札幌への出発前に予告していた通り、マンハッタンカフェは阿寒湖特別を終えた翌日、札幌遠征の間ずっと付き添い続けていた結城トレーナーと共に合宿所へと帰ってきた。
8月の大半、すなわち合宿期間の殆どを皆から離れ、札幌レース場近くの宿泊施設と練習場で過ごしていたマンハッタンカフェ。集団で騒ぐ様とは無縁の彼女も、1カ月ぶりに同級生や先輩たちの顔ぶれを前にすれば明確に表情を緩めていた。
それは、カフェにとって極めて重要な札幌遠征を乗り切り、ようやく気を抜くことが出来たためでもあっただろう。
いよいよクラシック級に挑む年、身体能力が本格化を迎える頃だというのに不調に悩まされ続けた今年の上半期を乗り越え、菊花賞出走に手が届くか否かを占う正念場でもあった。
「カーフェェー!札幌では素晴らしい走りを見せてくれたねぇ!得意分野でも、変則的な走りでも、どちらでも勝利してみせるとは、私も同期として鼻が高いねぇ!」
「ありがとう、ございます……私も、そろそろタキオンさんの走りを、ふたたび拝見したいところですね……。」
本心はいつも明言しない割に、興味のほどは態度として分かりやすく露わとするタキオンは、合宿所に戻ってきたマンハッタンカフェを一番に出迎えていた。
当のマンハッタンカフェも彼女からの賞賛を受け取りつつ、タキオン自身の走りへと期待を寄せる旨を告げている。
毎日タキオンと向かい合っている面々とは違い、カフェにとっては約1カ月ぶりに会うタキオン。その歩き方ひとつで、脚の回復がもはや万全の域にまで達していることは明らかだったのだろう。
カフェから珍しく示される悪戯っぽい視線を受けて、タキオンは目を逸らしつつも口調ばかりは淀みなく返していた。
「そろそろ、だということは見抜いているようだねぇ、さほど期待もせず待っていてくれたまえ。カフェ、きみと競えるのがすぐだとは、約束できないけれどねぇ。」
「ふふ……長らく休養していた方に、すぐ追いつかれるつもりもありません。」
「言ってくれるじゃないかカフェ、よほど札幌での2戦は手ごたえがあったと見えるねぇ。」
マンハッタンカフェが普段と比べても明らかに上機嫌となっていたのも無理はない。彼女は、菊花賞の舞台へと着実に上がれるだけの力が身についていることを、自ら実感していたのだ。
とはいえ、ここから10月の菊花賞まで安穏としているわけにもいかない。8月の札幌レース場で勝利した2戦はいずれも条件戦、GⅠクラスの菊花賞とはレースの格からして違う。
9月中旬にはGⅡのセントライト記念へと出走する予定も既に固まっており、マンハッタンカフェが本腰を入れて鍛錬に励まねばならない日々はまだまだ続く。
「だが今日は、まったりと夜を待っていてくれたまえ!いよいよ、トレーナー及び先輩たちも公認の天体観測会が今宵行われる!この日を楽しみに、万全の備えを済ませてあるからねぇ!」
「はい……火星大接近の観測……ですね。」
「そうとも、昨年の夏合宿での観測記録はしっかりと残っている……我々の主観が狂っているのか、天体の運行も含めたこの世界の摂理が歪んでいるのか、はっきりと確かめねばならないねぇ。」
ハイテンションでカフェと話していたタキオンであったが、言葉の最後は声を低めて締めくくった。
ちょうど1年前と全く同じ現象など、少なくとも地球と異なる公転周期を有する火星については本来起きるはずがない。そのことを客観的に確認する上でも、この天体観測会は趣味の範疇を超え、非常に重要な意味を有していた。
そういった理由を知らぬ他のウマ娘たちに不安を伝えるわけにもいかず、マンハッタンカフェも多少なりと頬の緩みを締めて、黙ったまま頷いた。
タキオンのトレーニングを担当する鷹木も、これまでタキオンから話を聞かされてきただけに、事情は理解している。疲労を夜まで持ち込まないよう、その日は負荷の軽いトレーニングのみで済ませておいた。
夕刻になって空に集まり始めた雲と、スマホ画面に表示した天気予報をタキオンがやきもきした表情で見比べている内に日は落ち、夜が訪れた。
