探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 ジャパンカップ当日。黄金世代も覇王世代も既に去った、このウマ娘レースを中心に回る世界が、再び大注目を浴びるレースを実施する日である。無敗の皐月賞ウマ娘、アグネスタキオン。そしてダービーウマ娘、ジャングルポケット。タキオンが秋以降の復活を果たしたことで、両者の直接対決は現実となった。ジャパンカップ前の練習、この世界では既に引退した先輩であるテイエムオペラオーから魂を引き継いだが如き状態となっていたタキオンは、今日という日、ジャングルポケットの全力を受け止めることが、すでに確定した事実であるかのように感じていた。


悪夢の続きを踏み拓け

 11月25日、ジャパンカップ。

 

 ジャングルポケットは、パドックにて湧き上がる歓声を背にスタスタと控室へと戻ってきていた。出走の枠番順に姿を見せるパドックにおいて、比較的ウチ側の枠が取れたジャングルポケットは姿を披露するのも早めであった。

 

 むろんファン達に対しては笑顔を見せたジャングルポケットだが、本心においては浮かれる余裕など無かった。いつになく高まる緊張感は、自分の背後で、自分よりも大きくアグネスタキオンに浴びせられる声援を聞くにつけても、ますます強まった。

 

 ひとたび完全に失われたかと思えた対決、もはや手の届かぬものと諦めかけた悲願。それがいよいよ目前に迫っていたのだから。

 

「……あァ゛!なにを今さらになって緊張してんだ、俺は!タキオンが来ることは先月からずっと意識して、タキオンに勝つ想定でずっと調整し続けてきたんだろうが!」

 

 握り締めた拳で控室の壁面を殴りかけ、すんでのところで留まるジャングルポケット。

 

 緊張感を紛らせようと力任せに壁を殴れば、ウマ娘の力なら自室と隣室を隔てる壁に穴が開く。レース場内の設備損壊、そして出走前の競争相手の様を覗き見る行為を重ねてしまうと、出走取消にもなりかねない。

 

 ジャングルポケットが拳をおろしながら振り向くと、椅子から腰を浮かしかけていたキングヘイローと目が合った。

 

 キングヘイローはあくまでも自傷に繋がりかねないジャングルポケットの行動を抑制するために立ち上がりかけていたのであり、彼女の表情には唐突に爆発しかけたジャングルポケットの感情に対しての狼狽えなどなかった。

 

「悪ぃ、キングヘイロートレーナー。レース前に騒ぎ起こすわけにゃいかねーよな。ここに来て、自信満々じゃいられねーだなんて、情けねぇ。」

 

「いえ、無理に押し込め続けるよりも、ここで吐き出してもらった方が、トレーナーとしてはずっと安心できるわ。」

 

 それは幾度負け続けても自信満々な振る舞いを続けていたキングヘイロー自身であればこそ、最大級の説得力を持たせて語れる言葉だった。

 

 中腰で椅子から立ち上がりかけていた姿勢から、すっくと背筋を伸ばして立ち、キングヘイローはジャングルポケットの目の前で、まっすぐ教え子の顔を見つめた。

 

「今からあなたが競うウマ娘は、易々と勝てる相手じゃない。それは勿論観客よりも、競走相手よりも、その担当トレーナーよりも、誰よりもあなた自身が強く意識していること。不安が生まれるのは当たり前、それを抱えたままターフの上に行かないで。私に話してもらえる?」

 

「……タキオンの背が、ずっと俺の先を走っていたのは皐月賞の一回きりだ……でも、何べんも見てんだよ、俺は。この東京レース場でも……日本ダービーの時だって、ゴール前の直線、先頭を走ってたのは俺じゃねぇ。」

 

 ジャングルポケットは、自分が伝えようとした内容が現実とは違うことに、実際に口に出してから気づいたようだった。

 

 だが、顔をあげた先にあるキングヘイローの表情には、訝しさの色など微塵もなかった。ジャングルポケットがこれまでずっと抱き続けてきた思いを、最も近くで見ていたトレーナーとして不思議がることなどなかった。

 

