6月27日、宝塚記念の発走日。
仁川の駅に到着してもなお、鷹木は気を抜けなかった。タキオンはいつもの白衣や制服ではなく、私服姿で帽子も深く被ってウマ耳や目元を隠していたが、それでも阪神レース場へ到達するまでの道程には大勢のウマ娘レースファンが詰めかけている。
彼らに、アグネスタキオンの存在を悟られれば、騒ぎになることだけは間違いなかった。
「……目立たないように頼むぞ。また例の地下道を通る時も興奮したりせずに……」
「分かっているとも、私とて子供じゃないんだからねぇ。」
声を低めてコソコソと話すだけでも、タキオンの名を直接口に出すことを鷹木は避けるほどであった。
何しろ、電車から降りて、改札口を通り抜け、その先の阪神レース場へと直通する専用の地下通路に至るまで、ぎっしりとウマ娘レースの観客たちで溢れているのだ。
皐月賞を最後に期限なしのレース休止を宣言し、ファンたちの前から姿を消したアグネスタキオン。彼女のことを案じる声や、無念がる声は、この大群衆の中からも生まれていたことだろう。
それに、去年、ホープフルステークスに出走する前の下見として阪神レース場を訪れた時、タキオンは仁川駅からの地下通路に張り出された歴代の優駿たちのポスターがずらりと並ぶ光景を前にして大いに興奮していた。
が……実際にレース場への地下道を進み始めれば、そんなことを心配していられるような状況ではなくなっていた。
「たっ、タキオン、はぐれるなよ……!」
「いちいちうるさいねぇ、どちらにせよ指定席のチケットを取っているのだから合流は出来るだろうに。」
つい鷹木はタキオンの名を口にしてしまったが、耳元でそれを聞いただろうすぐ近くの観衆たちも一向に気に掛ける様子はない。
それだけ皆、今日の宝塚記念のことだけで頭がいっぱいになっているのだろう。
なにしろ、昨年のクラシック三冠を獲ったネオユニヴァースを始めとして、エアシャカールやツルマルボーイ、マチカネキンノホシといった実力者たち、さらにはデビュー戦で目覚ましいタイムを記録したローエングリンも参戦しているのだ。
「やっぱネオユニヴァースだろ!速いだけじゃない、走りがスゲェ器用なんだ!」
「ツルマルボーイだって!いちばん勢いあるって!」
「俺としちゃあエアシャカールが一着に来てほしいなぁ!ずっと応援してんだよ!」
……というのと同様の内容を、全く同じ出走メンバーが集まった昨年度の宝塚記念に集まった観衆たちも思っていたはずであったが、誰も彼もすっかり忘れ去っている様子であった。
まるで、完全に初めて目にするレースを楽しみにするかのように、気味悪いほど無邪気に、群衆たちは口々に出走ウマ娘たちへの期待を語り合っていたのだ。
先ほどはぐれることを心配した鷹木に対し「どうせ指定席なのだから合流できる」と言っていたタキオンは、知らずうちに鷹木トレーナーの腕の袖口をぎゅっと握り締めていた。
「トレーナーくん。私たちがここへ来た目的を、忘れてはいまいね?」
「……あぁ。」
果たして、去年と全く同じ出走メンバーが集まった今年の宝塚記念が、やはり去年と全く同じレース展開および結果を示すことになるのか。
このレースが昨年の繰り返しになる予兆に全く気付いていない圧倒的多数の観客たちに囲まれていると、タキオンだけではない、鷹木もまた知らず知らず不安を抱えることになった。
むっとする人いきれの中で、自分の意識が明瞭であることを確認するように頭を振る。
問題ない。たしかに昨年、ネオユニヴァースが一着になり、ツルマルボーイ、ローエングリン、そしてエアシャカールの着順でレース結果が出たことを、自分ははっきりと覚えている。
自分が去年の記憶として有しているその結果が、今年の宝塚記念で完全に再現されれば、明確な異常が発生しているとの確認が取れる。
……そんなことが確認できたところで、どこに報告しても解決するわけではない、この世界そのものの異変であったが。
「トレーナーくん、覚えているかい?昨年と全く同じ展開が発生する異常性は、レース開始前から確認できる可能性がある。」
「どうやって……?」
ようやっと人混みに呑まれながらも阪神レース場の観戦席に到着し、腰を落ち着けつつ指定席に備えられたテーブルに自前のノートPCを出し、記録用のカメラを起動しながらタキオンが問う。
鷹木には、彼女が言わんとする内容をすぐに把握できてはいなかった。
「天候とか、か?たしか、去年と全く同じレース展開が起きる異変の中では、空に浮かんでいる雲の形まで、全く同じになっていた気が……。」
「それもあり得るが、さすがに一年前の雲の形など記憶の中では曖昧過ぎる。そうじゃない、もっとイレギュラーかつ印象に残る出来事がレース前に発生したじゃないか。昨年の宝塚記念、実況席に特別ゲストとして呼ばれたのは誰だったかい?」
