合宿初日の夜、鷹木はタキオンがいかなる行動をとりそうか、ほぼ確信と共に予測していた。
夕食と入浴を終えて就寝までに身体を休めるべき時間、合宿所の玄関ロビーに向かえば、果たしてそこに天体観測用の機材を引っぱり出しているタキオンの姿があった。
「タキオン、天体観測を予定しているのは8月の末だろ?今日は移動の疲れもあるだろうから早めに寝ないと……」
「現地における機材の確認は必要だとも、万が一、観測の本番になって不備が判明しては遅いのだからねぇ。ウマ娘レースと同じだよ、こちらの準備不足を観測対象は待ってくれない。そこで突っ立っていないで六角レンチを探し渡してくれたまえトレーナーくん。」
鷹木に言い返す暇も与えず、次々と言葉を重ねていくタキオン。既に彼女の目の前には、相当な重量のある機材を支えるためであろう、金属製のごく太い三脚が立てられていた。
彼女の言動としては珍しいものではなかったが、昨年とはワケが違う。実際にレース本番を体験し、皐月賞を最後に休養している今もなお、いずれ自分がレースの舞台に戻らねばならないとの本心は確かに抱いている。
タキオン自身、レース復帰に支障を生むほどの不摂生を自制する理性を有しているだろうと期待しつつ、鷹木は渋々タキオンに言いつけられた通りに観測機材の収められていたケース内を探し始めた。
「……レンチ、っぽいものが見当たらないんだが。持ってくるのを忘れたのか?」
「何だって!?六角レンチを忘れてしまっては、機材を固定するためのボルトを締められないねぇ!この際、割りばしを削って六角形にしてでも……いや、トレーナーくん、君の手元にあるじゃないか。」
「えっ、これなのか?」
タキオンが指さしたのは、黒っぽい金属棒が直角に曲げられたような工具である。手に取って見てみれば、確かに断面は六角形をしているが、世間一般で想像されるようなレンチの形からはかけ離れている。
鷹木が考えていることを見透かすように、タキオンはそれを受け取りながら告げた。
「キミが想像しているのはおそらくメガネレンチだろう、あるいはスパナかもしれないねぇ。あれは外側が六角形に切られた六角ボルトを締め付けるための工具だ、だが天体望遠鏡で使う物ではないねぇ。分厚い工具を差し込む隙間もない箇所で、ボルトを締めなければならないのだからねぇ。」
「確かに……ここで使われているのは、六角形の穴が開いたボルトなんだな。」
「そうとも、この形状ならば六角形の断面を有する六角レンチの細さが活かせるからねぇ。にしてもトレーナーならば六角レンチぐらい使ったことは無いのかい、例えばコースの傾斜度を確認するための測量器を組み立てたりするときに。」
「さすがにそこまではやってないな……。」
自分のレース賞金を費やして購入した天体望遠鏡を触るのは初めてであったろうが、タキオンにとって理屈の通る対象を理解する過程には造作もないらしく、数年来の愛機のごとく手慣れた様子で組み立てていく。
三脚の上に赤道儀を固定した後、更に本体となる望遠鏡の鏡筒を置く時には、流石に取り扱いも慎重となり、鷹木の手を借りたが。
「私がボルトをしっかり締め付けて固定するまで、決して手を離さないでくれたまえよ。200万するんだからねぇ。」
「……この天体観測機材一式で、か?」
「この鏡筒部分だけで、だよ。」
鷹木は自分の掌にこれ以上の汗が滲まぬよう心の底から祈りながら、タキオンが取付作業を終えるまで微動だにせず固まり続ける他になかった。
昨年、タキオンが持ち込んできた天体望遠鏡もそれなりの値段であったのだろうが、今年の機材は文字通りに桁違いの代物であるだろうことは、天体観測の知識が全くない鷹木にも理解できた。
それだけに、全ての組み立てを終えたその機材を、タキオンが抱え上げて移動させ始めた時にも鷹木は肝を冷やすこととなった。
「おっ、おい、その状態で運ぶのか!?かなりの高級品なんだろ……?」
「私とてウマ娘だ、この程度の重量ならば安定して持ち運べるとも。心配するのなら、私の進行方向に余計な障害物がないか、出入り口の扉が全開になっているか、そちらに気を配ってくれたまえ。」
「わ、分かった……パーツを持ち出してから外で組み立てるのじゃダメだったのか?」
「暗い屋外で組み立てていては、いざ本来の仕様と異なる状態となった時、詳細の確認に手間取るじゃないか。昼間は、皆と共に私も真面目にトレーニングしていたのだからねぇ。」
