「讃えるべきですッ!!」
「なっ、何の話だ……!?」
鷹木は、スマホの受話口から突き刺すような声量と鋭さで流れ込んできたアグネスデジタルの言葉を前に、混乱と困惑を味わっていた。
彼が居たのはトレセン学園の医務室であったが、自分自身が声を低めてもスマホから漏れだすデジタルの声は抑えられない。静けさを保つべき部屋から、鷹木は一旦廊下へと出て会話を続ける。
例によって、興奮度が極限まで高まれども切り替えの早いアグネスデジタルは、自ずから冷静さを取り戻して言葉を継いでいた。
「唐突なお電話にて失礼いたしました、ですが鷹木トレーナー!あなたのことですから、今ごろはレース直後のタキオンさんの検査結果とにらめっこして、今後のトレーニングメニューのことばかりを考えているのではないかと、不肖デジたん、勝手ながら憶測させていただく次第でして!」
「……うん、その通り、だな……。」
通話越しのアグネスデジタルから自分の現状を的確に言い当てられた鷹木は、たった今、医務室の扉を後ろ手に閉めたばかりであった。
先日の天皇賞秋、タキオンに対して本気で走るよう指示し、その結果タキオンが一着にて勝利したのは良かったものの、生来の小心者たる性質ゆえ鷹木はほどなくして猛烈な不安に襲われた。
後先構わず形振り考えず、全速力で駆け抜けたタキオン。脚に掛かったと思われる過大な負荷が、長期休養の原因となった故障を再発させてはいないか。
そんな鷹木が、地下バ道から戻ってくる頃には既に平然たる表情を取り戻していたタキオンを、同行していた校医の元へ連れて行き簡易検査を受けさせ、ウイニングライブ後トレセン学園に戻って来てすぐさまに精密検査へと向かわせたのは言うまでもない。
そして今日、早朝からトレセン学園医務室へと押しかけ、夜勤のスタッフが入れ替わるのと時を同じくして鷹木は検査結果を受け取り、その場で結果の印刷された書類を穴が開くほど見つめていたのだ。
結果的には何らの問題は無かったが、どれだけ凝視しても些細な異変を見逃してしまうような気がして、若干迷惑そうな校医からの視線にも気づかず、デジタルからの通話が掛かってくるまで鷹木はその場に立ち尽くしていた。
「専属担当として心配な気持ちも分かりますが鷹木トレーナー!ちゃんとタキオンさんを褒めましたか?“おめでとう”の言葉をタキオンさんに伝えましたか!」
「そ、そりゃもちろん、言った……うん、言った、よな、確か……言ったっけ……?」
再び熱を帯び始めたデジタルの声を前にして、鷹木は見事なまでのしどろもどろな返答を口にしていた。
おぼろげな記憶の中で、流石に控室前でタキオンを出迎えた時には「おめでとう」と告げた気がする。開口一番、検査を受けろと命じたはずはない……詳細に記憶を蘇らせようとすればするほど、確証が無くなっていくのもまた事実ではあったが。
間違いなく、レース直後の鷹木はタキオンの脚が無事かどうか、そればかりを気にしていた。
引退の危機を乗り越え、自らのレースウマ娘としての新たな運命を切り拓き、天皇賞秋という最高の舞台で復活劇を披露して戻ってきたタキオン。
確かに彼女とて大袈裟に喜んだり舞い上がったりする振る舞いを見せぬウマ娘であった。が、それにもまして担当トレーナーたる鷹木が、喜ばしさを顔に表しておらず、不安の色ばかりを浮かべている様を、タキオンはどう受け取っただろう?
