自分が今担当しているアグネスタキオンに加え、もう一名別のウマ娘も担当することが学園から決定づけられたとき、鷹木の密かな内心は、舞い上がっていなかったとは言えない。
基本的に若手トレーナーはベテランの下で実践経験を積んだのち、単独のウマ娘の指導に専念する日々が続く。技術やデータがどれほど完璧に頭に入っていたとしても、指導能力が身につくのはまた別の話だ。
とはいえ鷹木もトレセン学園に勤め始めて数年、そろそろ自身のことを若手トレーナーとも自称できなくなってくる時期であった。
複数名のウマ娘の指導を任されることはそれだけ自分の能力や実績を認められた証である。いずれチームを率いるトレーナーとなる夢も、現実へと近づく。が、自分自身がさほど強固な精神を有しているわけではないとの自認がある鷹木は、すぐさま緩みかけていた表情を締めた。
「気を引き締めなければ。1月というこの時期に専属担当が決まるってのは、あまりにも遅いタイミングだ。よっぽど、素地となる才能があるのに、勝ちきれず悩んでいる子が来るに違いない。」
この数年、テイエムオペラオー、アグネスタキオン、と問題児である代わりに基本的な能力が異様に高いウマ娘を担当してきたこともあり、今度こそトレーナーの指導を求めるウマ娘を担当できると予感した鷹木は心機一転の意気込みを固めていた。
その数年を経たが為に、トレーナーとしての指導力を必要とされたい……という願望が強まっていなかったとも言えないが。
あるいは、昨年4月の入学から10ヵ月が経とうとする1月になって、初めて担当トレーナーを得るようなウマ娘が、普通のウマ娘であろうはずがないことに気づいているべきだったかもしれない。
翌朝。いつになく緊張した面持ちの鷹木は、ここ数年のレースデータおよび映像をまとめたノートPCを抱え、使用予約を取ったトレーニングルームで新たに担当するウマ娘を待っていた。
約束の時刻はとうに過ぎている。
「来ないねぇ。担当トレーナーと先輩ウマ娘である私を待たせるとは、良い度胸をしているねぇ。」
「お前も他者のことは言えないだろ、タキオン。」
余計な口を叩きながらもタキオンは既にウォーミングアップを済ませ、予定したメニュー通りのトレーニングを開始している。来月の京都記念への出走を既に決めているため、得意とする距離のレースに向けての調整は既に始まっていた。
もはや自主的にトレーニングへと向かう現状を前にすれば、入学当初のタキオンが有していたサボり癖は嘘のようであった。GⅠの舞台を実際に経験し、引退の危機も乗り越えた今であればこそ、ウマ娘として走りを鍛えることの意味を、単なる勝敗の枠を超えてタキオンは理解しているのだろう。
……一方、新たに担当することが決まったウマ娘は、暫く待ち続けても相変わらず姿を現さない。じわじわと嫌な予感が高まるのを感じつつ、鷹木は立ち上がる。
「連絡、入れてみるか。」
「音声通話かい?私にも聞こえるようにスピーカーで喋りたまえ。」
タキオンがトレーニング用バイクから降りて歩み寄ってくる。困り顔の鷹木を気遣うためというよりも、タキオン自身の好奇心を満たすためであろうことは言うまでもない。
初めて連絡を入れる都合上、鷹木はトレセン学園生徒データと照らし合わせながら通話した。「ヒシミラクル」の名の横に、いちおう真顔のつもりであろうが若干半笑い気味の、葦毛ウマ娘の顔写真が添付されている。
コール音が数回鳴り、そろそろ掛け直そうかと考えだした矢先、ようやく応答があった。
〈もしもし……?〉
「ヒシミラクル、だな?初めまして、鷹木だ。名前は担当が決まった際に聞いていると思う……今日はトレーニングルームでの初面会と、今後のトレーニング方針を定めるため軽く身体能力を見る予定だったんだが、来れないか?」
〈あっ……トレーナーさん、だったんですね。いえすみません、知らない番号から掛かってきたもので、出るかどうか迷っちゃって……スマホ内に登録しときます。〉
初手のやりとりから、さっそく今どきのウマ娘らしい口調が飛び出していた。
