ウマ娘レースの展開が予想を超えた時を除けば、滅多なことでは驚きを示す事のないアグネスタキオン。
殊に、レース場の外、トレセン学園で過ごす時間の中では、まずアグネスタキオンが意表を突かれることなど無いと思われていた。……が、今、彼女ははっきりと想定外の事態に直面していた。
ジャングルポケットが、二日連続でタキオンのもとを訪れたのである。普段は練習に忙しく、偶に空き時間があってもわざわざ会いに来ることなどない。
「あのポッケくんが、この私の顔をそう頻繁に見に来るとは、流石に予想できるはずもないねぇ。そんなに私のことは好きではないだろうと前々から察していたのだがねぇ、よもや、今になって急激な心境の変化を迎えたのかい、ジャングルポケットくん?」
「オメーに対する印象は変わらねーよ、ただ……俺の単なる愚痴を持ちこむ場所が、他に思いつかねぇ。」
その説明はタキオンにとって不本意な内容ではあったが、同時に納得できるものでもあった。
ジャングルポケットの性質上、納得の行かぬ出来事を胸の内に秘めておくことは難しいのだろう。誰かを相手に吐き出さずにはいられないが、同期の知り合いであるダンツフレームやマンハッタンカフェは、愚痴を持ち込まれても困り顔を見せるばかりで、ポッケは申し訳なさを大きく感じる羽目になるだろう。
すなわち、愚痴を聞かせてもあまり心が痛まないタキオンと、その図太い後輩、話を遠慮なしに聞き流すことの多いヒシミラクルが、話し相手の最大候補となるのだ。
「なるほど。それならば理屈は通るねぇ。納得はいかないがねぇ。さっさと用件を言いたまえ。いや、愚痴を聞かせに来たのならば、用件と称するのは適していないかねぇ。何でもいいから話を進めたまえ、私は休憩ついでに聞き流させてもらうから。」
「私も聞き流しますから、ご遠慮なさらずどーぞですよぉ。」
明らかに手を抜いて練習コース上を流して来たヒシミラクルが、さほど流れてもいない汗をタオルで拭きつつ、ドスンと休憩エリアのベンチに腰掛ける。
練習へのやる気がまるで感じられない様には鷹木トレーナーも頭を悩ませていただろうが、ポッケにしてみれば適度に手を抜く習慣が身についた後輩の面倒を見ることは、さして神経を使わぬだろうと感じて羨ましかった。
胸中で渦巻いていた不安と不満の中から、言葉として取り出せる形を見つけ出しながら、ジャングルポケットは一言一言語っていく。
「シンボリクリスエスのことだ。昨日、あいつがセントポーリア賞で二着になったのは、お前らとも一緒に見たけどよ……桂崎トレーナー、すぐ来月の頭に、もうクリスエスをレース出走させることを決めてんだ。」
ジャングルポケットがその旨を直接教えられたわけではあるまいが、同じ桂崎トレーナーの指導下にあるクリスエスに関する話は否応なしに耳に入ってくるのだろう。
URAからの招聘でアメリカから渡り、鳴り物入りでトレセン学園へと入ってきたシンボリクリスエス。
そんな彼女が、恵まれた体格と身体能力を有しながらも、おそらく心肺機能の成長が追いついておらず苦しいレース展開を続けている様はタキオンも前々から見知っていた。
「おや、あの堅実な桂崎トレーナーが、随分と気の早いことだねぇ。来月の頭というのは、具体的に何月何日のことだい?」
「2月9日。桂崎トレーナーに限って、焦るなんてことはねーと信じたいけどよ、いくら何でも短すぎんだろ、調整期間が。」
「セントポーリア賞が昨日、1月27日。そして次の出走が2月9日とはねぇ。確かに、たてつづけの出走だねぇ。」
「クリスエスがあの見た目ほど頑丈な身体じゃねぇ、ってことはトレーナーも分かってるはずなんだがよ……。」
深く俯きながら、ジャングルポケットはいつになくボソボソとした口調で喋っていた。
桂崎トレーナー本人に直接問い詰めるようなことをしなかったのは、ポッケ自身が自らの性格をよく分かっているためだろう。クリスエスが半月も経たず次のレースに出ることについて、どう説明されても自分が納得できないだろうことは明白なのだ。
