合宿所に到着すれば、そこから後はトレセン学園に居る時以上に、ウマ娘たちのトレーニングを最優先事項に置いたスケジュールが開始される。
殊に、今回は結城トレーナーのはからいでバスという移動手段が選択されたため、合宿所に併設された練習場へと横付けされた車両からウマ娘たちは直に出ていくことが出来た。
停車と同時にアドマイヤベガは立ち上がり、結城トレーナーへと告げる。
「練習場の芝状態を早めに確認しておきたいし、身体を慣らすのも兼ねてさっそく練習グラウンドに向かうわ。荷物の運搬はお願いしていいかしら。」
「あぁ、荷物は僕たちと合宿所スタッフで運んでおくよ。じゃあ、気をつけて。」
昨年度に引き続き、合宿の参加メンバーの中ではナリタトップロードと並んで一番の先輩格であるアドマイヤベガ。
彼女は後輩ウマ娘たちにわざわざ指示を出すこともなく練習場へと駆け出していったが、他の面々もさほど迷うことなく、自分の担当トレーナーに声をかけてからアドマイヤベガに続く。
車内に残ったのは、脚の故障のため4月以来の長期休養が続いているタップダンスシチーと……アグネスタキオンである。
「タキオン、お前はもう軽めの走りなら問題なく行えるんだから、皆と一緒に練習場のコース状態を自分の脚で確かめてきた方がいいんじゃないか。」
「何を言うんだい、私の脚は完治したわけではないのだから、トレーナーくんの厳正なる管理の下で走るように心がけるべきじゃないか。そんなことよりも、精密な観測機器の運搬を優先すべきだねぇ。こればかりは下手な衝撃を受けると光軸がズレてしまう、私自らの手で運ばねば。」
「いや、そんな重い物を運んでいるお前の脚に掛かる負荷の方が心配なんだが……」
よほどこだわった観測機器を持ち込んだためであろう、合宿所に到着した際の最優先事項として、タキオンは走りよりも観測機材の運搬や組み立てばかりを念頭に置いていたようだ。
聞き慣れた鷹木の小言を聞き流しながら、観測機器の入ったケースへ手を掛けたタキオンであったが、そんな彼女の動きを止めさせたのはキングヘイローの声であった。
「アグネスタキオンさん、無理のない範囲での走りが問題ないのなら、あなたが練習場で走る姿をジャングルポケットさんにも見せていただけるかしら?」
「ジャングルポケット君に、だって?」
「えぇ、今のあの子にとっては、タキオンさんの走りが一番の張り合いを生むはずですもの。暇さえあれば、今年の皐月賞のレース映像を見返してらっしゃるし。」
ジャングルポケットの最も近くにて、彼女の振る舞いをしっかりと見続けている専属トレーナーとして、キングヘイローは依頼していた。
今の情報、皐月賞の映像を頻繁に見直しているという件も、ジャングルポケット自身はアグネスタキオンに伝えようとはしない内容だろう。それは彼女が、いずれ超えるべき強敵を直視するための振る舞いであった。
同時に、アグネスタキオンがいずれ必ずレース本番の舞台に復帰することを期待出来ればこそ、の思いでもあった。
「あなたの担当トレーナーも仰ってる通り、合宿期間を通して利用する練習コースの状態確認も大切よ。観測機材が心配でしたら、この私が一流の責任をもってお運びしておくわ。」
「ふぅン……さすがに、かのキングヘイローに頼まれたことを、すげなく断るわけにもいかないねぇ。」
そうは口にしても、キングヘイローの発言を聞いたアグネスタキオン自身、ジャングルポケットがこちらに向ける思いの並みならぬ様は感じ取ったのだろう。
いつものタキオンにしては妙なまでに素直に、運ぼうとしていた機材のケースから手を離し、練習場へと駆け出していった。昨年の合宿においては、自分の興味が向かう先へと真っすぐ駆けだそうとして、先輩ウマ娘たちに抱えられ無理やり合宿所の中へ連れ込まれていたが、それとは対照的な姿でもあった。
鷹木はすかさず車窓から練習場のタキオンの姿へと視線を向けたが、タキオンは無茶なペースで走るような真似はせず、あくまでウォーミングアップの調子で淡々と足を運んでいた。
