シンボリクリスエスのデビュー戦を見届けた後、タキオンは先輩ウマ娘たちと別れて各々の練習場へと向かった。
同じく天皇賞にて競い合う者同士として、お互いの練習風景を見るわけにはいかない。いかなる作戦を予定し、どのようなペース配分を想定しているのか、知るのは本番レースがスタートしてからのことだ。
例年と違って、秋の天皇賞は東京レース場ではなく中山レース場で行われる。それだけに、いよいよもって競走相手の手の内は想像しづらく、練習している様子の秘匿は重要となる。
「そういや、私には個別練習場があてがわれなかったのかい?」
「……あぁ、今さらかもしれないが、そうなんだ。」
昼下がり、一旦の小休止を取っているアグネスタキオンから尋ねられ、鷹木は頷いた。
個別練習場は、GⅠクラスでの勝利を重ねている、あるいは今後十分にGⅠクラスでの活躍が見込まれるウマ娘と指導担当トレーナーに対し、学園から与えられる特権的な練習環境である。
その名の通り、他のウマ娘は併走相手として招かれた場合を除いて入ってこれない。周囲は採光用の窓を覗いて壁で覆われ、開閉式の天井も備えられており、いかなる天候であろうと関係なく練習が行える。
必然的に、通りすがりに練習風景を覗かれることも無く、大舞台となるレースを前に対戦相手から偵察されることを懸念する必要もなくなる。
「タキオン、お前の実力なら個別練習場を貰えても良かったんだが……皐月賞の後、無期限の休止を宣言したからな。」
「まぁ、仕方のないことだねぇ。構わないさ、先ほど先輩方にも言ったが、私は実際のレースが始まってから作戦を決定するからねぇ。練習風景を見られても、別に痛くはない。」
言わずもがなではあるが、ウマ娘用の練習場は人間用の陸上競技場よりもはるかに巨大であり、いかに規格外の敷地面積を誇るトレセン学園とて、個別練習場を提供できる数には限度がある。
現時点で個別練習場を有しているのは、アドマイヤベガ・エアシャカール・マンハッタンカフェ・ダンツフレームを率いている結城トレーナー。
続いて、ナリタトップロード・アグネスデジタルを指導している桂崎トレーナー。ジャングルポケットを指導しているキングヘイローも、桂崎のサブトレーナーとして同じ練習場に居る。
他には、前年度の秋シニア三冠を総取りしたゼンノロブロイとその担当トレーナー。そして、未だ誰も姿を見たことのないネオユニヴァースの担当トレーナー。個別練習場を学園から与えられているのは、これらの限られた面々だけであった。
タキオンを担当している鷹木、そして今はタップダンスシチーの担当である片桐トレーナーは、それぞれオペラオーとドトウが引退していった今、個別練習場無しの若手トレーナーらしい扱いへと戻っていた。
「その点、片桐トレーナーは上手くやっているものだねぇ。トレセン学園がかつて敷地内で芝の養生地として用いていた空き地に目を付けて、タップダンスシチーくんの専用練習場として整備しているのだから。」
「あれは、アイツらしい強引な売り込みと、自力で練習場整備を続けるだけの労力あってのことだから……タキオンの望みでも、なかなか俺には真似できない。」
10月に入った今となっては落ち着いただろうが、夏の間ぞくぞくと生えまくっていただろう雑草の処理を、ウマ娘が走れるだけの広さで続けねばならない作業量を想像するだけで鷹木は気が遠くなりそうであった。
今年の4月以降、怪我の療養を続けていたタップダンスシチーも、そろそろ走る練習へと復帰できるほどには回復したらしい。例の自前で整備を続けている練習場で、片桐と共にトレーニングを再開する姿が見られている。
一方、他のウマ娘も練習を行う中央のグラウンドで天皇賞に向けた調整を続けていたタキオンと鷹木であったが、その日は思わぬところから招待を受けることとなった。
スマホに届いたメッセージの、その送信主の名にまず鷹木は目を引ん剝くこととなったのだが。
「ゆ、結城トレーナーから直接連絡が……!?お、俺、なんか失礼なことを……?」
「やましいことが無いのならば、レジェンド級のトレーナーが相手だろうが堂々としていたまえよ。というかいい加減に慣れたまえ、私以上に付き合いが長いのだろう?モルモットがオドオドしていてもらっては困るねぇ。」
