まだ秋の訪れを肌に感じるには遠いものの、鍛錬の日々は過ぎて合宿期間も終わりに近づく。
9月に入れば、秋以降に控えている大舞台に備えていよいよ本格的に鍛錬へと打ち込まなければならないウマ娘が殆どである……周囲に公言はしていないものの、アグネスタキオンもいよいよ復帰に向けて本腰を入れねばならない。
すなわち、トレーニングをサボって良いわけではないにせよ、この8月がまだ気を緩めていられる最後の期間とも言えた。
「我々の夏休みを満喫しようじゃないか!カフェの出走する阿寒湖特別レースを観戦しながらねぇ!」
「そのマンハッタンカフェが合宿所に帰ってくる明日に、天体観測会を予定しているんだぞ。今日は休んでいい日じゃない、観戦をかねての休憩を終えたら、すぐに練習再開だ。」
昼下がりのグラウンドから汗を拭き拭き戻ってくるウマ娘たちのためにアイシングの準備をしつつ、鷹木はタキオンの放言を窘めた。
8月26日、札幌レース場で行われる阿寒湖特別は発走時刻が14時55分、観戦し終えた後も夜まで十分に練習するだけの時間は残っている。
何よりも、マンハッタンカフェが札幌から帰って来れる日時に合わせて予定されている天体観測会は、その性質上、寝不足状態をほぼ確実に誘発するイベントである。
「少なくとも明日になるまでは練習時間をしっかり確保することに努めてくれ、夜通し起きてることになる天体観測に、他のウマ娘たちも引っ張り込むわけなんだし。」
「私は別に引っぱりこんだわけじゃないねぇ、興味のある面々が自主的に参加しようと言ってくれているだけだねぇ。」
「その通りね、それに夜通し起きている必要はないわ。みずがめ座付近の方向に見えている火星は、9月間近ともなれば夜10時ごろには南中の位置に来る。観測に最も適した時刻まで起きていたとしても、慢性的な寝不足は回避できるはずよ。」
鷹木とタキオンの会話に割って入ったアドマイヤベガからも具体的な牽制が飛び、おそらく普段滅多なことでは実行できない夜通し起きている体験を楽しみにしていたのだろうタキオンは、多少残念そうな表情を浮かべた。
とはいえ、大接近中の火星を観測することが主目的である以上、少なくとも日付が変わる前には就寝できるとあれば、他のウマ娘たちも参加しやすい。タキオンは集まってきた同期の面々にも声を掛けた。
「まぁ、観測者は多いに越したことはないねぇ、ジャングルポケットくんもどうだい?ダンツフレームくんも。この機を逃せば、同条件で観測できるのはおよそ280年後という稀有な現象だよ?」
「興味はねーし、菊花賞に備えなきゃならねーから気にしてる場合でもねーんだが……そう言われると、観なきゃ勿体ないような気もしてくるな。」
「皆で集まって、いつもと違うことをするのは、ちょっとワクワクするかもだね、ポッケちゃん。」
つれなく返答するつもりだったのだろうジャングルポケットは、想定以上に目を輝かせていたダンツフレームの表情を横目に見て、途中で発言内容を前向きに変更する。
普段から他者をあえて誘うような真似をしないタキオンが他の面々にも声を掛けたのは、今年の観測結果が客観的にも確認されたものである、との証明を得たかったためでもあろう。
当然ながら、こういった催し事には目が無いタップダンスシチーも威勢よくノッてきた。
「Ey,ey!わたしも誘ってくれよTachyon!そんな楽しそうなイベント、もちろん行かせてもらうぜ!火星がすぐ近くに来るんなら、こっからライトで照らして火星の表面も見えるのか?」
「大接近とはいえ約5500万kmの距離だ、とてもじゃないがライトの光が届く間合いではないねぇ。あと、あまり強力な懐中電灯は持ち込まないでもらいたいねぇ、天体観測時には暗さに目を慣らさなければならないのだから。」
何しろ、本来は有り得ない現象なのだ。去年の夏も火星の大接近が起きたというのに、ちょうど1年後の今年もまた同じ天体ショーが発生するというのは。
