ヒシミラクルの新たなトレーニング方針を見出すため、結城トレーナーのもとでの併走を申し込んだ鷹木であったが、目的は併走練習だけではない。
例によって、その日行われるレースの観戦を共にするためのスケジュール調整でもあった。常々よりタキオンが強く望んでいることでもあるが、せっかく場を共にできるウマ娘たちが多いのならば、その機会を逸する手はない。
さらにはウマ娘の指導担当するトレーナーの一員として、結城トレーナーと交流する機会もまた貴重に違いなかった……レジェンド級トレーナーを前に、未だに緊張状態とは無縁でいられないのも鷹木の性分であったが。
「ほ、本日の13時20分発走、中山レース場の第7レース、特に名前はついていない条件戦にクリスエスが出走しますね……。結城トレーナー、最近のシンボリクリスエスの状態は、どうご覧になりますか?」
「よく仕上がってると思うね。本格化が始まるまで、あと一歩といったところだろうけれど。」
レース実況の配信画面を表示した大型ディスプレイの前に椅子を並べ、結城トレーナーの隣席を占めた鷹木であったが、緊張のあまりインタビュアーめいた質問ばかりが口から出てくる。
当の結城トレーナーは画面を眺めながら、事も無げにサラリと答えるばかりであった。今は桂崎トレーナーによる担当となっているシンボリクリスエスであったが、結城トレーナーも気に掛けて彼女のことを見ているらしい。
条件戦、それも無名のレースとなれば、さすがに一般向けにテレビ放送は為されない。URA公式による配信画面はウマ娘たちが姿を現す前のレース場を映すのみであり、まだアナウンサーによる実況も入らず静かなままである。
だが、鷹木の隣で観戦の席についているウマ娘たちには、ひと時たりとて退屈な時間もないらしかった。タニノギムレットは、椅子を並べたアグネスタキオン越しにヒシミラクルの方をずっと見つめ続けている。
「あの、ギムレットくん……な、なにか……?」
「オマエの長く深き酩酊を誘うがごとき走り、しかし怠惰(ベルフェゴール)を遥か遠ざけている―――なるほど、メネラオスの導き手を叫ばせるわけだ……ククッ、饗宴の序章(アペリティフ)は既に供されていた、とはな!」
「へ……???」
「そうだねぇ、担当ウマ娘の練習中、トレーナーくんがあんなにも必死で叫ぶのは、これまで類を見ない振る舞いだねぇ。」
相変わらず奇天烈な言い回しのタニノギムレットを前にヒシミラクルは困惑するばかりであったが、その場でタキオンが翻訳ついでに返答する。
タニノギムレットは昨年から、タキオンに興味を持たれたのをきっかけに時々鷹木トレーナーのもとを訪れる機会があった。さほど長くない付き合いの中でも、鷹木がさほど熱血なトレーナーでもないことは充分に伝わっていただろう。
むろん、2年前から鷹木の担当ウマ娘であるアグネスタキオンも頷くところではあったし、さらにその前から鷹木を知っているアドマイヤベガもまた口を開き肯った。
「オペラオーを担当し始めた頃を思えば、なおさらね。言っちゃ悪いけれど、あの時点での鷹木トレーナーは実績もないし、熱意も感じられないし、いかにも頼りない、問題児を押し付けられただけのトレーナーにしか見えなかったもの。」
「今述べたいくつかの項目については、現在もなお間違いではないかねぇ。トレーナーくんはこの私、アグネスタキオン、そしてヒシミラクルくんを担当させられているのだからねぇ!」
「えぇー、私も問題児扱いですかぁ?ごく目立たず普通のウマ娘として過ごしてきたつもりなんですけどぉ。」
「担当トレーナーが決まって早々の時期に仮病を使おうとするのは問題児だねぇ。」
タキオンとヒシミラクルのやり取りを傍に聞きながら、ついでにこのやり取りが結城トレーナーからどう思われるのか気にしつつも、鷹木の思考からはヒシミラクルの指導方針についての悩みが離れなかった。
長距離向きの脚質……いや体質や性格全てが長距離向きであることは疑いようもなかったが……であることを承知した上で、しばらくマイル寄りの中距離レースを基準に走らせることは決定事項となっていた。
自分の椅子も横に並べたシャカールが、タキオンらに口を挟んでいる。