キングヘイローは、タキオンの背を見送る鷹木の目の色があまりに不安に染まっていたのを見てとり、声をかける。
「そう心配せずとも、タキオンさんは気持ちを逸らせて無茶をするウマ娘ではないのでしょう?」
「普段はそうなんだが、このところ屋内の設備を用いたトレーニングが続いていたから……陽射しの注ぐ芝の上を走るのも、タキオンにとっては久々なんだ。」
それでも、鷹木が胸中に抱いていた懸念は杞憂に過ぎなかった。タキオンは目の上に掌をかざし、太陽の地平座標位置を凡そ確認しながら、ゆったりと流す調子で練習コースへと入っていくところであった。
広大な練習場の彼方には、先んじてアドマイヤベガと共に走り出ていった面々の姿が、陽炎に揺れている。
あの中にいるジャングルポケットも、間もなくタキオンが練習場に入ってきたことに気づくだろう。
鷹木と並んで練習場の様子を見つめていたキングヘイローは、視線をバスの車内へ戻し、そして若干低めた声で呟いた。
「さて……責任をもって運んでおく、と言ったは良いのだけれど、私、天体望遠鏡なんて一度も扱ったことがないわ。我ながら、ここぞという所でへっぽこなミスをしてしまうのが怖いわね……。」
「Just leave it to me!……と言いたいとこだが、わたしも雑に扱って壊しちまいそうだな!」
車内の奥から、片桐トレーナーに伴われて出てきたタップダンスシチーが唐突に声をかける。皆が練習場に走り出していった後、残された彼女は寂しさこそ見せなかったが、絡みに行く相手は求めていたらしい。
さすがに、まだ杖を突いている彼女を他の面々と共に走らせるわけにはいかなかったのだろう、片桐はタップを連れて先に合宿所の建物内へと向かうつもりのようであった。
それはトレーナーとして模範的な振る舞い、担当ウマ娘の身体を最大限に気遣う最適解であったが……いつものごとく、片桐の言動は常に胡散臭いものだった。
「えぇ、ここは一番の小心者、もとい最も硬い責任感を有する鷹木トレーナー自身が運ぶべきでしょう。ついでに我々の荷物も合宿所の部屋まで運んでいただければ大助かりですが。」
「さすがにそれはご自身で頼みます。」
先んじてバスを降りていく片桐から若干の煽りも込めた後押しを受け、腹をくくった鷹木は、タキオンの持ち込んできた天体観測機材のケースを両腕で抱えて持ち上げた。
足腰にズシリとくる重量、そしておそらく鷹木の給料ではそうそう購入できるものではないだろう金額の想定が、早くも彼の額に汗をにじませる。抱えたケースの大きさも、視野を塞いで足元を隠すに十分すぎる。
気遣いの絶えないキングヘイローは、鷹木に先行して足元の段差や障害物の類を伝えつつ移動し始めた。
「そこからバスの昇降口です、そう、あと二段、一段……はい、地面に着きました。合宿所の建物までは平坦ですけれど、入り口の扉で躓かないようお気をつけて……」
額から頬へ汗を垂らしながら運んでいる鷹木を、後ろから見守っていた桂崎トレーナーもバスを降りた。
キングヘイローはなおも貴重かつ重量級の機材を運ぶ鷹木のサポートを続けるつもりのようであったが、桂崎トレーナーはあくまで合宿本来の目的を優先するよう告げた。
「走りに行った子たちが帰ってくるまでに、アイシングの準備をしておこうか、キングヘイロー。まだ午前だというのに、かなり気温が上がっている。走り終えてから準備していては、効果も薄れるだろう。」
「確かに、その通りね……では、私たちは先に合宿所へと向かっておりますから、鷹木トレーナーはくれぐれも焦らずにいらっしゃって。」
「ど……どうも、お気遣いありがとう……。」
桂崎トレーナーとキングヘイローが去っていく背を見送る余裕は、既に鷹木に残されていなかった。
他のトレーナー達に遅れること数分、もはや全身にシャワーを浴びた直後であるかのごとき汗まみれの状態で合宿所の建物に辿り着いた鷹木は、慎重に硬質ケースを床へと置き、暫くロビーの椅子に腰かけて項垂れていた。