「昨年と全く同日であれば、天気も観測に適したものとなる可能性はゼロじゃないんだがねぇ。いや、本来はそうであってはならないんだが……」
夕食の準備が出来たことを報せにグラウンドへ出てきた鷹木を振り返り、タキオンが口を開く。
1年前と全く同じことを繰り返す異変が天候にも影響を及ぼしていれば、天気予報を見る必要も無く、去年の天候の記録さえ確認できれば良いということになる。
タキオンはその可能性にも気づいていただろうが、実行する気はないらしかった。未来が未確定であるという、当たり前すぎることを自ら否定する振る舞いには積極的に手を出したくなかったのだろう。
「非科学的な理屈ではあるが、今日ばかりは私の願いが天に通じたのだと信じておこうかねぇ。見たまえ、天気予報は曇りとのことだったが、風が雲を吹き払い始めた。西の空に見えている晴れ間が、夜中には我々の直上に来るだろう。」
「あぁ、色々と準備する物も多いから、さっさと夕食も済ませよう。」
鷹木に促されたタキオンが合宿所の建物へと戻り、そして観測機器を抱えて出てきたのは小一時間後のことである。
望遠鏡を弄る目的もあって、今日にいたるまで幾度も繰り返してきた観測機材の持ち出し手順に、鷹木もすっかり慣れてしまっていた。
タキオンが高額な天体望遠鏡や赤道儀を抱えてスタスタ歩いていても冷や汗をかくことは無く、鷹木は彼女の後について歩き、夜露を防ぐシートや簡易テントを運搬していた。
「我々がウマ娘であることに感謝せねばなるまいね、このウマ娘用の広大な練習場があるおかげで、限りなく地平線に近い角度の星座や天体をも観測できるのだから。都会から離れた田舎ならば光害の影響も軽減できるが、この国は広大な土地という環境にはさほど恵まれていないからねぇ。」
「その広大な練習場と、合宿施設の両方を個人所有している結城トレーナーにも感謝だな。」
幾度もリハーサルを繰り返してきたおかげで、赤道儀の極軸合わせもタキオンが手早く済ませた頃、建物の方からアドマイヤベガとマンハッタンカフェも出てくる。
タキオンが奮発して購入したものほどではないが、やはり口径の大きな望遠鏡、そして赤道儀を装備した三脚を離れた位置に設置し、無駄話をすることなく早速アドマイヤベガも位置調整を始める。
淡く減光したライトのみの薄暗がりながら、タキオンはアドマイヤベガが持ち込んできた望遠鏡を見るなり感服したように喋りはじめた。
「アドマイヤベガ先輩の望遠鏡は屈折式ながら、主鏡径およそ90㎜といったところかい?なかなかに贅沢だねぇ!このフォーカサーは後付けのようだねぇ、クランクのハンドルも手になじむものへと取り換えたと見える。大切に使い込まれているのが見てとれるカスタムだねぇ!」
「これはもっぱら撮影用の鏡筒だから、大気の揺れが収まって気象条件も良い瞬間にピントが合っていることを最大限重視しているの。今回も、こちらは火星表面の望遠撮影に徹する予定よ。そういえばタキオンさん、去年の火星の撮影データ、こちらにも送ってもらえるかしら。」
「無論だとも。」
先んじて望遠鏡のセッティングを終え、赤道儀の制御プログラムをパソコンで立ち上げていたタキオンは、メモリースティックをアドマイヤベガのノートPCの方に置いた。
いよいよもって火星が昇ってくる時刻になったが、合宿所の建物からは他の面々が出てくる気配はない。マンハッタンカフェは虫よけ用のアロマも兼ねた香を観測場所の四方に置きながら、建物の方を見て呟く。
「タップダンスシチーさんも、夜通し起きていられる、とかなり乗り気な様子でしたが……来られませんね。」
「あの子、自分も早くレースに復帰したいって思いが強まったのか、昼間はかなり一生懸命に筋力トレーニングに励んでいたから。眠くなってしまうのは当然よ、私たちもあまり遅くまで夜更かししないで、十分に観測データを得たら引き上げるわよ。聞いてる?タキオンさん。」
「あぁ、聞いてるとも、もちろんだとも……そんなことより、そろそろ見えてきたねぇ!」
