頭上には、6月下旬の星空が広がっている。
薄暮が去り、すっかり夜の帳が降りた頃になっても、夏の大三角はようやっとアルタイルが地平線近くの明るみから逃れたばかりである。
ネオユニヴァースはひとり、トレセン学園校舎の屋上に佇んでいた。
「……。」
どの星を見るでもなく、何の星座を見出すでもなく、その眼は宇宙に向けられていた。
宇宙の向こう側、何億何兆光年もの先、この世界そのものを脱しきるほどの先へと、視線を届かせんばかりに瞳を輝かせ、耳と共に頭頂部の髪の束をピンと立てていた。
「……“SETO”の願い、届かない?“星々の饗宴”に。」
彼女は送信のためではなく、受信のための感度を上げていた。内から光を発するほどに、その水色の双眸は漲っていた。
それほどまでに、ネオユニヴァースは真剣に尋ねていたのだ。自分と共に、ここまで歩んできた存在―――すなわち、彼女の担当トレーナーに。
「『ぼく』が勝ちたかった“XACF”は、確かにもう乗り越えた。でも、『わたし』は、まだ“NEBX”の中、だよ。」
宇宙の果て、その向こう側へと問いかけ、返答を得るには文字通りに天文学的な時間を経る必要があるだろう。
物理的には限りなく不可能に近い、その隔たりを超越して交信する手段を、確かにネオユニヴァースは有していた。実際にそうしているのだ、との確証を客観的に得る事は出来なかったが。
単なる独り言、ないしイマジナリーフレンドとの会話だと、傍から見れば認識される行為ではあった。
「……もう“遺した”から、“FOBN”の時が来ることを、『わたし』が『怖い』と……」
無理もない。ネオユニヴァースは、ウマ娘として、ウマ娘の世界で果たしたかった目標を、ことごとく達した。
去年は、クラシック三冠。菊花賞の直前に、訳も知れぬ不安に駆られたこともあったが、その憂いを打ち払い見事に勝利した。クラシックウマ娘がまず勝てないとされてきた、宝塚記念をも制するという史上初の偉業も為した。
そして今年、大阪杯でも一着、さらに春の天皇賞ではイングランディーレの大逃げにも惑わされず勝利。勝ちたかったレースの栄冠を、トレーナーとともに獲り続けてきた。
「『未来』を踏破した“SISR”の後に感じたのは“エクスクルージョン”……この先は“ボイド”?」
ネオユニヴァースは、既に気づいていた。
まっさらな未来、自分が走らぬ限り確定しないレース結果、何によっても自らの運命を規定されない確信が、先月の天皇賞を最後に途切れたこと。
シニア級の春の天皇賞、その先をもはや“観測”できないこと。
「これは“REVS”?“DROC”は、『わたし』を“ロシュリミット”へ、引き込む?」
常通り、ネオユニヴァースには明確な表情の動きはない。
だが、ごく真剣に宇宙へと視線を向け、語りかけ、そして耳を懸命に澄ませている様は、彼女が重大な不安を抱えていることの証でもあった。
その不安の内容は、決して特別なものではなかった。同様の現象に気づいたアグネスタキオンが、あるいはエアシャカールが、抱いたものと同じである。
どれだけ自分が一生懸命に走っても、既に確定した結果しかレースでは得られないのではないか。ここではない、どこか別の世界で、ウマ娘レースの結果は既に決まっていて、我々はそれをなぞっているばかりなのではないか……。
しかしネオユニヴァースは、特異点だ。トレーナーと出会って、そのような運命を覆す走りを、この世界で実現したのだ。
宇宙の彼方、次元を超えた向こう側から、返答があったのだろう。ネオユニヴァースの光る瞳が小さく揺れ、ピンと立てていた耳と毛束がへたりと寝る。
「“LYBL”……でも、『あなた』が言うのなら……ユニヴァースは“ZEER”たちを信じるよ。」
時を同じくして空を見上げていた者がいれば、ネオユニヴァースが交信を終えたと同時に、宇宙が夜空から遠ざかったかのような感覚を得ただろう。
つい先ほどまで、底知れぬ奥行きを以て地表に迫るかとまで思われた星の大海は、いまや都会の光に抗し得る1等星と2等星たちが点々と散りばめられただけの、誰もが見慣れた平凡な夜空へと戻っていた。
それでも、暫くネオユニヴァースは校舎の屋上で、佇み続けていた。
トレーナーの返答は、いつも通りに温かく力強く、意思を支えてくれている。が、ウマ娘レースの根幹、自分がこの世界に見出した意義、そのものが揺るがされかねないほどの不安は、容易く埋められるものではない。