入学当初とは違い、多少なりとおとなに近づいているジャングルポケットは、後輩であるクリスエスの目の前でトレーナーともめる姿を見せるわけにはいかないとも判断したのだ。
「桂崎トレーナーは、クリスエスには焦るなって伝えてる。トレーナー自身も、いつも通りに振舞ってるけど、あんなタイトスケジュールのどこが焦りじゃねぇってんだ。」
「……2月9日に行われる、トレセン学園1年目ウマ娘限定の、おそらく条件戦かつ、セントポーリア賞と同様の東京レース場で行われる、要するにクリスエス君が出走しそうなレースは何だと思う?トレーナーくん。」
ポッケの愚痴りを半ば聞き流しつつ、タキオンは鷹木トレーナーへと予兆なしに話を振る。
ウマ娘たちの会話の輪から多少離れて座り、ノートPCを膝の上で開き、タキオンの調整内容およびミラ子のサボり内容に並行して頭を悩ませていた鷹木。
急にこちらへ向いたタキオンの視線の中であたふたしながらも、彼女が求めるデータを導き出すべくタブレット画面上に指先を走らせていた。
「えーっと、だな……これか?『ゆりかもめ賞』……2月9日、東京レース場第9レース、芝左2400m、1年目ウマ娘限定の、1勝クラス条件戦だ。」
「答えるまでもたつきすぎだねぇ、私のモルモットとしての自覚があるのならば、問いかけに対しては即座に返答したまえ。」
厳しめの評価をタキオンから受け取りながら、鷹木は慣れたように苦笑しながら視線をノートPC画面へと戻している。
タキオンから尋ねられた内容だけをヒントに、毎日何レースも行われる中から候補を絞りこんだだけでも相当に優れた推察力だと思いながら、ポッケは鷹木トレーナーへ同情と敬服の混じった視線を向けていた。
ともあれ、望んだ情報を得られたタキオンは、先ほどのポッケが語った愚痴への返答をようやく用意出来たらしい。
「セントポーリア賞の距離は1800mだったが、ゆりかもめ賞は2400mにまで増えているねぇ。桂崎トレーナーは、クリスエス君の距離適性を見極めたいんじゃないかねぇ。」
「けどよ、こんな短い期間で連続出走しなきゃならねーもんか?」
「それもまた、極力クリスエス君の身体能力に変化がない内に、異なった距離を走らせる意図あってのことじゃないかねぇ?1月27日から2月9日までは約2週間、トレーニングや調整を含めれば短いかもしれないが、身体の休息にしっかり時間を使うのならば、十分だと思われるねぇ。」
「……むしろ、その2週間をトレーニングに費やさず、クリスエスの体を休める期間にあてるってんなら、確かに十分慎重な見極め、かもな……。」
鍛錬を焦ることなく、休憩期間を挟みながら実戦で適性を確認するというのが桂崎トレーナーの方針であれば、それは確かに堅実なやり方ではあった。
練習でも他のウマ娘との併走は可能だが、本番のレースを経験してこそ、ペース配分や位置取りの有利不利を肌で味わうことが出来る。担当ウマ娘の戦績に勝利の記録を残す事ばかりを考えているトレーナーには、下せぬ判断でもある。
僅かながらもジャングルポケットの表情が晴れてきたのを横目に見つつ、タキオンもまた口調を変えて尋ねた。
「後輩の心配をしてやっているのは見上げた精神だがねぇ、自身の走りを心配しなくて良いのかねぇ?私は来月の京都記念に出走するが、ジャングルポケット君の名前が出走者リストに無かったねぇ。京都レース場では私に勝てない、と判断したのかねぇ?」
「ちげーよ、こっちも出走予定に合わせて調整進めてんだ。……俺は3月の阪神大賞典に出る。菊花賞の時みてぇに、長距離をカフェに譲るわけにはいかねーからな。」
「あぁ、なるほどねぇ、今度こそポッケ君は、天皇賞を獲るつもりでもあるのだねぇ。」
阪神大章典は、春の天皇賞のステップレースでもある。さらには長距離での強みを見出すためのトレーニング及び調整を進めているのだろう傾向から、タキオンはポッケの現状最も大きな目標をスラスラと言い当てていた。
タキオンからの無遠慮な推測に、ポッケはムッとした表情を浮かべたものの、敢えて否定する理由もない。
