ジャパンカップの翌日、身体の状態を整える程度の軽いトレーニングだけを午前中に済ませたタキオン。
午後からは、彼女が最も落ち着ける場所……すなわち、理科準備室を勝手に占拠した実験室にて紅茶をじっくり時間をかけ淹れていた。
薫香を含んだ湯気が空中に立ち昇る傍ら、机上のPC画面には昨日のジャパンカップ映像が繰り返し流されている。
タキオン自身が走ったレース、その映像自体もまた何度も見直したため展開は分かり切っているはずだが、それでも最終直線では自然と視線が映像へ吸い寄せられるようであった。
「我ながら惚れ惚れするねぇ、シニア級の先輩方も、私が叩き出した考え得る限り最良のタイムにはついてこれなかった模様だ。そんな中、ジャングルポケット君は、よくぞ私を差しきったものだねぇ。」
「変わってやがンな、いつものことだが。自分が負けたレースの映像なんて、喜んで何度も見るもんじゃ無ェだろうに。」
タキオンの隣に並ぶ形で席につき、自身のノートPCをも並べていたのはエアシャカールである。
秋の天皇賞後、休養と調整の期間を充分に設けるため、ジャパンカップには参戦していなかったシャカール。いつも持ち歩いているPCにもジャパンカップ当日の映像が流れていたが、URA公式が配信中継したものとは違う。
そこには、ジャパンカップの現場観戦スタンド……すなわち、東京レース場の観客席にて、エアシャカールが直に撮影した録画データがあった。
公式の放送とは異なり、実況の声は場内に遠く響くのみで、音声データの大半は響き渡る観客たちの歓声で占められている。
その動画を、タキオンのPC画面で流されている映像とタイミングを合わせるようにシャカールは再生していたが、画面内のゴール直後に東京レース場に響き渡った幾万人もの大絶叫を聞き終えて首を捻った。
タキオンとシャカールが、ここで確認しようとしていたのはレースそのものではなく、観客たちの歓声であった。
「さすがにここは大差ねーよな、こんだけ盛り上がってたら例年との違いなんて見つからねェ。」
「ふぅン、私自らが言うのも手前味噌だが、あれだけの名勝負だ、可能性世界との乖離などお構いなしに観客とレースが一体となった瞬間だろうからねぇ。前年度と歓声を聞き比べるのなら、レース序盤辺りが良いんじゃないかな?」
言いながら、タキオンは一旦自分のPC画面から昨日配信された映像を閉じ、あらためて検索画面にて前年度のジャパンカップ動画、すなわちゼンノロブロイが勝利したレースの動画を探し始める。
タキオンやジャングルポケットが参戦したおかげか、去年と全く違う展開を実現した今年のジャパンカップ。そのおかげか、昨年度のレース結果や動画記録が消滅しているようなことは無かった。
「あったねぇ、公式ではなく、観客がスマホで撮影したと思しき昨年度のジャパンカップ動画が。便利な世の中となったものだねぇ、どんな素人でも容易に動画投稿が可能なのだから。」
「オレたちがわざわざ観客席で録画することなんか、ほぼ無ェからな。比較対象があるのは助かンぜ。」
シャカールが撮影した今年のジャパンカップ動画、スタート直後からレースが向こう正面へと至るまでの部分までを確認した後、タキオンは自分が見つけた昨年度の動画を再生する。
そこには録音環境の違いや、機材の違いなどもあったため厳密な比較にはなり得なかったが……1年前との明確な変化に気づき、タキオンとシャカールは顔を見合わせた。
場内に響き渡る実況の声を基準に聞き比べれば、相対的に今年の観客たちが立てる歓声は、明らかに小さくなっていたのである。
タキオンは前々から想定していた自らの仮説がほぼ実証されたも同然の事実を前にして、口角を引き上げた。と同時に、目元はほぼ笑ってはいなかったが。
