ウマ娘レースにおける一年の集大成、ターフを走る者たちが頂点を競い合う舞台、有馬記念。
発走時刻の数時間前から、引きも切らず詰め寄せる幾万人もの観客たち。その喧噪から少し離れた場所で、エアシャカールは今日ともに観戦する相手との待ち合わせを行っていた。
紫色のパーカーを深く被りサングラスを掛け、その上に着慣らしたジャケットを羽織り、物陰であぐらをかいてノートPCを弄っている様は、遠目から見ればとてもGⅠウマ娘の姿には見えないだろう。
警備員に見つかればほぼ確実に不審者扱いされるだろう風貌であったが、その場においては警備員に声を掛けられるよりも、黒服のウマ娘たちに取り囲まれる方が先であった。
むろん予測済みの状況であったため、シャカールは慌てもせず視線をノートPC画面から上げる。目の前には、SP隊を背後に引き連れたファインモーションの姿があった。
「早めに来たつもりだったんだけれど、ごめんね、待たせちゃったかな。日本の冬、思ったよりも寒いね。」
「気にしなくていい、俺の到着が早すぎたンだ。ちっと調べときたいことがあったからな。」
ファインに返答しながらエアシャカールは立ち上がり、ノートPCを小脇に抱えて歩き出しかけ……立ち止まり、あらためてファインモーションとその護衛を担うSP隊の面々の方を振り向いた。
言うまでもなく、今ごろ中山レース場の入り口は溢れんばかりの来場者でごった返している。
「この物々しいメンツで、あの大混雑ン中に突っ込んでいくのか?」
「それも楽しそうだけど、他の観客さんたちの迷惑になっちゃうかもしれないから……。」
「殿下の身辺警護のため、主催たるURA様から専用の通路を便宜戴いております。こちらへ。」
ファインの言葉を引き継ぐ形で返答したSP隊長に先導され、エアシャカールは王族と知り合っていなければ決して生涯通ることなどなかったであろう、VIP専用のレース場入り口へと案内された。
入り口自体は一般の来場者の目につきにくい、レース場備品が保管されている区画の先、係員の通用路と見分けのつかないものであったが……ひとたび中に入れば、輝くばかりに磨きこまれた木目調の床の上、高級そうな絨毯の廊下が先へ続いていた。
緊張というよりも好奇心の方が勝る形で周囲を見回しているエアシャカールであったが、ファインモーションは構わずお喋りを続けていた。
「あなたと一緒に有馬記念を見れるだなんて、スケジュールの折り合いがついてホントによかったよ。でも私、シャカールも今年の有馬記念に出走するんじゃないかな、って思っていたのだけれど。人気投票だって、十分にシャカールにも票が集まったはずだよ。」
「来年の春先までは調整期間だ。秋の天皇賞やらジャパンカップやらに出た連中も有馬に来てるが、本来デカいレースの間に取れるスパンにしちゃ短すぎンだよ。」
自分が今踏みしめている絨毯の一枚一枚が、おそらく一般トレーナーの給料では一年働いても手の届かない代物だろうと値踏みしつつ、足音も声も吸い取られたような静けさの中でシャカールは答えている。
ファインモーションは何らのお構いなしに絨毯を踏みしめて少し歩調を早め、前からシャカールの顔を覗き込みつつ返した。
「けれど、シャカールが有馬で走るところ、見てみたかったなぁ。」
「俺が有馬で走るチャンスが無ェと決まったワケじゃねーだろ。走るつもりはあるぜ……ただ、中途半端な状態で出ンのは競走相手に失礼だろ。」
今年のシャカールは、いや今年のシャカール“も”、確かになかなか勝ちきれないレースばかりであった。
昨年度と全く同じレース展開の繰り返しが発生するという異変が今なお解決していない事情もあったが、後輩世代のウマ娘たちに先を越される展開はより一層シャカールにとって厳しい現実のあらわれであった。
ウマ娘は、身体能力が本格化した全盛期を過ぎれば、走りも衰えていく。今年の有馬出走を見送ったシャカールであったが、来年ならば勝てるという見込みはいよいよ薄れる。
