夏合宿から帰ってきてからも、アグネスタキオンはトレーニングの合間を見つけてはPC画面と睨み合ってキーボードを叩く日々がしばらく続いた。
大抵は、合宿の終盤に行った天体観測における撮影データが画面には映し出されていたため、鷹木は彼女が何をしているのか何となく想像がついていた。
「よし、こんなもんでいいだろうねぇ。私個人のPCのストレージ内に保存された観測データのバックアップのみならず、SNSアカウントにもアップロードしたし、アマチュアの撮影家や天体趣味の面々が集まるサイトにも私の撮影した火星の画像を提供した。ここまで拡散すれば、不用意に消される偶然が重なることもないだろうねぇ。」
「寮の自室にもプリントアウトした火星の撮影画像をデカデカと貼っているらしいな。そこまでやれば、仮に来年になってなお1年前と全く同じ現象が起きている異常があったとしても、すぐ気づけるだろう。」
以前、既に確定した未来を繰り返す異変に世間の人間やウマ娘たちが気づいてしまうことへの懸念を語っていたタキオン。
ウマ娘レースを始めとして、日常生活の中でも、過去すでに実現した出来事の繰り返しとなる結果にしか至らないと気づいてしまったが最後、自らの意思に意味を見出すのは難しくなる。
それ故にタキオンは自ら発見したこの異変を急に世間へと広める気はないらしかったが、それでも誰も気づかぬがために保たれている平穏を続けるつもりもないようだった。
「私がウマ娘であるから、という理由あってのことだが……ウマ娘レースが、過去ないしは可能性世界で確定した結果を再現するに過ぎないイベントと化してしまうのは、我慢ならないからねぇ。」
「トレーナーとしての立場からも同意見だ。にしても、この異変自体も元凶不明だが、世間の殆どが異常に気付かないってのも、気味が悪いな。」
「ときにトレーナーくん、人間や我々ウマ娘の記憶力がどの程度であるか、具体的に考えたことはあるかな?」
休憩時間が終わりに近づき、ノートPCを閉じてベンチから立ち上がりながらタキオンは唐突な質問を投げかける。
タキオンの発言内容が唐突さを伴うことについては鷹木も慣れていたつもりだったが、その真意を掴み、即座に応答することが出来るか否かは別問題であった。
「えっと……記憶力ってのは……1年前のことを覚えているかどうか、って問題か?今の話の流れからするに。」
「さすがのトレーナーくんも察しが良くなってきたねぇ。私の仮説をより明確に伝えれば、世間がこの異変に気付かぬことの一端には、1年というスパンで繰り返す出来事に対し人間の記憶力は働きづらいのではないか、というものがあるねぇ。」
「……1日単位で繰り返す出来事には簡単に気づけるのに、ってことか?」
「極端な比較にはなるが、そういうことだねぇ。現代においてこそ年単位で社会に変化は訪れるが、農耕や漁労に勤しんでいた頃の社会ならば、それこそ毎年同じことの繰り返しであることが正常な暮らしであったはずだからねぇ。」
確かに、生きていくために必要な食糧を得る以外にも、年中行事や季節ごとの気候の変化など、毎年同じことが繰り返されることにこそ、元来人々とウマ娘たちは安泰を見出していたはずである。
逆に言えば、毎年同じことが起きる現象に警鐘を鳴らすようには、認識というものは出来ていないのだ。
「そもそも、今からちょうど1年前のことを正確に思い出せるか、って言われても厳しい。昨日や一昨日の出来事ですら、忙しく働いている日常の中では他の記憶に埋もれていくのに。」
「まぁ、ウマ娘レースの結果や火星大接近の観測結果については、去年のデータがことごとく別年度のデータにすり替わっている事自体が明確な異常だけれどねぇ。さておき、毎年の繰り返しをこそ安穏と認識していた昔の社会においても、完全なる停滞は訪れなかった。その最たるものが、新たな世代の誕生、そして年配者たちとの世代交代だ。」