「“NIZR”は繰り返さない。“WENH”だから……また、『信じる』よ、トレーナー。」
ようやく、ネオユニヴァースは顔を夜空から背け、校舎屋上から寮へと帰ろうとした。
……が、何か強烈な違和感が、彼女の脚を止めさせた。
探査機がカメラを観測対象に向けるかのごとく、機械的な動作で視線を夜空へと向け直したネオユニヴァースの視野には、これまで通りに星々が映っただけである。
違和感の正体は、直接には見いだせない。
「ジェイムズ・ウェッブのヒビ?……ネガティブ。」
しかし、この世界の、この宇宙が異常を抱えていることは、確信的に感じ取れた。
既にトレーナーとの交信は終えていたが、ネオユニヴァースは小さな声でメッセージを送信した。
「トントンツートンツー、トントントン、トンツー、トンツートントン トントン……ツーツーツーツー、トンツートン、トンツー、ツーツー……」
世界そのものの異変など、すぐに対処して解消できる代物ではない。独りで抱え続けるには巨大すぎる不安をトレーナーへの交信に託し、ネオユニヴァースは宝塚記念へと向かう他に無かった。
この世界は、ウマ娘レースを中心に回っている。
その夜の星空を見上げても、星々の配置および惑星の軌道について知識がある者でなければ……同時に、ウマ娘レースにおける異常に気付いている者でなければ、違和感は抱けなかっただろう。
両方の条件を満たしている稀有な存在のひとり、すなわちアグネスタキオンは、早めに練習を切り上げて日没の頃には寮に帰っていたため、ネオユニヴァースと同様の気づきを得ることはなかった。
今は走れないタキオンもタキオンなりに、気にかけるべきことがあったのだ。むろん、目前に迫る宝塚記念についてである。
「当然ながら今回の異変にも気づいていることだとは思っていたよ、シャカール先輩。たびたび頼ってもらえるのは、嬉しい限りだねぇ。」
〈得意げなお前の声を聞かされンのが気に食わねェってのを押して、渋々声をかけてンだってのを忘れんなよ。〉
通話越しに聞こえてくるエアシャカールの不機嫌そうな声を聴きながら、タキオンは幾度も繰り返して表示したデータベースのページをパソコンの画面上に出していた。
幾度見直しても変わることなく、今年の宝塚記念の出走メンバーは記憶にある昨年と全く同じであり、しかし客観的に昨年の宝塚記念の内容を確認するデータは閲覧できない。
何度検索しても、一昨年の宝塚記念の記録が出てくるばかりであった。何度も繰り返し確認せずにはいられない不安を、タキオン自身は努めて声に出すまいとしていた。
「とはいえ私がいかに優れた探求で現状を細かに把握したとしても、この世界の現実を改変できるワケでは決してないからねぇ。宝塚記念の結果がどうなるかについては、やはりシャカール先輩をも含めた出走メンバーが実際に走るまでは確定しようがないということだねぇ。」
〈分かり切ったことを聞くつもりはねェ、ただ第三者の視点から確認しといてもらいたいことを頼みたいだけだ。〉
エアシャカールの側も、あくまでロジカルなアプローチで至れる要点だけを伝えるつもりらしい。
しかし今、それを画面上に打ち込めるメッセージではなく、気に食わないと言いつつも直にタキオンの声が聞こえる通話を繋いで伝えようとしている。彼女もまた不安を独りで抱えていられなくなったのだ。
いつものごとく、シャカールはParcaeに宝塚記念の出走メンバーのデータを入力し、シミュレーションを行っていた。
〈既にどこにも去年の記録は残されてねェ、データベースは一昨年のやつを表示してやがるが……俺の記憶にはしっかり残ってる、ネオユニヴァースが一着、ツルマルボーイが二着、ローエングリンが三着。で……俺が四着だった。Parcaeも、全く同じ結果を表示しやがったしな。〉
「私も覚えているねぇ、しかし今年の場合はローエングリンくんは安田記念に引き続いて宝塚記念にも出走することになるのか、実にハードなスケジュールだねぇ。さてシャカール先輩は、その通りの着順になるか、否かを、私に観測してもらいたいというのかい?」
〈着順なんかいい、結果は走った後に嫌というほど味わわされる。そうじゃねェ、レース展開の全体を見てくれねェか?誰がどのタイミングで仕掛けて、何バ身差をキープして、あるいは何バ身差を縮めて、結果に至ったのか。〉
「なるほど、確かに、我々の記憶にある昨年の宝塚記念と、確かに同一であるとの断言は過程の全てが合致していなければ不可能だねぇ。」
