前作「覇王のドラマトゥルク」から引き続き、ナリタトップロードの口調が公式とは大きく異なるものとなっています。ナリタトップロードがウマ娘化していない時期に投稿された、前作と地続きの内容のためです。
桂崎トレーナーは、京都記念におけるトップロードの勝利を見届けてすぐ、京都からトレセン学園へと帰ってきた。
まだ日没も早い2月のこと、ほの暗くなった敷地内を急ぎ足で練習場へと向かって来た彼は、デジタルの最終調整を見守っていた鷹木やキングヘイローからの報告を受けつつ、実際にダートの上を駆けていくデジタルの脚運びを見つめて頷いていた。
正直なところ、鷹木もキングヘイローも、アグネスデジタルが本番で予定している走りの全てを理解できはしなかった。それほどまでに、彼女が繰り返している走りは変則の塊だったのである。
「幾パターンかの作戦を準備していることは、見て取れました。すなわち、対戦相手との兼ね合いや位置取りによって、切り替える予定なのでしょうけれど。」
「とはいえ、アグネスデジタル以外にはそうそう真似のできる振る舞いじゃないな。トレーナーの立場としては、ウマ娘の技量を相当に信頼していないければ許容できることじゃない。」
練習を終え、桂崎トレーナーとデジタルが明日に備えて早々と練習場を去った後、片付けをしながら鷹木とキングもそんな会話を交わしていた。
当然ながら、ウマ娘は一つの走法、ペース配分を極めることが勝利への確実な道程である。集団に埋もれつつも堅実に自らのペースを守って勝利を引き寄せるナリタトップロード、最後方からの追い上げで先頭を常に脅かすアドマイヤベガ、デジタルの先輩ウマ娘たちも得意分野を磨きぬくことで戦績を挙げている。
しかし、アグネスデジタルはどこまでも変則的、変態的なウマ娘だった。時には迷走とまで見えるほどの試行錯誤、挫折を繰り返したうえで確立したのが、どんなコースや作戦をも等しくマスターした器用さであった。
「アグネスデジタルさんなら、確かに信じられますね。芝とダートの両方を含めたあれほど様々なコースにて、先行から逃げまでこなせてしまうウマ娘は、他に類を見ませんもの。」
「トレーナーとしては、管理も難しいところだけれどな。最終的なタイムを除いて、データで管理できる要素が少なすぎる。桂崎トレーナーの手腕の為せる技でもあるんだろう。」
京都記念の翌日、2月17日。レースの疲れを京都に一泊して癒したトップロードもこちらに帰ってきており、東京レース場へと向かうバスに同乗していた。
本番直前のアグネスデジタルはトップロードへ昨日の勝利を讃える言葉を贈り、トップロードもまたデジタルへと健闘を祈る激励を告げる。移動バス内での会話は、それのみであった。
アドマイヤベガに絡む、不穏且つ奇妙な現象については流石に言及しなかった。
むろん、レース直前のデジタルに余計な心配事を与えないためでもあったろう。出走ウマ娘の準備区画へと向かうデジタルと桂崎トレーナーを見送った後、トップロードは初めてその件について鷹木とキングヘイローへ打ち明けた。
「レースが終わった後、アヤベに聞いたよ。敢えて、今までと違う走り方を選んでいたよねって。」
「トップロードさん、背後から伝わってくる感覚だけで、追い込んでくる足取りを掴めていたのね……それで、当のアドマイヤベガさん自身は、どのようにご返答を?」
「確かに走り方を変えた、って、しっかり肯定したよ。アヤベ自身、明確に何かに気づいたわけじゃないらしいんだけれど、暗い予感があったんだって。」
「暗い……予感?」
観客席の地下を抜ける天井の低い通路、薄暗い照明に照らされながら、聞き返した鷹木へとトップロードは視線を向ける。
万が一に備えて桂崎の手伝いに入るためのサブトレーナーとして、鷹木たちはトレーナー用の最前列観客ブースに向かっているところであった。