これが異変であることを自覚していない面々にも、“今年、火星大接近があったこと”を事実として認識されることをタキオンは確かめたがっていた。
「先輩方も気兼ねなく、天体観測会に来てもらいたいねぇ。アドマイヤベガ先輩は言うまでもなく、トップロード先輩もデジタルくんも……シャカール先輩はわざわざ誘わずとも来るだろうけれど。」
「勝手に決めンな。ちゃんと記録媒体は万全の準備なんだろうな?いざ撮影記録を残したいって時に機材の不備があったとしても、俺は助けにはならねェぜ?望遠鏡に接続しての撮影は専門外だ。」
「問題ないねぇ、そのために合宿初日から定期的な観測機器の確認とリハーサルを行ってきたのだから。」
タキオンは、昨年の合宿大接近中の火星を観測した結果を、しっかりと記録し保存している。
公的なアーカイブを頼みにしていては、またしても“1年前と全く同じ現象が発生する”という異変を客観的に確認することが出来なかったであろう。
URA公式のデータベースが知らぬ間に改竄され、ばかりか世間の認識までも本来とは異なってしまっていたウマ娘レースとは違い、手元に明確なデータが残っているこの件に関しては、昨年と同一であることを確かめられる数少ない現象であった。
その点、これから行われる阿寒湖特別の実況中継は安心して見ていられた。マンハッタンカフェが参戦するという事実は、今年以降でしか起きえない現象に違いないためである。
レース発走時刻が迫るにつれ、タキオンを視界から外して画面を凝視するジャングルポケットの目つきは、真剣さを増していく。
「カフェ、富良野特別じゃ完璧な走りを見せてたが……同じレース場で、もう一度同じことをやるとは思えねぇ。」
「今回もマークが集中しそうな1番人気ね、カフェさんは。どんな作戦で勝ちを狙いにくるのか、しっかり見ておかなければならないわ……ジャングルポケットさんも、私も。」
ポッケの隣では、キングヘイローもまた眼光を強め、画面内に映る札幌レース場の様相をじっと見つめていた。
マンハッタンカフェ、および彼女を指導する結城トレーナーがいかなる策を準備しているのかについては、他のウマ娘やトレーナーにとっても関心事の中心である。
中央トレセンのホープとしての実力を開花させつつあるマンハッタンカフェを、事ここに至ってマークしない競争相手は居ないだろう。この阿寒湖特別においてカフェは、全ての出走ウマ娘から対策を練られた状態で走らねばならない。
〈晩夏の晴天、北海道らしい爽やかな快晴に恵まれました、阿寒湖特別。バ場状態は良、右回り芝2600m。間もなく発走の時を迎えます、全ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました!さぁ大外から、一気に先頭へと躍り出たのはメジロエディントン、並んでウインエルシエロが先行争いの形。続く3番手にはアトラクティーボ、そのウチに並んで……なんとマンハッタンカフェ!?マンハッタンカフェ、ぐっと位置を前に出して現在3番手辺りにつけています!〉
富良野特別と同様の、芝2600m。スタートして165mですぐに最初のコーナーに入る札幌レース場のコースでは、初手でつけた位置が重要となる。
激しくなりがちな先行争いを避けるうえでも、そして得意とする追い込みのペースに持ち込むためにも、マンハッタンカフェは後方に位置どるものと誰もが予想していたが、カフェは全く異なる先行のペースで駆けだしていた。
完全に前のめりの体勢で中継画面を見ていたジャングルポケットの眉間には、深く皺が寄っている。
「マジかよ、カフェが先行策とんのか……!?」
「興味深い作戦だねぇ、レース終盤の加速こそ周囲を怯えさせる最大の武器だろうに。あるいは、先行に見せかけるだけかねぇ?」
アグネスタキオンも口先では余裕を装っていたが、その眼の開き具合からは、まるで予測できない観測対象を前にして抱き得る興奮が見てとれた。
