マンハッタンカフェの走りが、全てのウマ娘レースファンを魅了し沸き立たせた菊花賞から、6日後。
世間は熱を冷ましている暇などなかった。秋の天皇賞もまた、菊花賞に負けず劣らず、この社会のあらゆる関心事を奪い去るトピックであった。
前年度のクラシック三冠ウマ娘であるネオユニヴァース、同じくクラシック級ながら昨年の秋シニア三冠を獲ったゼンノロブロイが共に、今年の天皇賞に参戦する。
もはやこの数年GⅠレースの常連となっているナリタトップロード、そしてアドマイヤベガ、エアシャカール、アグネスデジタル……と、豪華すぎるメンバーが出走者リストに名を連ねているのだ。
「さらにはこの私、アグネスタキオンが本領を発揮させてもらおうというのだからねぇ!世の中の天皇賞に関わる話題のほとんどは、私に言及したものではないかいトレーナーくん!」
「さすがにそれは言い過ぎだが、確かにタキオンに期待を寄せているファンも多いな。ファンサービス皆無なウマ娘に対し、奇特な人間は多いもんだ。」
例年の秋の天皇賞が開催される東京レース場とは違い、中山レース場へと向かうバスの中、タキオンの隣でスマホ画面に目を通している鷹木の目の下には隈が出来ていた。
菊花賞から後、休む暇など無かったのは世間だけでなく鷹木も同様である。タキオンの注目度の如何に関係なく、彼女が天皇賞で最良のパフォーマンスを発揮し、なおかつ無事に帰って来られるよう、文字通り死力を尽くしていた。
タキオンへの返答と、画面に表示されたレース直前の検査結果に目を向ける以外は、時々宙に視線を泳がせている鷹木の振る舞いを前に、タキオンは口を挟む。
「レース場に着いたら、暫く寝ていてもらってもいいんじゃないかねぇ。せっかくの私の晴れ舞台で倒れられても困る。」
「寝ていられるわけないだろ……だが、そうだな、タキオンの勝つ瞬間にきちんと立ち会えるよう、極力消耗は減らすようにしておく。」
今年の皐月賞を最後に引退してしまうことが、アグネスタキオンに“可能性世界”が定めた運命であるとすれば……秋天への優先出走権を得た先月のオールカマーへの出走で、ハッキリとその可能性とは袂を分かつ意を世界に示したことになる。
そして、今日の天皇賞は、タキオンが本格的に、このウマ娘レースが行われている現実世界の歴史を自ら切り拓くか否かの分水嶺となるのだ。
昨晩からほとんど寝ることなく、興奮状態と緊張状態で眠気を吹き飛ばし続けている鷹木は、以前までの自分ならば決して考えないであろうそんなことを思い浮かべていた。タキオンがこの1年以上語り続けていた仮説は、鷹木の中で既に真実となったようであった。
「おや、これは珍しい相手からのメッセージだねぇ。」
傍らで自分のスマホを取り出していたタキオンは、表示された〈ジャングルポケット〉の文字を鷹木にも見えるよう画面を傾ける。
送信されてきたのは、ジャングルポケットらしい短く簡潔な文字列であった。
〈天皇賞、負けんなよ。まだ俺との勝負、残ってんだからよ。〉
「ジャングルポケットくんからの応援メッセージだねぇ、しかし何とも大袈裟な物言いだ。レースに負けて命を取られるわけではあるまいし。そんなにも、私がレースの舞台から去るのが怖いかねぇ。」
ポッケとしては、あながちそう言われても否定できなかったろう。
皐月賞で勝てなかった相手、アグネスタキオンが無期限の休止を宣言した時、ジャングルポケットが抱いたショックは並みならぬものであったはずだ。
世間が予想だにしていなかったオールカマーでの復活を経て、天皇賞という大舞台に向かうタキオン。ライバルの実力が健在であることを実感した今、再び対決の機会が奪われることをポッケは何よりも恐れているだろう。
「それに、自分よりも先にタキオンに勝つウマ娘が居てほしくもないだろうな、ジャングルポケットは。」
「はてさて、どうにも約束の難しいものだねぇ。そも、菊花賞を勝てなかったジャングルポケットくん自身が、私に勝てるとの確信を得ることが前提ではないかねぇ。」
遠回しに、ジャングルポケットよりも、今日の天皇賞で競うことになる面々の方が強いと述べているタキオン。