タキオンも覗き込んできたスマホ画面には、小心者な鷹木が過剰に心配するような内容など勿論なかった。
そこには単に、結城トレーナーの有する個別練習場へ来ないかとの誘いが掛かれているだけであった。
「すぐさま了承したまえ、この私の実力ならば、先輩方との併走練習に耐えると判断されたのだろうからねぇ。」
「いや、結城トレーナーのところならアドマイヤベガも、エアシャカールも天皇賞秋への出走を予定している。併走はしないだろ……。」
だからこそ、鷹木は何が目的で呼び出されたのか分からなかったのであるが、タキオンの圧を拒めるはずもなく、すぐさま向かった先で真意を知ることとなった。
個別練習場には、本番のレース場同様に大型のディスプレイが備えられているのだが、その画面の前に椅子を並べた状態で結城トレーナーが率いるウマ娘たちが待っていたのである。
むろん、鷹木は深々と頭を下げて結城トレーナーへと挨拶することを優先していたが。
「この度は、お誘いいただき、誠にありがたく存じます……。」
「あぁ、どうも。ゆっくりしていて。」
老トレーナーは白髪の頭をゆったりと頷かせながら、にこやかに軽く返答したのみであった。
普段からウマ娘のことを第一に考える人物らしく、鷹木を呼んだのも彼が担当しているタキオンと自分の担当ウマ娘たちを引き合わせる目的の方が大きかったようだ。
アドマイヤベガとは今日の午前中に会ったばかりであり、エアシャカールやマンハッタンカフェともちょくちょく顔を合わせてはいたものの、ダンツフレームとは何だかんだタイミングが合わず、直接タキオンと顔を合わせるのは合宿以来であった。
「ダンツくん!夏合宿以降も随分と鍛え上げたようだねぇ、完成された身体へとまた一歩近づいたようじゃないか。時間的余裕があれば、その筋肉量から発される熱量を測定させてもらい、他のウマ娘との差異をデータとして認識したいほどだねぇ。」
「なかなか時間はとれないけどね、タキオンちゃんも同じと思うけど……天皇賞、目指すんでしょ?トレセン学園じゅうの噂になってるよ。」
ダンツフレームは、これまで通り柔和な表情を浮かべることには変わりなかったが、しかし顔つきはどこか引き締まったようであった。
なかなか勝ちきれぬ時期が続いているとはいえ、デビュー以降日本ダービーまでは一着か二着にしかなっていなかったダンツ。四着という順位は、先月の神戸新聞杯で初めて経験する敗け方であった。
十分すぎるほどの実力者であることは、ダンツ自身の控えめな態度にも関わらず前々から明白だったのだが、神戸新聞杯にてエアエミネムに先を越されて以降、一段と自らを厳しく鍛える思いは強まったらしい。
そんな彼女の情動を瞳の光の強さから読み取ったのか、タキオンは返答を一瞬考える猶予を要していた。
「無論だねぇ、私は一足先に天皇賞の舞台へと進ませてもらう!菊花賞で競えないのは心残りだが、ダンツくんと手合わせする日も遠くないだろうねぇ。」
「うん、その時はもちろん手加減無しで、勝ちに行くよ。」
鷹木からの指示とはいえ、タキオンが皐月賞などで、勝てる最低限の速度まで加減して走っていたことをもダンツフレームは言及している。
結城トレーナーに能力を見出されただけのことはあって、やはり素質は充分すぎるほどダンツにも備わっていたのだ。マンハッタンカフェは両者のやり取りを眺めながら、ボソッと呟く。
「タキオンさん……ジャングルポケットさんが相手であれば、より挑発的な物言いをなさるでしょうに……。」
「そうかねぇ、私はダンツくんを別扱いしているつもりはないがねぇ。」
タキオンは少々慌てたように言い返す。それはタキオンの本心でもあり、同時に内心が現れてしまった振る舞いでもあった。
確かにダンツフレームは、このトレセン学園の中では最上層の能力を有する、優駿の一員と認められて差し支えない。しかし、ジャングルポケットと彼女を、タキオンは同列に見ることをしていなかった。
タキオンが言うところの“特異点”……ウマ娘レースの歴史を塗り替え、“可能性世界”の運命をも乗り越えるほどのウマ娘の域に、ダンツフレームは届いていないと判断したのだろう。
むろん、未来が可能性に開かれていれば、全く予測できない成長をダンツが遂げる可能性もまたなくはなかったが。
