇ。」
「マンガの読み過ぎじゃねーか。」
さすがのタキオンにとっても冗談であるのか何も言い返さず、それよりも自分の仮説を取りまとめた内容を読んでいるシャカールの表情へと注視を向けていた。
鷹木も、自然とその内容へ視線が吸い寄せられていた……彼もタキオンの説を本気で信じるまではいっていなかったが、タキオンがびっしり書き連ねた内容の中に「テイエムオペラオー」の名が見えたためである。
「特異点、テイエムオペラオーの出現により、可能性世界と現実世界の展開に大幅な乖離が発生した……?」
「トレーナーくんなら、きっと興味を抱いてくれると信じていたよ。そう、かつて君が担当したオペラオー先輩は、私が確実に特異点として断定するウマ娘のひとりだ。年間無敗を達成した世紀末覇王であるというだけではない、勝つとも負けるとも知れぬ展開を、幾度も僅差で勝ち抜いてきた戦歴ゆえに、そう判断出来るのさ。」
その判断には、鷹木も自然と首を縦に振っていた。
なぜ勝てたのか、なぜ負けなかったのか、担当トレーナーとして最も近くで見ていた鷹木自身、どうしても説明のつかない勝ち方をオペラオーは幾度も披露していた。
テイエムオペラオー、彼女の出現が、ウマ娘レースの歴史、辿るべき運命に大きな影響を与えたと言われれば、根拠は無いながらに自然と納得へは至れた。
「こうした存在は、ウマ娘レース界において過去にも出現していたものと思われるねぇ。近いところでは皇帝シンボリルドルフが挙げられるだろう、もう17年前のウマ娘ゆえに、今の我々が確かめようはないが、当時も何らかの可能性世界との歪みが発生していたはずだねぇ。」
「だが、世間じゃ騒ぎにならなかった……今、俺たちだけが気づいている状況と同じか。」
「正確にはここに居る我々と、マンハッタンカフェ、だねぇ。あるいは勘よく気づいてはいるが、公言していない者も他に居るかもしれない。やはり現実的な事態ではないものだからねぇ。」
確かに、昨年と全く同じことが繰り返されている可能性になど、かりに思い至ったとしても自分の記憶違い、勘違いとして片づけるのが常である。
非現実的な出来事を、現実として受け止めることの方が難しいのだから。
「さておき、具体的に発生した異変の内容についての考察だが、『前年度と全く同じ展開となるレースが存在すること』……これはあくまで副次的な結果に過ぎない、と私は睨んでいるねぇ。」
「かなりデカい異変だとは思うンだがな。」
エアシャカールは先ほどから続けてタキオンの書いた文面に目を通しながら、言葉少なに応える。
つい昨日、シャカール自身が出走し、全力で勝ちを獲りに行ったはずの金鯱賞が、結果として去年と全く同じ展開になっていたという経験をしたばかりである。自分の尽力に拘わらず結果が決まっている、というのはウマ娘レースにあってはならない現象だ。
しかしレースに参戦するウマ娘としては、しばらく休止期間を得ているタキオンの方がより冷静に事態を評価できるようだった。
「確かに看過すべからざる異変ではあるが、しかし考えてもらいたい。可能性世界の中においても、全く同じ出走者が揃い、全く展開と結果が繰り広げられるレースなど発生しないだろう……えーと、つまり、伝わるだろうか、『全く同じレースが2年続けて行われる可能性』自体がそもそも存在しない、ということだねぇ。」
「言われてみりゃ、その通りだな。現実でも有り得ねェし、タキオンが言うところの『可能性世界』の中でも有り得ねェ、ってことか。」
「いわば、現実世界と可能性世界の間に歪み、隔たりが生まれたために、本来あり得ない現象を世界が引き起こしているのだろうねぇ。あたかも、世界にバグが発生したかの如き状況、というべきだろうか。」