「やはり気のせいでは無かったねぇ!ウマ娘レースへと注ぐ歓声は、日に日に縮小している!」
「その字面だけ見たら、ウマ娘が喜ぶべきことじゃねェけどな。だが……ロジカルじゃねェ、東京レース場は満員だったはずだ、観客の数は減ってねェよ。いや、去年のロブロイが走ったジャパンカップは、東京レース場が改修工事で、代わりに中山での開催だったか。」
「そうとも、だがいずれにしても中山レース場の収容人数は東京レース場よりも少ない。満員となっていた以上、歓声が小さくなることは本来あり得ないだろう。」
タキオンは改めて耳をPCのスピーカーへと近づけ、シャカールのノートPCで再生されている歓声と聞き比べる。
精密に現場で音量を計測した結果ではない以上、あくまでも主観的な比較の域を出るものではない。しかし、繰り返して聴くほどに、タキオンは自分が薄々感じていた現実の変異が気のせいではないことを確信していた。
それはウマ娘の聴力と記憶力が、人間にもまして優れたものであるが故の気づきでもあった。
「去年の末あたりから私は、観客たちの上げる歓声が小さくなっていないかと気にしていたんだがねぇ、少なくともトレーナーくんは変化に全く気付いていない様子だったねぇ。人間の聴覚では感じ取れないか、あるいはじわじわとした変化に人間は気づきづらいのか、だねぇ。」
「実況中継越しじゃ、単に録音環境が変わっただけだと考えるのが普通だろうしな。にしても、何が起きてンだよ、この現象は。」
「簡単に言えば、私たちウマ娘の存在する現実世界と、運命を定めている可能性世界が、分かたれようとしているがための現象だろうねぇ。ウマ娘レースに熱狂し、感動し、そして更なる名勝負を願う、観客たちの想いが歓声の大きさであるならば、可能性世界での定めに依拠する感動が、この現実世界から離れつつあることは必然だということだねぇ。」
「簡単に言えてねェよ。」
独自性が過ぎる仮説を饒舌にまくしたてるタキオンの言葉を耳に入れつつも、エアシャカールは呆れたように髪を掻く。
とはいえ、シャカールの頭脳をもってすればタキオンの発言内容を整理するのにもさほど時間は掛からなかった。あくまでも、非ロジカルな、憶測の内容として、であるが。
「その“可能性世界”って奴に、期待されてたレースじゃねェから、観客の感動も控えめだってことか?」
「むろん、観客たちも明確な名勝負を見せつけられれば、十分にこの現実世界に感動するとも。まさに昨日、私とジャングルポケット君がゴール直前まで競り合った時のようにねぇ!あの時の空間が割れんばかりの歓声と喝采は、昨年に劣ることなどなかったろう!」
「レース前だって、期待してねェ観客は居なかっただろうけどな。タキオン、お前の名前が出走リストに入ってンだから。」
「しかし、その私の名前がまさに可能性世界との最たる乖離であったかもしれないのだよ。私は可能性世界においては皐月賞を最後に引退しており、秋の天皇賞やジャパンカップに参戦している歴史など、本来は存在しなかったのかもしれないのだからねぇ!」
シャカールは一旦口を噤んだ。
ウマ娘、特にレースの道を本気で志すウマ娘が自分の引退の可能性を語ることは、よほどそれが現実的な命運として認識された場合においてのみである。いかに変わり者のタキオンとて、例外ではないだろう。
引退の危機を本気で感じ取った経験を有するタキオンが語る憶測を、敢えて否定する言葉をシャカールは持ち合わせていなかった。一方のタキオンは遠慮も無く、ここぞとばかりに喋り続けていたが。
「観客たちの感動が控えめだというのも、正確な表現ではないかもしれないねぇ。個々の観客たちは充分に興奮していただろう、あの豪華な出走メンバーがそろい踏みしたジャパンカップを前に。これはあくまで主観的な感じ方だが、昨日の私がスターティングゲートの中から聞いた歓声は小さかったというよりも、遠かったと表現した方がより妥当だねぇ。」