「お喋りはそこまでにしとけ、そろそろ始まンぞ。」
黙ってノートPCのキーボードを叩き続けていたエアシャカールが告げる。例によって、件の異変が来年もまた繰り返される恐れに備え、今から観戦するレースの録画準備を済ませていたらしい。
1年前と全く同じレース展開が発生する異変について、アドマイヤベガは結城トレーナーには伝えていないらしかった。おそらくエアシャカールからの進言があったのだろう。
URA全体に影響を及ぼし得る人物に対し、ウマ娘レースの根幹を揺るがしかねない異変の存在を認識させる危険性は、タキオン同様にシャカールも理解していた。
意識的に話題を切り替えるため、タキオンが率先して口を開く。
「今日行われるレースは、マイルチャンピオンシップだねぇ。デジタルくんが出走する、盛岡レース場のダートレースだ。」
「アグネスデジタルさんが出走するのもあるけれど、今回はどちらかというと私の親戚の子、アドマイヤドンの走りを見たいから。鷹木トレーナーは、覚えているかしら。」
話頭が唐突に自分へと向けられた鷹木は、必死になって過去の記憶を漁ることになった。
タキオンに対してではなく、自分に対して尋ねる……ということは、タキオンが入学する以前の話である。
「えっと、確か、2年前、フューチュリティステークスでアドマイヤドンが勝ったレースを、皆で観戦したんだっけか。」
「そう、あの後も芝のクラシック路線で頑張っていたのだけれど、なかなか伸び悩んでいて、去年の冬あたりにダートに転向したの。そしたらJBCクラシックでいきなり一着を獲って。」
芝のGⅠレースで勝ち、ダート路線でのGⅠクラスのレースでも勝利する。アグネスデジタルのように並行して出走し続けるわけではないが、これまた稀有な能力の持ち主であった。
とはいえ、ダートの世界も楽なものではない。その後は易々と勝てない時期が続き、先月の札幌レース場で行われたGⅢのエルムステークスでようやくダート2勝目を挙げたところである。
アドマイヤドンにとっては、2度目のダートグレードⅠ勝利を目指す大事なレースが、このマイルチャンピオンシップであった。
〈曇天の空に覆われています、盛岡レース場。ダートの状態は不良となりました、マイルチャンピオンシップ。14名のウマ娘がゲートイン完了……スタートしました!おっとブラウンシャトレー躓いたか、しかし体勢立て直して転倒は無し、大きな差はなく先行争いに入っていきます、さぁ各バ広がっていますが、ウチからコアレスハンター、そしてタイキシリウス、トーヨーデヘアと来て外広がっています、メグミウイナーさらにアドマイヤドンも先行集団です。〉
盛岡レース場のコース配分は、基本的に差しが有利とされている。直線では上り坂を複数回通過することになり、更には差しウマ娘が加速しやすい最終コーナーに下り坂が配置されているためだ。
しかし、今日のバ場状態は不良。ダートと芝では走りやすさが逆転する。
「砂が湿っているから、足元が締まって踏み込みやすくなる状態だねぇ。スタート直後に躓いてしまった子も、今回がハイペースのレースになることが分かっていたのだろうねぇ。」
「あっという間に先頭集団が密集してきやがる。Parcaeで予測するまでもねェ状況だな。」
タキオンの発言に、シャカールも頷きながら言葉を付け足す。
この流れの中で、アドマイヤドンは理想的な位置に早々につけていた。前から砂粒も飛んでこない、そして先頭で逃げる相手のペースもじっくりと見ることが出来る、外側3番手の位置である。
〈全体大きく広がって並んだ状態、これから向こう正面を抜けていきます、先頭はコアレスハンター、そしてメグミウイナーの2名が並んでいます。アドマイヤドンは3番手から進みます、あとはウチからタイキシリウス、あるいはトーヨーデヘアです。中団グループにはイーグルカフェ、ゴールドレッグ、そしてスターキングマンと来て残り1000mを通過、2番人気アグネスデジタルは後方から2番手の位置であります。〉
アグネスデジタルは流石に十分すぎるほどベテランの域に達しているだけあって、集団が殺到し位置取り争いでスタミナを費やす位置には巻き込まれず、後方から全体を見渡す位置で脚を進めている。