「タキオン、オメーこそ俺との勝負から逃げねぇだろうな?ダービーの時みたいに、アグネスタキオンが居なかったから俺が勝てた、みてーな話にはさせねーからな。」
「おやおや、去年のジャパンカップで私に勝てた割に、欲深いポッケ君だねぇ。さて約束は出来ないねぇ、私とて可愛い後輩ウマ娘の面倒を見なければならないのだし……ねぇヒシミラクルくん?」
「ふわ、わぁーぁあ……あ?は、はひ、なんすか?」
最初の一言以降、真横に座っていたにもかかわらず、いっさい会話に参加していなかったヒシミラクルは大あくびの最中であった。
思い返せば、少なくとも先輩ウマ娘の話に耳を向けていた間はまだ、ミラ子なりに緊張感をもって先輩と向き合っていた状態であったらしい。
宣言通りにここまでのやり取りを、比喩でもなく聞き流していたヒシミラクルを前にして、さすがのアグネスタキオンも数秒は絶句していた。ポッケは自然と眉間に皺が寄っていた。
「おい、ミラ子よぉ。オメーのその図太さは強みだとは思うけどよ、ガン無視は先輩としちゃ捨て置けねーんだよなァ……一戦、勝負しやがれ。」
「……へぇ!?わ、私が、ジャングルポケット先輩と、ですかぁ……?」
驚きの表情に関しては、タキオンとは違い、普通に顔に浮かべるヒシミラクル。それでも、心の底から揺るがされる様子が見えないのは、彼女生来の性格ゆえなのだろう。
ニヤニヤしているタキオンの前を通り過ぎ、ポッケは今のところほぼ存在感を消していた鷹木トレーナーへ声をかける。
「おい、トレーナーさんよ。お前んところのヒシミラクル、ちょいと貸してもらえるか?」
「えっ……と、そうだな……あぁ、タキオンは流石に大事な調整期間だから併走に付き合わせるわけにはいかないが、ヒシミラクルならいいぞ。」
先ほどのやり取りを、データ整理しつつ鷹木も小耳に挟んでいた。
タキオンは来月に迫る京都記念、京都芝2200mのレースに合わせたペース配分を組み立て、身体もそれに合わせて調整している。一方で、ジャングルポケットが今進めたいのは阪神大賞典や春の天皇賞といった、長距離レースに向けての調整だろう。
以前より、なかなか本気で速度を上げない代わりに、スタミナの残存が尋常ではないと思われるヒシミラクルの練習相手としてもうってつけであろうと思われた。
何しろ、昨年のダービーウマ娘が相手なのである。急にこの場で決まった併走とはいえ、練習相手としては、十分すぎるほど豪華だ。
当のミラ子は、タキオンとの扱いの差に文句を垂れていたが。
「酷くないですか?私だけ休憩時間削られたんですけどぉ……!」
「ヒシミラクルくん、覚えておきたまえ。サボるのにも才能が必要なのだよ、隙をさらしていては貴重なサボり時間が奪われるのを防げないからねぇ、今後は私を見習うといいねぇ。」
「んなこと見習わせんじゃねぇ。気が変わらねぇうちにやるぞ、さっさと来い、ミラ子。」
ジャングルポケットに連れられ、不承不承といった調子で練習コースへと向かっていくヒシミラクル。
さすがに、いきなり自分が決めた併走のため鷹木トレーナーの手を煩わせるわけにはいかない、と律儀なジャングルポケットは考えていたのか、スタートの合図は自分とミラ子が合わせて行うことにしたらしい。
小走りで向こう正面の入り口に向かっていった両名は、間もなくタイミングを合わせて走り出した。トレセン学園のグラウンドであれば、2周目の正面直線出口でちょうど3000mのコースとなる。
自らもそろそろ休憩時間が終わりに近づきつつあるタキオンはベンチからゆっくり立ち上がり、ウォーミングアップがてらの体操をしながらコース上へ目を凝らしている。
「どちらとも差し、追い込みの適性が高いから、スタートはゆったりしたペースだねぇ……いや、ゆったりしすぎじゃないかねぇ。ジャングルポケットくんの、更に後ろにつけているねぇ、ヒシミラクルくん。本番ならぶっちぎりで最後方だねぇ。」
「やっぱり、発破をかけないと、トレーナーである俺が……。」
実際のところ、鷹木はタキオンのトレーニングに重点を置いていることについては否めなかった。京都記念が来月に迫っているため、ばかりではない。