「タキオンよりはマシじゃねェか?お前、もはや口実を用意もせず黙ってどっか行くせいで、いっときは鷹木トレーナーが校舎ン中を駆けずり回ってばかりだったろ。」
「私はサボりではなく、探求のための実験に場所と時間が必要だっただけだねぇ。今だから言えるが、十分な練習時間を取れていると判断しての行為だねぇ。」
アグネスタキオンが実際に皐月賞を獲った後は、あながち否定できない言い訳でもあった。タキオンの頭脳であれば、練習量の程に対してウマ娘自身が下した判断もあながち信頼できないものでもない。
ひるがえってミラ子の場合、自身が自分の得手不得手を意識している以上、不向きな距離であればこそ懸命に脚を動かさねばならぬという感覚は鈍りにくい。
残すところは、今なお完全に未知数なヒシミラクルの潜在能力の程であった。それをいかにして引き出したものか……。
「彼女、オーバーワークにならないようにね。」
「……はい?」
突然、結城トレーナーが口を開く。鷹木は呆気に取られ、間抜けな返答だけを発した。
もちろん、結城トレーナーが的外れなことを言ったための反応ではない。むしろ、完全に鷹木が今まさに考えている内容の核心を突いた発言であった。心の中を読み取られたかのごとき感覚を、鷹木は抱いたのである。
「……そ、そうですね……あの、ヒシミラクルのことについて、ですよね?」
「うん。あのスタミナ、レースで活かせるのはいいけれど、休憩なしで長時間練習してしまえそうでもあったからね。」
ヒシミラクルは、気の抜けたような言動が目立つものの、十分に利口なウマ娘である。
自分が長距離向きのウマ娘であることも自覚しているし、口先ではなまけたがるような言が多いものの、自分が練習不足であるとの自覚もまた得やすいだろう。更には、先ほどの併走でも鷹木が声を張り上げて追い立てるような場面もあった。
トレーナー、担当ウマ娘ともにレースへの意気込みを得ることは理想ではあったものの、十分すぎる量の練習を超えて走り続けるだけの持久力がヒシミラクルには備わっている。過剰なトレーニングによって取りきれない疲労が蓄積し、調子を崩してしまうことにも繋がりかねない。
「ご助言、ありがとうございます。焦らず長い目で、ということですね。」
「そうだね。方針は良いと思うから。」
そう答える結城トレーナーの視線は、既に画面上、中山レース場のターフの上に出走ウマ娘たちが姿を現した場面へと向けられていた。
今のやり取りをミラ子に聞かれたら、これはこれで都合よくサボる口実にされかねない……と鷹木は危惧しながらウマ娘たちの方を見たが、当のヒシミラクルはギムレットとタキオンを相手にしたやり取りに忙しそうであった。
「現れたか―――漆黒にして不動の戦士(シンボリクリスエス)!研ぎあげられたオマエの牙が、ワタシに向けられる日、その時にこそ車輪(ホイール)の音は響き始める……!」
「なかなか本調子にはならず条件戦を繰り返しているがねぇ、間違いなく強さは秘めているねぇ。完璧に仕上がればGⅠクラスには確実に上がってくるはずだがねぇ。」
「オーラが違いますもんねー、普通のウマ娘とはねー。」
さすがに勝ちあぐねているとはいえ、条件戦の舞台では1番人気のシンボリクリスエス。16名の出走者の中でも佇まいは確かに別格であり、URAによって招聘されたウマ娘らしい存在感は備わっていた。
……だからこそ、クリスエス自身の中でも自らを追い立てるような思いは募っていただろう。努めて冷静さを保っていた表情の奥、瞳には切迫した色が仄かに浮かぶようであった。
〈天候は晴れ、バ場状態は良となりました、中山レース場第7レースは条件戦の芝1800mです。全ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました。まずまず揃ったスタート、果敢に先頭へと上がっていったのはテンジンオーカン、今回3番人気のウマ娘です。続いてマイネルリバティー2番手、ブルーフルパワーが外、そのウチ並んでリバーカフェといった形。今回1番人気のシンボリクリスエスはぐっと下げて最後方、一周目直線の坂を上っていきます。〉
これまで通り、シンボリクリスエスは後方に待機し、終盤に追い込む作戦で挑むようであった。
