鷹木トレーナーが担当することが決まって1ヵ月そこそこしか経っていないとはいえ、ヒシミラクルも徐々に本腰を入れてトレーニングに向き合う身構えが出来つつあるらしい。
先日、ジャングルポケットから喝を入れられたおかげでもあったが、ミラ子と同じく鷹木トレーナーの指導下にあるアグネスタキオンが本気に近い走りを練習の中でたびたび披露するようになったためでもあるだろう。
走り込みを終えてクールダウンしているタキオンの傍に、こちらも練習の休憩タイムに入るヒシミラクルはそそくさと腰掛け、そして言葉を掛けた。
「やっぱ皐月賞ウマ娘なんですねぇ、タキオン先輩も。」
「何を今さら事実確認しているんだい?キミが先輩ウマ娘に対して十分な敬意を払わない性格であることは分かりきっているが、とはいえ私の戦績をわざわざ問い直さなければ思い出せないほどだとなれば、あまりにもあんまりだねぇ。」
「いやぁもちろん頭から抜けてるわけじゃないんですけどね?けど、タキオン先輩、普段からぜんぜん熱血な感じじゃないのに、練習の時には真剣な顔になるもんですから、ギャップがすごいんですよ。」
タキオン自身も、また鷹木も、ひとたび熱が入れば自分たちがどれほど真剣な表情をしているか意識することはない。
特に2月に入った今の時期、タキオンが今年最初に出走する予定の京都記念まで残り半月ほどである。レースで勝つための身体を完全に作り上げるため、練習場でもタキオンは本番さながらの空気を纏って走っていた。
勝利を獲る一心でギラついている面々とは違い、普段からどこか力の抜けたような振る舞いが目立つタキオン。そんな先輩の姿にミラ子は付き合い易さを感じてもいたのだが、だが本番の近づく時期のタキオンの走りはさすがに別次元であった。
「おや、あまり後輩の前で必死な姿を見せるつもりもなかったのだがねぇ。だが、今月の京都記念にはもはやベテランのアドマイヤベガ、ナリタトップロードといった大先輩がたも出走する。彼女らの走りを思い描きながらの調整ともなれば、自然と本意気での練習となってしまうねぇ。」
「それこそジャングルポケット先輩みたいに普段からガツガツしてる方だったら、全力で走っててもなんか当たり前、って感じですけどねー。」
「私は違うというのかい?」
「タキオン先輩、普段の様子はわりと私に似てません?ゆるっとしてて、サボれるところはしっかりサボッて……。」
ウマ娘同士の会話を小耳に挟みつつ、鷹木は彼女らの休憩時間中も走りのデータをまとめる作業に忙しかったが、ミラ子の発言内容には自然と小さく頷きが出た。
走りの質自体は全く異なる。もちろん練習してきた量や期間も大きく差があるが、タキオンが自在に仕掛けどころを定め、器用さと瞬発力を兼ね備えた加速を示すのに対し、ヒシミラクルは最序盤から追い立てていかないと最高速度を引き出す前にレースが終わってしまう。
しかし、この自称科学者ウマ娘と、自称ふつうのウマ娘は、意外にも性格面が似通っていた。その点をミラ子は的確に言及したのだが、タキオンは不本意そうであった。
「私はそうは思わないがねぇ、いいかい、こうして休憩し、キミと無駄話をしている間にも、私の脳内では様々な考察や仮説が巡り続けているのだよ。次の京都記念にて確実な勝利を獲るためのシミュレーションも当然、今年一年間というマクロな視点においても私が為し得る成果の見通しを構築し続けているのだからねぇ。」
「そりゃ私だって、ふつーのウマ娘として平凡に生きる計画、いつもボンヤリ考えてますから。やっぱり私と同じじゃないですか。」
「同じにしてもらいたくはないねぇ!私が目指しているのはいわば普通の対極、ウマ娘の限界に可能な限り近づくことだねぇ!」
「でも、今でも私のすぐ隣でのんびりされてますし……んー、そう考えると、私に割と似てる先輩ウマ娘が、GⅠレースの頂点に立ったりできるんですよねぇ。」
途中までは不服そうなタキオンであったが、ミラ子の至った結論を耳にした途端、その表情を変えた。
なかなか本気で走る意志を示さないヒシミラクルの状態に、内心やきもきする思いを抱えていたのは、ジャングルポケットのみならずタキオンも同様であったらしい。