「実際は、俺が一着だったけどさ……俺のずっと前を、その場に居なかったはずのタキオンが走ってたのを、俺は見たんだ。どれだけ脚を動かしても追いつけねぇ、タキオンが……ずっと、ずっと前の方に……。」

 

「現実のタキオンさんが、その後も復帰に向けて走る様を、ずっと見せていたのは幸いだったわね。」

 

 キングヘイローの言葉に、俯きかけていたジャングルポケットは再び顔を上げる。

 

 そこには、夏以降の調子が出ない期間もずっと間近に居続けた、担当ウマ娘の精神的支柱たるべき専属トレーナー、キングヘイローの表情があった。今も努めて、彼女はいつもと同じ顔つきを続けていた。

 

「もしも、タキオンさんがレースに復帰する予定を一切示さず、練習する様も見せなければ、あなたが見たタキオンさんの背中は、今より更に、ずっとずっと遠くに見えたでしょうね。けれど、夏合宿の時も、タキオンさんは参加し、ジャングルポケットさんとの併走練習も二度行ったわ。」

 

「……あん時は、タキオンも本調子じゃなかったけどな。」

 

「けれども、少なくともGⅠクラスの走りは見せていた。同じく本調子じゃなかったジャングルポケットさんと並ぶ走りだったでしょう。」

 

「だな。あれから更に、走りを磨き続けたんだ。今日も絶対、俺はタキオンに並ぶところまではたどり着ける。」

 

 アグネスタキオンが確実にレースへと復帰する姿勢を見せ続け、再び競えることが明白であったからこそ、ジャングルポケットもたどり着くべき先を見据えてここまで来れた。

 

 ジャパンカップ本番直前というこのタイミングになって、突如ジャングルポケットの胸中に湧き起こっていた巨大な不安は、既に霧散していた。

 

 あるいは、アグネスタキオンがレースに復帰しなかった可能性世界でのジャパンカップを、ポッケもおぼろげながらに感じ取ったのかもしれないが。

 

「じゃ、行ってくるぜ。シニア級相手に勝てんのがタキオンだけじゃねぇってのを、見せつけてやる。」

 

「最高の走り、楽しみにして待たせてもらうわ。」

 

 発走時刻が近づいてくる中、一方のアグネスタキオンの側は何故か浮かぬ顔であった。

 

 いつも通り、そんな様子のを見てとった鷹木は、タキオンが本調子ではないのかと極端に心配しだしたが、当のタキオン自身が不満を抱いているのはレースとはあまり関係のない件に対してである。

 

「ふむ、いつも通りの私だねぇ。先日尋ねてきたオペラオー先輩から、力を託されて何か体質が変わったかとも期待していたが、そんなことは無かったねぇ。」

 

「当たり前だろ。むしろ、レース直前になって体質が変わってもらっては困る。これまでの調整が水の泡になってしまうじゃないか。」

 

 パドックから戻ってきた控室の中、蹄鉄を打ったシューズの調子を確かめるついでに歩き回っていたタキオンは、鷹木の言葉に頷きもせず勝負服の上着を羽織り直す。

 

 冗談にも大真面目に返す鷹木の反応を相変わらずと感じ、同時にこれがまた彼なりに保ち続けている平常状態だとタキオンは実感していた。

 

「私の期待通りにイレギュラーな事態は起きず、現実的な状態が保たれている。ならばトレーナーくん、キミの期待した通りの結果は得られるだろう。」

 

「そのために全てを捧げてきたんだ、俺も、タキオンも。必ず最高の結果を手に出来る、全力で行ってこい。」

 

 地下バ道に向かうまでのやり取りは実にあっさりしたものであったが、タキオンと鷹木が交わすべき言葉は、今日までの間に尽くされていた。

 

 ただいつも通りの両名の姿が、そこにあった。タキオンが敢えて足を止め、応対する必要を見出したのは、地下バ道にてジャングルポケットと鉢合わせた時が初めてであった。

 

 先んじて控室を出発していたジャングルポケットは、わざわざタキオンを待っていたわけではないだろうが……それでも、確かに今日、タキオンがジャパンカップに参戦することを確認するため、敢えて歩みを緩めていたようでもあった。