相変わらず根拠のない仮説を元に組み立てられているタキオンの話だったが、ある種、ロジカルであると判断出来る理屈も含まれていたためかシャカールも頷いていた。
いくら、この現実とは異なる世界でレース結果がすでに確定していたとしても、その異世界においても2年連続で全く同じレース結果が繰り返されることはあり得ないだろう。
シャカールが頷いたことで弾みがついたのか、タキオンはますます目を輝かせて持論を述べ続けていた。
「さて世紀末覇王であり特異点たるテイエムオペラオーがいかなる影響を及ぼしたかについてだが、彼女の戦友に懸ける思いの強さが原因だと、私は考えているねぇ!最たる存在はアドマイヤベガだろうか、彼女は引退もやむなしとされるほどの脚の故障から無事に復帰、今も現役で走り続けている!さらにはメイショウドトウ、彼女はオペラオーが引退した後も、有馬記念にて再びのGⅠ勝利を獲っている!」
「確かにあの世代、先輩方が活躍してんのは認めるけどよ、それと今年に入ってからの非現実的な事態がどう関係あンだよ。」
「論理の飛躍と聞こえるかもしれないが、最後まで語らせてもらおうかねぇ。カフェは昨年の春の天皇賞にて、京都レース場を走っている自分自身の姿を見出した。ジャングルポケットくんは阪神大賞典、アドマイヤベガと同じ走り方を自分が選ぶだろうと感じていた。これらのことから、私たちの世代は特異点が去るまで舞台に上がれなかったのではないか、と私は考えている。」
タキオンが語る“私たちの世代”とは、オペラオーやドトウが引退した後にトレセン学園へ入学した面々のことだろう。
すなわち、アグネスタキオン、マンハッタンカフェ、ジャングルポケット、ダンツフレーム、そしてタップダンスシチー。ちょうど今年、クラシック級に上がれる世代だ。タップについては、実年齢がひとつ上だが。
シニア級以上のウマ娘しか出走できないはずのレースに、まだ今年はクラシック級であるマンハッタンカフェやジャングルポケットが出走している可能性はゼロのはずだったが、仮に『可能性世界』との年代のズレが発生しているのならばその限りではない。
「要するに、世代には隙間が開いたのだよ。クラシック路線のレースは毎年開催される、しかし我々の世代は、特異点が舞台から去るまでレースの舞台に上がれなかった……覇王の戦史を彩る役者は充分に揃っていたからねぇ。その隙間に入って来たのが、ネオユニヴァース、そしてゼンノロブロイ。特異点がもたらした歪みを埋める、新たな特異点たるウマ娘だねぇ。」
「ちょっと一旦、喋りを止めてもらっていいか。今のところ話した内容には、これといって根拠は無いんだよな?」
「むろん、無いとも。あぁ、一つ注釈を入れておこうか。この現実世界において、覇王の世代と、私たちの世代は3年分の隔たりがある。その間を埋めているのは、ネオユニヴァースとゼンノロブロイの世代だけではない……という件に関しても、その紙に書きつけてあるから目を通してもらえるかな?」
タキオン自身も喋りながら考えを取りまとめるのが難しくなってきたのか、先ほど手渡した紙片を読むようシャカールに告げる。
シニア級のレースとは違い、毎年新たなウマ娘が大舞台に上がってくるクラシック級のレースであれば、各世代にて活躍したウマ娘の名を確認することは容易い。
まずはオペラオーら覇王世代の翌年、クラシック級を席捲したのは言わずもがな、エアシャカールである。日本ダービーで彼女が惜敗したアグネスフライト、そして世界に羽ばたいたアグネスデジタルもシャカールの同世代だ。
その翌年のクラシック路線を勝ったのは、シンコウカリド、ダンシングカラー、マイネルデスポット。いずれもGⅠレースに出走し勝利している時点で十分に優駿として評価されるべきウマ娘だが、タキオンは彼女らを特異点として評価するほどの要素を見出していないらしい。