タキオンの物言いに頷きつつも、鷹木は腹の底から冷や汗が噴き上げてくるような思いで、合宿所の扉を開けて抑えていた。さほど大きく開くわけではないドア枠に望遠鏡が引っ掛かってしまわないかヒヤヒヤしていた鷹木だったが、タキオンはすんなりと望遠鏡を抱えたまま通っていた。
今しがた組み立てた望遠鏡は少し離れて見てみればなおのこと、一般的に想像される細長い形状とはかなり趣きが異なっていた。ずんぐりとした太い筒が、アンバランスに繊細な接眼部を尻尾のように生やしている。
「なんか、高級な天体望遠鏡って、もっとこう、スラリとした筒が伸びてるようなイメージだったんだが。」
「それは屈折式望遠鏡だねぇ、その方式で大口径の鏡筒を購入しようとすればいよいよ目の飛び出るような高額品ばかりになる。これでも私は節制したのだよ、望むスペックを保ちつつも値段を極力抑えるようにねぇ。」
「へ、へぇ……値段を抑えたうえで、200万、か……。」
「あぁ、これは屈折式と反射式、両方の長所を兼ね備えたうえで、色収差を抑制する補正レンズを備えたシュミットカセグレン式の鏡筒だねぇ。主鏡直径は350mmで集光力は肉眼の約2500倍、尤も今回は火星の観測が主目的ということで重要なのは焦点距離のほうだ、3900㎜もあれば十分だろう。視野周辺像よりも中心解像度を重視し、ミラーシフトを起こしづらいカスタムも施してもらった。専門家に調整を頼んだために値段が張った部分もあるねぇ。」
「なるほどぉ……。」
よほど気に入った機材であるのか饒舌に語るタキオンであったが、その内容の半分も理解できない鷹木は曖昧に相槌を打つばかりであった。
夏の遅い日没からおよそ1時間が経ち、ようやく昼間の焦熱が去りつつあるグラウンドに、タキオンは三脚を置いた。向きも重要であるらしく、おおよその北の方角を確認した後、望遠鏡が固定されている下部の赤道儀を覗き込んで微調整を行っている。
手持無沙汰となった鷹木は、タキオンから離れるわけにもいかず周囲をウロつきながら星空を見上げていた。7月の中旬、夏の大三角はようやく地平線を脱したあたりである。
「……周囲には誰も居ないかい?ウマ娘の聴覚は侮れないからねぇ。」
「あぁ、今ごろ皆は寝室でくつろいでいる頃だろう。」
変わらず赤道儀の極軸合わせ作業を続けながら、タキオンが少々低めた声で尋ね、鷹木が答える。
天体望遠鏡を組み立て、実際の使い心地を確かめるというのはあくまで建前に過ぎず、トレーナーとふたりきりで話をするためというのが本来の目的だろうことは鷹木も察していた。
いや、タキオンの中では目的の5割ほどは天体望遠鏡をさっそく使ってみたいという欲求で占められていたかもしれないが。
「先に謝っておこうかねぇ。昼間は皆と話を合わせやすくするため、私は少々事実と異なる発言をした。たしかに私は練習コースを一周してきたところで、合宿所から出てきたトレーナーくんと会ったねぇ。」
「だよな。さすがに、あの時のタキオンの姿まで、暑さのせいで見た幻覚ってワケじゃないよな。」
その日の昼間、鷹木はグラウンドの一角で集合したまま炎天下にて全く動いていないウマ娘たちの状態を心配してグラウンドに出て行き、その矢先、練習コースを一周してきたタキオンに手を引っ張られて合宿所の建物へと連れ戻されたのだ。
実際には、タキオン以外のウマ娘たちは全員すでに合宿所建物内に帰ってきて休憩していた。あまりの暑さで鷹木は本来あり得ないものを見たのだ、と判断する他になかった。
「もう一つ補足しておこうか、トレーナーくんはあの時点でも完全に正気だったろう。すなわち、私の姿だけではない、私の背後に見えただろう、あのウマ娘集団も実際に存在していたということだ。」
「えっ……でも、あの時点で全員、建物内に戻って休憩してたんだろ?ここは結城トレーナーの個人合宿所だし、別の合宿参加グループがいるわけでもないだろうし……。」
「あの時、私は言っただろう、別時間軸の記憶が呼び出された結果だと。トレーナーくんは、昼間のグラウンドで見たウマ娘集団を、今回の合宿に参加したメンバーだと認識したのだろう?」
鷹木は僅かな逡巡のあと、頷いた。
タキオンに連れられて合宿所の建物内へと戻り、今回の合宿に参加している面々が揃ってアイシングしつつ休憩している光景を見た時、鷹木は自分が外で幻覚を見たのだと考えていた。
しかし、記憶を思い返せば、確かにグラウンドで揺れる陽炎の向こう、集まっていた面々は合宿参加メンバーと同じ姿をしていた。