「俺が有馬に出ンのなら、それを引退レースにするつもりだ。」
「じゃあ、来年、だね。」
エアシャカールは、ファインモーションの方へチラと視線を向ける。彼女は再びシャカールの真隣りで歩を進めており、いくばくか真剣な色がその眼の内に表れていた。
自らの思う所を直接ファインに説明したことは無かったが、ウマ娘レースについての勉強を続けているファインモーションが気づかぬはずもない、とシャカールは考えなおした。
「……あァ。どんだけ下の順位になろうが、それで最後だ。だが、有馬に出走するだけの戦績は、積み上げる。俺が確信持って言えンのは、それが限度だ。」
「じゃあ、私も来年の有馬に出なきゃね。だって、いつかシャカールと並んで走るって夢、それが叶える最後のチャンスになりそうだもの。」
今度はハッキリとファインの顔を直視するエアシャカール。
あながち冗談や強がりと断じる事の出来ない発言であった。12月1日の、ファインモーションのデビュー戦はもちろんエアシャカールも観戦している。
そこでの圧勝劇、先頭で逃げ続けたにもかかわらず上がりハロン最速、二着に4バ身もの差をつけてのゴールは、ファインモーションの走りがGⅠクラスへ届くだけの可能性を充分に示唆していた。
シャカールにとっても、ファインと共に有馬へ出走することは実現の望ましい将来ではあったが……多少声を低めての返答だけを口にした。
「言わなくてもいいだろうけどよ、簡単なもんじゃねェぞ。ただ速く走れりゃいいってだけじゃねェ……いっぺん始めちまったら、辞めることができねェ。」
「だから、シャカールは最初、私に走りをなかなか見せてくれなかったんだよね?」
またしても、ファインモーションはシャカールの内心を分かったうえでの発言を口にする。その件については既に、シャカールも重々承知した後の話だったが。
留学期間を終えれば、アイルランドへ帰ることが決まっているファインモーション。だがウマ娘として、レースで走ることへの本能的な渇望を知ってしまったが最後……どうしようもなく走らずにいられなくなることは、分かり切っていた。
シャカールは小さく頷くだけに留めて、その先を語る。
「現役時代を最初から最後まで、勝ちまくりで通せるウマ娘なんかほぼ居ねェ。どんだけ凄ぇ記録を打ち立てても、最後は勝てなくなって引退する……それならまだいい、脚が壊れて、走れなくなって、レース場から去る羽目になるかもしれねェ。」
勝ち続けるということは、それだけウマ娘の体に尋常ならざる負荷が蓄積するということでもある。
引退時に勝利して有終の美を飾ったウマ娘も、怪我や不調に苦しんだ時期を経験している。生涯通して無敗を貫いたウマ娘は、まだまだ走れるはずだった時期、怪我のために引退を余儀なくされている。
ファインに対して告げるためだけではなく、自分自身に言い聞かせるようにもシャカールは喋りつづけた。
「勝った時は、そりゃ他に何もいらねェとまで思える。だが、本当にやめられなくなンのは、負け始めた時だ。こんなことで終われるかって、もういっぺん勝つまで辞められるかって……。」
「今のシャカールが、そうだものね。」
やはり、ファインモーションはシャカールのことをよく見ていた。
今年入学してきたばかり……とはいえ、もう12月ともなれば、レースに出たシャカールの走る様を充分に見尽くすに十分な時期を過ぎたと言えるかもしれない。
ウマ娘の走りは、嘘を吐かない。先輩や同期、さらには後輩のウマ娘たちが台頭してきてなお、執念を冷ますことなく走り続けるシャカールの振る舞いは、何よりもその本心を雄弁に語っていたのだろう。
「もう一度勝とうって声、シャカールのレースを見てたら聞こえてくる気がするほどだもの。」
「世紀末覇王、テイエムオペラオーに勝ったあとは、俺の時代が来ると思ってた。いや、ハッキリそう考えてたわけじゃねェけど、今にして思えば、欠片もロジカルじゃねェそんな期待が無かったとはいえねェ。」