「おや、今の、聞いたかいトレーナーくん!そうとも、その点については私との類似点を見出してもらって構わないねぇ!キミ自身は自覚がないかもしれないが、この私と同様にウマ娘レースの歴史に名を残す、特異点たる素質は確かに備わっているのだよ!」
「いやいや、そこまでは言ってませんけど……なんというか、普段はあんまり熱くならないタキオン先輩が、レース本番が迫ると本気が見え始めるの、なんかカッコいいなーって、思ったぐらいでして。」
「かっこい……。」
ちょうど鷹木トレーナーへと話を振った直後であったため、タキオンは自分があまり対処に慣れていない状況と直面している様を、こちらに視線を向けた鷹木に示す羽目になってしまった。
素直な賞賛を受けることに、タキオンは全く慣れていなかったのである。ライバルたちから煽られたり、挑発の言葉の応酬を行ったりすることについては、この上なくスムーズであるのだが。
回転の速いタキオンの頭脳は、可能な限り早く言葉を継ぐことだけは出来たものの、数秒間の沈黙を間に挟むことについてはいかんともしがたかった。
「さ、さぁて、トレーナーくん!今日はノンビリしてはいられないねぇ!何といっても後輩や同期のウマ娘が、同日に3つのレースに出走するからねぇ!私の練習の休憩時間、きっちりトレーニングメニュー通りに用意してあるのだから、彼女らの走りを見逃すわけにはいかないねぇ!」
「タキオン先輩、猛烈に照れてません?」
「まずは14時台にシンボリクリスエスくんの走る『ゆりかもめ賞』だねぇ!ジャングルポケットくんも気に掛けていた後輩だ、彼女が2400mの距離でどこまでやれるか見ものだねぇ!15時台にはノーリーズン君の出走する『こぶし賞』だ、新年早々に初勝利を挙げたウマ娘の脚は私も楽しみだねぇ!さらに同じ京都レース場、16時台にタップくんが『春日特別』に出るねぇ!かなり調子が上がってきている矢先だ、戦果には期待できるねぇ!」
「今までで一番早口ですよタキオン先輩。」
アグネスタキオンとヒシミラクル、一見すればまるきり逆な性質のウマ娘を組ませたトレセン学園の判断が、今になって納得できるものだと鷹木は考え始めていた。
世代の頂点、GⅠレースを勝利するようなウマ娘は、日々ガツガツと走りに明け暮れている先輩ばかりではない。ある程度気の抜けたような振る舞いを示すウマ娘も、自らの本気と向き合い栄冠を手にすることを目指している……ヒシミラクルが得る学びである。
一方でタキオンの側も、彼女としては慣れないことであったが、素直な賞賛を受ける機会は稀有である。闘争心を向けてくるライバルや単に憧れの視線を向けてくる後輩ではない、全く気兼ねとは無縁に、何気なく傍に居る存在は滅多なことでは得られないだろう。
両者互いに好影響を期待できる組み合わせであった……各々、別の理由で、担当するトレーナーの負担も軽くはなかったが。
「トレーナーくん!東京レース場、第9レースだ!さっさと観戦できる環境を整えたまえ!発送予定時刻は14時30分だねぇ!はーやーく!ほら、はーやーく!!」
「分かってるから、急かすなって……。」
既にタキオンの言動から内心を察することに慣れている鷹木は、彼女がなおも収まらない動揺を隠すために急かしているのだろう、と感じながらPCにてURAが配信するレース実況ページを開く。
ヒシミラクルも口を開かなかったが、タキオンのほどよい弱点を知ったとばかりに、その丸っこい顔にほくそ笑みを浮かべながら、鷹木が差し出したノートPCの画面を覗き込んだ。
「ほう、シンボリクリスエスくんが1番人気とはねぇ。やはりセントポーリア賞での好走が評価に影響しているのだろうねぇ、なにせ13番手から一気に駆け上がり、一着とはクビ差まで迫ったのだから。あの加速、差しの素質は間違いないねぇ。」
「もうちょい、ってとこでしたもんねぇ。今回のゆりかもめ賞、さらに距離も長いですし、こんどこそ行けるかもですねぇ。」
東京レース場、芝2400mは、言わずと知れた日本ダービー、ジャパンカップと同じコースである。URAからの期待を一身に背負うクリスエスの目標のひとつに、それらのレースが上げられていてもおかしくはない。
