窓の外は乾いた寒風が吹き去っているが、教室の中は温かで、差し込む昼下がりの陽射しを浴びていれば、知らず内に微睡んでしまう。
午前で授業が終わったこの日、教室内での軽食を済ませたひとりのウマ娘が、今まさに机に頬杖をついたままウトウトと舟を漕いでいた。
そっと足音を忍ばせて寄ってきたクラスメイトが、彼女の頬にピタリと冷たいジュース缶を当てる。途端、葦毛にカバーを付けた耳がピンと立ち、悲鳴と共に彼女は飛び起きた。
「ひゃあっ!……もー、なんなん!こんの寒い1月に、冷た~いジュースを差し入れしてくる友だち、普通いる!?」
「へへー、ミラ子があんまり無防備なほっぺをさらしてるもんだから、つい。」
文句を垂れながらも、クラスメイトからジュース缶を受け取り、開けている葦毛のウマ娘。
ミラ子と呼ばれた彼女の頬には、長時間頬杖をついていたため薄赤い痕がついていた。クラスメイトのウマ娘は、それを指さしながら告げる。
「そんな顔して歩き回んないでよ、今の時期。進路指導の先生にブン殴られたんじゃないかって心配されちゃうし。」
「えぇー、そんなことある?大昔のスパルタ教育じゃあるまいしー。」
「それがあるかもしんないレベルなんよ、さっきも生活指導室の前を通りがかったら、かなりの剣幕で喋ってる先生の声、響いてたし。」
1月。それもトレセン学園に昨年4月に入学した世代のウマ娘たちにとって、新年を迎えるこの時期は、かなり重要な節目である。
当然、全てのウマ娘がトントン拍子にデビューを済ませ、そしてレースウマ娘としての日々を送っているわけではない。GⅢクラスどころか、オープンクラスに届くウマ娘であってすらも戦績上位を占めるごく一部の存在である。
順調な歩みを進められるウマ娘はごく一部の例であり、少なくとも過半数のウマ娘はプロとしてレースに出走せず、トレセンを卒業したという学歴を手に進学、ないし就職する道を見定めることとなる。
その決定を後回しにすればするほど、ウマ娘自身にとって歩む道は厳しくなった。本格化を迎えるべき時期を過ぎてなお、勝てぬレースに挑み続けるのは体力的にも厳しく、そして精神面でも追い込まれていく。
彼女らが失意のどん底に突き落とされる前に、決断を迫るのも指導者の仕事である。畢竟、進路指導の教員たち自身もまた胃を悪くするのが今の時期であった。
「レースで全然勝てなかったら、そろそろ諦めて大学進学のこと考えなきゃだし。身体壊しちゃったら、受験勉強どころじゃないもんねー。」
「そーそ。この私みたいに、受験戦争に備えて体力温存するのがいちばん。」
「受験前日まで体力温存してそうだよね、ミラ子は。」
「いやそんなん、流石の私でも……やるかも。」
自分が今いるトレセン学園がシビアな世界であることは自覚していながらも、ミラ子とクラスメイトはノンビリと談笑していた。
もちろん、彼女らがある程度呑気におしゃべりを楽しんでいられることには、それ相応の裏付けがあった。あと少しで夢の舞台に届きそう……というわけでもないウマ娘にとっては、トレセン学園在籍という実績自体が大きなチャンスへの道でもあったのだ。
「頭いい子は羨ましいなー、ぜんぜん勉強してないって言ってるわりに、昨日の休み明けテストでもクラス一位だったじゃん。」
「学年だともっと下なんだけどね。私のことはいいの、ミラ子はどうなん?そろそろ担当トレーナーさんとかが決まる頃じゃない?」
「いやいや、いやいやいや……結局、去年も何回か走ったけど、ぜんぜん勝てなかったし。それにむしろ、トレーナーが決まったりしたら、後戻りできなくなるやん?」
ミラ子は、昨年の8月11日という、入学1年目のウマ娘にしては比較的早いタイミングでデビュー戦へと出走し、七着という結果で初戦を終えている。
早い時期からデビューを決意したのは、やる気があったためではなく、時期が後になるほどレース出走ウマ娘たちの雰囲気が殺気立ってくることを見越していたためだ。
とくに入学1年目の末から2年目の春先にかけては、このチャンスを逃してなるものか、と目を血走らせたウマ娘たちがしのぎを削るレースが、18名立てのフルゲート出走で続々行われる。
トレセン学園での実績をそれなりに残しさえすればいい、と考えているミラ子は、戦績がぱっとしなくても不自然ではない早い時期でレース出走を済ませておきたかった。
「まー、7戦ぐらいしとけば、履歴書も埋めやすいでしょ。デビュー時期も遅くにずれ込んでないから、内申点も良さげだし。」
「ミラ子って、そういう所だけは計算高いよねー。いっつもぽやんとして、何も考えてなさそうな顔してるのにさ。」
「でしょー、走り出す前からハードル下げてもらうのが、ウマ娘として生きる秘訣ってもんなんよ。」
ふわっとカールした葦毛を両頬に当てながら、ミラ子は若干極端に惚けた笑顔を作り、おどけてみせた。