「確かに……後継者が生まれて、それを育てるってことについては、毎年同じことの繰り返しってわけにもいかない。」
「ウマ娘レースにおいては、クラシック級やジュニア級ウマ娘だけが出走できるレースの熱狂が、新たな世代の輩出を象徴している。このところの異変に干渉されることなく、決して昨年と同じレース展開の繰り返しにならないという性質も、理にかなっているねぇ。」
次なるトレーニングに向けて準備運動をしながら喋るアグネスタキオンの隣で、鷹木もトレーニングメニューを確認しつつ、頷いていた。
今年度のクラシック級ともなれば他ならぬタキオン自身もそうであったが、その後輩にあたる今年入学したばかりのウマ娘たちも、徐々に本番の舞台にて活躍を始めつつあった。
夏季期間中に、既に先手を切っていたのはタニノギムレットである。
「8月5日に、もうギムレットはデビュー戦に出ていたのか。しかも初戦から二着になってる。去年はタップダンスシチーやダンツフレームが夏前にデビューしていたが、それにしても早いな。」
「恐れ知らずなギムレットくんらしいねぇ、おおかた自分の力試しといったところだろう。彼女の走りをURA公式の配信アーカイブで閲覧させてもらったが、芝であれば勝てていたんじゃないかな?」
確かに、タニノギムレットはダートレースを初のデビュー戦に選択していた。
彼女に早々と担当トレーナーがついていたのならば、それは初めてのレースで力んでしまう脚への負担軽減のためとも取れたが、ギムレットの場合は担当トレーナーもなしに独自の判断で出走を決めた可能性もある。
あの独特過ぎる言い回しゆえに本心を掴みづらいギムレットを、担当できるトレーナーがそうそう簡単に見つかるとも思えなかった。
「入学式の日から出席をサボり、合同練習も抜け出して気ままに学園内を徘徊する、あのような問題児行為が散見されるギムレットくんならば、私と同じトレーナーくんにあてがわれると思ったのだがねぇ。学園の判断はそう単純でもないらしい。」
「気が合う問題児同士を一緒にするわけにもいかないだろ……お前が話し相手を求めてるだろうってのは分かるが。そもそも、俺が抱えきれる負担じゃなくなる。」
「だが、この私という天才ウマ娘に加え、おそらく天賦の才を備えたギムレットくんをも擁すれば、トレーナーとしての経歴にも箔がつくというものではないかい?そもそも、今年入学した世代で、こんなにも早くデビュー戦に出走している後輩は他に……いるかねぇ?」
一度意識にのぼった関心事を放っておけない性格のタキオンは、ストレッチも終えてせっかく温まってきた身体を休憩場所へと戻し、ノートPCを開いてキーボードを叩き始める。
ウォーミングアップに費やした時間を無駄にする気か、と鷹木が注意を与える前に、タキオンは情報確認を速やかに終えてパタンとPCを閉じていた。
「いや……居るねぇ。8月11日に初戦、続く8月25日にも二戦目、さらに9月に入って8日にも未勝利バ戦へと挑んでいる子が。」
「そんなに、か?いったい誰だ、担当トレーナーがついていなくても、あんまり高頻度でレースに出走していたら、身体へ蓄積する負担も鑑みて学園から待ったの声が掛かるはずだが。」
「ヒシミラクルという名前らしい。随分と頑丈な身体の持ち主のようだねぇ、1ヵ月以内に二度もレースに出走して支障なしとは羨ましい。尤も、戦績自体は7着、11着、8着……と、パッとしない様子だけれどねぇ。」
8月から気合いを入れて、早期のデビューを目指して意欲的に本番レースへ出走しているウマ娘が、なかなか戦績を伸ばすことが出来ないまま焦れている、という状況は珍しいものではない。