直にポッケが聞いていれば憤慨しただろうが、鷹木はあえて否定することは出来なかった。たしかに、前年度の覇者であるゼンノロブロイやネオユニヴァースの存在は、あまりに大きすぎる。
タキオンはいつも通りに悠然と振舞っていたが、楽に勝てる相手ではないとの認識はしっかり有しているのだ。
「俺も、お前が負けるはずがないとは断言できないが……。」
「断言してくれたまえよ、トレーナーくんならば。」
「分かってる、だが、従来の東京レース場とは違う、今年の秋天は中山レース場での開催なんだ。中山の芝2000mは、タキオン、お前が一番得意とする舞台だ。誰よりも速く走れる……だから存分に限界を目指してくれ、手加減して勝てる相手じゃない。」
何度も何度も凝視し続けた、タキオンの身体検査データをスマホ画面の中で閉じながら、鷹木はそう告げた。
半年前の皐月賞では、鷹木はタキオンに本気を出さないよう、脚への負荷を軽減するように指示して送り出したが……今、口にしたのは、それとは真逆の言葉であった。
タキオンの目には、明確な熱が灯った。今回ばかりは、自分が望まずとも、鷹木トレーナーから本気で走っていいとの許可が出たのだ。
「……言われるまでもないねぇ。あぁ、発走時刻まで目前だというのに、早くも待ちきれないよ!」
いつもノイズの走ったような瞳の色は、その時確かに輝いていた。
シニア級のウマ娘レースの中でも、特に全国的に注目を集めるものには実況席に特別ゲストが呼ばれるのが恒例となっていた。むろん天皇賞も例外ではなく、過去に勝利した引退ウマ娘が実況席に姿を見せる。
実況アナウンサーの隣席に、解説役としてスペシャルウィークの姿があるのは万人の見慣れた光景であった。
その隣に、テイエムオペラオーの姿がある様は、昨年と同様だった。
パドックから戻ってきて万全の準備を済ませたタキオンを控室から地下バ道へと送り出し、トレーナー用の最前列観戦ブースへ移動した鷹木は、この天皇賞においても1年前と同じことが繰り返される異変の前兆ではないか、と僅かな不安を抱いた。
〈いよいよ発走の時刻が近づいてまいりました、盾の舞台を彩りますは18名のウマ娘たち!今年の秋シニア3冠最初のレース、天皇賞であります。解説はお馴染みスペシャルウィークさんにお越しいただいております、よろしくお願いいたします。〉
〈はい!スペシャルウィークです!いやぁ今年の天皇賞は、なんだか凄い予感がします、いえ、確実に凄いですよぉ!実力ウマ娘たちが勢ぞろいしているのはもちろん、今年は急遽の復活で世間を賑わせた、あの子も飛び込んできましたから!〉
しかし、実況アナウンサーやスペシャルウィークの口上は、確かに昨年とは異なるようであった。鷹木も流石に1年前の実況の文言など正確には思い出せないが。
少なくとも、明確にタキオンのことを言い示しているスペシャルウィークのコメントは、今年でなければあり得ない内容である。
〈さて、改めまして今回のスペシャルゲストをご紹介いたしましょう、3年前の天皇賞秋にて一着、更にはその年のグランドスラム及び年間無敗記録も成し遂げられたウマ娘、テイエムオペラオーさんです!〉
〈何とも心地よい風がまたそよぎ、心は楽しい思いに満たされる!悩みなき永遠の青春の弾けるような歓びを、レースの神は我らに与えていたのだ!ハーッハッハッハ!再びお招きいただき光栄だよ!〉
オペラオーの独特過ぎる応答に関しては、鷹木は明確に昨年とは違う、と判断できていた。確か、去年は開口一番、三女神へと呼びかけるような発言をしていたはずだ……。
かつての担当ウマ娘が喋った内容であれば、1年越しであろうとも明確に思い出せるのもまたトレーナーとしての妙であったろう。
同じことを繰り返す異変を遠ざけ、全く新しい、誰も予測できないレース展開を実現すること。それは既に、タキオンが天皇賞への参戦を現実とした瞬間から叶っていたのかもしれない。
〈こちらもお越しいただき重ねて感謝です、さぁ今年度の天皇賞秋、テイエムオペラオーさんはどのウマ娘に注目しておられるでしょうか。〉
〈アヤベさん!……も十分すぎる実力者だし、昨年の覇者たる英雄ロブ・ロイの名を冠するゼンノロブロイくんも、また勝利に最も近い存在だろう!けれど、かの探求者、誰しもがその動向を追ってやきもきしただろう、アグネスタキオンくんこそ、この天皇賞の特異点になるのではあるまいか!どうだろう、スペシャルウィークさん!〉