この苦行が、少なくともタキオンの探求に、そして顕在化しつつある異変の解明に役立つことを祈るばかりであった。合宿所の建物内にて既に満たされていた冷房の涼気が、ようやく人心地を味わわせてくれた。
「タキオン、夜に備えて昼間のトレーニングは手抜きで済ませる気じゃないだろうな。」
鷹木はボヤきつつ、練習場の広々とした芝地へ改めて視線を向ける。
アドマイヤベガによれば、今夏、最大の天体ショーである火星大接近……二年連続で発生することは現実的にあり得ないはずの異常現象……が、観測しやすくなるのは8月の末、すなわち夏季休暇の終わり際である。
天体観測機材を持ち込んだ目的がそれであるならば、少なくとも合宿所に到着したばかりの今日、7月の半ばの夜空を見上げる必要はないはずだ。それでも、タキオンがおとなしくしている保証は無かったが。
「さっきはキングヘイローに言われて練習場に向かっていたが、ちゃんとタキオンは皆に合流しているのか?」
たかだか数分とはいえ、徐々に日が高くなる午前の時間帯、先ほどよりも更に立ち昇る陽炎が強まったように思えるグラウンドを見つめる鷹木は、間もなく違和感を抱いた。
アドマイヤベガに率いられて、最初に練習場へと走り出ていった集団は相変わらずグラウンドの向こう側で集合している。
その位置が、先ほどバスの中から見た時と全く変わっていない。鷹木の記憶はさほど詳細ではなく、暑気の中で揺らぐ光景ではあったが、各員の立ち位置までも変わっていないように見える。
「何だ……?話し合いにしては、妙に長いことかかっているような……。」
よく冷房の効いた建物内から見つめる、炎暑の芝の上は、まるで別世界のごとく遠く思われる光景だ。
それはトレセン学園でも、あるいはウマ娘レース場でも同様に目にすることが出来る光景ではあったのだが、この合宿所では毎年のごとく、何らかの異様な現象に見舞われることを鷹木は覚えていた。
殊に、アドマイヤベガは、トレセン学園に入学して初めてここに来た5年前の夏から、彼女自身の命運に纏わる奇妙な体験を必ずといっていいほど繰り返している。
「また何かあったんだろうか。いや、それよりも、あんな炎天下で立ち止まりっぱなしで熱中症になってもいけない。」
鷹木は首から掛けていたタオルで顔面の汗をぬぐい、建物内の冷気を吸うように深呼吸を一度済ませ、改めて外へと出て行った。
先ほどはかなりの重量となる観測機材を運んでいたたため瞬く間に汗が噴き出してきたのだが、今度は身軽な状態であるため足取りは軽い……。
と、思われたのも数秒だけの話であった。頭上から降り注ぐ灼熱の太陽光、存分に温められた地面からの反射熱、そして酷暑の熱気で満たされた空間の中で、間もなく鷹木の全身からは玉のような汗粒が噴き出て流れ始めた。
「今年の夏は、莫迦みたいに熱いな。ある意味、去年の繰り返しにはなっていないって点で、安心すべきなのか?いや、んなことよりも、ウマ娘たちの心配を優先しないと。」
グラウンドの向こう側で足を止め続けているウマ娘集団に向かって鷹木は脚を急がせる。が、ウマ娘用の練習場は人間の脚には広すぎる。
端から端まで、いくら早足で向かっても数分かかるのを覚悟せねばならない。ここはターフのコースであったが、まるで広大な緑の砂漠を行く旅人のような気持ちを鷹木は味わいつつあった。
―――彼が、再びの苦行を完遂せずに済んだのは、先んじてコースを一周してきたアグネスタキオンがこちらに向かってきたおかげである。
「……あれ?タキオン?アイツ、皆と合流して練習しなかったのか。先輩や同級生が集まってるってのに、無視して単独で走るだなんて。」
それはアグネスタキオンの振る舞いとしては何ら違和感のないものではあった。
しかし、ウマ娘としてはゆっくりしたペースでこちらへ駆けてくるタキオンの表情が、いつになく緊迫したものになっていることに間もなく鷹木は気づいた。まさか、何か問題でも起きて、ひと悶着あったのだろうか?