彼女は昨年の11月4日を最後に、レース出走を打ち止めとしていた。楽をして進学するにしても就職するにしても、ある程度は勉強する備えをしておかなければならない。そのためにも、体力を消耗するような行いには今後極力関わらぬつもりであった。
窓の外、グラウンドでは今なおデビューを夢見てトレーニングに励む同級生たちの、ジョギングの声が聞こえる。
「皆、よくあんだけやる気がもつよねー。わたしゃ1年目で、一生ぶん走りきったような気がしてるってのにねぇ。」
「婆さんみたいなこと言ってるじゃん。そういやミラ子、アンタはもうトレーニングいかないの?流石に、4月になるまでは1年生だし、完全にトレーニング免除にはならないんじゃ?」
「あははー、今日は進路相談するってことで、先生との面談があるからトレーニングはお休みー。ま、もう決まったことを先生と確認するだけなんだけどさー。」
「学園公式のサボりじゃん。ウチよりミラ子のほうが頭いいんじゃない?」
さほど貪欲なやる気を示さず、サボる手段にばかり頭が回るミラ子であったとしても、仮にもウマ娘としての最高学歴である中央トレセン学園に入学するだけの頭脳は持ち合わせている。
その学園を、自分の走りを磨く場としてではなく、自分の生き様を楽にするための権利として最大限扱おうとしている点だけが問題だったのだが。
「いやいやぁ、頭がいいだなんて、どんだけ謙遜を知らない私でも、そんなこと思っちゃいませんよー。それに、ホントに頭がいいウマ娘って、有名な先輩がいるじゃん?」
「あぁ、あのヤバい方のアグネスね……二名も居て、どっちもヤバいらしいんだけど。私が聞いたことあるのは、入学式の日に爆発事故を起こした、って話かな。」
「マジぃ?ヤバさの次元が思ってた以上なんやけど。」
アグネスタキオンが2年前の入学時、かってにグラウンドで野良レースを開始しようとした面々のスターター代わりに、薬物混合によって盛大な爆発を引き起こしたのは、もはや伝説的な語り草となっていた。
ミラ子は驚いたように目を見開きながらも、面白がりながらその話を聞いていた。
そこそこの戦績だけを残し、学園卒業後には平凡な生き様だけを予定している彼女にとっては、その先輩が皐月賞を獲り、さらに長期間の活動休止後に復帰して天皇賞まで獲った……などという話は、雲の上、あまりにも自分とは無関係の世界に生きるウマ娘の夢物語にしか聞こえなかった。
「でも学園もビックリしただろうね、そんな問題児が、ジャングルポケット先輩とかマンハッタンカフェ先輩に並ぶほどのトンデモない逸材だっただなんて。」
「はぇー、世の中なにが起こるか分からないもんだねぇー。」
「さっきから老化してないミラ子?完全に言動がお婆ちゃんだけど。」
「青春を謳歌してる女子に向かって何をご無体な。」
今度はわざと声をしわがれさせて、老婆のような声を作って聞かせ、クラスメイトと笑い合っているミラ子。
平凡なウマ娘の、平凡な午後は和やかに過ぎていった。やがてクラスメイトのウマ娘も自身の用事のために去り、後には若干傾きを増した午後の陽射しを浴びているミラ子が窓際に残された。
「さぁて、そろそろ先生との面談時間かねー。」
ボケッと頬杖をついて座っていたため、少々凝った肩や腰を伸ばしてポキポキ言わせながら立ち上がったミラ子は、大あくびをひとつかましながら教室の出口へと向かう。
ガラッ、と扉を引き開けたのはミラ子自身ではなかった。まるで自動ドアのごとく、ミラ子が来るのを待ち構えていたように開いた扉の向こうを、あくびで出た涙を擦りながらミラ子は訝し気に見る。
直後、彼女は全身が硬直することとなった。
目の前に立っていたのは、つい先ほど友と話の肴にした“ヤバい方のアグネス”先輩ウマ娘……すなわち、他ならぬアグネスタキオンであったのだ。
「……え……?」
「見つけたねぇ!なるほど、キミが!今の今まで、理事長もトレーナー達も注目しないワケだねぇ!タニノギムレットくんのようにギラついた渇望もない、シンボリクリスエスくんのように愚直な勤勉さもない!だが隠れおおせられはしないねぇ、この私が特異点の兆しを見逃しはしないねぇ!」
「は……?あ、あのぉ……何の、ご用で……?」
若干失礼な内容を、相手の反応など構いもせず猛烈な勢いでまくしたてているアグネスタキオン。
戸惑いの中には相当量の恐怖も混じっていた。平穏な日常を送っているミラ子の世界観に、突然異世界から異形の化け物が躍り込んできたような感覚であった。
トレセン学園内でもいたって普通のウマ娘であると自認していたミラ子が、トレセン学園内で最も異常なウマ娘のひとり……いや、ふたりに、何の前触れもなく遭遇することとなったのだから。
思わず後ずさったミラ子であったが、彼女の退路を塞ぐように、いつの間にか別のウマ娘が背後に立っていた。
