日本テレビ盃の翌日、大舞台は立て続けに行われた。9月の中旬以降、タキオンと身近な面々が出走する機会は目に見えて増えていく。
セントライト記念。中山レース場にて開催される、クラシック級ウマ娘限定の重賞競走である。レース名の由来となった「セントライト」は、60年以上前に現在とは名称こそ違えどクラシック三冠を制し、史上最初の三冠ウマ娘となった存在である。
挑むのはマンハッタンカフェであった。菊花賞の優先出走権を得られるステップ競走として、参戦することを決めたのだろう。
「とはいえカフェにとっては挑戦的な選択だねぇ。距離は2200m、中距離レースの中でも長い部類とはいえ、得意分野の長距離レースではない舞台で勝負するとは。」
「まぁ、仕方がないだろう。菊花賞のステップ競走と言えば、他には今月末の神戸新聞杯しかないし。あっちはさらに短い2000mだ。」
昼下がりから徐々に夕刻へと近づいていく時間帯、自身のトレーニングとクールダウンをひと段落させたタキオンは、休憩がてらセントライト記念の中継番組が始まったばかりのテレビ画面を見つめていた。
タキオン自身も9月末のオールカマー出走の日が迫っており、鷹木は現時点での練習結果と照らし合わせながら今後のトレーニングメニューを調整している最中であった。
そのため、タキオンが違和感を表情に浮かべながらこちらを見つめ返している様に、鷹木は少々遅れてから気づくこととなった。
「……どうしたんだ?」
「神戸新聞杯は、距離2400mじゃなかったかい?だからこそ私は、カフェがより得意な距離の長いレースを選ばなかったことが不思議だったんだが。」
「え?いや……神戸新聞杯の距離は2000だぞ。まぁ確かに、阪神レース場は改修工事が近々予定されているし、それが終わったらレース距離も2400mに変更されるとは言われているが、まだ先の話だ。」
「そうだったかねぇ?過去にはレース場の工事のため、神戸と銘打ちながら中京レース場で代行されたこともあったがねぇ……?」
単なるタキオンの思い違いであると言えば、それだけである。
普段から情報収集に余念のない彼女であれば、鷹木が言った将来の阪神レース場改修予定の話が記憶の隅に残っており、現在のこととうっかり混同した可能性も十分にある。
だが、タキオンの表情に変化は無かった。いつもならば科学的視座を念頭に置く彼女らしく、誤った情報はアッサリと修正するものだが……どうしても、心の底に引っ掛かって残るものがあるのだろう。
「あるいはもしかすると、この違和感こそ可能性世界との歪みが存在する指標となり得るのかもしれないねぇ。可能性世界と現実世界で、レースの距離が異なる、といった仮説も立てられるねぇ。」
「珍しいな、タキオンが感覚を判断に入れるのは。」
「私とて、感覚などという非科学的な要素をもとに論を進めるつもりはないさ。しかし、私もまたウマ娘の一員だ。カフェやユニヴァースくんのように直接的な感じ方は出来ずとも、理由のつかない感覚を抱くことは稀にあるねぇ……。」
その先を言葉として紡ぐには、まだ思考が整理され切っていなかったのだろう。タキオンはしばらく口を噤み、中継画面に見入っていた。
画面内では既にパドックでの競走ウマ娘紹介は終わっており、いよいよ発走に向けて地下バ道からウマ娘たちが現れるのを観客たちが待ち続けている頃となっていた。
「これまで私が非科学的だと判断して排してきた直感を、この世界に対する観測にも活用すべきかもしれないねぇ。明確な異変が起きてから慌ててデータ収集していても、遅いことだし。」
「……例えば、このセントライト記念についても、何か思う所があるのか?」
「流石に、このレースに関しては特に無いねぇ。カフェを応援したい気持ちも山々だが、同じ世代、私と同じクラシック級の面々にも健闘を祈りたい、程度のものだねぇ。」
それでも、鷹木は自前のパソコンにて別ウインドウを開き、セントライト記念の中継配信を録画し始めていた。タキオンと共にこの世界の異変を追い始めて数カ月の鷹木、データ収集や保存の手際は確実に良くなっていた。
