オールカマーでの現役復帰、そして天皇賞で完全復活を遂げたアグネスタキオンに、ジャパンカップへの出走を決定した鷹木。
それ以降、鷹木はタキオンのトレーニングにおいて直線コースでの走りを重点的に行うようになった。当然ながら、東京レース場がジャパンカップの舞台であるのが主要因だというのは言うまでもない。
「コーナー時の位置取り、速度調整についてはタキオン、お前は充分な能力を有している。いや、お前に任せた方がいい、と言った方が正確か。」
「当然だとも、トレーナーくんから余計なことを言われないほうが、私も最良の選択を採れるだろうからねぇ。事前に客観的な評価を求めるのは、やはり直線にて、ジャングルポケット君に競り勝てるか否か、だねぇ。」
練習をひと段落させてクールダウン中のタキオンを傍らに、鷹木は今しがたの走りのデータをPC画面上で整理している。
彼が想定し、警戒している相手を、ごく自然にタキオンも把握していた。
それは不思議な事だった、当たり前だがジャパンカップに出走予定のウマ娘の中でも、警戒すべき存在はジャングルポケットだけではないのだ。
ナリタトップロード、アドマイヤベガ、ゼンノロブロイ、そしてネオユニヴァース……と、シニア級以上の先輩ウマ娘、それも現状のウマ娘レースにおけるトップクラスの実力者ばかりがジャパンカップには集結する。
それでもなお、今回のジャパンカップで事前に対策し、そして警戒しておかねばならない相手として、ジャングルポケットを鷹木もタキオンも共に想定していたのである。
「夏の札幌記念以降、勝ちきれないレースが続いているジャングルポケットだが、東京レース場でこそ本領発揮できるとばかりに気合いの入れようも違うはずだ。彼女を指導しているキングヘイローもまた、同じ思いだろう。」
「負けが重なったうえで勝ちを獲りに来る、という状況を鑑みても間違いなく本気になっているだろうねぇ。話はさておき、そろそろデータ整理は終わったかい?どうだろう、直線で私にポッケくんは勝てるだろうかねぇ?」
自分が勝てるか、ではなく、相手が自分に勝てるか、と問うてくる辺りは実にタキオンらしい自信のあらわれであった。
そう問われても、鷹木が即答できるわけではない。ジャングルポケットの走りのデータについては、菊花賞の映像から得られるものが最新であったが、そもそも距離を始めとするコース条件が違いすぎ、ジャングルポケットも本領発揮できている走りではない。
「菊花賞の時は決してスタミナ配分をミスしてはいなかったが、いわばポッケ君の限度だったかねぇ。3000mを走り切る想定では、存分に速度を出しきる末脚は発揮できまい。」
「札幌記念での走りも、周囲からマークされ続けた結果、それなりにスタミナを削られての走りになったからな……そうなれば、やはりコース条件が同じ、日本ダービーでの走りを参考にするしかない。確実に現在の方が能力が上がっている想定も込みで……。」
既存のデータは半年前、もはや古すぎるため修正して比較に用いるしかない。とは言っても、エアシャカールが開発したParcaeのように画面上で明確な結果を出せるわけでもない。
あくまでも、画面上に並んだ数値を睨みながら、鷹木の脳内にて、トレーナーとしての感覚で評価するしかなかった。それでも、鷹木なりに実際のレース時のビジョンはイメージできていた。
「当たり前だが、ジャングルポケットとほぼ同じタイミングで競い始めてもこちらの不利だ。さすがに東京レース場の直線での末脚、ジャングルポケットにまさる者は居ない。」
「分かり切ったことだねぇ。やはりポッケ君が未だに克服しきれていない、コーナー時の位置取りと速度維持の点でこちらが先んじるしかなさそうだねぇ。トレーナーくんは、どの程度先行しておくべきと見るかな?」
「……かなりの間合い、だな。具体的には、最終コーナーを回り切るころには先頭に立っておくほどに。」
直線での加速では随一の能力を誇る代わりに、コーナー攻略においてはさほど競り合えないジャングルポケットの弱点は、札幌記念での走りにおいても如実に表れていた。
ゆえに、最終コーナーまでに、捉えきれないほどのリードを確保しておくという策に辿り着くのは至極当然であったが……その程を鷹木から聞かされたタキオンは、ここに来て初めて表情を変えた。
笑顔には違いなかったが、眉を大きく引き上げて、小さな興奮も伴う笑みであった。
「いつものことだから、小心なトレーナーくんが過大に警戒した結果だとも感じるがねぇ、しかし大袈裟な話だとも言い切れないねぇ。そうか、最終直線の入り口で先頭に立っておかねばならないほどに、か。」