そして、更に次の年……ネオユニヴァースがクラシック三冠を勝ち、ゼンノロブロイが同年の秋シニア三冠を獲ったのが、去年のことであった。
「聡明なるシャカール先輩ならばおおよそ察しがついていることと思う。特異点とは、可能性世界にてあり得なかった展開も可能とするウマ娘だ、しかし特異点が参戦しなかったレースはどうなるか?……可能性世界で定められた通りの結果をなぞるのみ。本来は一度きりしか行われないはずの可能性世界の参照、だが覇王世代と私たちの世代の隔たりは、限られた特異点ウマ娘の存在では埋め尽くせなかったのだろうねぇ。」
「だから、ネオユニヴァースかゼンノロブロイが出走してないかぎり、既に実現されたレース展開しか可能性として残されてない、ってか?くだらねェ説だな。」
「いやもちろん、今年のクラシック路線のレースは、完全に未知なるものとなるはずだろう。ジャングルポケットくんやダンツフレームくんの激走が実現するだろうからねぇ。それに昨日も通話越しに告げただろう、シャカール先輩にも特異点の素質がある!テイエムオペラオーを破って、ジャパンカップを勝つことはParcaeにも決して予測し得ない展開だったからねぇ!」
「ンなもん2年前の話だ……マジで何なんだよ“特異点の素質”って。」
タキオンの発言に呆れつつも、シャカールの返答には小さく溜息が混じった。
日本ダービーが行われるのは、いよいよ明日。ジャングルポケットか、ダンツフレームか、それともクロフネ、あるいはウマレナガラノか……人気度に順位はあれど、どのウマ娘にも等しく勝つ可能性がある。
だが、昨日の金鯱賞、どれだけ懸命に走っても、結局去年と全く同じ結果へと到達し得ない実感を得たエアシャカールの表情は暗いままだった。
タキオンが語る“特異点”等という突飛な説はさておき、尋常ならざる戦績を有する先輩ウマ娘と、目覚ましい活躍とともに実力を伸ばしてくる後輩ウマ娘に挟まれた状況に、変わりは無かった。
去年と同じ展開をなぞる道しか通れないのであれば、自分はこれ以降一度も勝てないまま、今年を終えることになる。
今後も、敗ける運命しか残されていないのだろうか。
「シャカール?」
耳に入って来たのは、この場に居る誰でもない少女の声。
この場にマンハッタンカフェが居れば、全員がカフェに視線を向けていたことだろう。ここに居るはずのない存在が語り掛けてくる現象に、シャカールのみならずタキオンも若干引きつった表情を見せていた。
ほどなくして、この部屋の扉がノックされ、その声は外の廊下から響いてくるものと知れたが。
「シャカール、ここに居るの?昨日の金鯱賞での走りを讃えたくて、SP隊長にあなたの所在を突き止めてもらったのだけれど。」
「だ、誰だろうねぇ、私の実験室の位置を妙な突き止め方で割り出すとは。」
さすがのタキオンも、この訪問者が並みのトレセン学園生の枠に収まらぬだろうことを察し、緊張の面持ちで鷹木に視線を向ける。
鷹木の側も、そんなタキオンの不安を受け止められるほどに頼りある反応は返せなかったが。唯一、落ち着いた口調で返答できたのはエアシャカールだった。
「ファインモーションか……その扉、カギは開いてンぜ。」
おそるおそるといった調子で引きあけられた扉の向こう、栗毛の美しいウマ娘が居た。
彼女の名がファインモーションであることを知っているのは、以前の大阪杯にて会ったことのあるエアシャカールだけである。
鷹木とタキオンが、黒服とサングラスを見につけたSPを引き連れて入ってくる彼女を前にして固まっているのを後目に、シャカールはファインモーションと話し始める。
「何しに来たンだよ、こんな埃っぽい場所にまで。」