それはタキオンもシャカールも、昨年と同じ展開になるレースが存在する異変に気付きながら、完全なる断言を避けている部分でもあった。
レースデータ等の客観的に確認する手段が存在しないことは事態の認識を阻害する要因ではあったが、同時に自分たちの記憶違いや思い違いの余地を残す逃げ場でもあった。
が、京都記念、阪神大賞典ときて、宝塚記念までも同様の現象が起きる予兆を示しているとなれば、もはやそこに目を背けていられない。
〈去年は、ローエングリンが最後まで先頭で粘り続けていたのを俺が追っていたんだが、外側からネオユニヴァースとツルマルボーイが上がってきて先頭でゴールしていた。もちろん俺も全く同じ結果にするつもりは無ェ、今度こそ勝つつもりだが……マジでこの結果が確定してるってんなら、同じ展開になっちまうだろうな。〉
「観戦する立場の私なら、実際にそうなったかどうか確認できるねぇ。しかしシャカール先輩、URA公式は少なくとも中央レースの動画はアーカイブとして保存するのだから、それを見て確認することも可能ではないかい?」
〈勝手に記録が消えてたり、一昨年のに差し替えられてたりするアーカイブなンざ信用できねェに決まってんだろ。〉
「確かに。」
タキオンは即座に肯った。シャカールが言いたいのはURA公式によるデータ管理の杜撰さではない。
異常な現象が発生していることを認識していない世間によって保管されている記録が、正確なものであると信じることは限りなく難しかった。
〈万が一に備えて、昨年度の夏以降のレースデータもローカルで保存してあるけどよ、これも全部正確に去年実際にあったものかは確証が無ェ。俺たちが確信をもって言えるのは、自分の記憶に残っているレースについてだけだ。〉
「……となるとシャカール先輩、私は今年の宝塚記念の当日、URA公式が配信する実況中継を経由して観戦すべきではない、ということになるかねぇ?」
〈あぁ、現地で観戦してもらえるか?映像記録と、お前自身の目で見たレースの記憶を、しっかり残しておいてほしい。観戦チケットを取るのは……まぁトレセン学園トレーナーなら難しくねェだろ。〉
「確かに、その通りだねぇ。話が伝わるのが遅れてもいけない、トレーナーくんに今すぐおねだりしておくよ。」
以前の阪神大賞典で、テレビでもネット経由でも現地からの中継を見始める前に画面にノイズが走り、しばらく視聴できない時間が続いた例もある。間接的な観測では、記憶に確かさを求めることも出来ない。
現地の様子を、隈なく、そして間違いなく現実として観測するためにも、宝塚記念が行われる阪神レース場へ実際に赴くことは必須であった。
タキオンはシャカールから用件を聞き終えてすぐに、鷹木へとメッセージを送る。
「『トレーナーくん、次の日曜日の宝塚記念は、現地で観戦したい。阪神レース場のチケットを用意しておきたまえ。』……っと、これで観戦の準備は万端だねぇ。シャカール先輩の雄姿を現地で見られるよう期待しているよ。」
〈相変わらず応援しているようには聞こえねェ口調だな……どうせ去年と全く同じ、ネオユニヴァースが勝つと考えてンだろ。こんだけ条件が揃ってやがンだから。〉
「いやいや、以前も言っただろう、シャカール先輩には特異点の素質がある、と。一度はParcaeの予測も確定した命運も凌駕したんだ、再び勝利を掴む可能性は十分にあるねぇ!」
通話越しでは届かない苦笑とともにシャカールが通話を切り、タキオンも大あくびと共にパソコンを閉じてベッドに身を投げ出して眠り始める。
時刻は既に深夜であった。異変に気付いたウマ娘たちが、各々抱えている不安を辛うじて分かち合った後の、静けさばかりが占める時間帯であった。
その一方で、宝塚記念を現地で観戦したいという希望をタキオンから唐突に受け取った鷹木トレーナーは、安眠を貪っていられない状況となっていたが。
「たっ、タキオンの奴……!なんで今になって言うんだ、もう当日まで一週間切ってんだぞ……!キャンセル待ちか、あるいはまた学園を通じてURA関係者席に入れてもらえないか頭を下げて頼みこむしかない……!」
無茶な頼み事ではあったが、タキオンが敢えて現地での観戦を希望する理由はそれとなく分かるだけに、鷹木は翌日からのスケジュールにチケット入手の算段を組み込まぬわけにはいかなかった。
後日、どうにかこうにか阪神レース場、宝塚記念の観戦席のチケットを入手してきた鷹木の目の下に、くっきりと黒い隈が浮かんでいたのはまた別の話である。