〈私も、タキオンちゃんにかなり注目してます!皐月賞でも全然危なげなく勝っていましたし、先月のオールカマーでの走り、ハッキリと実力を示してくれましたから!〉
皐月賞、およびオールカマーでの勝ち方は、鷹木が無茶をしないよう告げたことにより、二着とは僅差での勝利である。
だが、流石に歴戦のウマ娘であるスペシャルウィークの目は、ごまかせない。タキオンがゴール直前まで余裕を残し、自らが十分に勝利できる程度に速度調節するだけの器用さを持ち合わせている様は見抜かれていた。
いよいよゲートインが進む光景を前に極限の緊張状態となった鷹木の耳には、実況席のオペラオーが先ほど“特異点”というワードを敢えて口にしたことなど残っていなかった。
〈今年は中山のターフが競走の舞台となります、天皇賞!全ウマ娘がゲートに収まりまして……スタートが切られました18名!どっと飛び出していきました、さぁまずは1コーナーに向かっての先行争いでありますが、テイエムオーシャンがウチ側の面々を見ながらも前へと出る、そしてゴーステディが並んでいきます。集団の内側にてナリタトップロードは後ろに下げていく、並んでいたアグネスタキオンは中団を前目につけております。〉
〈トップロードくんが先行策を採らないことを見越して、その内側の位置に収まったというわけか!さすがは皐月賞を悠然と勝ったウマ娘だ、実に巧みな位置取りだね!〉
〈一方でゼンノロブロイちゃんは後方で位置取り争いをうまく回避してますよ!今年は、本来得意とする差しで来るようです、レース終盤の末脚は脅威ですよ!〉
スタートから400m以上続く直線は、途中で中山レース場特有の上り坂を通過する点もあり、ここで最初のコーナーに入るまでの位置取り争いに巻き込まれるとスタミナの浪費となりがちである。
そこはタキオンの観察眼および迅速な判断が光る展開であった。
「最終コーナーを回ってからの直線が短い中山では、先行の位置取り争いが激化しやすい……トップロードが先行と見せかけつつ徐々に下がっていったのを、見逃さなかったな、タキオン。」
コーナーを最小限の距離で回れるコースの最ウチ、しかも逃げウマ娘たちをすぐ目の前に見ながらペースを維持できる、理想的なポジションである。
むろん、集団の一番内側には包囲され進路を阻まれやすいリスクがあったものの、それを踏まえた上でタキオンが選んだ位置取りゆえ、鷹木は彼女の判断に全てを委ねていた。
〈1コーナーへと入っていきました、先頭を進みますは変わらずゴーステディ、アラタマインディが2番手に続いている、テイエムオーシャン、そしてブレイクタイムが内側、そのすぐ後ろにアグネスタキオンがコース内ラチ沿いを淡々と進めてまいります。その外並んでイブキガバメント、続くはエイシンプレストン、外を通ってネオユニヴァース、ウチからアドマイヤベガ、今回はナリタトップロードよりも前目につける形であります。〉
〈アヤベさんは去年から先行策も磨き続けているからね!いつもと違う走りもまた、美しく魅せてくれるだろう!〉
〈最後方から仕掛けようとしているのはトップロードちゃんだけじゃなくて、エアシャカールくんも、ですね!どの子が勝ってもおかしくないです、目が足りません、全員に同時に注目したいほどです!〉
スペシャルウィークらしい、緊迫感を載せながらもどこか牧歌的な匂いのあるコメントも無理はない。2年前、そして去年の天皇賞で活躍した面々が、そのままに今年も出走しているのだから。
錚々たる優駿の名が連なる様のみならず、世間では参戦したアグネス冠の多さも取り沙汰されていた。アグネスデジタル、アグネスタキオンだけではない。アグネスフライト、アグネススペシャルも含め、4名ものアグネス冠ウマ娘がここで競っているのだ。
「アグネスデジタルも、徐々に長期休養前の調子を取り戻しつつある、と評価されてる……タキオン、絶対に気を抜くなよ、どこから刺客が飛んでくるか、本当に分からない。」
鷹木が彼女の表情を詳細に見るにはあまりに遠く、映像の中であまりに小さく映っていたが、タキオンは全く表情を変えることなく、5番手辺りをキープしたままコーナーを回り切っていた。