 

「よぉ、タキオン。皐月賞ぶりだな。」

 

「何を言っているんだい、あれ以降ちょくちょく会っていたじゃないか、夏合宿でも、互いの祝勝会においてもねぇ。」

 

「そうじゃねーよ、レースの対決相手として、ってことだ。」

 

 ジャングルポケットが見たいと願い続けていたのは、自分と対決するタキオンであった。

 

 だからこそ、トレセン学園や練習場、合宿所で顔を合わせるたび、タキオンに向けていた不愛想な表情ではなく……いつになく張りと愛嬌のある、挑戦的な笑みを浮かべることとなったのだろう。

 

「負けねーからな、今日は。」

 

「そう宣言する相手が私でいいのかい?シニア級の先輩方ではなくて。」

 

「よく言うぜ、お前も一着でゴールする気満々のくせによ。」

 

 返答を口にする代わりに、タキオンは顔に浮かべた笑みを強めて先に歩き去った。

 

 負けじと真隣りに並んだジャングルポケットも歩みを早め、両者は同時に、幾万もの歓声が降り注ぐターフへと出て行った。

 

〈絶好のレース日和に恵まれました、本日の東京レース場。天候は晴れ、芝状態は良となっております、さぁいよいよ発走時刻が目前に迫ってまいりました、ジャパンカップ!解説はお馴染み、そしてこの方を置いて他はない、日本総大将スペシャルウィークさんです!〉

 

〈はい!スペシャルウィークです!いやぁ―今年も来ましたねジャパンカップ!昨年に引き続き、今年もクラシック級からかなり強力な優勝候補の子たちが参戦してますよ!〉

 

 実況席からスペシャルウィークの声が響く前から、場内の沸きようが尋常ならざる様であることは言うまでもない。

 

 世紀末覇王の全盛期から挑戦し続けているナリタトップロード、アドマイヤベガが遂にジャパンカップの栄冠を手にするか。はたまた昨年の王者、ゼンノロブロイの連覇か、その同期たるネオユニヴァースの雪辱か。

 

 そして何よりも、皐月賞以来の直接対決となる、今年のクラシック級にて名を馳せた優駿、アグネスタキオンとジャングルポケットの再戦。

 

 例年通りの大舞台には違いなかったが、殊に今回は歴史的な名勝負が見られるとの期待は否応なしに高まっていた。

 

〈まもなく全ウマ娘のゲートイン完了であります、ジャパンカップ!……スタートしました!ほぼ揃いました綺麗なスタート、ウチからいいスタートを切ったアグネスタキオン、鮮やかな加速で前へと出て行きます。しかし外から上がってくる面々をチラと見て多少控えたか、先頭を取ったのは海外からの参戦ウィズアンティシペイション、そしてティンボロア、共にアメリカのウマ娘が並んで果敢にハナに立っております。〉

 

〈様子は見て先頭を行かせたようですが、タキオンちゃん、かなり早いペースで先行してますよ!全体を引っ張るペースも上がるんじゃないでしょうか!〉

 

 既にトレーナー用の最前列ブースに入っていた鷹木だったが、タキオンを平常通りの振る舞いで送り出した後は、見る影もなく緊張と不安に全身を貫かれっぱなしであった。

 

 通路に立っていた警備員が、具合が悪いのではないかと心配して声をかけてきたほどである。

 

 タキオンのレースをじかに見ないわけにはいかない鷹木は、蒼ざめて冷や汗を滝のように流しながらも自分は大丈夫だと告げ、そして今、スタート後のタキオンの走りへ目だけは血走らせて視線を送っていた。

 

「そのペースだな、確かに最適な判断だ、タキオン。」

 

 先行する位置につき続けるのなら、極力スタミナ消費が抑えられるスロー目のペースが良い、というのが一般的な認識だが、今回は違う。

 

 最終直線でのジャングルポケットとの直接対決、それを念頭に置くのならば、タキオン以外のウマ娘がついてこれるペースを良しとしていては最終直線での不確定要素が増えてしまう。

 