が、率先して先頭に上がった面々が余裕を残すように緩めのスピードで坂を上っていくのを見て、先行有利な展開になりそうであることは早くも明白であった。
トレーナーたちは言わずもがな、並んで観戦していたウマ娘たちも同じことを感じたらしい。
「駆けろ戦士(エインヘリヤル)!まだ日は高い、宮殿へと帰るアポロンには追いつける!お前が地球(ガイア)に刻む蹄跡はより深くあるはずだ!」
「あのペースで進む先行を見れば、私も流石にもう少し上がった位置に行くでしょうけれど……クリスエスさんは、動こうとしないわね。」
タニノギムレットが叫ぶ隣で、アドマイヤベガは落ち着いた声色で語っている。
事前にトレーナーとの打ち合わせで作戦を定め、それを成功させるためにトレーニング、最終調整まで進めるのが定石ではある。が、実際にレースが始まれば、想定した通りの作戦が成功すると確約されてはいない。
だからこそ、ペース配分や細かなコース取りに至るまでウマ娘自身の判断能力は求められるのだが、クリスエスは与えられた任務に忠実すぎたのかもしれない。
〈坂を上り切って1,2コーナーの中間、先頭で全体のペースを作っていきますテンジンオーカン、すぐ後に並んでマイネルリバティー2番手。間が開いてブルーフルパワーとリバティーカフェが続き、ストレイラルホークとエフテーダンディが並んで中団を形成、さらにステルスコンコルド、トーヨーサイレンスも横並び、残り1200を通過。ナルコスバー、ハウンドコップ、ニシノサブライム、ウインドアワー、こちらも4名並んでぐっと詰まった隊形となっています。〉
ある点では、後方待機し続けるのは間違った作戦ではないとも言えた。
比較的ゆったりしたペースで進んでいるだけに、中団のバ群はかなり密集した形となっている。4名もが横並びになって大きく膨らんだ集団、あの中に巻き込まれては走るべき距離も余分に増え、スタミナのロスも多くなる。
「完全に先頭付近に出てしまわない限りは、中途半端に中団に巻き込まれるよりはマシかねぇ。私であれば、あの2番手の子と並んでレースを進めるだろうねぇ。」
「追い込みにキツい展開には違いねェな。クリスエスの脚が最後の直線、どこまで伸びるかにかかってンな……。」
タキオンの言に続けて、シャカールが画面を睨みながらブツブツと呟く。
クリスエスを現在担当している桂崎トレーナーが、クリスエスの末脚を信頼していればこそ指示した作戦でもあろうと考えられた。バ群にも巻き込まれず、後方待機を続けていればスタミナは充分に余裕があるだろう。
これまでの息切れによる失速は避けられるかもしれないが同時に、この判断は末脚に勝敗が左右される賭けでもあった。
〈残り1000m、向こう正面を進みます。先頭は変わらずテンジンオーカン、続く2番手マイネルリバティー、快調に飛ばしていきます。中団後方に1番人気シンボリクリスエス、そのウチに並んでアンジュが後ろから4番手の位置、外に並んでチョウカイフライト、最後尾にコスモメビウスといった形で、残り800、先頭は3コーナーへと入っていきます。詰まった形となった中団から先頭までの差はじわじわと広がっていきます、各バどこで仕掛けるのでしょうか。〉
ますます、後方のウマ娘たちには危惧すべき状況が現実となっていた。
ウマ娘たちが密集し大きく横に膨らんだ中団のため、そこから後ろの面々は身動きを取ることが出来ない。無理に追い越そうとすれば、4名が横並びになっているところを更に外側から抜かねばならない。
「これは、無理に距離のロスを押して上がっていくよりも、最終直線でバラけるのを期待する他にないねぇ。そのころには、先頭との差が相当に開いているだろうがねぇ。」
「はぇー、こうなったらさすがに仕方ない、ってとこですかねぇ。」
「ヒシミラクルくんの場合は、多少のスタミナロスなど踏み倒す勢いで大外から上がっていくべきだねぇ。それこそがキミの取柄なんだからねぇ。」
相当に本気を出さねばならない作戦の提案にヒシミラクルがどんな顔をしているのか、鷹木は見る余裕もなかったが……レース展開が荒れるほどに、ミラ子の無尽蔵のスタミナは大きな武器となるだろうことは間違いなかった。
シンボリクリスエスの場合、無茶な走りをしては、まだ未完成な肺機能がそこについて行かない。