だが、自身も気になって職員用のデータベースを覗いた鷹木は、ヒシミラクルというウマ娘の顔写真を目にするなり、その例には当てはまらないのではないかと感じた。
中央トレセン学園というエリート校に入学できるだけあって、端正な顔立ちであることは否定できなかったが、とはいえ勝利に飢えるようなタイプの顔つきにはとても見えなかったのである。
「ひょっとすると……このヒシミラクルというウマ娘、本気で勝つつもりで走っているわけじゃない……のかもしれない。」
「ほう?まさにこの私のごとく、本気を出せば脚の故障を免れないがために、かい?いや、だとすればこれほど高頻度の出走自体を控えるだろうねぇ。」
「あぁ、そっちの理由じゃない。タキオンも知ってはいるだろうが、トレセン学園に入学したウマ娘の全員がレースで活躍できるわけじゃない。レース場ではなく進学や就職という針路を選ぶウマ娘だって珍しくない……というか多数派だ。」
鷹木自身、オペラオーやタキオンを担当する前は、そういったウマ娘たちを見てきた経験がある。
未勝利バ戦を勝利してデビューに漕ぎつけたとしても、その先に待つ道のりは険しい。GⅠ、GⅡ、GⅢクラスのレースに出走すること自体が至難の業であることを思えば、せっかく誂えた勝負服を身にまとうことなく現役を終えるウマ娘の方が大多数を占めるのも必然であった。
晴れ舞台へと届かないことが確定したウマ娘も、その後生き続けることには変わりない。だからこそ、トレセン学園に居る間を無駄にしないための努力が必要なのであった。
「仮に勝てておらずとも、中央トレセン学園生として本番レースで走ったという実績は、それだけでも価値を有している。名のあるタイトルは別として、無名の未勝利バ戦は可能な限り多くのウマ娘にチャンスがあるように学園からの出走サポートがある。1年目の夏という早い時期から機会があるごとに出走して、卒業後の進路選びに難がないようにするというのも選択の一つだ。」
「なるほどねぇ、すなわちこのヒシミラクルというウマ娘はシビアな現実主義者ということだ。」
「いやシビアな性格に見える顔つきでもないんだが……。」
職員用のデータベースが表示された画面内、ヒシミラクルの常に半笑いを続けているような顔立ちは、観ているだけで気が抜けそうになる柔和さを誇っていた。
タキオンは練習コースへと戻りつつ、無言で何かを考えているらしかったが、やがてセッティングされたコースのスタート位置に立った時、ハタと思いついて口を開く。
「もしかすると、ヒシミラクルくんも特異点かもしれないねぇ。」
「お前、最近は目についたウマ娘を全員、特異点扱いするようになってきていないか?」
「そりゃあ私が着目するのだから、それだけの理由があるということだねぇ。ヒシミラクルくんの場合は勝利のためではなく、今のところ卒業後の進路のためにレースへ出走している。万が一、彼女がGⅠレースなど歴史に名の刻まれる舞台に上がってくれば、他のウマ娘との歴然たる動機の差が特異点となる可能性は十分にあるねぇ。」
「無名のレースにしか出られないウマ娘を見てきた俺から言わせてもらえば、卒業後の進路のためにレースへ出るウマ娘の方が多数派なんだが。」
「彼女がGⅠにまで上がってくれば、と言っただろう?そも、それだけ力を抜いた意識のままGⅠに上がって来れた時点で、並みならぬ能力の持ち主であることは証明されるだろうねぇ。」
それだけ言い残して、タキオンは練習コースのスタートラインから駆け出していった。
タイミングを合わせてストップウォッチを押しつつ、鷹木はタキオンの無茶な理屈が何故か妙な説得力を伴っていることを感じ取っていた。
思えば、可能性世界であったりウマ娘レースの異変であったり、タキオンが語る非現実的な仮説はことごとく妙に現実と符合する部分を伴っている。あながち、似非科学とも断じられないのがタキオンの妄想であった。