 言い換えれば、タキオンはこのベテラン揃いのジャパンカップの中においても……唯一、自分の引っ張るペースに応じて上がって来られる相手は、ジャングルポケットだけであるとの確信を得ていたのだ。

 

〈最初のコーナーへと入っていきます、本日は1番人気アグネスタキオンが先頭集団の後ろにピタリとつけて、ウチ側を回っていきます。その後ろ、すぐ捉えられる圏内にはゼンノロブロイが加わって、さらに半馬身差、外側に並んでネオユニヴァースが中団なかほどの位置。ナリタトップロードはぐっと下げて最後方から2番手、アドマイヤベガもそのウチ側に並んで、ジャングルポケットは中団後方にて前を見る形となっております。〉

 

〈後ろにつけた子達は落ち着いたペースですね!しかし先頭集団は結構な速度を維持してます、終盤の追い込みで捉えられるでしょうか!〉

 

 鷹木とは離れた位置、同じくスタンド最前列のトレーナー用観戦ブースに入っていたキングヘイローは、ジャングルポケットの判断力に成長を見出していた。

 

 練習中は、中盤やコーナーで先行ウマ娘に差をつけられても焦らず、後方で待機するようにと作戦を徹底していた。だが今、先行するタキオンが想定以上のペースで前へと出て行くのを見て、ジャングルポケットは若干中団に食い込むほどの位置へと上がっていた。

 

「それは焦りではないわ、迷わずペースを維持して。タキオンさんの走りを、最もよく知っているのがあなたなんだもの……。」

 

 今までのレースでも、そしてキング自身が現役だった時のレースでも当然のことだったが、レース本番、観戦スタンドからの大歓声を浴び、はるか遠くを走るウマ娘にトレーナーの指示は届かない。

 

 自分の声が聞こえない教え子が、本番で判断の躊躇いに直面しないよう、トレーニングや最終調整を徹しなければならないのが担当トレーナーである。

 

 キングヘイローは、自分が十分な指導を行えていた、との自信を抱いていた。その自信がある、と自らに言い聞かせていた。

 

〈2コーナーを回っていきます、残り1600m。ティンボロア先頭ですが、リードは4分の3バ身となりました。2番手ウィズアンティシペイションが外に並んで、3番手にはアグネスタキオン、先頭の二名にピタリと張り付くように先行の位置であります。ゼンノロブロイは3,4番手あたりで追走して向こう正面へと出ます。ネオユニヴァースがその後……おっとトゥザヴィクトリーが外から果敢に上がっていきました!〉

 

〈かなり変わったタイミングでの仕掛けですが、向こう正面の直線で前を捉えておかないと逃げ切られると判断したんでしょうね!〉

 

 2コーナーを回り切ったところで、一気に駆け上がっていくトゥザヴィクトリーに観客席は大いに沸いた。

 

 むろん、トゥザヴィクトリーも十分すぎる実力者、ドバイでの好走やエリザベス女王杯での勝利は記憶に新しい。が、そんなベテランでさえも定石を外さねば勝ちを狙えないほどのレース状況であることもまた確かだった。

 

「タキオンが先頭を追い立てるペース、相当に早いからな……どうせバテる、とは思われないのも、タキオンゆえか。」

 

 鷹木は冷や汗の沸き出る掌に爪を食いこませ握りこみながら、視界の中心に向こう正面を走るタキオンの姿を置き、瞬きもせずウマ娘集団全体の構成を凝視し続けていた。

 

 かなりのハイペースで全体を引っ張っていく先頭集団。アグネスタキオンが逃げウマ娘たちを追い立てる形でその速さを維持し続ける状況であったが、それでもなおジャングルポケットは淡々と後方で脚を動かし続けていた。

 

 誰よりもしっかりとタキオンの走りを脅威に感じているポッケは、完全に最終直線での勝負に全てを懸けるつもりであるらしかった。

 

〈さぁトゥザヴィクトリー、ぐんぐんと上がって行って、あっという間に1番手へと躍り出ました!中団には変わらずアグネスタキオン、そしてゼンノロブロイ、あと1バ身空いてネオユニヴァース!中団からは2バ身ほど差がついて、ここにジャングルポケット、そして後方に固まってナリタトップロード、アドマイヤベガであります!各バ3コーナーへと入っていきます、残り1000mを通過!〉