「遠かった?ジャパンカップのスタート位置は、正面スタンドの目の前じゃねェか。」
「あぁ、だからこそなおのこと違和感は強まったねぇ。何とも奇妙な感覚だった、まるで幾万人もの観客たちが、観戦スタンドごとこの現実世界から、別次元の宇宙へと引き離されていくかのような……っと、あまり“非ロジカル”な物言いは、シャカール先輩との談義には相応しくないかねぇ。」
タキオンは誰かに言いたくてたまらなかったことを全て伝え終えて満足したためか、そこで一旦発言を区切った。
またしてもシャカールはあえてタキオンの言葉を否定しなかったが、今度は自分自身の中でも妙にしっくりとくる実感があったためだった。
ジャパンカップの前月に行われた天皇賞には出走していたシャカール。あの日、スタート前の歓声が遠のいていくように感じたのは、柄にもなく自分が緊張しているためかとも考えていたが、たった今タキオンもまた同じ経験を語ったのだ。
主観的な感じ方に過ぎないと認識していた現象が、現実に発生しているとしたら……シャカールは自らも同じ感じ方をした、と告げかけて口を開き、だが言葉を一旦止めた。
この理科準備室の閉めた扉の向こう側、廊下を歩いてきた足音がピタリと止まったのだ。むろんタキオンも聞きとったらしい。
「誰かねぇ?私の実験室をわざわざ訪ねてくるのは。トレーナーくんは私に今日の午後ずっと休みだと言っていたが。」
「あの歩調はウマ娘だ、それも随分聞き慣れた……」
同じ聴覚に優れたウマ娘であっても、タキオンが足音だけではピンとこなかったのも無理はない。
扉をノックする音の後に、聞こえてきたウマ娘の声は、タキオンではなくシャカールに頻繁に会いに来る存在であった。
「シャカール、ここに居るのかな?邪魔でなければ、入ってもいい?」
「おや!私としてはしばらくぶりにお会いする殿下様だねぇ!」
「……ファイン、入っていいぜ、こっちの話はひと段落したところだ。」
いずれにせよ憶測を語り合うばかりとなっていたジャパンカップの映像を切り、シャカールはノートPCをパタンと閉じる。
同時にガラリと引き開けられた扉の向こうには、ファインモーション……と、その護衛を担当する黒服のSPウマ娘が並んでいた。
「ごきげんよう、シャカール、そして……まぁ!アグネスタキオンさん!昨日のジャパンカップ、これまでにない名勝負だったよ!あのレースを目の当たりに出来て、本当に嬉しかった!ありがとう、感動いっぱい貰っちゃった!」
「そうだろうねぇ、勝ったのは結局ジャングルポケット君だが、まぁそんなことは差し置いても、私もまた十分に称賛を浴びるだけの走りを披露出来たと自負しているからねぇ!」
「マジで遠慮が微塵も無ェな、タキオン……。」
ファインモーションがアイルランド王室から留学してきた娘、すなわち王女殿下であることはタキオンも以前会った時きちんと知らされているが、それでもなお平常通りに振舞うのがタキオンであった。
前に会った時はタキオンのブレーキ役として鷹木トレーナーが傍に居たが、今回はシャカールしかその役目を担えない。タキオンが妙な方向に会話を持っていく前にと、シャカールは先んじて口を開いた。
「……来月のレース、問題なく準備は進んでンのか?」
「うん、この学園の先生たちやトレーナーさんたちのおかげで、出走登録も、当日までの練習スケジュールもバッチリだよ。」
その会話内容だけであれば、トレセン学園内で交わされるものとして何ら珍しいものではない。
が、ファインモーションのやんごとなき出自、そして尋ねるエアシャカールの口調がいつになく気遣わしいものであること、それらを瞬時に考慮して想定を組み立てたタキオンは即座に口を挟んだ。