片耳に青い耳カバーを付けているアドマイヤベガ、遠目からも分かる大きなリボンのアグネスデジタル、ツンツンと髪の逆立ったエアシャカールに、真っ黒な長い毛並みを靡かせたマンハッタンカフェ、ひときわ体格が良く長身の目立つタップダンスシチー……。
「確かに、全員がそこに集まってる様子を、俺は見ていたな……でも、タップダンスシチーは皆と一緒に走ってるはずがない。歩けるまでには回復したが、まだ杖を手放せない状態で、片桐トレーナーと一緒にいたはずだ。」
「そうさ、トレーナーくん。幻覚のわりに、観測者の認識と食い違う光景が現れるのも無理はない、あれは去年、この合宿に参加した我々の姿だからねぇ。」
去年の合宿、すなわちタキオンがトレセン入学1年目の時のことである。
出席日数の足りない授業の単位を取らせるため、鷹木がタキオンに勉強させることに躍起になっていたのと同様、先輩ウマ娘たちもタキオンがトレーニングをサボらぬようがっちりと取り囲んで練習を続けていた。
必然的に合宿の間じゅう、タキオンの周囲は合宿参加者たちが集結することが多くなっていたのだ。
「今にして思い返せば、まったく窮屈な夏を過ごしたものだよ。おかげさまで私は去年内でのデビューを果たせたわけだが……さておき、去年の光景が視覚的に分かる形で再現されるとは想定外の現象だねぇ。」
「……なぁ、タキオン、お前はコースを一周してきたんだから、そのすぐ近くを通ってきたんだよな?間近でも、去年と同じ光景に見えたのか?」
タキオンの返答は、若干遅れた。
それは今、赤道儀の微調整を行っている最中だったためか、それとも、自分が見て感じ取った内容を的確に表現する言葉を選んでいたためか……あるいは、思い出すことに多少なりと覚悟が要ったためか、この暗さの中ではタキオンの表情を読み取れぬ鷹木には判断出来なかった。
赤道儀から顔を離し、ようやっと位置の調整が終わったのだろう。バッテリーパックと操作盤を繋ぎながらタキオンは答えた。
「あぁ、すぐ近くに行っても、まるきり私たちと同じ姿の面々が、そこに立っていたよ。あの存在感は、幻覚や幻視などではなかったねぇ。」
「それでも、皆と合流できたとは思わなかったんだな。」
「最初は私も、アヤベ先輩が皆の走りを止めさせ、私の合流まで待たせてくれているのだと思ったとも。だが、すぐに違うと知れた。怪我の療養中であるはずのタップダンスシチーくんが居たのも違和感であったし、何よりも、ほかならぬ私自身がその集団内にすでに存在していたからねぇ。」
鷹木と喋りながら、操作盤の入力に連動して目的の天体へとレンズを向ける望遠鏡の動きを、タキオンは惚れ惚れと見つめていた。
それは自分が扱える観測機材の精度に満足する振る舞いでもあったろうし、少なくとも今は、理屈で理解できる挙動しか目の前に無い、と確認できることから来る安堵でもあったろう。
皆と合流できたかと思った矢先、自分ではない自分自身の姿をその集団内に見つけたときの、得も言われぬ気味悪さをタキオンは昼間味わったのだ。
「……それで、すぐにその場を離れたんだな。」
「確かに最初は多少なりと面食らったが、これはまたとない観測の機会だと感じて接近を試みたとも。たとえば、去年の私たちの姿は、蜃気楼などと違って物理的に触れることが出来るのか、とかねぇ。」
「触りに行こうとしたのか……俺がその場に居たら、絶対に引き留めてる。」
「まぁ、すぐにでも私はその場を立ち去ることにしたんだがねぇ。私は観測者の務めとして、現象が発生した正確な時刻を確認するため時計を見たんだ。合宿所の壁面に掲げられたのがアナログ時計であったため違和感に気づけるのも早かった、時計の秒針が本来の数倍の速度で文字盤の上を進んでいたからねぇ。」
その場に鷹木が居たとしても、立て続けに起きた二つ目の異常事態を前にして、すっかり思考がパンク状態になっていただろう。
しかし、流石にアグネスタキオンは事実の因果関係を見出すのが迅速であった。その場で自分が下すべき判断を見出し実行するまでに、彼女の体感時間では1秒もかからなかったのだろう。
「私が腕時計など着用していなかったのも幸いだったねぇ、観測地点で計測される時間の流れは、観測者の主観にほぼ等しいものになる。自分の腕時計で時刻を確認しようとしていては、異変には気づけなかっただろうねぇ。」
「えっと、済まないタキオン、俺にも分かるように説明してくれ……どういう現象が起きていたんだ?」