「“METI”……“シンチレーション”は『当然のこと』だよ。この“REEN”こそ、ミューテフ、だね。」
「……はぇ!?……え!?」
もはやミラ子は言葉を発せていなかった。知らぬ間に背後に立っていたのは、ネオユニヴァースである。クラシック三冠、さらに宝塚記念や天皇賞春まで、主たるレースを総なめにした、言わずと知れる優駿だ。
そんなウマ娘が居ること自体にも、他に誰もいなかったはずの教室内からユニヴァースが現れたことにも極度の驚きが重なり、完全にパニック状態のミラ子。
タキオンは、求めていた相手の身柄確保は叶ったと見て、多少なりと状況を整理する余地を相手に与える方向へ思考をシフトしたらしい。
「挨拶もなしに混乱させてしまって済まないねぇ。私はアグネスタキオンだ、今日はキミをトレーナーくんの元へ連れて行くために、ここへと来させてもらった。」
「えぇと、と、トレーナー……?」
「わざわざ言い直す必要があるほど、難解な単語ではないはずだがねぇ。そう、トレーナーくんだ。君には専属の担当トレーナーがつくことになった。喜びたまえ。」
「『トレーナー』の存在は“QOAX”……『必要性のある』“SLCT”だよ。」
説明されたことで、より状況が呑み込めずにミラ子は目を白黒させている。背後のユニヴァースが補足を入れているつもりのようだが、彼女の言い回しは余計に難しくなるばかりであった。
辛うじて、「自分に担当トレーナーがつく」という情報だけは理解できたミラ子は、どうにか返答を口にした。
「あ、あのぉ、どなたかとお間違えでは……?私以外にもヒシ冠名のウマ娘は居ますし、ミラクル、って名前の子も他にいますし……。」
「キミの名前は、ヒシミラクル。間違いないねぇ?」
「は、はい……。」
「昨年度の戦績は、8月11日小倉芝1200mにて七着、8月25日小倉芝1200mにて十一着、9月8日阪神芝1200mにて八着、9月23日阪神芝1200mにて九着、10月7日京都芝2000mにて五着、10月21日京都芝1800mにて二着、11月4日京都芝1800mにて三着、という結果を残した、ヒシミラクルくんで間違いないねぇ?」
「え、えぇと……流石に私も、そこまでハッキリとは覚えてないんですけど……。」
淀みなく戦績内容を一息に喋り切ったタキオンを前にして蒼ざめているミラ子、その背後でネオユニヴァースがペチペチと小さく拍手している。
タキオンが完全にミラ子の戦績を暗記していることに対してではなく、ヒシミラクルというウマ娘の戦績に対して拍手しているらしかった。そうとは気づかず、ミラ子は言葉を続ける。
「い、いま、おっしゃったように、私はレースに出ても全然勝てないウマ娘でして、それでレースの道ではなく進学する方向で考えてまして、あっ、そうそう、だから今から進路指導の先生に会いに行って面談をする予定でしてぇ……。」
「その予定はキャンセルされたねぇ。キミ自身は自覚していないようだが、着実に戦績は成長を示しているねぇ。それにデータを参照する限り、キミは短距離ではなく長距離でこそ本領発揮できるウマ娘だねぇ。以上の判断材料から、トレセン学園理事長から直々に、専属トレーナーを担当させることが決定されたねぇ。」
「……ホントに……ですか?」
「私の口からでは信頼できないかねぇ?いや、だが、あぁ!ちょうどいい!キミが言うところの、進路指導の先生が自らお越しになったねぇ!」
タキオンが指さした先、廊下の向こうから歩いてくるのは間違いなく、ミラ子がこれから会いに行くつもりだった、面談相手の教員であった。
心なしか緊張した面持ちで、大事そうに書類を運んでくる。
生活指導室で生徒が来るのを待つのではなく、教員みずからが生徒の元へ足を運ぶというのは、それだけミラ子がトレセン学園にとって重要な存在であると認められた証拠であった。
……そして、ほどほどの戦績だけを手土産に、平凡な道へ進もうとしていたミラ子の生涯設計が、大きく崩れた瞬間でもあった。襟を正した進路指導の教員は、改まった声で語りながら書類をミラ子に手渡す。
「ヒシミラクル。君には専属トレーナーがつくことになった。今から練習場へと向かい、トレーナーさんに挨拶しに行きなさい。おめでとう、GⅠレースでヒシミラクルの姿を見る日を楽しみにしているよ。」
「へぇ……?えぇ……?」
「ようこそ、ようやっと私にも可愛い後輩ウマ娘が出来たねぇ!ウチのトレーナーくんは、まあ、それなりに役立つから期待しておきたまえ!」
「スフィーラ……『おめでとう』を、贈るよ。」
この場で最も嬉しそうにしていたのは、アグネスタキオン……そして、表情こそ動かさぬままであったが、ネオユニヴァースもまた、新たな世代のウマ娘が大勝負の舞台に上がってきたことを祝福していた。
もはや完全に顔面蒼白となっているヒシミラクルの背後で、彼女の気も知らないままにネオユニヴァースの拍手の音がペチペチと響いていた。