「3年前の、菊花賞と同じ予感だったそうだよ。あのレースでは私が勝ったけれど、アヤベは途中までオペラオーと並ぶように走っていた。いつも得意とする追い込みのペースじゃなくて、先行するオペラオーに合わせるように。」
「あぁ、覚えている。あの時は奇妙な判断だとしか思っていなかったが、その後アドマイヤベガは繋靭帯炎が見つかって、長期休養に入ったんだよな。」
「その時も、レース前から暗い予感が膨れ上がっていたらしい。自分の脚を、本気の追い込みに使ってしまうと、何か取り返しのつかないことが起きるかもしれない……って。」
あながち外れた予感ではなかった。
もしも全力で脚に負荷をかけてしまっていては、レース前に発覚しなかった繋靭帯炎は更に悪化しており、そのまま現役復帰することなく引退に追い込まれていた恐れもあった。
とはいえ、本番のレースで手を抜くような真似がアドマイヤベガに出来ようはずもない。妥協なく異なる作戦を選択した結果が、最大のライバルのひとつであるテイエムオペラオーをマークするような走りとなったのだろう。
本番での勝敗が第一でありながら、常に懸念に上がるのはレース本番の負荷、そこから引き起こされる疲労骨折や靭帯の損傷である。これからトレーナーの立場として、それらを懸念しなければならないキングヘイローも、腕を組んで嘆息している。
「実際にそのような経験をしたとなれば、同じような予感をアドマイヤベガさんも無視するわけにはいかないのでしょうね。しかし、その都度走り方を変えていくというのは、あまりに重い枷よ。」
「昨日の京都記念の後には、アドマイヤベガの脚に何か異状が見つかったりしたのか?」
「今のところ、そういう話は聞いていないよ。まだ1日しか経っていないわけだし、検査で何か見つかったとしてもまず結城トレーナーのところに情報がいくだろうけど。」
鷹木からの問いに、トップロードはそれだけ答えた。おそらくナリタトップロードもアドマイヤベガと並んで、レース終了後の簡易的な検査は受けただろうが、明確な脚の不調が見つかっていたらその時に分かっている。
一昨年に引退の懸念を振り切るように復帰して以来、アドマイヤベガは幾度となく故障のリスクと向き合って走り続けてきたのだ。勝敗を大きく左右しかねない走り方の変更を決断することも、彼女が栄冠への渇望と自制の狭間で揺れた末のことだったろう。
レースや自らの状態に合わせて走り方を変更することが、結果に大差を及ぼさないようなウマ娘であれば問題なかったのだろうが……まさに、アグネスデジタルのように。
それを思えば、変則的な作戦を使い分けるアグネスデジタルはいよいよ"勇者"の異名に遜色ない技量の持ち主だった。走る場を変え、走り方を変え、レース出走ウマ娘に付きまとう脚の故障という禍の手からすり抜けて、走り続ける光であった。
彼女がパドック上に姿を現した際も、東京レース場は圧倒的な歓声の中に震えた。
〈さぁ今レース、文句なし堂々の1番人気であります、アグネスデジタル!昨年秋の日本テレビ盃からマイルチャンピオンシップ、覇王テイエムオペラオーを破った天皇賞秋、そして世界をアッと言わせた香港カップ、全てが一着!4連勝が続く現在ノリにノッているウマ娘です、ダートと芝のどっちつかずと評された時期もありましたが、今やそうは言わせない、揺ぎ無き実力をこの東京レース場のダートでも示してくれるのでしょうか!〉
もちろん、その実力のみならず、アグネスデジタルが生来有している朗らかさ、自身がウマ娘ファンとしてはしゃいでいた時期からのノリの良さも、人気度には大きく寄与していただろう。
小柄な体で跳ねて観客席へ大きく手を振る彼女の笑顔は、レース場全体を包み込む歓声と完全に一体となっているようでもあった。
「ウマ娘オタクとなって、アメリカからふらっとやってきた子が、ここまでの歓声を浴びてるんだな……。」