「トレーナーくんは、事象の地平面という語を知っているかい?一般的には、ブラックホールの輪郭として定義されるものだねぇ。極大の重力、まさに文字通りの特異点においては、光さえ時間さえも脱出不可能であり、我々が観測可能な情報は得られず、あらゆる事象が観測不可能になる、とされているねぇ。」
鷹木は“事象の地平面”という表現について、SF小説でどうにか聞きかじっただけの知識ではあるが、なんとか首を縦に振ることはできた。
それも、タキオンが多用する“特異点”という表現をどうにか理解しようとして、鷹木なりに勉強した結果であった。
「そんなブラックホールみたいなものが、昼間のグラウンドに現れていたってのか?」
「本当にブラックホールが出現していたとしたら、今ごろこの合宿所どころか惑星自体が存在できていたか怪しいだろう。だが、時間軸に歪みが生じていたことは確かだ。現にウマ娘レースにおいては、今年の京都記念、阪神大賞典、金鯱賞、そして宝塚記念で、去年とほぼ同じ展開が発生しているのだからねぇ。」
突拍子もない説をタキオンが唱えることはお馴染みとなっていたが、鷹木にも認識できる現実の中での異常が絡んでいることで、信憑性は格段に増していた。
それに、この合宿初日の出来事においても、現実として明確な現象の中での違和感はあった。鷹木が重い荷物を汗水たらして合宿所に運び込み終え、他のウマ娘たちがひと走り終えて休憩するまでの時間は、タキオンがコースを一周してくるにしては長すぎた。
「話を戻すとだねぇ、去年の我々の姿が現れていた場所は、事象の地平面に似た状態があったのではないかと考えられる。事象の地平面へと近づけば近づくほどに、外部とは時間の流れが乖離していく。そして特異点へと限りなく近づいた時、私は永遠に近い時間を経験することになる……外部からは完全に動かなくなったように見られただろう。」
「……それで、すぐに引き返したんだな。」
「あぁ、仮にあの異常に巻き込まれず現実の時間軸に戻れたとしても、昼間のあの強烈な直射日光の下だ、熱射病は避けがたいからねぇ。私は異常現象から即座に距離を取ったが、たった一歩踏み出す間にも時計の針は数分進んでいた。すなわち、事象の地平面に少々近づいたせいで、現実時間においては私は数分かけて一歩踏み出していた、ということになるねぇ。」
淡々と語るタキオンの声を聴きつつも、鷹木はタキオンの聡明さに感謝するばかりであった。もしも好奇心の一点だけで行動するウマ娘であれば、異様な現象を観察する間にジリジリと真夏の熱にやられ、合宿初日から倒れていたかもしれない。
特異点を求める、光速を超え得る粒子の名を冠したウマ娘。そんなアグネスタキオンが囚われる現象として、事象の地平面はあまりにも“うってつけ”過ぎた。
彼女の担当トレーナーとしてゾッとする想像を振り払い、鷹木は多少語気を強めて言った。
「もしもまた同じような、変な現象を見つけても近づくんじゃないぞ。というか、今日の昼間に異常があった場所についても、皆が近づかないように柵で囲っておいたほうがいいのか?」
「あんな現象が、全く同じ場所で発生するという確証など無いだろうに。そんなことをしていては練習場が狭まるだけだねぇ。あれ以降、同様の現象は確認されていないわけだし。」
もはや興味の対象が望遠鏡にて覗き込める天体へと移っているタキオンを傍らに、鷹木はそれでも気味悪くグラウンドの隅へ視線を向ける。
宵闇に沈んだ広大なグラウンドの一角、昼間にウマ娘集団の姿が見えた隅は、タキオンの言う通り何者の姿も無く静まり返っている。暗闇の中にぼんやりと何者かの姿が浮かび上がるのではないか、というのは単なる不安の産物に過ぎない。
暫し続いた沈黙を破ったのは、望遠鏡を覗き込みながらも声の調子を多少和らげたタキオンであった。
「キミに対処してもらいたい問題があったわけじゃない、強いて言えば私の体験を聞いてもらう相手が欲しかっただけだ……その点に関しては感謝するよ、ありがとう、トレーナーくん。」
「あぁ、独りで抱え込むよりは、ずっといい。そのために、担当トレーナーである俺が居るんだからな。」
タキオンから聞かされた話のために、鷹木の中にも解消しようのない不安が残る結果とはなったのだが、それもトレーナーの務めとして鷹木は受け入れる他になかった。
しかし一連の現実に起きた異常現象については、担当トレーナーとしての務めの域に収まらない、この世界の一員として抱くべき不安ではなかろうか、との懸念も湧き上がりつつはあった。