マンハッタンカフェは、3番人気であった。トレセン学園内では大いに期待を寄せられ、レジェンド結城トレーナーから直々の指導を受けているとはいえ、世間から見ればオープン戦を2度勝ったのみのウマ娘でしかない。GⅡの舞台では温い評価は与えられない。
1番人気のロードクロノス、2番人気のロードフォレスターも似たり寄ったりの戦績ではあったものの、マンハッタンカフェの脚が中距離レースでどこまで通用するかは未知数であった。
〈中山レース場、天候は曇り、バ場状態は稍重となりました。セントライト記念、16名ものウマ娘が揃います。果たして菊花賞への切符を手にするのはどのウマ娘か……ゲートイン完了、スタートしました!綺麗に揃ったスタート、先手を取ったのはコース内側のマルタカキラリー、続きまして1番人気ロードクロノス、更にはチズブライトリーがその内側に並びまして、すぐ後タニノトリビュート、といった形で先行集団が形成されております。〉
スタンドからの大歓声を浴びながら、一周目の直線を駆けていくウマ娘たち。
スタート直後の下りを過ぎれば、1コーナーから2コーナーへと入る辺りまで上り坂が続くが、コーナーは大回りのため緩やかであり全体のスピードはそうそう落ちない。
「2コーナーからは向こう正面を過ぎて最終直線まで延々と下り坂が続くから、いよいよ息を抜いていられる場所がないねぇ。まさに底力勝負というわけだねぇ。」
「マンハッタンカフェならスタミナの持続には問題ないだろうが、長距離と同じペースで追い込んでいたら前に追いつけないだろうな。どんな作戦を見せてくるのか……。」
現時点で、マンハッタンカフェは中団の前半あたり、前から6番手の位置であった。中距離にも対応できるよう、早めに先頭をとらえられる圏内に位置取る考えなのだろう。
〈1コーナーから2コーナーへ、先頭はマルタカキラリー、リードを広げて現在3バ身ほど。中団以降はマイネルライツ、その外マイネルバンガードが並んで、マンハッタンカフェはすぐ後ろにつけて様子を窺っています。さらにはロードフォレスター、内を突いてシルヴァコクピット、パラダイスシャドウが並んで全体がぐっと詰まった形となっています。マイネルバンガード、ロードフォレスター少し後ろに下げたか、大きく回る2コーナーで互いに牽制しあう状況です。〉
下り坂ゆえに全体の速度が上がる区間で、敢えて足を緩めて位置取りを下げていったウマ娘が複数居る様に、画面を見つめるタキオンは少し驚いた後、満足げに笑みを浮かべた。
閉じた可能性の中で、同じ展開を繰り返すレースが増えているのではないかという懸念を抱えている今、観ている側の予測を裏切る展開が存在すること自体が嬉しいのだ。
「これは……どういった判断だろうねぇ。カーブは緩やか、長く続く下り坂、速度を緩める意図は一見掴めないが……やはり、カフェの存在を警戒して、のことだろうかねぇ。」
「あぁ、マンハッタンカフェが実際に勝利したレースは長距離ばかりだ、すなわち中距離で勝ちに行ける作戦は未だイメージ上のものに過ぎないだろう。予想していたペースから周囲がズレれば、それだけ調子も狂ってしまう。」
実際、並んで走っていた面々が速度を緩めて下がっていったことで、マンハッタンカフェは中団の先頭に出ていた。先行集団が4名であることを鑑みれば、前から5番手である。
中継画面では小さくしか映らないカフェの表情を確認することは出来なかったものの、中距離レースのペースが掴み切れていない彼女が、まだレース中盤だというのにじわじわ上がっていく位置に戸惑いを覚えているだろうことは明らかだった。
〈向こう正面を抜けて残り1000m、先頭集団はほぼ変わらず、タニノトリビュートがチアズブライトリーに並んで3番手争い、そしてマンハッタンカフェも外から上がってきた!じわじわと順位を上げていましたが早めに仕掛けたといったところでしょうか、前方集団ひと塊となって3、4コーナーを回っていきます。後方に下がっていった面々はまだ仕掛ける様子はない、最後の直線は短いが、ロードフォレスターまだ下がって行って現在10番手!〉
ここまで来れば各々の想定する作戦は明らかであった。
最終直線310mと短めの中山レース場ではあるが、それでもマンハッタンカフェに勝つためには瞬発力で一気に抜き去る他にないと判断したのだ。