見知らぬ電話番号から通話があった場合は、ほぼほぼ出ず、後ほど電話番号が詐欺や迷惑電話に用いられるものでないか検索して、折り返し発信などしない、というのが若い世代である。重要な話ならばメールやメッセージ機能で確認が来るし、公的な内容ならば封書がいずれ郵送されるだろうためだ。
そして、鷹木が喋った内容に対する直接の返答は、未だ得られていなかった。おそらく、何らかの言い訳を考えるための時間を稼いでいるのだろう、と考えつつ鷹木は改めて口を開く。
「ヒシミラクル、ちゃんと答えてくれ。今日は君のためにトレーニングルームの予約を取っている。具合が悪いのなら、その旨を伝えてくれたらいい。」
〈あっ、はい、そう……なんですよ、ちょっと今朝は朝から脚に違和感があってですね。ちょーっとお休みをもらおうかなーって〉
「違和感というのは、脚のどの部位に、どの程度、いかなる痛みがあるのかねぇ?具体的に伝えてくれたまえ、場合によっては治療を急がなければならない、放置すべきではない負傷が内部に隠されているかもしれないからねぇ。」
急に割って入ってきたタキオンには鷹木も驚かされたが、通話口の向こうに居るヒシミラクルも更に驚いた様子であった。
沈黙が数秒続いたのち、あらためて返答するヒシミラクルはしどろもどろになっていた。
〈えーっと……なんといいますか、こう、きしむような、じんわりした痛みが足先に……〉
「足先かい?それは私たちウマ娘に特有の繋靱帯が炎症を起こしている可能性が高いねぇ。私は屈腱炎に悩まされたが、繋靱帯もレースウマ娘の天敵だ。そうだろうトレーナーくん。」
「あぁ、走っている際の衝撃を受け止める重要な部位だ、無茶は出来ないな。」
もしも本当に繋靱帯炎を起こしていれば、少なくとも長期間の治療が必要となり、トレセン学園の寮でのんびりしていられる状況ではないはずである。鷹木はその点を喋ろうかとも思ったが、タキオンから視線で牽制され、口を噤んだ。
何にせよ自分が適当に喋った内容を、うまいことタキオンと鷹木が解釈してくれたおかげで、ヒシミラクルは多少なりと安堵したらしい。
〈そうなんですよぉー、まぁこういうことは今までにもありましたんで、数日寝てたら治ると思います。〉
「油断は禁物だねぇ。今はベッドで安静にしているのかい?今も痛んでいるのかねぇ?」
〈はい、無理に体重を掛けないよう座ってます。やっぱり走らなきゃって思いはありますけど、寝てるときも痛みが走るとどうしてもねぇー。〉
「繋靱帯の痛みが発されるのは、脚に体重を掛けた時だねぇ。要するに、安静に座っている時に痛むはずがないねぇ。サボりの理由を考えるなら、きちんと勉強してからにしたまえ。」
ヒシミラクルが誘導されるがままに喋り、まんまと露呈させた矛盾点を、逃さず捉えたアグネスタキオン。
鷹木だけが対話していたとしたら、こうはいかなかっただろう。うまくトレーナーからの通話を乗り切ってサボれるのも目前、と踏んでいたヒシミラクルは暫し絶句していたらしく、多少の間を空けてしゃがれかけた声をようやく返した。
〈いやぁその、座っていても痛いのは、それだけ症状が悪化しているせいかも〉
「体重を掛けていなくても痛むほどに悪化していれば、もはや大手術は免れないねぇ!競走ウマ娘としての選手生命以前に、キミ自身の生命が脅かされるレベルだよ!それが真実ならばどうだい、今すぐ救急車をウマ娘寮前まで呼ぶが……」
〈あっ、いえ、そこまでじゃないので!い、行きます、行きますから……〉
苦し紛れのヒシミラクルが追加したサボリの口実の矛盾点に対し、間髪を入れず畳みかけるタキオンの鮮やかな手腕を目の前にしながら、鷹木は褒めるにも褒められぬ微妙な境地にあった。
他ならぬタキオン自身の入学当初、サボりの手段を様々に考案していた経験が活かされた結果であることには間違いなかったためだ。
数分と経たぬうちに、ヒシミラクルはトレーニング室へと現れた。もはや入学から10ヵ月、学園内の施設の場所が分からないという言い訳は通らないだろうと彼女自身も諦めがついたのだろう。
「ど、どうも、お騒がせしました……あと、お待たせしてすみません、トレーナーさん。」
「結局来てくれたのならいいんだ、ヒシミラクル。改めて、君の担当をさせてもらうことになった鷹木だ、よろしく。それから、こちらの先輩ウマ娘は……わざわざ紹介する必要もないか?」