「……メイショウドトウだった……そうだ、ドトウの、いつものドジがあったんだ。」
去年の宝塚記念では、実況席にアナウンサーと解説役のスペシャルウィークが並ぶというお馴染みの光景の隣、特別ゲストとしてメイショウドトウが呼ばれていた。
その際、メイショウドトウは彼女が頻繁に引き起こす「次元の違うドジ」を発動していた。
具体的には、本来は本番開始までスイッチの入るはずがないマイクがドトウの声を拾っており、実況席内にて打ち合わせを行うドトウの喋り声が阪神レース場内に響き渡ってしまう、というアクシデントである。
「仮に、今年の宝塚記念が、去年と全く同じ展開を繰り返すのならば……あのレース開始前のアクシデントもまた、同様のタイミングで発生するのではないかねぇ?」
「どうだろうな、ドトウは色んな意味で規格外だから……。」
タキオンもまた、鷹木と同じような期待を抱いていたのかもしれない。
別世界で確定した結果をウマ娘がなぞってしまう、可能性世界によって定められた運命から逃れられない状態。かつて覇王を破ったメイショウドトウが、そんな縛りに収まっているウマ娘ではない、と示されることへの期待である。
だからこそ、本来の実況が始まるより不自然に早いタイミングで、スピーカーのスイッチが入ったとき、タキオンの表情には若干の落胆が走った。
あのイレギュラーなドジまでも、可能性世界が敷いたレールの上を辿る出来事に過ぎなかったのか……しかし、その落胆は数秒後、文字通りに吹き飛ばされることになる。
〈びえっくしょいっ!!すっ、すみません、すみませぇん!マイクに唾とんじゃったかもですぅ……!〉
唐突に響き渡った、くしゃみの声。続いて謝罪している言葉は、どう聞いてもメイショウドトウの声である。
一瞬飛びあがった後、観客たちの間に笑いが広がっていく一方、アグネスタキオンは目を見開き耳を立て、鷹木と顔を見合わせていた。
「トレーナーくん。たしか、去年は、こうではなかったはずだねぇ……。」
「あぁ、ドトウがスタッフたちと打ち合わせして、渡された台本についての話をしていた時の声がマイクに拾われていたはずだ、間違いない。」
タキオンの表情は見る間に明るくなっていき、興奮を示すように頬も紅潮し始めた。
やはり、メイショウドトウは運命に囚われているウマ娘ではない。次元の違うドジは文字通り、ウマ娘としての運命を狂わせる歴史の特異点たる因子なのだろう。
既にレースから引退しているドトウではあったが、ウマ娘の全てが定められた結果から逃れ出られないわけではない、という希望を証明する存在には違いなかった。
〈はいぃ、大丈夫です、体調は万全ですぅ……マイクに向かって思いっきりくしゃみしちゃいましたけど、まだ放送が始まる前で良かったですねぇ。お客さんたちに、私のくしゃみを聞かせちゃうところでしたよぉ。〉
まだ、自分の声がスピーカーから流れ続けていることに気づいていないメイショウドトウの喋りが続いており、観戦スタンドは笑いに包まれている。
とはいえ、メイショウドトウも半ば、この昨年と同じ展開を繰り返そうとしている宝塚記念に流されかけている部分もあったようだ。続く言葉は、鷹木のおぼろげな一年前の記憶を頼りにすれば、去年と同一であった。
〈それにしても、みなさん、楽しそうに笑ってますねぇ……宝塚記念、楽しみにされている方が多いんですねぇ……マイクですかぁ?はいぃ、ちゃんとつけてますぅ……えっ、私の声が、スピーカーから出続けてる……!?すっ、すみません!すみませ〉
ドトウが慌ててマイクのスイッチを切ったためか、中途半端なところで途切れた謝罪の声。
同じ状況を前にして、ドトウが同じことを喋るのは充分にあり得ることである。とはいえ、マイクのスイッチが切られるタイミングまでぴったり去年と同じであるのは、運命による干渉の結果ではなかろうかと鷹木は思わずにいられなかった。
タキオンはと言えば、既に次なる現象へと関心を移していたようだが。
「トレーナーくん。実況アナウンサーや、解説のスペシャルウィーク大先輩が、昨年と全く同じやり取りをするのならば、ドトウ先輩の反応が気になるところだねぇ。」
「昨年と全く同じやりとり?……そうか、『前回の宝塚記念覇者』として扱われることになってしまうからな。」
正確には、前々回の宝塚記念覇者として扱われるべきメイショウドトウ。
前回、すなわち去年の宝塚記念を勝利したのは、ネオユニヴァースである。その記憶が世間からほぼ消え去り、記録も消滅しているがため、大多数の観客は宝塚記念でネオユニヴァースが走る様を初めて見る……という認識でいるのだ。