常よりカフェのことを見知っている面々が驚かされるほどなのだから、実際に札幌レース場にてカフェと競っている面々は動揺を避けられなかったろう。
〈マンハッタンカフェ3番手につけまして最初の3コーナーから4コーナーへと回っていきます。あとはホウライゼンシ、ウチ側メジロダーウィンが並んで、外目にスパークホーク、トーセンサンダーは中団の後ろにつけています。ほとんど並んでウチ側テキーラショット、そしてローランワンダもほぼ差が無い位置。シンボリメロディー、そしてカワキタマスラオが最後方で並び、バ群は最初のスタンド前を駆けていきます。〉
先頭で逃げていく2名の背後にぴったりとついていく形で、マンハッタンカフェは3番手の位置を守り続けている。
元よりカフェの追い込みが仕掛けられる前に、リードを保っておきたいという作戦だったのだろう。先行の位置についたウマ娘たちは多少無理をしつつ速度を上げ始めた。
「Ahh,That's a bad move、ビビらないで自分のペースで行けばいいのにな。」
「さすがに2勝クラスのレースともなれば、動揺が走りにハッキリと見て取れる子が多いわね。とは言っても、カフェの走りによる揺さぶり方はGⅠでも通用する作戦よ。」
画面を見つめながら喋っているタップダンスシチーに、アドマイヤベガが返している。
追い込み策を得意とすると見られていたウマ娘が、唐突に別な作戦で走りだすことで、競走相手たちの策を狂わせること。それはアドマイヤベガ自身も実践したことのある策であった。
とはいえ、自身も不慣れな走りを強いられることには違いない。基礎的な能力が高いレベルで備わっているうえに、ペース配分やスタミナ管理にまで意識を届かせるだけの柔軟さが求められる作戦でもあるのだ。
〈1コーナーから2コーナーへ、先頭は変わらずメジロエディントン、つづいてウインエルシエロ。少々焦ってしまっているか、かなり早いペースで進んでいます。そして3番手はマンハッタンカフェ……ですがややペースを下げているぞ、並んでいたアトラクティーボが先に出て3番手、マンハッタンカフェは4番手となりました。後方のメジロダーウィン、ホウライゼンシがほぼ並ぶ形であります。〉
画面内では観客席から小さくどよめきが沸き起こった。マンハッタンカフェが、向こう正面に入るのを待たず早くも失速し始めているのだ。
合宿所にて実況中継を見ている面々の中でも、ダンツフレームが観客たちと同様の思いを抱きかけたようだったが、流石に現役ウマ娘として読み違えはしなかった。
「……うぅん、カフェちゃんが、こんな中盤でスタミナ切れを起こすはずがないよね。もしかして、これも作戦?」
「ですねぇ!先行の位置から逃げウマ娘たちを追い立てて急かし、レース中盤あたりで位置を下げて得意な追い込みペースへと切り替える、って感じでしょうか!いやー、よっぽど器用にペース切り替え出来るウマ娘じゃないと、真似できませんよ!」
即座に反応したのはアグネスデジタルであった。その“よっぽど器用にペース切り替えできるウマ娘”が、ほかならぬデジタルであることについては、誰もいちいちツッコミを入れなかった。
あるいは、マンハッタンカフェ自身、アグネスデジタルが昨年まで見せていた様々な名勝負を研究し、取り入れた結果がこのレースで生かされているのかもしれなかった。
〈残り1000mを切りまして向こう正面の直線を進みます、マンハッタンカフェは更に順位を下げて現在5番手、上り坂で僅かに速度を緩めているか。さぁここに来て3番手のアトラクティーボが更に順位を上げ、現在2番手のウインエルシエロに並んだ、後方集団からはテキーラショット、あるいはトーセンサンダーも徐々に前へと進出してきています。残り800を通過して二周目の3コーナーへ、ここを抜ければ直線は短いぞ!〉
定石通りの走りをするならば、3コーナーに入る時点で好位置についておくべきである。