鷹木は、自分がとんでもない過ちに今の今まで気づいていなかったのでは、と蒼ざめ始めた。デジタルの方は、鷹木が歯切れ悪い返答をすることなど想定済みのようであった。
「鷹木トレーナー!まだ遅くありません!私も協力しますので、タキオンさんの祝勝パーティーを開催しましょう!ポッケちゃんが日本ダービーを勝った時のように!それから、そう!カフェちゃんが菊花賞を勝ったのも、一緒にお祝いしないと!あの時はキングヘイロートレーナーにお声がけしましたが、今回はタキオンさんの担当トレーナーたる、あなたが為すべきです!」
「確かに、そうだな……あれだけ頑張ったのに、担当トレーナーが称賛の一言も口にしないままだなんて、良いわけがないよな……タキオン、今ごろどう思ってるんだ……。」
「タキオンさんなら今朝早く、霧が出たのを良いことに日の出の光に自分の影を映して『ブロッケン現象だねぇ!』とはしゃいでおられました!まだ間に合う様子ですよ!」
「そうか。いや、急がないとな。さっそくスケジュールを詰めよう。」
「はぇ?急ぐん、ですか?いえ、もちろん、早いに越したことはありません、私も提言者として出来る限りの手を尽くしますよ!」
アグネスタキオンが実験めいたことをしてはしゃいでいる姿は、一見いつも通りの振る舞いであり、タキオンとして平静の精神状態が保たれているように見えるだろう。
が、彼女のトレーナーとしてそろそろ丸2年が経とうとしている鷹木には、タキオンが僅かながらの失意を抱いていることが十全に読み取れた。
当たり前だが、アグネスタキオンはトレーナーから褒めてもらうことを期待するウマ娘ではない。いや、正確には“褒めてもらうことを期待していない”振る舞いにこそ自分らしさを見出している、と称した方が正確である。
アグネスタキオンが今朝早くから真っ先に練習場に来ず、すなわち鷹木に会いに向かわず、自称科学者ウマ娘としての振る舞いを優先している様は、自分の関心事はレース結果になど向いていない、と殊更に、かつ自他ともにアピールする振る舞いに相違ない。
すなわち、実行動は本心の裏返しである。天皇賞での勝利について、鷹木がさほど嬉しそうにしていなかった振る舞いから意識的に目を背けずにいられない精神状況に、今のタキオンは陥っているのだ。
タキオンのことを最も良く知る担当トレーナーであればこそ、鷹木は己の振る舞いを強く恥じた。
「アグネスデジタルは、参加してくれそうなウマ娘に声をかけてもらえないか?おそらく、皆、天皇賞に出走した疲労を癒すため、今日はさほど根を詰めたトレーニングは予定していないはずだ。何時ごろからであれば集まれるか、確認も頼んでいいだろうか。」
「もちろん!催し事への招待ならばお任せを!……しかし、ということはパーティー会場の確保や設営は、鷹木トレーナーにお任せすることとなるんですねぇ?……でき、ますか?」
今度はアグネスデジタルの方が不安げな声色を発することとなったが、それも無理はない。
皆が集まれる会場の確保ならば、いつも通りにトレセン学園内の会議室が妥当だろう、トレーナーの立場ならば学園に使用許可申請もスムーズに通る。学園の外は、今や『復活のアグネスタキオン、秋の天皇賞を制覇』というスクープに湧いている世間の目を逃れられるはずもない。
しかし、その殺風景な会議室を、パーティー会場らしい華やかさで飾り付ける手腕については、甚だ信用ならぬのが鷹木という人間であった。
「……あぁ、出来る。これまでだって、祝勝会を開いた時の様子は幾度か見てきたんだ。それを真似すれば、いけるだろう。」
「若干嫌な予感はしますが、デジたんが口出ししてる余裕はたぶんないので、お任せします!」
通話終了から数分後、アグネスデジタルから祝勝会開催の旨を伝え聞いたキングヘイローが、ジャングルポケットとのレース後調整トレーニングをほどほどにして切り上げ、鷹木の元へ急行する羽目になったのは言うまでもない。
……一方、当のアグネスタキオンは、練習場とトレーナー寮を繋ぐ階段を上り切ったところ、その隅にて独り、膝を抱えて座り込んでいた。
既に他のウマ娘たちが練習を始める時刻を過ぎてもなお、彼女は練習場へ向かう気が起きていなかった。
いつも余裕めいた笑みを浮かべている彼女にしては、珍しく真顔のまま、伏し目がちな視線を泳がせて静かに座り続けていた。
傍から見れば、まさに先日の天皇賞で勝利したにもかかわらず、担当トレーナーから賞賛の言葉を貰えなかったことについて落ち込んでいるようにも見える姿である。
だがタキオンの内心を占めているのはそんな得られなかった賞賛を惜しむ思いではなく……いや、ほんの少しだけ無くはなかったが……天皇賞での勝利という大きすぎる栄光を、さらに包み込むほどに大きな漠然とした不安であった。