「おや?デビュー戦へと挑むというのかねぇ、ファインモーション君が?」
「そう!来月、12月の1日だよ!タキオンさんも見てほしいな、皆に追いつけるよう、一生懸命にトレーニングしたんだから!」
「何度も言ってるけどよ、無理はすンじゃねェぞ。お前が怪我でもしたら、トレセン学園の理事長以下幹部の面々が顔面蒼白になる、何人かは卒倒するだろうよ。」
「怪我なんて全然気にしないよ、私のお父様にもちゃんと認めてもらったうえで、レースに出るんだから。」
アイルランド王室から預かった王女殿下の身に何かあれば、それこそ国際問題にもなりかねない。仮にファインモーションの父親、すなわちアイルランド国王が許していたとしても、関係者たちは気が気でないだろう。
中でも、ファインモーションのトレーニングを担当し始めたばかりであろうトレーナーの心労は尋常ならざるものかと思われた。
……その一方で、担当トレーナーでもない、ただ先輩ウマ娘としての関係でしかないはずのエアシャカールが、妙にファインを気遣っている様にタキオンは違和感を見出していた。
「シャカール先輩は、いつになく妙に優しげだねぇ。あまり後輩の面倒をマメに見るようなタイプだとは思ってもみなかったのだがねぇ。」
「っせェよ。ファインの方からちょくちょくアドバイスを聞きに来るンだ、自然と気になっちまうだろ。」
「それに、私がレースに出ることを決めた理由を作ったの、シャカールだから。」
ファインモーションは元々、絶対に安全な立場での留学を条件にアイルランドから渡ってきたウマ娘である。
が、トレセン学園に在籍する以上、心沸き立たせるレースは数多く目にすることとなり、必然的に自らもレースに参加したいとの思いを募らせていた。その最中、現役ウマ娘としての走りを目の前で披露したのが、何かと接点のあったエアシャカールであった……。
という内容を、ファインモーションが一息に語っている間、エアシャカールは実に気まずそうに顔を背け、先ほど閉じたはずのノートPCを開けて画面を凝視するフリをしていた。
傍らのタキオンは、実に興味深げに笑みを浮かべつつ頷きまくっていたが。
「ほうほう!なるほどねぇ!シャカール先輩、全く罪作りなウマ娘だねぇ!そんな本物のレースに出走する興奮を片鱗でも味わわせれば、戻ってくることが出来ようはずもない!これはいずれ、ファインモーション君と並んでレースを走る日が訪れるまで、引退できなさそうだねぇ!」
「そうそう簡単にGⅠまで上がって来れるかよ、俺はただ現実を突きつけて諦めさせようとしただけだ。」
「その割には先ほど、随分と親身になってファインモーション君のデビュー戦を気に掛けていたねぇ!」
タキオンの遠慮なき冷やかしに、ますますエアシャカールの眉間の皺は深く刻まれていた。
一方で、ファインモーションも嬉しげに両者のやり取りを眺めつつ、タキオンに向けて告げる言葉を持っていた。
「タキオンさん、あなたもシャカールと同じだよ。」
「うん?私が、同じというのは……どういう意味だい?」
「あんな凄いレースを見せてくれたんだもの、弥生賞も、皐月賞も、天皇賞も、昨日のジャパンカップも。あんなの見せられたら、あなたと同じ場所で走れる日まで、私もやめられないよ。」
にっこりと笑うファインモーションの表情は、その育ちの良さを示してあくまでも温和であった。
が、ゆるぎなき自信、GⅠレースで鎬を削る舞台までたどり着けると確信できる程の実力の片鱗は、既に彼女の中にしっかりと芽生えているようであった。仮に在籍期間である三年間だけの現役であったとしても、彼女が実績を残すことは確実であるようにも思われた。
その後ファインモーションが爽やかな挨拶だけを残し、練習場へと去った後も、シャカールとタキオンは互いに気まずい沈黙を暫し共有する他になかった。