「言ったでしょう、昨日の金鯱賞、あなたの走りが素晴らしくて、でも中京競馬場には用事で行けなくて……今日、すぐにでも称賛を贈りたいと思っていたの。それにしても、この部屋は変わったものばかり置かれているんだね、まるで実験室みたい。」
「いや実験室っつーか、タキオンが勝手に占拠してる溜まり場……」
「ほう!私の実験室に興味がおありかねぇ!」
ファインの浮世離れしたオーラ、そして黒服のSPを前にして、多少なりと委縮した様子を見せたタキオンであったが、この物が散らかったばかりの部屋を実験室と呼んでもらえたことが嬉しいのか、ずいと前に出て語り始める。
傍らに居るSPのサングラスの奥から視線が鋭く飛んだためか、いつもほどの声量は出ていなかったが、それでも彼女の遠慮のなさはファインモーションの好奇心をも十分に惹いたらしい。
「お初にお目に掛かれて光栄だねぇ、私はウマ娘レースの道の探求者、アグネスタキオンだ。あらゆるレースの可能性、そしてウマ娘の到達し得る限界の先を見るため日夜研究を……」
「わぁ!どこかでお見かけしたようなと思えば、アグネスタキオンさん!皐月賞でのあなたの走り、一生忘れる事はないよ!ねぇ、休止期間を終えたら、またレースの場には戻ってくるのでしょう?」
「え、あ、あぁ、そうだねぇ、まぁ、そのうち……」
理屈の上ではいくらでも饒舌に語れるタキオンであったが、ファインモーションの視線から放たれるほどの純粋無垢な感激と関心を真っすぐに向けられる、という経験には全く慣れていない。
タキオンもシャカールも、ついでに鷹木も、居合わせた面々は等しくファインモーションのペースに呑まれていた。王室出身のウマ娘は、存在感からして他とは質が違いすぎる。
「トレセン学園に来てまだ1か月で、私まだ知りたいことが色々とあるの。タキオンさんは物知りそうだから、お時間があれば案内をお願いしようかしら。」
「おや、私で構わないのかい?で、では……そちらのSPさんのお許しが出るのならば、私なりの学園案内へと向かおうかねぇ。」
「ファインモーション殿下の安全が保たれるのならば、殿下のお望み通りにお願いいたします。」
黒服のSPウマ娘は、低く短い声でタキオンを促す。
タキオンが背後についてくる黒服を気にしつつもファインを伴って廊下に出て行った後、シャカールは嵐が去った後に我に返った人のごとく、ポツリと呟いた。
「おい、鷹木トレーナー。タキオンを追っていった方がいいぜ、殿下の身に万一のことがあれば担当トレーナーの責任問題だ。国際問題に発展するかもしれねェ。」
「……えっ、殿下?国際問題?」
「テメェ、トレーナーなら知っとけ。今年入学したファインモーションは、アイルランド王家からの留学生だ。」
いまさらながらに血相を変えて、弾かれるように廊下へ走り出ていった鷹木の背を見送って、シャカールはようやく椅子から腰を上げる。
自分の将来が暗く閉ざされたかのように感じる状況には、もう既に慣れていた。シニア級に上がった年も、去年も、繰り返したことだ。
「予測に収まらねェ、特異点、かよ。俺自身は、そうじゃねェかもだが……。」
トレセン学園のことを何も知らないまま、純粋にウマ娘レースに熱を上げ、シャカールの走りを応援し続けるファインモーションの眼差しが改めて脳裏によぎる。
彼女は、シャカールが勝つところを一度も見ずに終わるのだろうか。
その問いかけは、ファインモーションがこの部屋に入ってくる直前の自問と、かなり近しい内容でありながら質を全く異にしていた。
「ずりィだろ殿下サマ、あんな無邪気に、重てェ課題を。」
廊下を歩いて練習場へと向かうシャカールの眉間の皺はより深くなっていたが、口角は僅かに上がり、彼女のギザついた歯を僅かに覗かせていた。