「……先行きが見えないのは、可能性が閉じていない証だと感じたんだがねぇ……。」
彼女の脳裏に幾度も去来するのは、天皇賞でのゴール直前、全身全霊を以て走り、ウマ娘としての限界に限りなく近づいた際に目の当たりにした光景である。
今年の3月、弥生賞にて本気の走りを実現した時、見えたのは近い将来に実現する自分の姿。すなわち、皐月賞で勝利し、その後、脚の故障のため引退するアグネスタキオン自身の運命であった。
一方、先日の天皇賞では、ウマ娘としての限界、自らが辿り得る可能性をいくら覗き見ようとしても、先行きは真っ暗なままであった。
「いや、それで良いはずなんだ、それでこそ本来の未来であり可能性だ、将来のレース結果など、誰にも分からないはずだからねぇ。」
自らに言い聞かせるように、タキオンは座り込んで抱えた膝の上で、ボソボソと唇を動かして言葉を空中に散逸させていた。
既に各ウマ娘がたどる運命が決められてなどいない、未来に何が起こるかなど予見できるはずもない、個々の意思が将来への道を切り拓くことこそ、あるべき世界の姿。
だが実際に、未来への道が真っ暗な闇に閉ざされている様を前にして、思いの外たじろいでしまった自分が居る事に、タキオンは今さらながらに気づいていた。
「これまで当たり前のことだったのかもしれないねぇ、心の底では安堵を覚えていたのかもしれないねぇ……自分の命運が、既に別の世界において定められているということに。」
もはや自分自身の中でも賛同を得られない仮説や憶測の山は、誰に対して公開することもなしに、タキオンの内面で急速に色あせていくようでもあった。
心配事の種は、他にもある。今年に入ってタキオンは、たびたびウマ娘レース中の声援が想定より小さく聞こえる実感を得ていた。時には、それが実況中継を放映する側の機器の都合かとも思われたのだが……。
「実際に私が先日走った天皇賞では、間違いなく、例年より声援が小さかったねぇ……ばかりか、観戦スタンドに空席があるように見える瞬間もあったねぇ。」
むろん、ゴールする際の大声援、それこそ集団を抜けだしたゼンノロブロイとアグネスタキオンが一騎打ちのごとく競り合っている時は、去年にも負けず劣らず大熱狂の渦中となっている。
ゴールした後のタキオンがしっかりと客席の方を確認しても、空席などあるはずもない。天皇賞という一大イベント、観戦チケットの競争率は尋常ではない。
レース中によそ見している暇など無論なかったが、視界の端に時おりはいりこむ観客席の光景は、それでも人が少なく見え、耳に飛び込んでくる声援は小さくなっているように聞こえていた。あくまで、客観的には証明できない現象、タキオンが得た錯覚に過ぎないのだろうが。
「万が一、可能性世界での定めを離れたがため、我々ウマ娘の居る現実世界の実在が薄れつつあるというのならば、手を拱いているうちに、この世が消滅する危機にさらされるのではあるまいか……?」
それは余りに突拍子もない推測であったために、誰に対して力説するわけにもいかない内容であった。タキオンの内部で抱え込むほかにない懸念であった。
途方もない思考の宇宙へと旅立っていたタキオンが、足音を忍ばせもせず傍らに来ていたシャカールに気づかなかったのも無理はない。
「おい、しけたツラしてんじゃねェ。天皇賞に勝った奴の顔かよ、それが。」
「……おや!シャカール先輩じゃないか、私の天皇賞での勝利はParcaeに予測されていたかねぇ?」
「してねーよ、そもそもオレだって勝つつもりで走ったンだからよ。」
天皇賞秋、タキオンとロブロイが一着争いをしていた後方で、シャカールは大外をアドマイヤベガと共に駆けあがっていくところであった。
結局、三着となったネオユニヴァース、四着のナリタトップロードに次ぐ、五着へと食い込んだのがエアシャカールだったが、勝利者たるタキオンが翌日早々から塞ぎこんでいる様子を示しているのを見咎めずにいられるはずがない。
シャカールと違って天皇賞に出走したワケではなかったが、同様の想いを抱いているウマ娘がもう一名、既にタキオンのすぐ背後に迫っていた。
「タキオン、てめぇ、勝ったくせに、ちっとも嬉しくもなさそうじゃねーか。こっちはお前に勝つために、必死で足掻いてる真っ最中だってのによ。」
「ほう!これはこれは、菊花賞では二着のマイネルデスポット君と三着のエアエミネム君に次ぐ、四着だったジャングルポケット君じゃないか!キミにしてはずいぶん健闘した結果じゃないかねぇ、なにせ長距離戦でのカフェだ、多少足掻いた程度で捉えられる相手ではあるまいよ。」
「コイツ、俺が相手と見りゃ、途端にベラベラ喋り出しやがって!おい、立ちやがれ!」