「あぁ、ジャングルポケットは当然、日本ダービーの時よりも更に能力を引き上げているだろうし、これ以上の連敗を続けまいとの気合いも段違いに強まっているだろう。途轍もない追い上げで迫ってくることは、覚悟しておくべきだ。」
「むろん、ポッケ君への対策とあらば私も実行するが、問題は体よく先頭まで抜け出せるか、だねぇ。」
前述の通り、ジャパンカップに出走するウマ娘はベテラン勢揃いである。
そして、先月、秋の天皇賞における勝利を見せつけ世間を沸き立たせたタキオンは……人気順も、下の方に埋もれることは無いだろう。1番人気となる可能性は十分にあり、競争相手からのマークが集中することはほぼ必然である。
位置取り争いが激しくなる先行の位置から、レースの経験豊富な先輩ウマ娘たちを出し抜いて先頭へ躍り出て、さらに最終直線で迫ってくるジャングルポケットに差しきらせずゴールする。
かなりの難度となる作戦を指示することになる実感を、鷹木は痛いほどに抱いていた。それも、タキオンはまだトレセン学園2年目、クラシック級のウマ娘なのだ。
「無理はするんじゃないぞ、せっかく引退の危機を乗り越えてここまで来たんだ。前方をブロックされて抜け出せないなら、直線向いたときにバラける辺りで前を目指す形でも構わない。」
「だが、それではポッケ君との本気の勝負にはならない、ということだろう?向こうも、私の本気と競い合いたいと願っているだろうからねぇ。ウマ娘レースの歴史に名勝負を刻み、特異点を自らの手で創るためにも、可能な限り実現したい作戦だねぇ。」
「……タキオン、お前なら、下手な焦りは見せないと、俺は信じているからな。」
アグネスタキオンの目の中に、止められようもない競走への渇望が湧き出ている様をありありと見つめつつ、鷹木は言葉を補うのみであった。
皐月賞を走る前の時期ならば、タキオンに本気を出させぬよう指示する結論に至ることが出来た。それは、十分にタキオンの能力であれば勝てる相手だと見切ることあっての判断である。
タキオンの脚を大事に庇い、検査を重ね、怪我や故障から遠ざけ続けてレースに復帰させれば当然……本気で走らねば勝てないレースは、いずれ訪れる。
それは先月の天皇賞でも同様ではあったが、ジャパンカップではなおのこと、ジャングルポケットという同期のライバル相手に、タキオンが常に似合わぬ闘志を滾らせることだろう。
いよいよもって、タキオンが本気で走りたいという思いを募らせるレースであり、今度こそ、鷹木は彼女を止めるわけにはいかなかった。
「さて、そろそろじゃないかねぇ、私は今日のマイルチャンピオンシップ観戦が楽しみで仕方がなかったんだ、サッサと視聴環境を準備してくれたまえトレーナーくん。」
鷹木の顔色が多少翳ったのをタキオンも見てとったのか、声色を切り替えて別な話題を告げる。
一方の鷹木はと言えば、脳内がジャパンカップでの作戦とタキオンへの心配でいっぱいになっていたためか、何の話を持ち掛けられたのか、ポカンとした顔を示した。
「えっと……今日のマイルチャンピオンシップ?誰が出るんだったっけか……。」
「おやおや、ジャングルポケット君に居並ぶ我が最大のライバルかつ良き友、ダンツフレーム君の出走を知らないのかい?先日彼女自身が私の元を訪れて話をしたんだ、見逃すわけにはいかないねぇ。」
完全に自分の担当ウマ娘の出走レース以外は眼中になかった鷹木であるが、珍しく義理堅いことを言うタキオンの話を耳にして、慌ててキーボードを叩き中継配信のページを開いた。
画面内では既にパドックでの紹介は終わり、出走ウマ娘たちがゲートインに向かう頃である。
「ふむ、ダンツ君は5番人気だねぇ。ダイタクリーヴァ1番人気、エイシンプレストン2番人気、この辺りは手堅い評価といったところかねぇ。そして……ゼンノエルシドくんは4番人気か、もっと注目されていても良さそうなものだがねぇ。」
「あぁ、確か今年の時点での芝1600mのレコード保持者だよな、ゼンノエルシドは。まぁ、デビュー戦の時、出走前にウマ娘たちへ舐めまわすような視線を向ける様が有名になったりもしたが。」
「さすがにトレーナーくんともなれば、レコード保持者のことは知っているねぇ。丁度今、地下バ道から出てきたあの子だ、確かに並みのウマ娘ではない雰囲気を纏っているねぇ。」
中継のカメラマンも、4番人気とはいえ世間的な注目度を意識してフレームに入れるウマ娘を選んでいるのだろう。
ゲートインに向けて地下バ道から出てきたウマ娘たちの中、真っ先にゼンノエルシドを捉えて画面の中央に映し出していた。