「当然だねぇ、この私を知らない者などトレセン学園どころか全国隅々まで探し回っても、居るはずがないねぇ!だが敢えて名乗らせてもらおう、アグネスタキオンだ!ウマ娘の限界の先へと至るため、特異点たる存在を希求し続ける探求者でもあるねぇ!ヒシミラクルくん!キミにも特異点の素質がある、私がそう判断した!」
「そうですか、どうも、よろしくです……」
あまりに独立したテンションでまくしたてるタキオンから、若干距離を置きながらヒシミラクルはボソボソと返事している。
先ほどのサボり口実を見抜く上では大いに心強かったものの、少なくとも第一印象を円滑に築く上では助けにならなさそうなタキオンをさっさとトレーニングへ戻らせ、鷹木は予定していたやり取りを始めた。
昨年の夏、早々にデビュー戦を済ませていたヒシミラクル。彼女の戦績をプリントアウトしてきた紙をテーブルに並べ、話を切り出す。
「専属トレーナーなしで、かなりタイトなスケジュールで走っていたんだな。ここだけ見せられると、相当やる気に満ち溢れたウマ娘ではないかとも判断できなくはない、んだが……」
「へへ、まぁ、既に私の本性の片鱗を見せちゃったようなモンですけど、私、そんなガツガツとレースする気もないんですよねー。」
鷹木の立場からも、入学して間もない時期のウマ娘を担当するのとはワケが違う。年が明けて1月になるまで担当トレーナーが決まっていなかったウマ娘は、ほぼレースの道に進まぬことが確定していたようなものである。
マイペースな性格は見た目の印象通りであったが、ちょうど去年の夏合宿を終えた頃、後輩ウマ娘たちのことを話題に挙げた時にタキオンが語った「シビアな現実主義者」という評は、当たらずとも遠からずであった。
昨年、ヒシミラクルが走ったレースは8月に2回、9月に2回、10月にも2回……と、かなり近い日程に集まっている。
この頻度のレースを全て本気で勝つつもりで走っていたら、先ほどのサボりの口実通りの症状が、昨年の秋を待たず発生していただろう。勝つつもりもなく、ゆるく走っていたおかげで、故障とは無縁のまま走り切れたのだ。
「体を壊さず、トレセン学園に在籍中、レースに一定数以上出走するという実績を得る。その目的を達成する上では、最適な手段には違いないな。トレーナーとして、本気で勝ちを狙わずレースに出ることを、褒めるわけにもいかないが。」
「ですよねー。……なので、その、せっかく私のために専属担当してくれるっていうトレーナーさんには悪いんですけど、今後走るにしても、そこそこの戦績で引退できればなぁ、と。」
「そうか……うーん……。」
ここでウマ娘としてのやる気を焚き付けるため、激励の言葉を出せるのがトレーナーとしての理想なのかもしれないが、鷹木は踏み切れなかった。
言わずもがな、これまで担当してきたウマ娘たちに関して最も心配を膨らませたのが怪我への恐れであったためでもあり、またレースウマ娘としての道程が栄光ばかりではない、むしろその逆を味わうことの方が大半であると分かっていたためだ。
今でも、デビューにこそ漕ぎつけたものの、オープンクラスにも届かず、勝負服に袖を通すことなく引退するしかなかったウマ娘たちの去っていく後ろ姿を夢に見る。
レースの道になど引っ張り込まず、最初から進学や就職の準備に専念させられていれば、ずっと良い生活へと進ませてやれたのではないかとの自問は、そのたびに湧き起こる。
ここがトレセン学園であり、自分がトレーナーである以上、決着のつく思考ではなかった。
「……ヒシミラクル。タキオンと併走してみるか?」
「……はぇ?」
鷹木は、自分の考えがまとまり切らぬうちから、言葉を発していた。
ヒシミラクルは完全に虚を突かれたような表情であったが、鷹木も内心同様であった。
自分は何を思って、そんな提案をしたのか。今日は、ヒシミラクルと軽く面談した後、現状の彼女の身体能力を精密に測定するため、このトレーニング機器の並ぶ練習部屋を予約したというのに。
……ただ、専属の担当トレーナーの下で練習に励むという状況に乗り気ではないヒシミラクルに対し、予定通りの働きかけを続けても、彼女の気分が覆るわけではないことだけは確かであった。