2年前の天皇賞でオペラオーに勝ったアグネスデジタルに続き、ジャパンカップにてエアシャカールもテイエムオペラオーに勝利した。
その年でテイエムオペラオーとメイショウドトウは引退したものの、しかし翌年からもエアシャカールの苦境は続いた。
アグネスデジタルやツルマルボーイに加え、ネオユニヴァースとゼンノロブロイ……タキオンが言うところの“特異点”となるウマ娘の台頭である。息の長い活躍を続けるナリタトップロード、アドマイヤベガもまだ健在だ。
さらには今年、アグネスタキオン、ジャングルポケット、そしてマンハッタンカフェという新たな世代も存分に並みならぬ能力をGⅠレースにて披露しまくっている。
「もういっぺん、GⅠの勝利を手にするまで辞められねェ。けど、流石に俺も来年が限度だ。それまでに獲れなきゃァ、腹括って引退するしかねェ。」
「獲れるよ。シャカールなら、GⅠをもう一回。」
ようやく到着したVIP用の観戦席を前にして、ファインは振り返り笑顔を見せた。
何の根拠もないその言葉に、不思議な重みを感じたシャカールであったが、ファインはサラリと付け加える。
「なんて、無責任なこと言っちゃったかもね。けど、お返しだよ。私をこんなに楽しい、レースの世界に引っ張りこんだシャカールへのお返し。」
「いや俺が引っ張りこんだっつーか、お前が踏み込んできたって方が正しいだろ……」
シャカールは愚痴った。が、自身が認めずとも、心の芯は確かに温かみを増したようだった。
これまで続けてきた、そして少なくとも来年の終わりまで続くのは、あまりに孤独な戦いであった。時間が経つほどに薄れる自らへの期待、挑戦を繰り返すたびに遠のく希望。もう一度GⅠ勝利を手にすること。
それを信じられるのがシャカール独りだけだった世界に、ファインモーションはエールを送ったのだ。
「さっ、シャカール、ここに座って。私の隣。ほら、凄い眺めだね。」
「そりゃ中山レース場で一番いい席だろうからな……っと、今さらなんだが、この場所、こんな格好で来ちまってよかったのか?」
ファインとの会話で思考回路がいっぱいになっていたシャカールは、不意に自分があまりにも場違いな恰好をしていることに気づき、豪華絢爛なVIP席の中で多少慌てて目深にかぶっていたパーカーのフードを脱ぐ。
と同時に、傍らに控えていたSP隊長が速やかにグラフィティめいた柄のジャケットをシャカールから受け取り、代わりに紳士服のような黒いジャケットを羽織らせつつ、手早くシャカールの髪型をスプレー片手に整えた。
「中継用のカメラがVIP席にまで向けられる可能性があります、サングラスはそのままでも良いでしょう。」
「お、おう……どうも。」
「ふふっ、似合ってるよ、シャカール。あっ、見て、画面に私たちが映ってる!」
シャカールもファインの指さす方向へ視線を向け……ここで初めて緊張を感じた。
中山レース場、観客席の目の前にでんと聳える巨大ディスプレイ、そこにファインモーションとエアシャカールが並んでVIP用テラスに居る様が映し出されているのだ。
レースに出走していれば自分の姿が撮影されることには慣れているはずだったが、観客席にいる様子が見られるのには流石に慣れていないシャカール。
ファインモーションはと言えば、堂に入った風格でシャカールと寄り添い、王族として慣れきっているのだろう、群衆に向けて片手を振る所作も自然であった。レース開始前のトークを行っていた実況アナウンサーの声が響く。
〈おや、こちらはVIP用観戦テラスの模様ですね。今回の有馬記念はアイルランド王室からファインモーション殿下がご覧になられるとのことです、お隣に居るのは、GⅠウマ娘エアシャカールさんのようです。お二人はトレセン学園でも親しい間柄であり、今月頭のファインモーション殿下の鮮烈なデビュー戦においても、エアシャカールさんに後押しされる形となっていたとのことで……〉