いや、そのようなケースであっても、タキオンの場合はニヤニヤ笑って済ませるだけだろう。
彼女の背後、まだはるか遠くには、グラウンドの片隅に集合したまま立ち尽くしているウマ娘集団の姿がある……。
「おい、タキオン。めずらしく言われた通りに練習場へ出て行ったと思ったら、自分ひとりで帰ってくるだなんて」
「引き返したまえ。」
「……えっ?」
「引き返したまえ、トレーナーくん。」
有無を言わさぬ調子で放たれたタキオンの様子に圧されたためでもあったが、事情を呑み込めぬまま茫然とした表情の鷹木へ、タキオンは手を伸ばす。
そのまま、鷹木の肩を掴んで体ごと合宿所の方へ向けさせ、腕を引っぱって無理矢理に連れて走り続ける。
タキオンなりに力と走る速度は加減しているつもりのようであったが、鷹木の腕を掴む力の強さは彼女に似つかわしからぬ焦りを感じさせた。
「おいっ……どうしたんだ、タキオン……!ちょっ、ちょっと、力を緩めてくれないか……お前が小走りのつもりでも、人間には……必死の速度だって……!」
「済まないねぇ、だが現に私についてこれているのだから問題はないだろう。それよりも、かの未知の現象に巻き込まれた際の結果が予測できない、昨年の事例を鑑みてもやはりこの土地は異常現象が発生しやすい条件が整っていると見える。あれはおそらく小規模ながら、別時間軸の記憶が呼び出された結果の現象だろうねぇ。」
「いったい、何の、話を……!」
鷹木は、あくまで小走り程度の速度に抑えているつもりのタキオンに腕を引っ張られたまま、どうにか足を懸命に動かしてついていくだけでやっとであった。
仮に鷹木がついてこれずとも、タキオンはそのままの速度で鷹木を引きずって走り続けるつもりであったろう。
いかに異常な現象にタキオンが直面し、鷹木が近づこうとしていたかについては……合宿所に戻ってきた時、おのずと知れた。
冷房の効いた合宿所のロビーにて、既に一走り終えて帰って来ていたウマ娘たちが脚のアイシングを行っていたのだ。
「あれ……?確かに、さっき、グラウンドの向こうに、皆が居た姿が見えたのに……」
鷹木は振り返って練習場の方を見てみるも、既にあの場所には何者の姿も無い。
タキオンが鷹木を引っぱって帰ってきた姿を見てアドマイヤベガが立ち上がったが、先んじて声を掛けたのはアグネスデジタルの方であった。
「ひょわぁぁあ!よかった!タキオンさん!あんまりにも暑いもんですから私たち、早めに休憩に戻ってたんです!タキオンさんがなかなか帰ってこないもんですから、熱中症で倒れてたらどうしようかと!」
「いやいや、私は問題ないとも。しかしこちらのトレーナーくんがフラフラとグラウンドに出てきていたからねぇ、彼を連れ戻すのに余計な手間をかけただけさ。」
後輩ウマ娘たちを引き連れてグラウンドへ率先し走り出したアドマイヤベガは、多少申し訳なさそうな表情を先ほどまで浮かべていた。が、鷹木が勝手に出て行ったのをタキオンが連れ戻したのだと聞いて、その表情は薄まった。
その説明は、鷹木の認識とは食い違うものであったが。鷹木は先ほど、確かにコースを一周してきたタキオンが目の前からやってくるのを見たのだ。
「俺を連れ戻すために?いや、でも、こっちは、走り出ていった皆が大丈夫か確認するために向かったんだが。」
「少し考えてもみたまえトレーナーくん。キミがヒィヒィ言いながら重い観測機材を運搬し終えるまでの時間で、いかに歩調を緩めていたとはいえ、この私が練習コースを一周し終えていないはずがあるまい。」
「そ、それも、そうだな……。」
申し訳なさそうな表情は、ウマ娘たちのアイシングの準備をしていたキングヘイローの方に移っていた。
こちらは、すっかり鷹木が暑さにやられてしまったものとして考えていたらしい。現実的にも、そう考えるほうが無難であった。
「本当にすみません、鷹木トレーナー。この炎天下で重労働をするのは相当にお辛かったでしょう。あの大荷物、私も手伝ってあげるべきでしたわね。」
「いやいやいや、本来は合宿の予定で必要じゃないものを、我々が勝手に持ち込んだだけだから……。」
「そうとも、こちらの勝手に他のトレーナーを付き合わせるわけにはいかないからねぇ。」
「どの口が言ってんだ。」
キングヘイローが気を遣って差し出してきたアイシング用保冷剤を鷹木は額に当てながらタキオンとのやり取りを締めくくり、その場はひとまず和やかに収まった。
が、このやり取りの最中もタキオンがこちらへと向ける視線には、明らかに周囲に対する隠し事が秘められた色が含まれていることを鷹木は明瞭に感じ取っていた。