中山レース場に到着した時から、タキオンは気もそぞろな様子であった。
彼女にしては珍しく緊張しているのか、流石に生涯に一度あるか無いかという有馬記念への出走を前にしては無理もない……と鷹木は考えていたのだが、タキオンの思うところは違っていたらしい。
「トレーナーくん、今回の観客たちが立てる歓声はどうだい?これまでと比べて変化はあるかねぇ?」
「そんなこと、気にしてる場合じゃ……。」
言い返しかけた鷹木であったが、一世一代の大舞台におけるレース直前、担当ウマ娘の意向は可能な限り尊重しようと考えなおした。
タキオンに言われた通り、地下バ道に反響して廊下を通り、控室にまで響いてくる観客たちの歓声へと耳を傾ける。レースのことだけで頭がいっぱいだった鷹木には、今一つタキオンの意図が掴めていなかった。
「かなりの盛況だな、やっぱりタキオン、お前が出走するからか、あるいは弥生賞以来、マンハッタンカフェとの直接対決になるからか」
「それをネタに観衆たちが盛り上がるのは分かり切った事実だねぇ、わざわざ確認するまでもない。私が聞きたかったのはそっちじゃない、以前の有馬記念と比べて歓声の大きさに変化があるか、ということだねぇ。」
「えぇ……以前の、って……さすがに数年前のことは覚えてない……」
戸惑いながらも、鷹木はタキオンが言わんとするところにようやく思い至った。
前々より、タキオンは天皇賞などの大きなレースにおける、歓声が以前より小さくなっているのではないかと指摘していたのだ。気のせいだろうと当初の鷹木は片付けていたのだが、その傾向は徐々に強まっていっていた。
むろん鷹木が口にした通り、彼が担当ウマ娘を連れ有馬記念へと赴くのは3年越しのことであるし、観客として中山レース場現地へ訪れたのは2年前のことである。去年はタキオンの指導を優先し、中継番組越しの観戦であった。
「はっきりしたことは言えないんだが、言われてみれば確かに、歓声が小さくなっているようにも思えるな。有馬記念の歓声は、こんなもんじゃなかったはずだ。」
「そうだろう?おそらく可能性世界と現実世界の乖離が原因だねぇ、物理的な現象にまで干渉が及んでいると思われるよ。具体的な数値での音量計測は、観戦席に居るシャカール先輩に頼んである。レース後、測定結果を聞くのが楽しみだねぇ。」
「有馬記念の結果を目の当たりにする方が先だろ。」
鷹木の言葉を背に、タキオンは椅子から立ち上がる。時刻は既に、控室から出て地下バ道へと向かうべき頃になっていた。
いつも通りのタキオンなら、そのままスタスタ歩き去っていく所であった。が、暫く立ち止まって呼吸を整えた後、鷹木の方へと振り返り、真っすぐに視線を向けて告げた。
「むろん、そちらも楽しみだねぇ。私が出走する以上、あるのは私が勝つ予測だけなのだから。この予測を誰が覆してくれるのか、実に楽しみだ。」
「俺も担当トレーナーである以上、タキオンが勝つことだけしか考えていない。行ってこい。」
無事に帰って来てくれ、という言葉は喉元まで出掛かったが、鷹木はそれを呑みこんでいた。
タキオンの両の眼は、歴史的な一戦を充分に予感させるほどの気迫に満ち、いかに拭い難い不安があったとて彼女の戦意を曇らせる真似は許されぬものだと感じられたのだ。
こんな小心者なトレーナーに送り出されながら、一点の曇りもない勝利への自信を胸に大舞台へ向かうウマ娘がいかに別格な存在であるか……2年前まで担当していたテイエムオペラオーに対しても抱いた、敬愛にも畏怖にも似た感覚が、再び鷹木の胸中にも蘇ってきていた。
アグネスタキオンは、1番人気であった。
ジャパンカップ後の調整のため出走を回避すると思われたジャングルポケットも、この有馬には名を連ねていたが、2番人気は彼女ではなく、ゼンノロブロイである。
〈やはり昨年度、全国を大きく沸かせた秋シニア三冠達成者、ゼンノロブロイの走りにも期待が向けられます!むろん今年度も様々なレースでの好走が見られましたし、前回有馬からの連覇達成を夢見る観客も多いのでしょう!有馬連覇と言えば、解説のスペシャルウィークさんにも思い出深い出来事ではありますね。〉
〈いやぁ、どちらかというと因縁深いって感じです!有馬を見るたび、グラスちゃんの物凄い走りが蘇ってきますよ……ついでに私のウイニングランも、ですけど!〉