「言ったでしょう、デジタルさんはトレセン学園へと独り身でやってきたその時から、十分な覚悟を備えてらした、と。」
鷹木のつぶやきに、キングヘイローがすかさず言い添える。
現在、世界のレース大舞台で勝利を得ているウマ娘たちの大半が属しているという、ミスタープロスペクター系の血統。以前、アグネスデジタルの出自について触れた会話の後、鷹木も遅ればせながら詳細を調べた。
アグネスデジタルの親や叔母にあたるウマ娘たちは、アメリカ以外にもフランスやイギリスにて優駿として名を馳せている者たちばかりであった。そも、ミスタープロスペクターという血統の始祖となったウマ娘自体が、デジタルを生んだ家系にごく近い存在である。
多少血縁があるどころの騒ぎではない、超がつく名家の出身だったのだ、アグネスデジタルは。彼女の頓狂な物言いや奔放な振る舞いを4年間見続けてきた鷹木が、初めて知った事実であった。
アグネスデジタルは、トレセン学園からの招聘でも留学でもなく、単なるウマ娘オタクに過ぎない立場だけを持ってアメリカを去り、URAのウマ娘たちを最前列で見るために駆け続けている。
そんな令嬢を、単独で送り出したアメリカの本家の鷹揚さにも舌を巻く思いもまた、鷹木は感じていたが。
「デジタルは、9番枠か。彼女の脚、一番活かせそうな位置だ。」
「外枠になるほどに、スタート後の芝エリアを長く走ることになるものね。」
ゲートインを進めていく様を見ながら、トップロードとキングが話し合っている。
東京レース場のダートコースは、スタート位置の関係上、スタート直後は数百メートルほど芝のコースを横切ることとなる。芝とダートの両方で結果を出しているアグネスデジタルとしては、大いにスピードを上げやすくなるポイントであった。
〈ゲートに全ウマ娘、収まりまして……スタートしました!好スタートを切りましたノボジャック、まず芝コースのうえで先頭に出てまいりましたノボジャック、1バ身ほどおいて2番手にアグネスデジタルが詰めていきます!ウチ側にトゥザビクトリー、トーホウエンペラーが3番手に並んでいきました、後はウチを突いてノボトゥルー、その外にプリエミネンス……アグネスデジタル、下がっていくぞ!?スタート直後は先頭争いかと見えましたが、アグネスデジタル現在6番手!〉
アグネスデジタルの予想外の動きに実況アナウンサーは混乱したような声を上げ、会場内からもどよめきが湧き起こる。
……が、既にデジタルの練習風景を幾度も目の当たりにしていた鷹木やキングヘイローには、彼女が狙い通りの走りを実行していることがハッキリと見て取れていた。
「先頭集団を追い立てて、先行争いのペースを高めたわね。」
「あぁ、スタートから数秒しか走らないエリアとはいえ、芝でのスピードはデジタルが随一だ。一番の実力者たるデジタルが先頭争いに加わると見せて、全体のペースをスローに抑えられないよう仕向けたんだ。」
ダートでなかなか結果を残せずにいた頃のアグネスデジタルは、最終直線に向いた後、他のウマ娘たちと比べてスタミナがさほど残せていない状況に幾度も苦しめられてきた。
無論、ダートコースの厚く砂が積もった位置を走らぬようにすることも打開策のひとつであったが、逃げや先行のウマ娘によって、レース全体のペースを作られてしまうことが大きな要因であることは既に見抜いていた。
彼女が得意とする芝での加速、スタート直後にそれを存分に発揮することで、先頭を譲るまいとするウマ娘たちを追い立て、脚を溜める余裕を削ったのだ。
〈外からはプリエミネンス、1バ身下がりましてトーシンブリザードが8番手です、中団まで下がりましてイシヤクマッハ追走しています、外からはスノーエンデバー。3コーナーへと入っていきます、先頭から後方までは20バ身の圏内、先頭でノボジャックが引っぱります、2バ身ほどのリードで800を通過、2番手にはトゥザビクトリー、その外からサウスヴィグラスが上がっていきました、ウチからはノボトゥルー4番手、トーホウエンペラーが5番手の位置、その後1バ身ほどあけて、アグネスデジタルが6番手をキープしています!〉