 

〈この時点で早めに動くウマ娘は、皆ポジションを整え終えたところでしょうか!あとは最終直線に入るところで動きそうです!〉

 

 実況席から響くスペシャルウィークの言葉は、流石に的確にレース状況を捉えていた。

 

 東京レース場、3コーナーからは下り坂となり一気に加速するには絶好の区間である。とはいえカーブしながら、そして他の競走相手との競り合いをしながら前に上がるには相応のスタミナを費やす。

 

 スペシャルウィークの視線が、ジャングルポケットがそっと外目につけた様を見ているだろうと、キングヘイローは察していた。

 

「そう、スペシャルウィークさん、あなたの考えている通り。ポッケさんには、直線で勝負してもらう……だから、もう少しの辛抱よ、ポッケさん!」

 

 この時点で、先頭集団とは相当引き離されているジャングルポケット。だが、札幌記念の時のように、コーナーを回りながら前を目指すようなことはしない。

 

 絶対に勝ちきるため、最高の一騎打ちの舞台のため、ジャングルポケットは集団外側を回るコースの維持に徹していた。

 

〈各ウマ娘、3,4コーナー中間地点へ向かいます、先頭はアメリカからのウマ娘2名、そのすぐ背後にピタリとつけてアグネスタキオン!だがじわじわと全体の隊形が詰まってきた!600の標識を通過!さぁアグネスタキオンが外に持ち出していった、先頭の2名に並んで、あっという間に交わした!先頭に立ったアグネスタキオン!ゼンノロブロイが後についてくる、並んでネオユニヴァース!ほぼ一団、ほぼ一団の形でいよいよ最後の直線に向かいます!〉

 

〈このペースで先頭が、タキオンちゃんですよね……いやぁ、この状況、後ろの子たち追いつけますか!?〉

 

 余りにも説得力のあるスペシャルウィークの声が、先頭に立ったタキオンの能力のほどをそのまま物語っていた。

 

 その時点でおよそ1800m近く走り抜いてきたタキオンは、消耗の気配など微塵も見せず、あまりに軽々と先頭の逃げウマ娘たちを交わし、先頭へと突き抜けていったのだ。もとより、スタミナ配分の計算を誤るウマ娘ではない。

 

 スタンドから見ていた鷹木も、もはや自分が見いだせる改善点などなかった。後は、祈るばかりであった。

 

「これ以上の走りはない、もう、これ以上は……!行け!タキオン!!」

 

 アグネスタキオンは、既に誰も前に居ない景色を見ていた。東京レース場の延々と延びる直線、注ぐ大観衆の歓声。

 

 自分は、まだ加速できる。ここまで1875mを走り抜き、残り525mの直線、追いつけるウマ娘など、ほぼ居ないだろう。

 

(だが……来れるだろう、ジャングルポケット君……!)

 

 再びウマ娘の限界へと迫る勢いで、タキオンは猛然と加速を開始した。もはや大歓声も、風切り音も聞こえず、そこにあるのはウマ娘レースの歴史に、運命が新たな項を刻む音だけであった。

 

 これがライバルとの一騎打ちになり得るか否か、心配する必要はなかった。既に熱を持った蹄音が、タキオンの耳に届いていた。

 

〈ネオユニヴァース追い込んでくる、ゼンノロブロイも内側を上がるが、先頭はアグネスタキオンだ、アグネスタキオンまだまだ加速して後方を突き放す、捉えられない!最後方からナリタトップロード猛然と追い上げるが、ジャングルポケット今3番手から、一気に上がって2番手、アグネスタキオンへと迫っていった!さあこれから200mに入る!先頭は、アグネスタキオン!アグネスタキオン先頭、そして2番手の位置ジャングルポケット上がってきた!ジャングルポケット上がってきた!!〉

 

〈完全に2名が抜け出してます!!一騎打ちです!!どっちだべ!?〉

 