いくら平等にウマ娘たちへ接しようと考えても、これまで積み重ねた戦績があり、さらに今後も大きなレースへの出走が控えているウマ娘の方に、目をかけてしまうのは必然だった。
そんな鷹木がタキオンにばかり視線を向けているのをいいことに、ヒシミラクルがこれ幸いとサボっている……いや、鷹木がサボらせている状況は、一刻も早く改善しなければならない。走っている最中に声をかけ、もっと足を速く動かすよう急かすべきである、と鷹木も分かっていた。
だが、ウマ娘用の練習フィールドはあまりに広い。
向こう正面の出口に差し掛かったポッケとミラ子は豆粒のごとき小ささであり、よほどの図抜けた声量の持ち主でなければ、どれほど声を張り上げても言葉は届かないだろう。
「タイミングとしては遅いが、コーナーを回り切ってこっちまで来た時に、ヒシミラクルを急かすか。」
「ホントに遅すぎると思うねぇ。あの調子では、2周目に差し掛かる頃にはジャングルポケットくんとの間に埋めようもない差が広がってしまっているだろうねぇ。」
タキオンの言う通り、すでに10バ身以上はポッケとミラ子の間に差が広がっている。
差し・追い込みを得意とするジャングルポケットよりもずっと後ろで走っているミラ子が、勝てるはずがないのを良いことに速度を緩めているのは明瞭である。
3コーナーを回りながら、ジャングルポケットが振り返ったのはその時のことであった。
「タラタラ走ってんじゃねぇ!!本気で勝負する気あんのかテメェ!!!」
元より声が大きいことは分かっていたが、ジャングルポケットが本気で張り上げた怒声は、広大なグラウンド中に響き渡る程であった。
まるで衝撃波でも食らったように、コース外に退いて併走の様子を眺めていたウマ娘たちの集団がのけぞっている。
ヒシミラクルもまた肝をつぶしたかのごとく軽く跳びあがっていたが……やがて、先ほどよりも姿勢を前傾させ、多少なりと速力を上げてポッケの背を追い始めた。
「おや、さすがはポッケ君の喝だねぇ。ヒシミラクル君、まだまだ速度を上げられるんじゃないか。トレーナーくん、キミから発破をかけてやる必要はないかもしれないねぇ。」
「いや、しかし……うん、まぁ、あの調子を保てるか、様子を見てみよう。」
相変わらず、無難な選択をするのが鷹木であった。
ヒシミラクルはその後、まるでコースを丸ごと一周使って加速してでもいるかのようにぐんぐんとジャングルポケットへと迫っていき、遂にはポッケの背中を捉えるところにまで接近していった。
最終直線、ゴール前で一気に加速したジャングルポケットに、軽々と置いて行かれたのは仕方のないことであったが。
「ゴール!おやおやポッケくん、タイムが想定よりも遅いじゃないか。途中で振り返ってヒシミラクルくんに喝を入れていたおかげだねぇ。ありがたいことだねぇ。」
「うるせぇ、俺もここで本気は見せねぇよ。けどアイツ、確かに素質はあるな。1年目のウマ娘で、俺の真後ろにつき続けてバテねぇ奴はまず居ねぇからな。」
数秒遅れでゴールしたヒシミラクルを見つめながら、タキオンとジャングルポケットは語り合っている。
さすがに3000mをハイペースで走り抜いた直後は、ヒシミラクルも多少なりと息切れした様子であった。とはいえ、完全にスタミナが尽きた様子ではなく、多少呼吸を整えた後に文句を言い出すだけの元気は残っていた。
「びっくりしたじゃないですかー、走ってる途中にあんな大声出さないでくださいよ、もー。」
「あの程度でビビッてんじゃねーよ、本番のGⅠがどんだけ大歓声が響いてると思ってやがる。」
そんなやり取りをしている間に、ヒシミラクルは早くも息が落ち着き、ゆったりとタオルをバッグから取り出して汗を拭うだけの余裕が生まれている。
荒療治ではあったもののジャングルポケットのおかげで、鷹木もミラ子の特性を見極める大きなヒントを得られていた。
一方で、休憩していいと言われたら何時間でもダラダラしていそうなウマ娘の指導について、頭を悩ませる必要性はますます高まったのも事実ではあった。タキオンとはまた別の、指導の難しさであった。