実況アナウンサーと、毎度お馴染みとなっている解説席のスペシャルウィークの掛け合いが、観客席に笑いを巻き起こす。今でこそ思い出話として語れるものの、当時は壮絶な戦いの結末であった。
今年の有馬記念においても、GⅠを走り抜いた猛者たちが集う。人気度にこそ差はついているものの、誰が勝ってもおかしくないことは例年通りである。
〈そして今回は3番人気となりましたが、今年の菊花賞ウマ娘、マンハッタンカフェにも注目が集まります!デビュー以降、なかなか振るわなかった時期も経験していますが、それを乗り越えて今秋ついに能力が本格開花した、といったところでしょう!〉
〈はい!明らかに長距離が得意な子ですからね、この中山の2500mでも能力をフルに発揮してくれるんじゃないでしょうか!〉
プロの視点では全出走ウマ娘に勝ち目ありとはいえ、一般の観客たちからの注目を集める面々はほぼ絞られていた。
むろん今年度、並ぶ者無き能力を発揮したアグネスタキオン……ジャングルポケットが東京レース場の直線で差しきってようやく初の敗北を得たタキオンが、1番人気となっている時点で注目の度合いは物語られている。
その走りに届き得るのは前年度の秋シニア三冠覇者、ゼンノロブロイか。それとも今年の秋以降、長距離戦の才能に更なる磨きをかけたマンハッタンカフェか。
以前よりも小さく聞こえる歓声ながら、出走ウマ娘たちのゲートインの間も期待と興奮をこめた喧噪は止まなかった。
「駆け上がってくるのはマンハッタンカフェだけじゃない、ネオユニヴァースもそうだ、アドマイヤベガも……器用なナリタトップロードが、いつも通り先行の位置をとるとも限らない、直線が短いだけにジャングルポケットも相応の対策をしてくるだろう、本当に油断禁物だぞ、タキオン……!」
観戦スタンドの最前列、トレーナー用のブースの中で、鷹木は先ほどまで控室の中で吐き出すのをこらえていた心配事を、自分にしか聞こえない声でとめどなく羅列しつづけていた。
その全ては、タキオンの頭脳をもってすればわざわざ伝えるまでもなく想定済みの内容であった。
出走前のタキオンに押し付けることではない、あくまでもトレーナーが独りで処理するしかない心配事に過ぎない……と、鷹木は自覚していたのである。
〈さぁ、今年の中山、最後のGⅠ、出走の瞬間が目前となりました!全ウマ娘、ゲートイン完了であります。ターフを駆けるウマ娘たちの、夢の頂点、有馬記念……ゲートが開く!スタートが切られました!!ホットシークレット出遅れたか、ダッシュがつきません、先頭を行きますはマイネルデスポット!菊花賞にてマンハッタンカフェと僅差でのゴールとなったマイネルデスポットであります!果敢に前へと出てリードを広げていきます!〉
〈菊花賞の時の逃げは見事でしたからね、あのまま勝ってもおかしくないほどでした、マイネルデスポットちゃん!今回も思い切った大逃げを披露してくれるんでしょうか!〉
ぐんぐんと先頭がリードを広げていく一方で、アグネスタキオンは中団にて落ち着いたペースを保っていた。
もちろん1番人気ゆえにマークは集中する。既にほぼ周りを包囲された状態のタキオンの様子は、鷹木にかつてのオペラオーの姿を思い起こさせた。
「落ち着け、落ち着けよタキオン……いや、わざわざ言うまでもないか、お前なら前へ出るルートをすぐに見つけられる……はずだ。」
まだレースが開始されて数秒だというのに、既に鷹木は冷や汗で背筋がぐっしょりと濡れていた。
〈3コーナー奥のポケットからスタートして各ウマ娘4コーナーへと向かっていきます、2番手の位置につけているのはナリタトップロード、いつも通り落ち着いたペースで先行を進んでいきます。3番手はシンコウカリド、2年前の皐月賞ウマ娘であります。そしてその外、ゼンノロブロイが今回は前目につけて4番手の位置となっています。昨年の有馬記念に勝利した時と同様、先行寄りのペースで前へ前へと上がっていきます!〉
〈先行のペースで進んでいても、更に最後の最後でしっかりとした加速を見せてくれるウマ娘ですからね!最終直線では前に食い込んでくること間違いなしです!〉
4コーナーからスタンド正面の直線へとウマ娘たちが接近してくるにつれて、観客席から湧き起こる歓声も上がっていく。シンコウカリドはエアシャカールが皐月賞を獲った翌年、アグネスタキオンやネオユニヴァースが未だ現れぬ空白を埋めるかのように皐月賞ウマ娘となった存在である。