確実に胸中の高揚はあったろうが、一瞬の気の緩みも許されない場で、タキオンが滅多に見せない真剣さがそこには表れていた。
〈まもなく向こう正面へと入ってまいります、ナリタトップロード、後方ながら早くも外へ持ち出したか、残り1000mを通過!エアシャカールもまたじわっと距離を詰めていく!その後ろにゼンノロブロイの姿もあります、現在後ろから3番手、4番手といったところ。アグネスデジタルも中団やや後ろに姿があります!さぁ3コーナーのカーブを目指していきますが、ゴーステディがレース全体を引っ張る形が続いております!〉
〈デジタルくん!実に2年ぶりの秋天、楽しんでいるかい!あの時のキミの差しを、再び見せてくれるだろう!〉
〈オペラオー君にとっては因縁の相手、やっぱり勝利争いには確実に食い込んできますね!〉
鷹木も覚えている、2年前の秋の天皇賞、まさにあの時担当していたテイエムオペラオーを差しきったレースでは、アグネスデジタルは後方から一気に上がってきて、そしてオペラオーを差しきったのだ。
今回もまたデジタルは前から10番手辺りにつけていた。が、今年の天皇賞はますますもって後方待機ウマ娘にも強豪が多い。
「ネオユニヴァースがそろそろ動き出したか?いや、まだバ群の中か……いやいや、ユニヴァースならどんな狭い隙間からも駆けあがってくる、ちょっと待て、トップロードが早くも大外で加速を始めてるぞ!」
先ほどスペシャルウィークが言った通り、特定のウマ娘にだけ注目していては、他に注意を払うべきウマ娘に視線が向けられない。まさに、目が足りないという表現がぴったりな状況であった。
観戦スタンドから見ている分でもそうなのだから、実際に走りながら状況把握、位置取りの調整にまで神経を使わねばならないタキオンの頭脳は、その脚に負けず劣らずフル回転し続けていただろう。
しかし、彼女の前を走っているブレイクタイム、そして外側を回っているイブキガバメントが動かぬ限り、タキオンは前へと抜け出せない状況に変わりはない。
〈3コーナーを回っていきます、さぁ各ウマ娘どこで仕掛ける、残り600を通過!先頭は変わらずゴーステディでありますが、集団全体が徐々に詰まってきた!ナリタトップロードは早くも大外から上がっていく形、ゼンノロブロイもまた加速を開始した!3コーナーから4コーナーへ、エアシャカールが最後方から前を目指す、そしてアドマイヤベガも中団を外に出た、ネオユニヴァースと並んでいる!アグネスタキオンはまだバ群の中だ!残り400!〉
〈まだ勝敗は決していないとも!焦れずに勝機を!〉
〈トップロードちゃん、流石の安定感です!確実に前に行けますよ!他の皆は追いつけるんでしょうか!〉
スペシャルウィークが真っ先に注目したナリタトップロードは、やはり経験と能力を高いレベルで兼ね備えていた。
覇王世代と呼ばれた面々の中でも、安定した戦績を積み上げ続けていたトップロード。今回も作戦を崩すことなく、十分なスタミナ量、そして前を塞がれぬ進路取りで着実に駆けあがっていく。
「タキオン……!ここは少し下げてでも外へと出るべきか?いや、さすがにタキオンでも、それは追いつかない!」
もはや4コーナーも後半、最終直線は目前である。中山レース場の直線は、293m。
ただでさえ、歴戦錬磨のベテランウマ娘と競っている中、ここでコース取りのために速度を緩めている余裕などない。
鷹木の判断できることなど、タキオンの中では十分に想定の内であった。すなわち、タキオンは一切脚を緩めることなく、前と外を塞がれた状態のまま、最終直線へと入っていったのである。
〈先頭ゴーステディと完全に並んでテイエムオーシャン、外はイブキガバメント!ネオユニヴァースもほとんど並んで先頭争いだ、間もなく直線へと向きます!大外からナリタトップロード!大外からナリタトップロード上がってきて先頭か!そのウチ側に並んでゼンノロブロイ!残り200m!アドマイヤベガ、エアシャカールも外を突いてぐんぐん上がってくる!アグネスタキオンは……抜けた!抜け出た!集団の隙間を突いて、今抜け出した!!〉
〈素晴らしい観察眼だよ!そうさ、皆がゴールを目指す時にこそ、道は開かれる!!〉