コーナーを回りながら上がっていくのは、外を回らされることとなって走る距離も長くなり、不利な条件となる。コーナーを抜ければゴールまで255mの直線、ここで一気に決め切るほかにない。
じりじりと集団の中で後ろに下がっていくマンハッタンカフェを画面に見つめながら、ジャングルポケットは真剣そのものの目つきであった。
「まだ下がるってのか?カフェ、お前のスタミナなら息切れには遠いだろうけどよ……その位置から、先頭を取れるのかよ?」
「カフェならやってくれるだろうねぇ。しかし確かに、必要以上に下がりすぎとも見えるねぇ。あるいは結城トレーナーが、彼女の実力を試すような作戦を与えたのかもしれないねぇ。」
ポッケの隣で、タキオンもまた興奮を隠しきれぬ早口で推測をまくしたてていた。
マンハッタンカフェの末脚ならば、さほど念入りに脚を溜めずともゴールまでの距離をぶち抜ける。だが、2勝クラスの条件戦では、より難度の高い作戦を実行することを選んだのかもしれない。
〈いよいよ4コーナーを抜けて直線へと向かいます、マンハッタンカフェはまだバ群の中、前からおよそ8番手といったところ!先頭のメジロエディントンは苦しいか、ウインエルシエロと共に下がっていく!変わって先頭はアトラクティーボ、トーセンサンダーも外から上がってくる、さらにシンボリインディーか、いやマンハッタンカフェだ!マンハッタンカフェ、急加速!隠し持っていた最後の末脚!マンハッタンカフェが8番手から、一気にと突き抜けてきた!〉
場内のどよめきが、一瞬にして喝采へと変わった瞬間であった。
先行のペースと見せかけ、途中で息切れしたように下がっていき、最後に一気に追い込んでくる。奇抜な作戦にも見えたが、これを成功させるために綿密な練習を繰り返し、必然を積み重ねてきた結果であることは、ウマ娘たちやトレーナー達にはハッキリと見て取れた。
先行していた面々は粘っているが、カフェがレース前半に見せた先行ペースのためにスタミナ管理を乱され、じわじわと速度を緩めていく。
「やはり見せてくれたねぇ!だがカフェ、あまりに自らに課した試練が厳しくはないかい?まだ先頭とは差が開いているねぇ。」
「もう残り200を切ってんぞ!行けんのか!?」
やかましく画面に向かって言い合っているタキオンとポッケの声量も気にならぬほど、この場に集まった全員がマンハッタンカフェの走りに釘付けとなっていた。
おそらく、ほとんど全力の走りをマンハッタンカフェは解放していただろう。靡く黒い長髪も相俟って、彼女だけが何か別の生物であるかのごとき恐ろしい速度で、ゴールへと迫っていく。
〈先頭はトーセンサンダー、ウチに並んでメジロダーウィン!マンハッタンカフェがどんどん上がってくる!届くか!?届くか!マンハッタンカフェか、トーセンサンダーか!ほとんど並んでゴールイン!……確定のランプが灯っています、勝ったのはマンハッタンカフェ!クビ差での勝利となりました!やはり強かった今世代のホープ!〉
アグネスタキオンが拍手しながら立ち上がる。タキオンがこの大袈裟なリアクションを見せる時というのは、単に劇的な勝利を目の当たりにした場合だけではない。
このレースが、決して事前に定められた通りの展開ではないことを、確信できたためだ。マンハッタンカフェの稀有な器用さと高い能力、そして結城トレーナーの優れた指導があってこそ、変則的な走りから勝利を掴みとれたのだと言えるだろう。
「素晴らしいねぇ!やっぱりカフェこそ私のライバルに相応しい!」
「んだと?何がライバルだよ、お前はまず実際に走ってから言えってんだ。」
尤も過ぎるジャングルポケットから投げかけられた言葉を、アグネスタキオンは特に言い返すことなく、恍惚の色が残る瞳で黙って受け止めた。
タキオンに次いで鷹木も立ち上がり、余韻に浸っている場合ではない、とトレーニングの続きを準備しに向かう。皐月賞以来の長期休養が続いていたアグネスタキオンの復帰予定まで、残すところちょうど1ヵ月となっていた。