場内の声量を測定するためのマイク、およびカメラを接続したノートPCをコースの方へと向けつつ、シャカールは呟いた。
「……確かにタキオン、お前の言ってた通りだ。小さくなってンな、歓声が。」
「うん?VIP席からじゃ、遠くて音が拾えないかな?」
傍らのファインモーションに尋ねられ、シャカールは首を横に振った。
「指向性マイクを使ってンだ、それに蹄音と比較しての記録だから関係ねェよ。」
「だよね、こんなに盛り上がるレース展開なんだもの。中継番組越しじゃなくて、本物の有馬での歓声、こんな迫力なんだね。」
ファインモーションにはシャカールの発言の真意が伝わってはいなかったが、今まさに有馬記念の真っ最中という状況下、興奮気味の彼女へ訂正の言葉を掛ける余地はなかった。
シャカールは、国賓級のVIPでなければ入れないテラス席から状況記録を続けつつ、ファインモーションとともにじっとターフを見下ろしていた。
異変の忍び寄る足音はここにまで届いていたものの、これがウマ娘レースの歴史に刻まれる一戦であることだけは、間違いないと感じられるものであった。
〈4コーナーを抜けて一周目のホームストレッチに出てまいります13名!先頭は一定のリードを保って逃げ続けるマイネルデスポット、1番人気アグネスタキオンは中団真ん中、コース内側を通っています。今回3番人気となりましたマンハッタンカフェは追い込みよりは上がった位置、現在7番手あたりといったところでしょうか、アグネスタキオンの背を見る位置であります。ホットシークレットは最後方、後ろから2番手の位置にアドマイヤベガといった形です。〉
〈マンハッタンカフェちゃん、レース中に変則的なペースを用いても勝つ器用さも持ち合わせていますから、得意の追い込みの位置も意識しているでしょう!〉
スペシャルウィークが言った通り、マンハッタンカフェは夏の阿寒湖特別にて、先行の位置についたと見せかけてズルズル下がっていき、最後に一気に追い上げて勝利するという奇抜な作戦を披露したこともある。
普通はスタミナ残量やペース配分が崩れやすい作戦はリスキーなのだが、カフェは実力者が勢揃いしたレースであっても奇策を成功させるだけの冷静さは持ち合わせていた。
「タキオンは、位置を変えていないな。そうだ、タキオン……ひたすら観察に徹しろ、ネオユニヴァースもどこで前へすり抜けてくるか分からない。」
ジャパンカップではジャングルポケットの最終直線における強烈な追い上げばかりが目立ったが、ネオユニヴァースとて後方に置き去られていたわけではない。あとひと伸びすれば、タキオンらとの先頭争いに加わっている圏内にまで来ていたのだ。
今はまだ中団の後ろ目に紛れているネオユニヴァースは、彼女が最も得意とする位置取りを間違いなくキープしていた。
〈さぁアウトコースをネオユニヴァースが維持して、そのウチを突く形でテイエムオーシャン、イブキガバメントが並び、中団を形成しています。間もなく1コーナーへ入ります、1番人気アグネスタキオンは少し位置を下げたか、中団の後方あたりにて落ち着いている様子でありますが、すっと外にコースを変えた模様です。早くも1周目1コーナーの時点でコース取りを固めていくという判断でありましょうか!〉
〈あのタキオンちゃんですから、きちんと考えてのことだと思いますよ!向こう正面で位置が固まってしまってからでは遅い、って場面も多いですからね!〉
その判断の重さは、担当トレーナーである鷹木にもはっきりと伝わってきた。
完全に勝つ気で走っているアグネスタキオンは、無駄なスタミナ浪費につながる判断など下さない。当然コーナーも最ウチで回り切る方が消耗もないはずだが、敢えて外目のコース取りを選択したのは、その必要があったということだ。
「前方に居るのは巧みな逃げのマイネルデスポット、続いてナリタトップロードにゼンノロブロイ、背後からジャングルポケットとネオユニヴァースが来る形……いざ仕掛けようとしても、簡単には抜かせてもらえない相手ばかりだな。いい判断だタキオン、行け、そのまま……!」
テイエムオペラオーならば自分を包囲させるに任せ、最終直線で本気の勝負へと持ち込んだだろうが、レース中盤で最適な判断を実行に移すあたりはタキオンらしい走りであった。
近い位置取りの面々のみならず、最後方から迫り来るであろうアドマイヤベガ、そしてマンハッタンカフェの存在も無視できない。当のカフェは、やはりじわじわと位置取りを後ろへ下げつつあった。