濃い青鹿毛の髪と、紳士服のようにピシリと締まったシルエットの勝負服、そして何よりも悠然と競争相手達を見回す落ち着き払った顔立ちが印象的なウマ娘であった。その独特な、いわば好色な目つきはどうにか鳴りを潜めている、といった雰囲気でもあった。
タキオンは暫く、画面を食い入るように見つめていた。ゼンノエルシドからさほど離れていない所に肉付きの良いダンツフレームの姿はあったが……今回は、ゼンノエルシドが視線をじっとりと向けることは無いようだった。
「ふぅン、観客たちも多少期待していたかもしれないが、最近のゼンノエルシドくんはまさに貴族、紳士めいた振る舞いを心がけているようだねぇ。」
「そりゃあデビューから3年目ともなれば、同じような事ばかり繰り返してるわけにもいかないだろう。とはいえレース場にモチベーションの源があるのなら、戦績も上がる……アグネスデジタルの例もあるようにな。」
アグネスデジタルは分かりやすすぎる例であったが、鷹木の思考からはジャングルポケットの存在が離れぬままであった。
ある意味、夏以降のジャングルポケットが勝ちきれないでいたのは、自分が勝つべき相手としてアグネスタキオンの存在を強く意識に刻んでいたためではないか。レース本番、確かに強敵に囲まれはすれども、タキオンがそこには居なかった。
だが、今度のジャパンカップ、タキオンといよいよ再び競えるとなれば、ジャングルポケットが完全に能力を解放できる条件が整うことになる。
脚を壊すリスクを負ってまで無理に勝ちを狙わなくてもいい、とタキオンに言うべきか否か迷い続けていた鷹木であったが、その言葉は呑み込んでしまおうと今になって決断したのであった。
〈晴天に恵まれました本日のマイルチャンピオンシップ、京都レース場外回り、芝1600mのコースはバ場状態も良、絶好のレース日和であります。全ウマ娘、ゲートイン完了しまして……スタートしました!トロットスターがまず好スタートを見せまして、まずは向こう正面における先行争いです。まずは間を抜けてクリスザブレイヴが先頭へと行きました、すぐ外にゼンノエルシド並んでいます。1番人気ダイタクリーヴァはぐっと下げて後方から窺う展開であります。〉
京都レース場の外回りコースは、スタートから712mもの長大な直線がある。最初のコーナーに入るまでに上り坂はあるものの、先行争いはハイペースの走りの中で行われる。
ダンツフレームはいつもより前目につけようとしていたようであったが、それでも中団、前から8番手辺りでバ群に埋もれていた。
「さすがはゼンノエルシドくん、スタートから直線を駆け抜けていく走りのキレが良いねぇ!」
「ダンツは……かなり埋もれてしまったか。コーナーに入るまでに、良い位置をとれればいいが。」
マイル路線での走りは、その実況の早口が象徴的に示すように、かなり展開が早い。
やはり瞬発力勝負では分が悪いダンツフレームは、最終コーナーを回り切る前に極力上がっておきたいところであったが、現時点では厳しい状況に置かれていた。
〈先行集団に続きましてリキアイタイカン、ゴッドオブチャンス、そしてタイキトレジャーがほぼ横並びで3番手集団を形成、そのあとダンツフレームは最ウチ、トロットスターが外、さらに並んで2番人気エイシンプレストンは中団、その外にジョーテンブレーヴが行っております。あとはダービーレグノを間において、外からゴールドティアラ、ウチからビハインドザマスク、1000mを通過して各ウマ娘外回りコースの第3コーナーへと入っていきます。〉
一見、瞬発力に劣るダンツフレームをマイル路線に向かわせた結城トレーナーの判断は矛盾しているようであったが、むろん勝機はあった。
元より、ダンツフレームのように体格が大きめで肉付きの良いウマ娘は、短い距離に適性がある場合も多い。さらには距離の短さゆえに位置取り争いも激しくなりがちだが、体格の大きさはその点でも有利となる。
「先輩方の中に埋もれながら、下がっていくことがないのはダンツ君の強みだねぇ。自信なさげな言動もあったが、それでもなお動じない性格だからねぇ。」
「シニア級になっても、やっていけるだけの能力は間違いなくあるな。結城トレーナーはダンツをマイル路線へ転向させるのではなく、あくまで距離ごとにどこまで食い込めるか能力を見たいのかもしれない。」
ある意味、URAにおける存在感ゆえにGⅠクラスのレースへと担当ウマ娘を出走させられる結城トレーナーだからこそ可能な方針でもあったが……ダンツフレームの可能性を極力探れる人物としては適任であった。
コーナーを回りはじめるとますますウマ娘同士の間隔がつまり、プレッシャーに耐えかねた者は場所を譲るような形にもなるが、画面内のダンツは変わらず8番手あたりをキープし続けている。