タキオンが威勢よく声を上げて地平線近くを指さしたが、日周運動に従って地平線から昇ってくる星々はそんな勢いよく姿を現すわけではない。
だが、徐々に地平線の空気の淀みから脱するように上がってきた、その赫々たる妖星は、普段から星空を眺める機会のない鷹木に対しても異様な存在感を示して照り輝いた。
ちょうど一年前、鷹木の記憶にある限り初めて参加した天体観測会で、圧倒されたのと同じ姿をそれは示していた。
「火星だ……やっぱ、段違いだな、他の星と比べても……。」
「去年は8月の半ばで観測したから最大接近時ではなかった、今年は更に明るく見えているはずだねぇ。およそマイナス2.9等星、今宵は月も出ていない、下手をすれば火星の光で影ができるんじゃないかい?さてさて、どんな表面を見せてくれることか、今回私が持ち込んだ機材は焦点距離3900㎜、高倍率であってもくっきりと観測できるねぇ!」
「火星が地平線からもう少し離れるまで待つべきでしょう、さすがに大気の揺らぎの影響を無視できないわ。」
アドマイヤベガからのそんな忠告も、タキオンの耳には入れど行動を止めるほどの要素にならなかったのだろう、いそいそと望遠鏡の接眼部にとりついたタキオンは、その恰好のまま暫く望遠鏡を覗き込み続けていた。
ただでさえ興味の対象を前にすれば口数の多くなるタキオンが、天体望遠鏡を前にして無言の時間を続けるのは、よほどのことであった。
それは、単に観測へと集中しているためかと最初は思われた。望遠鏡を覗くタキオンは目を見開きっぱなしのまま、興奮を隠しきれずに口角は上がり切っている。
……だが、やがて10分経ち、20分経っても、タキオンは無言のままに望遠鏡を覗き続けていた。
日周運動に合わせて観測対象に追従する赤道儀が望遠鏡を動かし、それに従ってタキオンの姿勢もじわじわと変わっていたが、見開いた目は接眼レンズに当てられ続けていた。
やがて、鷹木は天体観測に対してではなく、トレーナーとしてタキオンへと一時制止を呼び掛けた。
「タキオン、いったん望遠鏡から離れろ。興味深いものを見てるのは分かるんだが、同じ体勢をずっと続けていたら全身の筋肉に良くない。一旦離れて、全身を伸ばせ。」
「……あぁ、そうしよう。私も、いったん冷静さを取り戻さなければならないねぇ。」
周囲は完全に夜の暗がりに包まれていたため、タキオンの細かな表情は見えない。
だが、その声の響きには、はっきりと不安を増した色が現れていた。ほとんど瞬きもしていなかったせいで目も乾いたのだろう、タキオンは望遠鏡から離れながら目元を両手で抑えている。
アドマイヤベガはといえば、こちらも自前で持ちこんだ望遠鏡のレンズにカメラを直接装着し、さらに撮影データをノートPCへとそのまま取り込めるように接続し終えていた。
まだ火星は充分な高度まで上がっていなかったが、まずは試しとばかりに一枚目を撮影する。無事にPC画面には望遠鏡越しの火星の画像が映し出されたが、アドマイヤベガの表情は一気に怪訝なものへと変わった。
ほどなくタキオンから受け取った1年前の撮影データと比較し、彼女のその怪訝さは不安へと変わった。
「えっ……こんなはず……。」
「気づいたかい、アドマイヤベガ先輩も。肉眼でも同様のものが観測できたねぇ、異変が我々の住まう身近だけではなく、同じ太陽系とはいえ別の天体にまで影響しているとは……。」
画面を覗き込んだ鷹木やマンハッタンカフェには、何がおかしいのか分からなかったが。そこには、図鑑などで目にするような火星の画像をぐっと小さくして、粗くしたようなものが表示されているばかりである。
しばらくタキオンもアドマイヤベガも黙り込んでいるので、鷹木は間抜けな質問をする役目を買って出るほかになかった。
「ちゃんと撮影できてると思うぞ。もしかして、火星人でも映りこんでたのか?」
「そんな非科学的な話をしているんじゃないねぇ、いや、我々が観測した結果も非科学的には違いないのだが……トレーナーくんも、望遠鏡を覗いてみたまえ。あぁ、三脚が広がっているのを蹴とばさないよう、慎重に歩いてくれたまえよ。」