〈2コーナーを回りまして残り1200m、さぁ先頭変わらずマイネルデスポット、続く2番手に現在はシンコウカリドが立っています。その外並んでナリタトップロード、4番手ウチ側には大ベテランのメイショウオウドウ、その外を回ってゼンノロブロイが現在5番手。インコースにテイエムオーシャン、外を回る形でアグネスタキオン、その後ろからイブキガバメントがするすると上がってきました、マンハッタンカフェは少し速度を緩めたか、9番手、10番手あたりまで下がっています。〉
〈うわぁ、この駆け引き、難しいところですよ!混戦模様ですが、仕掛けどころの探り合いがずっと続いてます!〉
一般の観客には、向こう正面へ入っていくウマ娘たちの順位がじわじわと変わっていく様子にしか見えていなかったろう。が、解説のスペシャルウィークを始めとして、レース経験のあるウマ娘には息詰まるようなやり取りの様が手に取るように伝わってくる。
エアシャカールは傍らのファインモーションに解説すると同時に、自分の中でも状況を整理するように喋っていた。
「絶対に計算を狂わせねェタキオンの奴が、1コーナーから動いてまで取った位置……そこを圏内に収めようとして他の連中も動いてンだ。リードを許して最終直線に入られたら、もうタキオンを捕まえることは出来ねェ。」
「でもマンハッタンカフェさんは、逆に後ろに下がって行ってるね。」
「それが、カフェのペースでタキオンを捉える圏内って奴だ。確実に最終コーナーから加速して、最高速度で迫ってくンだよ。」
エアシャカールは、自分の声が震える直前の状態であることに、最後まで言い切ってから気づいた。
向こう正面、すでに有馬記念の半分は過ぎている。URA最高峰のレース、一年の総決算。すべてが決まる瞬間が、あと1分も経たず訪れるのだ。
〈残り1000mを過ぎましてマンハッタンカフェ後方グループにて外を突くように進んでいます。同じく下がっていきましたウチ側にテイエムオーシャンも後方集団、出遅れていたホットシークレットがここで前へ上がっていきました、イブキガバメントと並んでいます。アウトコースからトウカイオーザ、いよいよ3コーナーへと向かう所でありますが、13名が固まりつつあります、先頭から後方までぐっと詰まった展開であります!〉
〈やっぱレベル高いですよ有馬記念!勝てる位置に、勝つウマ娘が皆いますから!〉
アグネスタキオンは、まだ中団の位置であったが、既に前方は開けていた。
早めのタイミングでコースを定めたおかげで、囲まれることなく、最終コーナーを抜ければ何者にもブロックされることなくゴールまで駆け出せる位置である。
「よし……よし!タキオン、そのまま……!!」
タキオンの勝利が確実だ、と鷹木は自分に精一杯言い聞かせていた。
彼女の走りを何度も見てきた鷹木が、そう言い聞かせなければならなかったほどに、錚々たる面々が殺到してきていたためでもあったが。
既に後方ではアドマイヤベガもジャングルポケットも仕掛ける態勢に入っている。前方ではナリタトップロード、そしてゼンノロブロイが並んで加速を始めている。タキオンのすぐ背後に、ネオユニヴァースが居る。
そして……マンハッタンカフェは、ぐっと後ろに下げた位置から、あの予兆なく急加速する追い込みを既に開始していた。
〈各ウマ娘3コーナーを回っていきます、依然としてマイネルデスポット先頭!2番手ナリタトップロードがすぐ後ろまで迫っている!外の方からゼンノロブロイ!インコースにシンコウカリド!残り600を通過!さぁ、まだ余裕があるか、ゆったりと加速を開始しているアグネスタキオン!外を突いてマンハッタンカフェが上がってくる!4コーナーを回っていきます、ネオユニヴァース集団中から抜けて前を目指し始めた!残り400をきりました!〉
〈上がって!上がって行って!追いつけるよ、まだ!!〉
ますます白熱していく状況を前に、はやくも解説を放棄したも同然のスペシャルウィークの声が響く。
が、彼女の言わんとしているところはウマ娘ならば理解できた。この状況に至ってもなお余裕のある様子で軽々と前へ出て行くのはアグネスタキオンである。
思うがままに自らの能力を磨き、コース取りにおいても最適解を実行し、想定通りのスタミナ残量で、最終直線へ突入していくタキオン。彼女を捉えるだけの脚を、有しているウマ娘はこの世にほぼ居ないだろう。