クリスエスを担当している桂崎トレーナーとしては、先月のセントポーリア賞と同じレース場のまま、距離が伸びた場合にどこまで前へ迫れるか、を見る方が優先であったろうが。
ゲートに入ったクリスエスは、いつも通りに冷静な様子であった。とはいえ、彼女の性質を鑑みれば、仮に不安や焦りを抱えていたとしても、決して表に出すことはしないだろう。
〈天候は曇りですがバ場状態は良となりました、東京レース場芝2400mのゆりかもめ賞です。全ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました!綺麗に揃ったスタートであります16名、まず果敢に飛び出していきましたのはトウカイアロー、かのトウカイテイオーの血を継ぐウマ娘がウチを突いて一気に駆け上がり先頭であります。2番手はマイネルアムンゼン、ほとんど並んでアルジャーノンといった形で先行集団が形成されています。〉
シンボリクリスエスは16名立ての出走で16枠、一番外側の枠を取ったこともあり、先行争いには参加することなく後方から進めていった。
もとより東京レース場の長い直線でのスタートであり、今回も後方から差す作戦であろうクリスエスが焦る要素はない。タキオンと鷹木がじっと画面を見つめている横で、ミラ子はさらにくつろいだ様子でスポーツドリンクを口にしていた。
「んぐんぐ……んまあ、行けるでしょ。あのクリスエスちゃんの差しを見てたら、先行の子達もビビッて焦っちゃいますって。」
「ヒシミラクルくん、キミは本当に緊張感というものを知らないウマ娘だねぇ。それは大きな利点だが、さておき他者からの見られ方も多少なりと気にすべきだ。見たまえ、早くもクリスエスくんの周囲に集まりだした。」
1番人気のウマ娘には、マークが集中する。それはどのレースでも同様であったが、心なしか条件戦やオープン戦の方が程度も甚だしくなるような側面もあった。
あまり露骨に見せない技術が足りないためでもあるが、やはり自分こそがのし上がりたいという思いを押さえている余裕がないためでもある。
殊に、先月のセントポーリア賞での走りを見ている他の競走ウマ娘としては、クリスエスをノーマークで放置することなどほぼ有り得なかった。
〈最初のコーナーを回っていきます、先頭変わらずトウカイアロー、続く2番手はマイネルアムンゼン。アルジャーノンに続きましてはゴールドバリア、内を突くようにマイネルジェム、その外並んでミヤマガリバー、すぐ後にメジロフリーマン、カワキタノーブルが徐々に下がりながらも中団真ん中、コスモパトリック、シアトルリーダー、この辺りぐっと詰まった形で混戦状態であります。その後ろにタイガーエスプリアと並んで1番人気シンボリクリスエス、中団後方につけています。〉
一番外側の枠からスタートしたこともあって、コーナーの外側を塞がれることは無かったシンボリクリスエス。
しかし、前後を挟むように集団が位置をキープし、さらにコーナー内側にも他のウマ娘が陣取っている。身動きが取れぬまま、若干距離でも損をする外回りでコーナーを回っていった。
「2コーナーにかけては緩やかな下りになるから、速度を若干上げる場合もあるが……今回はスローな展開だな。」
「先頭に立ったウマ娘がしっかりペースを作ってしまっているねぇ。あとは最終直線での勝負だねぇ、東京レース場の長い直線でどこまで駆け上がれるか、だねぇ。」
むろん、中団を形成するウマ娘同士で足を引っ張り合っては、結局逃げウマ娘の独り勝ちになってしまう。
そのことは分かっているとはいえ、仕掛けどころをミスした際の痛手を思えば、互いに牽制しあってなかなか加速出来ない状況も危惧されるものであった。
〈コーナーを回り切って向こう正面に入りました、1番手のトウカイアローが集団全体を引っ張っていく形。シアトルリーダー、ここで外に出して一気に上がっていった、後方集団から4番手の位置まで前に出ていきます。更にはシンボリクリスエスも後につくように、外からじわじわと上がっていく!やはりあの位置のままでは囲まれると判断したのでしょうか、この選択が吉と出るかどうか、他のウマ娘も仕掛けに遅れぬよう徐々に加速していきます!〉