〈クリスザブレイヴが全体のペースを作って引っ張っていきます、約1バ身半のリード。そしてゼンノエルシドが変わらず2番手、外からじわっとゴッドオブチャンスが上がっていきました、ここで早くも仕掛けたかゴッドオブチャンス。残り800を通過、連れてジョーテンブレーヴが4番手。エイシンプレストンも続く形で外へ持ち出しまして、ダンツフレームはそのウチ側でまだ動かない、坂を下って速度も上がりはじめました、残り600を通過。〉
確かに前に出られない状態とはいえ、ダンツフレームはコーナーの最ウチを走り続けていた。
位置を動くことも無く、スタミナの想定以上の消耗はない。もしも切れ味鋭く駆けあがっていけるウマ娘であれば、前方の進路さえ開ければ勝ち確定とも言えるペースであった。
「ダンツ君を応援したい思いもあるが……いやしかしエイシンプレストン先輩が良い位置につけているね!さすが、レースの経験値が最大限に活かされた走りだ、惚れ惚れするねぇ!」
「先頭に並び続けているゼンノエルシドも落ち着いたペース配分だな、後ろから上がってきたウマ娘に並びかけられても焦る様子がない。」
シニア級以上の先輩ウマ娘たちと競い合うのは、ダンツフレームにとって初めての経験である。
純粋な身体能力やスタミナ量のみならず、位置取りやペース配分が勝敗の少なからぬ要因となる様は、同年代のウマ娘たちとの競走ではなかなか味わえないだろう。
いや……タキオンやカフェなど、巧みな作戦を用いる面々と走った経験が、まだスタミナに余裕のあるダンツに焦燥を与えていたかもしれない。
既に4コーナーの出口が迫りつつある状況で、ダンツフレームは自身が勝ちからまだまだ遠い状況に陥っていることを自覚しているようであった。
〈残り400!各ウマ娘が4コーナーから直線へと向かいます、全ウマ娘横一線に広がった!ダンツフレーム率先して最ウチから前を目指しますが、集団間からゼンノエルシド!ゼンノエルシドが抜け出した!後方からエイシンプレストン、さらにはタイキトレジャー、ビハインドザマスクも上がってきます、残り200を通過!先頭は抜け出したゼンノエルシド!外からエイシンプレストンが追い詰める!外からエイシンプレストン!〉
コーナーを抜けきったところで、ようやく開いた前方へと全力で加速していくダンツフレーム。
しかし、加速での勝負は、やはり厳しかった。観客席の歓声を湧きたてたのは、エイシンプレストンの末脚、そして先頭に立ったゼンノエルシドの競り合いであった。
「これぞベテランのレースだねぇ!確実に先頭を捉える圏内から襲い掛かるとは!だがゼンノエルシドくん、まだまだ余力を残しているねぇ!」
「ダンツは……さすがに届かないか……!」
一時は先頭に並びかけたダンツフレームであったが、猛然と後方から迫りくる集団から逃げ延びるだけでも精一杯の様子であった。
競り合い続けるゼンノエルシド、そしてエイシンプレストンの両名は、更に互いに加速してぐんぐんと後方を突き放していく。同年代の中でもトップクラスの実力者に違いないダンツフレームに、シニア級の格の違いを見せつけるような速力であった。
〈先頭は変わらずゼンノエルシド!ゼンノエルシド!外からエイシンプレストンが上がってくるが、ゼンノエルシド突き放す!並ばせない!完全に集団からは抜け出した、エイシンプレストンが追い詰めるが、ゼンノエルシド、今一着でゴールイン!ゼンノエルシド先着です!スプリンターズステークスから復活!芝1600のレコード保持者、その実力を再び輝かせました!〉
青鹿毛の毛並みをなびかせて減速しつつ、必死の形相から汗を拭い去り、爽やかな笑顔を観客スタンドへと向けたゼンノエルシドは全身に喝采を浴びていた。
集団に殆ど埋もれる形で遅れてゴールしたダンツフレームは五着であった。
「いや、シニア級のウマ娘にまじって走り、それもGⅠで五着ともなれば、十分すぎるほどに強いと言えるのだがねぇ、ダンツ君。」
「同じくシニア級相手に走り天皇賞で勝利したお前や、ジャパンカップで勝利候補として挙げられるジャングルポケットと比べてしまうところはあるだろうな……さて、タキオン、もう練習に戻るぞ。こっちも気を抜いていられない。」
画面の中、肩で息をしながら表情を歪ませているダンツフレームから視線を逸らし、鷹木はタキオンに練習再開を促す。
ごく一握りの優駿ですら、実力差を前に涙をのまずにいられないのがウマ娘レースの世界である。
今のところ一度も敗れたことのないアグネスタキオンが、同じ顔をするところはちょっと想像し難かったが……それでも、いずれタキオンが負かされるレースは訪れるだろうとの予感はひしひしと近づいていた。