彼女がかなりシビアな判断を求められるレースを強いられているのは、みるみる差が開いていく先頭を見送りながらも、頑なに現状の位置取りから動かずにいる様からも見て取れた。
〈残り400を切って、先頭は早くも直線へと向かいます、先頭はテンジンオーカンですが、2番手のマイネルリバティーが並びかけて先頭へと変わった!あとはどうか、かなり間が開いているが3番手争いは中団のウマ娘たちが混戦状態!大外を回ってようやく上がってきたシンボリクリスエス!だが中山の直線は短いぞ!ゴール前の坂も先頭のマイネルリバティー楽々と駆けあがっていく!〉
最終直線、本来の想定通りの作戦なのだろう、シンボリクリスエスは団子状態になったウマ娘集団を大外から交わして駆けあがっていく。
確かに、いずれGⅠへと上がりうるだけの能力は、クリスエスの加速が示していた。観客席からもどよめきと声援が沸き起こる。
「……上がり3ハロンは最速だろうな、間違いなく。けど、あれじゃ届かねェ。」
「その“疾さ”、間違いなく観客(ビホルダー)を酔わせている―――が、世界の理(ロゴス)は捉えきれないか……!まだ構わない、神々の黄昏(ラグナロク)は遠い。」
相変わらずタニノギムレットが口にしている言葉は分かりづらかったが、エアシャカールと同じようなことを言わんとしているのだろう。
シンボリクリスエスの能力は日々磨かれ続けているものの、勝機をつかむという点ではまだ荒削りなところが目立つ。今回も、前を集団に塞がれて動けない状況さえなければ、先頭を捉えていただろう。
〈残り200を切った!マイネルリバティー、テンジンオーカン、ほとんど並んで先頭!シンボリクリスエス物凄い追い上げだ!これほどの末脚は他にない!差が縮まっていく、6バ身、5バ身……3バ身!しかしこれはセーフティーリードか、マイネルリバティー僅かに先頭で、今ゴールイン!クビ差でテンジンオーカン二着!シンボリクリスエス、最後に怒涛の追い上げを見せましたが、三着となりました。〉
ゴール直後のクリスエスは、以前までのレースのように息を切らしてしまっている様子を見せなかった。
その点では、限界を出してでも勝ちきれなかった状況からは脱していると言えるのだろう。ゴール直前の加速も、彼女の身体機能が完成へと近づきつつあることを如実に物語っていた。
「もう少し前につけていれば、というのは結果論だがねぇ。だが、位置取りがかみ合えば、勝てるレースの幅はかなり広がるだろうねぇ。」
「桂崎トレーナーも、そのことに気づいていないはずもない。次のレースでは、また違った作戦を指示してくるだろう。」
タキオンの発言に返答しながら、真面目なウマ娘に対する指導もまた難しいものだと改めて鷹木は考えていた。
勝手に判断して勝手に作戦を変更する、というのはウマ娘自身の判断能力が十分に高ければ積極的に勝利を獲りうる強みにもなるのだ。レースが始まってからでなければ、どのような展開が待っているか分からない以上、それは当然のことでもあるが。
真面目そのものなクリスエスは、トレーナーから指示された作戦に忠実……まさに任務を遂行するように、遵守してしまうのだろう。
そんなことを推し量っている鷹木の隣で、結城トレーナーがボソッと口を開いた。
「……やっぱり、僕が担当しなくてよかったね。」
「え……。」
「彼女がURAによってアメリカから呼ばれ、そのうえURAから推薦された僕がトレーナーとなっては……いよいよ、クリスエスの走りを縛る枷になってしまっただろうから。」
さすがに鷹木は即座に頷くわけにもいかなかったが、結城トレーナーの表情が安堵に近いものになっていることについては充分に理解できた。
担当トレーナーは、実際にレースが始まってからはウマ娘をターフの向こう側、ずっと遠くに見て声援をかけるしか出来ない存在である。しかし、日々指導を行う立場である以上、トレーナー自身が考えている以上に多くの影響をウマ娘たちへ与える存在でもあるのだ。
自分が結城トレーナーほどの説得力を持つ人間でなくとも……また、タキオンやミラ子がクリスエスほどの忠実さを備えないウマ娘でなくとも……彼女らの走りに与える影響については、無視できるものではなかった。