デジタル以上に現役自体の長い、今やデビュー6年目のベルモントアクターやタイキシリウスも同じことを考えているらしい。
自らも追い込み作戦を得意とするアドマイヤベガは、徐々に姿勢を前へと乗り出しながら呟いていた。
「先行がスタミナを費やしづらいとはいえ、やっぱり最終コーナーで加速しやすいコースで差しを狙うのは定石よね。」
「デジタルさんとアドマイヤドンさん、どっちも応援したい気持ちがあります……!」
ダンツフレームもまた、汗の滲んだ両手を握り締めながら、目に力が入っている。
後方から追い込んでいって、なお届かなかった自分自身のレースを思い起こせば、条件が違うダートレースであっても見ているだけで自然と熱が入るのだろう。
〈各バおよそ10バ身圏内、ぐっと固まった集団となりまして3コーナーへと入っていきます。コアレスハンターが先頭でリードを稼ごうとしているが、メグミウイナーが並び続けています。残り600を通過、ここでアドマイヤドンが3番手から、じわじわと前を目指し始めた!3番手から2番手へ!ウチはトーヨーデヘアです!アグネスデジタルはウチを狙っているか、間もなく4コーナーへと入ります!〉
いよいよ正面スタンド前へと接近してくるウマ娘集団に、観客席から上がる歓声は一段と高まり、声援にも気迫が籠る。
が、画面のこちら側でレース模様を見ている結城トレーナーには、既に勝敗は明白に見えていたらしい。
「これは、圧勝するだろうね。」
「えっと……アドマイヤドン、が、ですか?」
咄嗟に答えた鷹木の言葉に、結城トレーナーは頷くまでも無く、視線を中継画面に注ぎ続けていた。
ここまでずっと先行争いに参加し続ける位置取りのように見えながら、アドマイヤドンはほぼコース取りを移動させていない。多少コーナーを外回りで走らされた以外は、全くスタミナを浪費した要素が無いのだ。
結城トレーナーの見立てが正しいことは、この後の展開によって誰の目にも分かる形で証明された。
〈第4コーナーから直線へ向きました!さぁ今度はアドマイヤドンか、アドマイヤドンだ!ウチからコアレスハンター、200を通過!イーグルカフェが3番手、スターキングマンもアグネスデジタルも上がってくる!さぁアドマイヤドン、完全に抜け出した!残り100を通過、リードは2バ身から3バ身、いや4バ身!!まだ加速して引き離す!アドマイヤドン強い!アドマイヤドン先頭でゴールイン!余裕の勝利だ、アドマイヤドン!芝からダートへの転向で早々にJBCクラシックを制した実力、またしても見せてくれました!〉
それまで息を詰めるようにして中継画面を凝視していたアドマイヤベガは、ホッと息をついて、こわばった身体を伸ばした。
単に親戚としてではなく、まるで血のつながりのある姉であるかのように、アドマイヤドンの活躍を祈る思いは実際の走りを目の当たりにするにつけても強まっていったのだろう。
「ホントに、初っ端から強気に前に出て行くものだから……冷や冷やさせるわね。」
「ですが……これで、アドマイヤドンさんのダートでの実力も……証明された形になりましたね。」
アヤベの隣に席を占めていたマンハッタンカフェも、落ち着いた声色に変わりはないものの、彼女なりに今回のアドマイヤドンの勝利を讃えている。
一方で、アグネスタキオンは少々複雑な思いを抱えていた。無論、このレース結果を賞賛する思いの方が強かったのだが。
「ダートの世界でも腕を鳴らしていたアグネスデジタルくんの時代は、いよいよハッキリと世代交代が訪れたと見るべきかねぇ。無論、そうであればこそ、同じ結果を繰り返さない未来が訪れている証明に他ならないのだがねぇ。」
「当のデジタル自身も、それについては喜ばねェワケがねェだろ。奴が引退すンのは、まだ先のことだろうけどよ。」
エアシャカールはタキオンの言葉に返しつつ、こちらもまた軽からぬ思いを胸の奥に抱えていた。
アグネスデジタルとエアシャカールは同期のウマ娘である。そのデジタルが、国内外、芝ダートを問わぬ活躍を存分に示した後、次なる世代へ活躍の場を託そうとしている。
だが、彼女と同年代のシャカール自身は、今なお自分が活躍しきれたという実感が無いままであった。……過去の栄光に縋らず、勝ちを獲るまで、引退する気はなかった。