確かにタキオンは、言葉を惜しまず煽れる相手、ジャングルポケットの姿を見た途端に元気を取りもどしたようであった。
それに……ジャングルポケットは実際に多少腹を立てていた部分もあったろうが、手荒くタキオンの両脇を抱えて無理やり立ち上がらせる際、多少なりと気遣いをその振る舞いに覗かせていた。
何といっても、タキオンが座っているのは練習場へと繋がる階段の一番上である。
まかり間違って、タキオンを転倒させ、階段から転げ落とすようなことがあってはならない……と、しっかり相手の身体を保持した状態で、ジャングルポケットはタキオンの身体を引っ張り上げたのだ。
口調の上では威勢の良さを削がぬよう、いつも通りに過剰な声量でポッケはまくしたてていた。
「ついて来やがれ!お前みたいに舐め腐った態度を取る奴には、いっぺん焼き入れてやらなきゃ気が済まねぇ!」
「おやおや、怖いねぇ。」
「あァ?余裕ぶってんじゃねェよ。」
ジャングルポケットに引きずられ、シャカールに睨まれながら連行されていくタキオンの姿は、遠巻きにした周囲のウマ娘たちから恐々と、同時にどこか納得するような思いも含めて見つめられていた。
既に、タキオンの内心ではジャングルポケットもエアシャカールも演技をしているのが丸分かりであったが。セリフが途切れてしまうと、次に何を喋るべきか考える時間を要している様は明白だったのだ。
「私への意趣返しかい?ほら、ダービーでポッケ君が勝った時も、似たようなことを私がやったねぇ……。」
「なっ、何の話してんだか分かんねーな!」
「おや?あれはカフェくんかな?」
タキオンが連れていかれる先は学園の会議室が並ぶ棟であったが、ちょうど同じ方向に向かっていく一団の中にマンハッタンカフェの姿があった。
そちらでもドッキリめいたことをしているらしく、カフェはアイマスクをつけて目隠しした状態で、ダンツフレーム、ナリタトップロード、アドマイヤベガといった面々に囲まれ、優しく手を引っ張られてエスコートされていた。
エアシャカールとジャングルポケットという、威圧感のある顔ぶれに挟まれている自らの現状を見回してからタキオンは口を尖らせる。
「……なんだか、カフェの方は随分と暖かく優しげな雰囲気じゃないかい?私の方は妙に刺々しいのに……不公平だねぇ。」
「普段の行いの違いだ、ガタガタ言うんならこのまま校舎一周してやろうか。」
「あいたた、あんまり腕を捩じり上げないでもらえると助かるねぇ!」
カフェがエスコートされ、タキオンが連行される形で向かった先には、既にパーティー用の飾りつけが済んだ会議室があった。
やはり鷹木の手腕では飾りつけに無理があったのだろう、額に汗を浮かべて多少息を切らしているキングヘイローが、ちょうど飲み物用のコップを並べ終えたところでクルリと向き直り、大きな拍手で参加者たちを出迎えていた。
「今回の主役の入場よ!皆、盛大に拍手!マンハッタンカフェさん、菊花賞の勝利おめでとう!そして天皇賞一着おめでとう、アグネスタキオンさん!さぁ、皆……ゼェ、ハァ……エッホ……めいめい、席について……」
「無理をさせて済まない、キングヘイロー、ここからは俺が引き継ぐ。」
鷹木は前に出て、今しがた部屋へと入ってきたタキオンの目の前まで向かう。
既にジャングルポケットはタキオンの腕から手を離していたが、タキオンが鷹木と向かい合うのを躊躇う様子を少しでも見せればすぐに拘束する、とばかりに背後で構えていた。
そのような心配の必要もなく、タキオンは鷹木の顔を真っすぐに見て、彼が言葉を発するのを待っていたが。
「……タキオン、おめでとう。天皇賞、よく頑張ったな……って、言うのは二度目、かもしれないが……。」
「いや初めてだねぇ。そもそもトレーナくん、私がレース場から戻ってくるなり、開口一番『脚の検査を受けろ』としか言ってくれなかったからねぇ。」
「あっ……やっぱ、そうだったか……。」
必死過ぎた状況で曖昧になっていた鷹木の記憶だったが、やはりタキオンは天皇賞を走り終えた直後のことを、しっかり覚えていたらしい。
我慢して見ていられなかったのか、鷹木トレーナーの襟首に掴みかかったのはジャングルポケットである。
「ンだと!?鷹木トレーナーてめぇ、ちっとはタキオンの走りをねぎらいやがれってんだ!コイツがどんだけスゲェ走りしたか、分かってんのか!」
「いっ!?いや、その、やっぱり、脚の心配のほうが、どうしても勝ってしまう、っていうか……はっ、離して……!」
そのまま悪口雑言を浴びせられながらブンブンと顔を振られつつも言い訳めいた言葉を発している鷹木を前に、タキオンは思わず吹き出し、そして笑い出していた。
皐月賞後の引退の危機を乗り越えて以来、鷹木とともに不安な時期を歩み抜いて以降……初めてタキオンは心の底から笑えていた。