(ですが……タキオンさん、あなたはウマ娘です。タキオンさんがウマ娘の限界にどれほど近づいても、私は追いつき、超えられる余地を見出せます……。)
4コーナーの出口、既に先頭のマイネルデスポットに追いつき、更に加速していこうとしているタキオンの背を、マンハッタンカフェはもはや遠くには感じなかった。
自分に残された豊富なスタミナ、そして周囲の空気すらも自分に道を開けているかのごとき滑らかな加速が、彼女をタキオンの傍らへと招いていた。
〈第4コーナーのカーブを抜けて直線を向いた!中山の直線は短いぞ!マンハッタンカフェが外を回って上がってくる!ジャングルポケットもウチを突いて前へ出るが、マイネルデスポットを交わして先頭に立ったのはアグネスタキオン!残り200を通過!先頭アグネスタキオンだがマイネルデスポットも粘っている!ここで外からマンハッタンカフェ!外の方からマンハッタン!外の方からマンハッタンカフェ一気に来た!〉
〈捉えられる!?捉えた!?〉
解説席のスペシャルウィークとしては、かつて自身が走った有馬記念……先行くグラスワンダーを追い込み、差しきる目前まで迫った時のことを思い起こさせる展開であったろう。
一方、エアシャカールは目の前のレースに、傍らのファインモーションとともに釘付けになりつつも、ずっと測定を続けている歓声に明確な変化を見出していた。
「……去年と同じレベルにまで、歓声の大きさが戻ってやがンな……。」
もはやそのようなことを気にしている存在は他に居なかったが、PC画面上に示される音量のメーターは、確かにその現象を記録していた。
最終直線に入った時、有馬記念を目の前で観戦している観客たちの立てる声は、例年通り、地を揺るがすほどの大轟音へと変わったのである。この場で、誰も気にしないような現象の真相を推察する余裕はなかったが。
ゴールラインは数十メートル先であったが、既にアグネスタキオンは歓喜に打ち震えていた。
勝利そのものは、もはや誰の手に渡ったのかは見えていた。
0.1秒にも満たない一歩ごとに、タキオンは自分が出し得る最高の速度へ到達していることを確認し……大外から猛然と飛んできたマンハッタンカフェの、自分を超える様が現実であると、明確な解を得ていた。
(私は限りなく可能性世界から遠ざかり、私の為せる可能性の限界へと近づいた!それを超えるというのだ、カフェ、キミは間違いなく特異点だねぇ!)
ウマ娘が辿る運命の限界の先、未だ何も確定していない将来の暗闇。
最先端へと至ったタキオンの孤独な視界に、ジャングルポケットに続き入り込んだのは、マンハッタンカフェだった。
〈外からマンハッタンカフェ!外からマンハッタンカフェ!先頭のアグネスタキオンと並んだ、マイネルデスポットは3番手争いか!マンハッタンカフェさらに加速して突き放す!マンハッタンカフェ先頭だ!勝ったのはマンハッタンカフェ!ゴールしました!今年の有馬を制したのはマンハッタンカフェ!!アグネスタキオンを差しきって見事勝利です!今年のURA!この世代が強すぎる!〉
〈いやぁ、この子が最強かな、と思ったら、勝っちゃいますからね、さらに超えてきて……いや、もう、半端じゃないですよ!〉
しばらく語彙力が戻らない様子のスペシャルウィークの解説であったが、幾万人もの観客は意に介することなく、中山レース場は割れんばかりの喝采に満たされていた。
マンハッタンカフェは、自分がどのような表情をしているのか分からぬまま、ひとまず観客スタンドの誰にむけてともなく手を振り、そしてすぐ隣のタキオンの方を見た。
いつも半笑いで、本心の上に何がしかのヴェールを被せているようなタキオンが、その時ばかりは心底からの歓楽を瞳に表していた。
「カフェ!……カフェ!!こんな近くに、特異点として居てくれたとはねぇ!いや勿論、想定はしていたがねぇ、もっと早く、味わわせてくれても良かったろうにねぇ!」
「……皐月賞以来、共にレースする機会が無かったのは、タキオンさんのせいですよ……。」
マンハッタンカフェは、タキオンに言い返したとき、初めて自分の頬が想定以上に緩んでいる様に気づいた。
幾万人もの観客たちからの声援を再び受け止めるだけの顔つきが戻るまで、カフェはコース内側に並んでいるタキオンの方へ、僅かに俯けた顔を向け続けていた。