「なるほどねぇ、確かにカフェと競り合い続けてスタミナ勝負をやっても勝ち筋は薄い。短い直線で勝負をかけるリスクを取ってでも、脚を溜める方針に徹しているようだねぇ。」
「ただでさえ、中距離で普段と異なるペースを実践している最中だからな、カフェは。」
マンハッタンカフェの想定している全体ペースから外れることで、意識を後方に向けさせる意図もあっただろう。
慣れないペース配分の中、マンハッタンカフェは前方の逃げウマ娘たちを圏内に捉え続けながら、後ろから追い込んでくる面々をも警戒せねばならない状況に置かれていた。
これが長距離ならば、加速勝負でもスタミナに相対的に余裕が残るマンハッタンカフェが優位に立っただろうが、ここでは他の面々もスタミナ残量が十分なのだ。
〈さぁ残り400を過ぎまして、先頭はマルタカキラリー、粘っているがそろそろ苦しいか!ロードクロノスが変わって番手、そしてマンハッタンカフェが外側から3番手にまで上がってきて直線を向いた!ロードクロノス、マンハッタンカフェが並んでいるが、ここで大外からロードフォレスター、そしてシルヴァコクピットが一気に追い込んできた!これは全力の末脚だ!ロードクロノスも懸命に逃げる!〉
マンハッタンカフェは決して苦悶の表情を浮かべてはいなかった。絶不調だった今年の春とは違い、身体能力はフルに発揮できている。
ただ、ゴールまで残り300m前後という短い区間で一気に勝負を決め切る中距離レースでは、やはり普段から走り慣れている面々に分があった。
「これは、流石にカフェには分が悪いねぇ。ただでさえ距離を鑑みて選択した先行寄りの策には慣れていないだろうし、追い込んできた面々が勝ちを獲るだろうねぇ。」
「あぁ。ただ、こういう展開になるのも、タキオン、お前の仮説の中では悪くないこと、か?」
「そうだねぇ。それこそ、トレセン学園内の評判や結城トレーナーからの期待がその通りに現実となれば、ここで華麗に優先出走権を得て菊花賞への参戦を決める……ということになるのだろうがねぇ。」
だが、現実はそうはならないようであった。
事前に考え得る可能性や期待を裏切り、予想外の結果が現れること。それこそが、可能性が閉じていない世界、未知なる未来が訪れる現実である。
マンハッタンカフェはまだまだ速度を落とさず走り続けられるだけの余力を残していたが……既にゴールラインは目の前であった。
〈残り200を切った!マンハッタンカフェ並んでいるが、ロードクロノスさらに突き放す!外から上がってきたロードフォレスター、さらに大外、シルヴァコクピットが先頭に立った!シルヴァコクピット先頭!2番手争いはロードクロノス、ロードフォレスター!マンハッタンカフェはそのすぐ後、先頭はシルヴァコクピット!シルヴァコクピット、いま一着でゴールイン!勝ちましたシルヴァコクピット!〉
一着となったのは、そのレースでは5番人気となっていたウマ娘であった。
この年のクラシック路線には度々顔を出し、2月辺りまではGⅢレースでの勝利を見せていたものの、そこからぱたりと目立った戦績が途絶えていたシルヴァコクピットである。
綺麗に1番人気、2番人気、3番人気の競走相手を背後に従えて、先頭でゴールを駆け抜けたそのウマ娘は信じられぬような喜びを表情に浮かべ、観客席に思い切り手を振っていた。
「何が起こるとも事前には分からないし、起きた後からそれが必然だと判断できる。まさにウマ娘レースが本来あるべき形だねぇ、クラシック級のレースはしっかりと可能性が生きているよ、トレーナーくん。」
「だな。そろそろ練習再開するぞ、もう再来週にはお前が出走するオールカマーだ。」
鷹木の急かす言葉を受けてもタキオンは愚痴もなく、さっさと立ち上がって中継画面から離れる。
勝利者インタビューでマンハッタンカフェが喋るのならば、どんな言葉を用意しているのか聞くまで画面前を離れなかったかもしれないが、今となっては観るべきものを全て見た、といった様子であった。
何よりも、クラシック級では可能性が生きていることを充分に確認できた今、シニア級のレースで何が起きているのかを掴むことに専念すべきという思いはタキオンの中で強まっていたようだった。