総額数百万にもなる機材を破損させても弁償の目処などたたない鷹木は、タキオンの脅しを受けて暗がりの中、そろりそろりとすり足で望遠鏡へ近づく。
恐る恐る覗き込んだ望遠鏡の視野は、しっかりと赤道儀が観測対象を追跡し続けていたおかげで、タキオンが見ていたのと同様の火星が中央に見えた。
「図鑑で見るのと比べたら、かなり小さいんだな。」
「図鑑に載っているようなものは過去に送られた探査機が撮影した画像を加工して、火星儀のごとく編集したものだねぇ。これでも観測環境としてはかなり優れているんだ、知っておきたまえ。さて、火星の南極は分かるかねぇ?白くはっきりと見えているはずだ。」
「ああ、確かに白い部分はある。そこ以外は、なんかぼやけていてハッキリと見えないんだが……」
「それが正常な見え方だねぇ。すなわち、火星では黄雲、砂嵐が発生しているわけだねぇ。」
未だに鷹木はピンと来ていなかったが、昨年の合宿における天体観測でも、タキオンが似たようなことを言っていたのをボンヤリと思い出していた。
ちょうど1年前も、火星では砂嵐が発生している様が地球から観測できた。それは確かに、偶然の一致といえば偶然ではあった。
「知っているかいトレーナーくん。火星の砂嵐は地球で起きるものと比べてもかなり大規模なんだ。それこそ惑星全体を覆い包むほどの規模になることすらあるし、数カ月から1年にもわたって持続する場合も珍しくない。」
「そう、なのか。SFとかでも、火星で砂嵐が起きるって話は珍しくないみたいだが……。」
「その大規模な砂嵐が、ちょうど1年前と全く同じ形で発生しているのよ。」
アドマイヤベガが鷹木の発言に割って入りながら、ノートPCの画面をこちらに向ける。
そこには全く同じ画像が並んでいるように見えた。今しがた鷹木が望遠鏡を覗いて見えた、南極の白い冠を戴いている以外は砂嵐によって地表の様子が隠されてしまっている、火星の画像。
「右が1年前、タキオンさんが撮影した火星。左がたった今、私が撮影した火星。公転、自転周期が地球とは一致しない火星が、1年前と同じ見え方な時点でおかしいのだけれど、その地表に発生する砂嵐まで同じ形だというのは……奇跡だとでも言っておけば、まだマイルドな表現に収まるかしら。」
「偶然の域に……収まるものじゃないな。」
鈍い鷹木にも、ようやく事態が飲み込めた。地球の外、他の天体の運行、さらにはそこで発生する気象現象すらも、1年前の繰り返しになっているのだ。
今はマンハッタンカフェが恐る恐る天体望遠鏡を覗きこんでいたが、彼女が見ても観測結果は変わるわけではない。アドマイヤベガの隣に戻ってきた彼女は、言葉もなくしてその場に座り込んでいた。
タキオンはと言えば、暫しの放心状態を終えた後、急に行動意欲がわいてきたらしい。尤も、彼女の声からはワクワクした雰囲気は消えていた。
「さて、我々は今、可能な限り観測データを多く記録しなければならないねぇ!データを複数に分け、バックアップも取り、画像もプリントアウトして紙媒体でも残さなければ。翌朝には全国のアマチュア天文家が自慢げに火星の撮影画像をネット上にアップロードし始めるだろうから、それも出来得る限り保存だ!明瞭かつ客観的に証明できるデータだからねぇ、1年前の繰り返しが起きている、と!」
「そうね。こんな異変、何度も繰り返したくないもの。来年の夏、また火星が大接近するだなんてニュースが話題になったら……。」
そこから先を、アドマイヤベガは敢えて口にしようとはしなかった。
1年前にあった出来事を世間が忘れ、今年初めて経験するかのように迎え入れているという異常。毎年それが繰り返されるとなれば、もはや未来に、未知なる出来事が発生することは今後期待できなくなる。
それは、ウマ娘レースにおいても部分的に発生している異変であり、ほかならぬアドマイヤベガ自身も参加したレースで起きている異変でもあったのだが、彼女はまだそれについては気づいていない様子であった。