コートを脱いで白いブラウス姿となっているファインモーション、そして黒いジャケットを羽織りサングラスを掛けたエアシャカールが並び立つ様は、いかにもセレブなカップルといった出で立ちであり、観客たちの中にはお似合いの両者の並びに嘆息を上げる者もいた。
当のエアシャカールは、サングラスによって眉間の皺がある程度隠されていることに感謝しつつ、固まった表情のまま愚痴っていたが。
「いや俺は後押ししたつもりはねェんだが。そりゃ走ることについてはアドバイスしたけどよ……親しい間柄っつーのも、意味の幅が広く取れすぎだろ、ロジカルな物言いじゃねェ。」
「いいじゃない、嘘じゃないんだし、それに仲良しだって言われて悪いことはないでしょう?」
下手をしたらファインモーション側から、マスコミに対して情報が意図的に流れたのではないか、とまで推測したシャカールは言い返しかけたが、その直前に口を噤んで背後を振り向いた。
あまりに聞き慣れた靴音、日々接している人物の気配が、すぐ背後にあったためだ。振り返った先にはシャカールの推察通り、結城トレーナーの姿があった。
白髪の老トレーナーはせかせかと歩き寄ってくるところであり、用事のついでに立ち寄ったといった雰囲気であった。むろん、彼がのんびりしている暇など無いことは、明白である。
「あン……!?トレーナー、こンな所で何してンだよ、アヤベ先輩も、カフェも今日出走すンだろ、行ってやらなくていいのかよ!」
「分かっている、これからすぐに向かうところだ。だが、どうしても僕の立場上、有馬記念でのあいさつ回りは欠かせなくてね。」
結城トレーナーは現在、アドマイヤベガ、エアシャカール、マンハッタンカフェ、そしてダンツフレームの四名の指導を担当するトレーナーとなっている。
彼が本来計画していた通りに引退していれば、URAの重役や政財界の重鎮との面会を慌ただしく済ませる必要もなかったろうが、今なお現役のトレーナーとして働いている以上、有馬に出走する面々の元に居てやらなくていいはずもない。
それでも挨拶回りを欠かせない相手の一名、アイルランド王室からの留学生は、シャカールの言葉に続けて淑やかにお辞儀しつつ、淀みなく喋った。
「わざわざご足労いただき、わたくしファインモーションも有難く存じます。お会いできて嬉しいです、URAの伝説的人物、結城トレーナー。……では!私の大親友、シャカールも心配していることですし、あなたの担当ウマ娘たちの元へ向かってくださいな!」
「あぁ、これは、どうも。その、慌ただしい中で申し訳ない。」
「いいから行けってンだよ、ファインも言っただろ!……足元気をつけろよ、スッ転ぶんじゃねェぞ、トレーナー!」
結城トレーナーの方が遠慮する相手など、他にはそうそう居るものではないだろうと思いながら、シャカールは老トレーナーをそれなりの気遣いもこめつつ急かした。
挨拶を手短に澄ませたファインモーションの心配りに恐縮して頭を下げつつ、背を向けた結城トレーナー。
が、数歩小走りに去りかけたところで背を向けたまま、顔だけをチラとこちらに向け、口を開く。
「シャカール」
「んだよ早く行けって……」
「来年の有馬、確実に出よう。」
返答の言葉をシャカールが用意する前に、結城トレーナーの白髪を戴いた後ろ姿は足早に去って行ってしまった。
エアシャカールよりも、ファインモーションの方が今度は驚いた様子であった。しばしの沈黙ののち、彼女はSP隊長へと尋ねる。
「結城トレーナーにも、私たちが話していた内容は聞こえていたの?」
「いえ、少なくとも立ち聞きできる範囲に他の人物はいませんでした。」
すなわち、結城トレーナーはエアシャカールが直接話していないにもかかわらず、その目的とする先、引退するまでの目標を充分に理解しているのだ。
ファインは改めてシャカールの横顔を見る。シャカールはあえて表情を動かさぬようにしていた様子であったが、その眼の色が急速に希望の色を増していく様はありありと見てとれた。