デジタルのコース取りにじっと視線を注いでいたナリタトップロードは、集団がまだ最終直線へと向くには早い段階から小さく拍手をして感心していた。
「完全に、レースをコントロールしているね、デジタル。先頭集団が追い立てられるように固まって、追い込みを狙うウマ娘たちが中団を形成し、その間の空白をデジタルが悠々と使っている。」
「これなら、ウチを回るにも外に出るにしても、誰にもブロックされることなくコーナーを攻略できるわね。……いや、アッサリと言ったけれど、誰にでも真似できるようなことではないわ。」
キングヘイローの言葉を傍らに聞きながら、鷹木も視線をレースへ向けたまま頷く。
練習場でもキングと話し合ったように、先行の走りで飛び出した後、作戦を切り替えるように後ろへ下がっていくなど、本来は失策と称されかねない走りである。
走るペースが乱れれば、ゴールまでの距離とスタミナ残量を合わせることは困難になる。最初の加速で想定以上に費やしていてはゴール前の競り合いに勝てなくなり、警戒して溜めていては前のウマ娘に逃げ切られてしまう。
変幻自在、いかようにも走るペースを切り替えて、自身のスタミナと相談しながら脚運びを臨機に調整していく、アグネスデジタルの器用さが存分に発揮された展開であった。
〈4コーナーを抜けて今直線へと向いた、ノボジャックが引っ張るが、リードはじりじり詰められて1バ身!2番手争いはトゥザビクトリー、400を通過!その外を回りましては懸命にサウスヴィグラス、中からはノボトゥルー!外からアグネスデジタル!外からアグネスデジタル!さらにトーホウエンペラー、トーシンブリザード、横に広がってついてくるが、とても追いつけない!アグネスデジタル、ぐんぐん上がってくる!〉
「先行の勢いで全体のペースを急かして、自身は途中から差しの作戦に切り替える……タネを明かされても、他のレースでは真似できないわね。」
「これは、強いわけだよ。やっぱり勇者だ、アグネスデジタル。」
キングヘイローとナリタトップロードの言葉を聞きつつも、やはりウマ娘レースのゴール直前には、感極まって声を出せなくなるのが鷹木であった。
先行争いでスタミナを使わされたウマ娘たちがデジタルに抜き去られていき、追い込みに備えて後方で様子見をしていたウマ娘たちはデジタルに追いつけない。
目の前の直線を、最小限の砂塵だけを蹴立てて走り抜けていくアグネスデジタルは、自身の視覚および聴覚に意識を張り巡らせて集中しきった、真剣そのものの表情であった。最後の最後まで不用意なスタミナ浪費をせず、競争相手の位置を把握し続けているのだ。
追いすがる2番手のウマ娘とは、きっちり測ったように1バ身のリードを保ったまま、ゴールへ向かっていった。
〈200を通過!外から、アグネスデジタル!トーシンブリザードが必死に追う!中からノボトゥルーがくる、が、先頭は、アグネスデジタル!先頭はアグネスデジタル!強い!アグネスデジタル、今、先頭でゴールイン!やっぱり強かったアグネスデジタル!昨年から、国内外通算5連勝目です!新世紀の勇者、なおも健在であります!〉
空間が割れんばかりの大喝采に包まれながら、アグネスデジタルが腕を突き上げて観客席の前を駆け抜けていく。
キングヘイローも立ち上がって、全力で拍手を送っていた。思えばキングヘイローからしても、一昨年のマイルチャンピオンシップにて競い合ったうえでのデジタルの勝利以来、彼女が本物の一流へと成長していく姿は我が身のように感じ続けていたことだろう。
苦節を乗り越えきった今、活躍を続けるデジタルの姿は、過行く時の中でも色褪せない勇者そのものの貫禄を確かに備えていた。