〈わぁっ、来ますよ!これ凄い末脚で来ますよ!!〉
オペラオーの賞賛は、自身の走りも想起しつつの内容だったのだろう。
毎度ほぼ先行の位置、人気度ゆえにマークされやすいオペラオーが、ゴール前に集団から抜け出して前を目指せたのは、最終直線では全てのウマ娘がどうしようもなく先を目指して走らずにいられないためであった。
GⅠという大舞台に出走してこそ、得られる感覚。レースウマ娘である以上、強者と競いたい、その思いが1番人気のウマ娘にもゴールへの道を開けさせるのかもしれない。
「タキオン!!本気で行け!!!問題ない!!」
鷹木は、半年前には絶対に口にしなかっただろう言葉を叫んでいた。
むろん幾万人もの大歓声の中で、それはかき消されただろうが、タキオンは鷹木の叫んだのとほぼ時を同じくして、箍が外れたように猛然と芝を蹴立て、前を目指し始めた。
既に駆けあがっていたナリタトップロード、そしてゼンノロブロイは後方との間合いを開きつつあったが、十分に捉えられる圏内であると、タキオンが抜け出した際には全ての観客が理解した。
当のタキオンは……自分の、ウマ娘としての限界を見る事が叶うことの意味を、その時ようやく思い出していた。
(弥生賞にて本気で走り、限界に近付いたときは、その先の皐月賞での運命が見えたんだがねぇ。)
視覚的には、タキオンの目の前には天皇賞の決勝ラインがもちろん引かれている。
だが、ウマ娘の限界、走り抜いた先の運命が、今年の弥生賞の時と同じように予見されることはなかった。
強いて表現するならば真っ暗、先は見えぬままであった。そして、それこそが本来あるべきウマ娘レースであった。未来のレースの結果は、誰にも分からない。
タキオンは心細さを感じなかった。
(あぁ、トレーナーくん。可能性世界からの乖離、何らの問題はない。この世界は、私たちが選んだ歴史を刻むのだからねぇ。)
今まさにゼンノロブロイが自分の隣にいるし、ナリタトップロードも、ネオユニヴァースも、アドマイヤベガも、エアシャカールも、アグネスデジタルも……ここに参戦しているウマ娘ばかりではない、このレースを観戦している全ての存在が、大歓声を以て存在感を全霊で放っていたのだから。
〈大外をナリタトップロード!並んでゼンノロブロイが競り合っているが、ウチからアグネスタキオン!駆け上がってきたのはタキオン!残り100!タキオンだタキオンだ!!アグネスタキオンの末脚だ!ゼンノロブロイを交わして、今一着でアグネスタキオンがゴールイン!!勝ったのはアグネスタキオン、クラシック級から天皇賞の盾を獲りました!前年度のクラシック級からの覇者、ゼンノロブロイと最後、激戦を繰り広げました!〉
〈メラヴィリォーゾ!レースの神はボクらを待っている、結果をいかに定めたのか聞くためにね!何と神聖な権利だろう、この栄光を高らかに讃えられるというのは!〉
〈こんなレースを見られる日が来るだなんて、すごい……だって、2年連続、クラシック級からの勝者ですよ!〉
オペラオーもスペシャルウィークも、感極まったような声を実況席から響かせている。
前年度の秋シニア三冠達成ウマ娘であるロブロイをタキオンが差しきったことも、次元の違う末脚を発揮したタキオンと最後までロブロイが競り合ったことも、等しく場内の観客たちを熱狂の渦へと叩きこんでいた。
一方で、アグネスタキオンは胸中静かなまま、減速し終えて振り返った。すぐ傍に居たゼンノロブロイの顔が視界に入り、続いてゴールしてきていたウマ娘たちの姿が、確かに現実として視認される。
自分が特異点となったという実感よりも、可能性世界に収まらぬ新たなウマ娘レースの歴史が、消されることのない事実となったことに、タキオンは思いのほか強い安堵を感じたのだろう。
ゼンノロブロイは瞳の中に滾っていた闘争心を収めた後、小さく笑みながらタキオンの頬を勝負服の袖で拭ってやった。
「凄い末脚、でした……。おめでとうございます、タキオンさん……ふふ、タキオンさんも、泣くこと、あるんですね。」
「え゛……おや、これは……すまないね。」
自分自身の頬が、我知らずしっかりと涙で濡れていることに、タキオンは自らの手で顔に触れて初めて気づいたのであった。