無論、指導している桂崎トレーナーも、シンボリクリスエスが1番人気である以上はマークが集中することを予期していたのだろう。
余りに露骨に囲まれる場合に備えて用意しておいたプランを、クリスエスは実行したものと思われた。
「なるほどねぇ、真ん中に上り坂がある向こう正面では、敢えて上がろうとするウマ娘もいないと踏んだのだろうねぇ。だが……考えることは皆同じだねぇ。」
「皆、クリスエスちゃんについてきちゃいますねぇ。やっぱりあの差し、ひとたび逃したらもう追いつけないって分かってるんですねー。」
さすがにレースも後半に入り、ミラ子も緊張感が高まって来たのか居ずまいを正して画面に見入っている。
シンボリクリスエスの走りには無理など無さそうだったが、しかしマークが集中してバ群にまとわりつかれ、その上でURAからの期待も背負って走り続ける彼女は……どこか苦しそうだった。
〈残り1000mを切りまして3コーナーを回ります、大外を回るシンボリクリスエス中団なかほどをキープ、トウカイアロー、マイネルアムンゼンが先頭並んで引っ張っていきます!あとはアルジャーノン、ゴールドバリアはそろそろ厳しいか、集団に埋もれていった!メジロフリーマンはクリスエスに並びかけるようにこちらも外側を回っていく、互いに仕掛けどころを探り合うような体勢で、さぁコーナーを回り切れば東京レース場の長い直線が待っている!〉
鷹木とタキオンは共にレース画面を凝視していたが、ヒシミラクルはチラチラとトレーナーや先輩ウマ娘の顔つきを眺めていた。
やはり真剣そのものであった。頼りない言動が目立つ鷹木も、ニヤニヤ笑っている顔がデフォルトなタキオンも、たとえ条件戦であってもレースの決着がつく瞬間が近づくにつれ、視線を外せなくなるのだ。
「もっと前に出なければ、クリスエスくん。いくら直線が長くても、あれでは先頭に逃げ切られる。」
「内も外も塞がれているし、前の集団を交わすには更に大回りでコーナーを抜けなければならない。直線での加速勝負に持ち込むつもりなんだろう。」
タキオンに対し、鷹木はそう返答しながらも、状況の厳しさを否定することは出来なかった。
クリスエスは完全に包囲された状態だった。包囲網から器用に抜け出すウマ娘が存在することは、ほかならぬオペラオーを担当していた鷹木も知っていたが……大柄なクリスエスが、それを不得手とすることは言うまでも無かった。
〈いよいよコーナーを抜けてスタンド前直線へと向きます、残り400を切りまして先頭はトウカイアロー!まだまだ脚色は衰えません、先頭トウカイアロー、リードを広げて逃げ切り態勢!2番手マイネルアムンゼンも続きます、残り200!ここでようやくシンボリクリスエスが集団から抜け出した、シンボリクリスエス抜け出したが、先頭まで遠い!これは追いつかないか、先頭トウカイアロー、今一着でゴールイン!トウカイアロー逃げ切りました!〉
結果も案の定であった。後方から追い上げてきた面々のなかでは確かにシンボリクリスエスは抜きん出ていたのだが……集団内で互いに牽制しあっていたため、それが響いた。
位置取りの駆け引きのためにも、スタミナを少なからず費やしている。シンボリクリスエスが3番手にまで上がってきた頃には、既に先頭のトウカイアローは逃げ切るだけのリードを広げていた。
「しかし実戦経験としては良い形となったのではないかねぇ。何せ敗因は明確だ、クリスエスくんの能力は充分に勝利へ届くほどではあったものの、駆け引きに費やした時間が長すぎた。」
「単純じゃないんですねぇ、レースってのはねぇ。」
ミラ子が完全にお茶の間で観戦している感覚でのんびりと喋るのを横目に、流石のタキオンも若干の呆れの色を目に浮かべた。この日行われるレースはこれだけではない。その一つには、まさにクリスエスやミラ子と同年代、ノーリーズンの2度目の出走が含まれている。
それを思えば、まだ未勝利のミラ子は焦らずにいられない状況のはずではあったが……彼女は相変わらずであった。