数少ない存在、アグネスタキオンと鷹木、エアシャカール、マンハッタンカフェ……そしておそらくネオユニヴァース自身だけが、去年の宝塚記念と全く同じ展開が繰り返されようとしている予兆に気づいていた。
ここに来て、メイショウドトウが明白に昨年には起きなかったアクシデントを起こしたため、彼女の言動にタキオンは注目しているのだ。
やがて、本来の予定通りの時刻となり、場内へと実況アナウンサーの声が響き始める。
〈さていよいよ発走時刻も近づいてまいりました、春シニア三冠の最後を締めくくる大舞台、宝塚記念。今年も名だたる優駿たちが集まりました、阪神レース場。解説を担当していただくのは、皆様お馴染みのこの方であります。〉
〈はい、スペシャルウィークです!いよいよですね、今年度の宝塚記念!毎年熱いドラマが繰り広げられるこのレース、去年のレース模様は特に観客の方々の記憶に残っているんじゃないでしょうか……その、つい先ほどの記憶にも鮮やかに刻まれたかもしれませんけれど!〉
「同じだねぇ。昨年の実況と全く同じだ、まるで既に定められたセリフを読み上げているかのごとく。」
「台本はある程度用意されているだろうから、有り得なくもないだろうが……。」
しっ、とタキオンは鷹木の口元に掌をかざし、黙らせる。
間もなく実況アナウンサーによって呼び込まれるメイショウドトウの反応にこそ、タキオンは好奇心の全てを注ぎ入れていた。
〈えぇ、ではさっそくお呼びいたしましょう、今回のスペシャルゲストは、前回の宝塚記念にて勝利を収め、昨年の有馬記念にて有終の美とともに引退されたこの方、メイショウドトウさんです!〉
〈ど、ど、どぅもぉ、メイショウドトウですぅ……阪神レース場にお越しの皆さん、ご、ご機嫌はいかがですかぁぁ……?〉
ドトウの返答もまた、昨年と全く同じであった。自分を紹介する文言に明確な誤りがあることになど、気づいていない様子だ。
タキオンは拍子抜けした表情で、周囲を見回す。
周囲の観客たちも、何ら違和感を見出していない様子で、笑いと拍手を実況席から響くドトウの声に送っている。
鷹木へと視線を向け直したタキオンの表情は、拍子抜けといった色を薄れさせ、僅かな恐怖も伴った不安へと移っていた。
「トレーナーくん……おかしい、よねぇ?おかしいのは、私たちではなく、周囲の面々、であるはずだねぇ?ドトウ先輩が出走した宝塚記念は、前回ではなく前々回であるはずだし、昨年ではなく一昨年の有馬記念で引退したはず、だねぇ?」
「ドトウのことだから、疑問に思ったことよりも円滑に段取りを進めるのに必死になってるだけだろう。にしても、これだけ何万人も集まっている観客が、実況が喋っている内容に間違いがあると気づかないのは、確かに不気味だな。……タキオン、場内の様子は、きちんと記録できているか?」
「当然だとも、先ほどの実況席でのアクシデント放送から、音声も映像も記録し続けている。」
わざわざ阪神レース場の現地に行きたいとタキオンが言い出した時には、何を無茶なことをと感じた鷹木であったが、今は現地の状況を記録できる機会を得たことに十分すぎる価値を見出していた。
メイショウドトウが「前回の宝塚記念にて勝利」そして「昨年の有馬記念にて引退」したという紹介の内容は、客観的に確認できる明確な間違いである。
単にアナウンサーが言い間違えただけではなく、これが間違いではないかのごとく数万人もの観衆に受け入れられている状況が、現実世界の時系列に狂いが生まれている証拠でもあるようだった。
鷹木もまた自分のスマホで、この阪神レース場内の様子を撮影していたが、その様に気づいたタキオンは異なる提案をもちかけた。
「トレーナーくん、そちらの端末で記録しておいてくれるのも良いが、キミは紙のメモ帳を常備しているだろう?紙に書き込む形でも記録を頼む、それは間接的な記録に過ぎないが、デジタルデータはいかなる原因で消滅、ないし閲覧不可の状態に陥るとも知れないからねぇ。」
「そうだな、メモ帳に書き込む形でも記録しておく。」
自然と、鷹木の口調にも緊張感が混じり始め、タキオンの指示した内容をまるで任務を受けた兵士のごとく繰り返していた。
京都記念のときも、阪神大賞典のときも、去年と全く同じ展開、全く同じ結果になる異常なレースの観測は、後手に回ってしまっていた。異変の原因を探るどころか、全貌を掴むことすらままならない状態であった。
今回は、事前に明確な予兆を掴めている。そして、既に去年と全く同じことの繰り返しは、始まっている。
ウマ娘レースの結果が、開始前から確定しているという、あってはならない事態。
世間の大多数が認識せず、十分な証拠も出せなかったため説明も困難であった異変に、アグネスタキオンと鷹木はようやっと直面しようとしていた。