「はっきり言うが、きみでは勝てない相手だ、アグネスタキオンは。」
「ま、まぁそりゃ、分かってますよ、あちらさんは皐月賞に天皇賞まで獲ってらっしゃって、こちとらデビューから7戦もやって、まだ未勝利ですから、えぇ。」
「担当ウマ娘をそんな相手にいきなりぶつけることは普通やらない、自分が勝てる可能性が皆無のレースを繰り返しては、モチベーションを潰すことになりかねない。だが、ヒシミラクル、きみは……肉体面でも精神面でも、十分に強靭だ。」
「そ、そうですかねぇ?」
タキオンの言っていたことに鷹木も完全同意したわけではなかったが、確かにウマ娘としては特異な要素をヒシミラクルは有していた。
大多数のウマ娘が、条件戦を繰り返すだけで引退していく。そんな彼女らでも、レースで勝てなかった後は、表立って悔し涙こそ流さなかったとしても、心の奥底に平常ならざる蟠りを抱えている様が、表情の隅に垣間見える。
ウマ娘は、本能的に、どうしようもなく走らずにいられない存在だ。
ターフに立ち、歓声を浴びれば、最後に対戦相手達を振り切って先頭に立とうとする衝動が、全身を突き抜ける。それが、どんなに注目度の低いレースであっても、何ら賞金の出ない野良レースであっても。
だが、鷹木が前日、繰り返し見たレース映像内にて、戦績こそ目立たずともヒシミラクルは“普通”ではなかった。
各レースのゴール後、集団に埋もれて息を整えているミラ子は、時には悪バ場にて前のウマ娘が跳ね上げた泥を全身に浴びながらも、表情を変える様を微塵も見せていなかった。
自身がさほど乗り気でなくとも、周囲の対戦相手達の発する熱気を肌で感じることもあろうが……ヒシミラクルの目の色に、その熱が伝染った様子など全くなかった。
「要するに、ヒシミラクル、きみは自分のペースを貫いて走れるだけじゃない。どれだけ自分と相手との力量差を見せつけられても、モチベーションが下がらないしたたかさがある。さらに言えば、目に見えて息切れした様子も今のところ見せていない。鍛えることに関しては、かなり得をする性質を備えていると言えるだろう。」
「ほんまですかぁ……?」
「あぁ、そうでなければ、昨年の11月4日、京都芝1800m、現時点で最後のレースを終えた時、あれほど余裕のある表情と歩き方は出来ないだろう。よし、決まりだ、タキオン!」
じわじわと口調が早まっていき、喋る量がタキオンと同等に増えてきた鷹木を前にして、ヒシミラクルは若干身を引きながらも、どこか納得する思いを抱いていた。
押しも個性も強いアグネスタキオンと、小心な内面が覗きっぱなしの鷹木トレーナー。
まるで釣り合いの取れていない両者だが、ともにレースに関しては熱意を間違いなく示し、そして自分の語りたい内容に関しては急に早口になる、いわばオタク的な性質を有していることに関しては似通っているのだ。
「このトレーナーさん、担当ウマ娘さんから影響を受けやすい、ってところでしょうかね……私の性格、うつさないようにしなきゃ……。」
ミラ子は小さく呟きながら、鷹木につられるようにして立ち上がる。
むろん、本格的にレースウマ娘として歩み出す事を、我が事として受け入れるだけの心の準備など全くできていない。
だが……行動選択の中心に損得勘定を置くことを常としてきたヒシミラクルにとって「皐月賞ウマ娘、アグネスタキオンと併走する」という経験は、滅多なことでは得られない機会だと強く認識された。気が向かずとも、一度ぐらい経験しておけば話のタネにでもなるだろう、と感じたのである。
タキオンは今しがたトレーニング機器から降りてきた所であったが、鷹木の表情を見ただけで内容を察したようであった。
「おや、もしかしてこの私と併走でもさせようというのかねぇ!ヒシミラクルくんを!悪くないねぇ、私も彼女が有する特異点の片鱗を味わってみたいと思っていたとこだねぇ!」
「あぁ、行こう、今の時間なら、中央グラウンドの外回りコースが空いてるだろ。長めのコースでの走りも見ておきたいからな。」
鷹木とタキオンは頷き合って、スタスタとグラウンドの方へ出て行く。
両者の歩調がぴったりと合っているのをミラ子はひそかに発見し、小さく笑いつつも後について行った。