 すっかり興奮しきったスペシャルウィークが地元の訛りをつい出してしまった様も、熱狂する大歓声の渦の中に消えていた。

 

 ジャングルポケットは、コンマ1秒にも満たない一歩一歩が、タキオンの背をじわじわと近づけてくる中で足掻いていた。

 

 生涯で最も苦しい10秒間であり、同時に最も渇望した10秒間でもあった。

 

(何度も何度も見たんだ、お前の背中は。どんだけ脚動かしても、追いつけない背中は。夢にまで出てきやがった、もう二度と勝てねぇ相手だった、タキオン、お前は。)

 

 アグネスタキオンの背は、何も答えない。

 

 彼女は全てを計算し尽くしたように、最高の走りを披露していた。一度目の当たりにした者の記憶に深く刻み込まれるほど、それは科学的というよりも芸術的であった。

 

 だがジャングルポケットは、その完成され切った走りを前にして、もはや慄かなかった。まさに幾度も、悪夢として見続けた光景だったのだから。

 

(でも今日なら勝てる……いや……だから今日じゃなきゃ勝てねぇ!今の俺じゃねぇと、タキオンに勝てる奴は居ねぇんだ!!)

 

 間もなく並んだジャングルポケットは、タキオンの横顔を覗き見ている余裕など無かったが、両者はともに同じ表情を浮かべていたことだろう。

 

 身体が限界に近づいて悲鳴を上げる苦悶の中に、ウマ娘としての魂が至上の闘争に悦楽を見出した、獰猛な咆哮を同時に響かせていたのだから。

 

〈先頭はアグネスタキオンだ!アグネスタキオンまだ伸びる!もはや3番手争いは後方集団!ジャングルポケット2番手から、並んだ!ジャングルポケット並んだ!アグネスタキオンか!ジャングルポケットか!並んだ、かわした!ジャングルポケット!!ハナ差でゴールイン!勝ちましたジャングルポケット!!二着アグネスタキオン!無敗の皐月賞ウマ娘を始めて下しました、勝ったのはジャングルポケット!!日本ダービー以来のGⅠ勝利!〉

 

〈なまらすっごい……い、いや、物凄い競り合い、観させてもらっちゃいましたよ!おめでとうございます!ジャングルポケットちゃん!〉

 

 タキオンは減速していきながらも、暫く息を整えるのに必死だった。それはすぐ隣にいるジャングルポケットも同様であったが。

 

 いつもは、多少なりと周囲を見回し、レース結果の表示された掲示板を見上げる余裕もあったのだが、今回ばかりは完全に死力を尽くしきった走りをした実感が、自らの身体にハッキリと刻まれていた。

 

 そうであればこそ、手加減などしている余裕もなく全力で走り抜いた自分を、さらに超えていったジャングルポケットには満面の笑みを向けることが出来たのである。

 

「素晴らしいねぇ!私の走り、ポッケ君の走り、いずれも出し得る最高のパフォーマンスを実現していたはずだねぇ!こんなにもウマ娘の限界に迫れるとは、私も思いもしなかったよ!あぁ、未来が見えたんだ、私たちが刻み、切り拓き得る未来が!」

 

「……テメェ、よくベラベラと、走り終えた直後から喋りまくれるもんだな……また手加減してたとかぬかしたら、承知しねーぞ。」

 

「当然ながら全力だったに決まっているねぇ、わざわざジャングルポケット君に勝ちを譲ってやる道理など無いねぇ!」

 

「そうかよ……やっぱタキオン、お前は俺が勝たなきゃならねーウマ娘だ。」

 

 タキオンは目を見開き、満面の笑みで視線を返した。ジャングルポケットの口から“ウマ娘”という単語が出ることは実に稀な事であった。

 

 平常時であれば、周囲に居る面々は競走相手か友人か、といった認識が殆どを占めているジャングルポケットでも、この時ばかりは自分達がウマ娘という存在である事実を明瞭に感じ取っていた。

 

 レース場に立てば、どうしようもなく走りたくなり、並んで走れば、勝たずにはいられない、ウマ娘という生物を、生々しく味わった直後だったのだから。

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