その朝、鷹木は極力、平常通りの振る舞いを意識してトレーナー寮を発ち、いつも通り担当たちのデータを抱えて練習場に向かっていた。
意識せぬからこそ平常通りだというのに、敢えて意識しなければならないという感覚は全く慣れぬものであった。まるで自分が全くの別人の身体に入れ替えられてしまったかのように、ともすればぎこちない動きを見せてしまいそうであった。
自分の全身が映るような窓ガラスがあれば、ついそこに映る自身の姿を確認せずにいられなかった。
もう身体は光っていない。自分の姿に大きな変化はない……いつもより寝ぐせが多く、目元の隈が濃くなっている以外は。
「おはようございます、鷹木トレーナー。」
「わっ……!あ、あぁ、片桐トレーナー……。」
振り返れば、鷹木に負けず劣らず無精髭を生やしたままながら、いたずらっぽい顔つきの片桐がこちらを覗き込んでいた。多忙であることに変わりないとはいえ、片桐が担当しているタップダンスシチーもノーリーズンも好調が続いているのだから、朗らかになるのも自然である。
想定していた以上に鷹木の顔色が悪く、驚きの表情にも余裕がなかったためだろう、片桐は多少笑みを薄めて問い質した。
「具合が悪いんですか?ご無理をなさらず……今朝も早くから、鷹木トレーナーの部屋から叫びが聞こえてましたが。」
「……そんな、トレーナー寮じゅうに響き渡るほどの大声、出ちゃってましたか?申し訳ないです……。」
「いやいや、そこまでは。それに、苦悶や激昂とは質の違う、まるで声援のように明るい響きだったものだから、担当ウマ娘をレースに送り出す夢でも見ておられるのか、と思いましたが……違いますかね?」
その点については間違いではなかった。鷹木は確かに、タキオンが他のウマ娘たちと共に、暮れの中山レース場を走っている光景を、夢の中で見ていたのだ。
奇妙な夢には違いなかったが、うなされるような類の内容ではなかった。問題は、起床後に起きたのだ。
「片桐トレーナー……俺、変な所ありませんかね?」
「はい?」
さすがの曲者トレーナー、片桐も突拍子の無い質問を前に暫し固まっている。
鷹木も他にもう少し自然な問い方を探さぬでもなかったが、そこまで頭が回っていなかった。幸い、頭の回転の速い片桐は、現実的な方向で解釈してくれたらしい。
「えぇ、こちらが見る限り、いつも通りに身支度されてますね。愛用のタブレット画面にはヒビも入っていませんし、タキオンさんとヒシミラクルさん、それぞれの練習メニューを記したと思しきノートも持参されています。強いて言うなれば髭を剃り忘れておいでかと思いますが、私も他人のことは言えませんね。」
「あぁ、どうも……で、では、そろそろ自分も練習場に向かわなければ、なので……。」
結局、最後の最後までぎこちないやり取りは変わらぬまま、鷹木は不自然なタイミングで会話を切り上げて背を向けた。
他者を観察することに長けている片桐はしばらく鷹木の背を見送っていたが、少なくとも担当ウマ娘に関する心配ではないだろう、程度の内容を読み取るに彼の洞察力はとどまった。そうであれば、鷹木自身について確かめるような物言いをする余裕があるはずもないためだ。
よもや、鷹木の身体が発光していたなどと、そんなことが推測の選択肢に上がるはずもない。
練習場に到着した際も鷹木の振る舞いは完全に元通りとはいかなかったが、ヒシミラクルは何も気づかぬ様子で鷹木に声を掛けて来た。聡い側面を見せることの多いミラ子も、興味の範囲外については印象通りの鈍さを発揮する。
「トレーナーさぁん、ちょっと遅刻ギリギリじゃないですかぁ?そんなトレーナーさんからいくら声を掛けられても私、走る気起こさなくなっちゃうかもですよ?」
「あぁ、済まなかった、今すぐ練習開始できるようにこちらも準備を急ぐから、ウォーミングアップを……」
既に鷹木の喋っている内容を聞き流すつもり全開で背中を向けているヒシミラクル。
ウマ娘に余計な心配事を伝えてしまっていないという点では鷹木の振る舞いは間違っていなかったが、一方でアグネスタキオンの目は誤魔化せなかった。彼女こそが、鷹木を異常事態に巻き込む元凶を作ったのだから、当然と言えば当然だが。
ちょうど鷹木がタブレットやスマホ等の機器類をベンチのバッグに置き、立ち上がったタイミングを見計らったかのごとく、そして狙いを定めたかのごとく、彼の顔面に冷たい液体が降り注いだ。
「わぁっ!?なっ、なんだ!?」
「あぁぁ、こりゃすまないねぇトレーナーくん!たまには市販品ではないスポーツドリンクを自作してみようと思って持参したんだが、内部で炭酸ガスが溜まってしまっていたようだ!ボトルの入り口から噴出してしまったよ!」
すらすらと説明口調で語るタキオンが、意図的に引き起こしたアクシデントであることは疑いようもなかった。鷹木を練習場から引き離し、ふたりきりで事情を聞くべき状況を作るために事前準備していたのだろう。
ヒシミラクルは未だに何にも気づかぬ様子であった。先ほどから目が半開きであり続ける様を見るに、まだまだ眠気が大いに残っているため彼女本来の洞察力が鈍っているのだろう。
「何ですか、騒がしいですねぇ、もー、朝っぱらから。」
「済まないヒシミラクルくん!私はトレーナーくんを着替えさせてくるよ!3月とはいえ、頭からびしょ濡れの状態で放置しては風邪をひいてしまうかもしれないからねぇ!先に準備運動やウォーミングアップを済ませておいてくれたまえ。」
「ふぁぁーい。……ふあ、あ、わぁぁーぁ。」
先輩ウマ娘に対峙しているとは思えないほどの態度で、大あくびのついでに返答するヒシミラクル。
タキオンからの鋭い目くばせによって、鷹木はベンチに残したバッグからスマホを取り出して持っていくことを忘れなかった。スマホの画面は、今朝から一度も見る事が出来なかった……通知がいくつか溜まっているかもしれなかったが。
そこには、今朝目を覚まして起き上がる自分の姿が撮影された映像が残っているのだ。非現実的な現象、自分の身体が発光するという光景が、物理的に確認可能な状態で残っているかもしれないのだ。
タキオンは、練習場裏手の備品倉庫の陰まで鷹木を連行し、そこで振り返った。彼女の目は期待に輝いているばかりではなく、若干の不安も含んでいた。
「トレーナーくんの様子を見たところ、平常通りの朝を過ごせたというわけじゃなさそうだねぇ。何が起きたんだい、極力具体的に説明してくれたまえ。」
「俺の身体が光っていた。」
「それは以前の試行でも得られた結果だねぇ、爪先や手が僅かに発光していたとのことだったが……。」
「ほぼ全身だ。それも……かなり。」
「かなり?」
それ以上、鷹木は喋ることをせず、ただ自分のスマホを差し出した。起動ボタンには指を触れているので、ロック画面は指紋認証によって解除されている。
我が身に起きたことを現実として語り続けていると、頭がおかしくなりそうだった。胸中を占めているのは、強烈な不安であった。自分の身体の心配だけで済めばどれほど良かったか……世界そのものが狂うような感覚を、受け止める準備など出来ているはずがなかった。
タキオンは、担当トレーナーの私物、それもスマホをいきなり渡されて多少なりと面食らった様子であった。が、これも流石といったところか、すぐさま操作を迷うことなく画面上に指を走らせだした。
まもなく、タキオンはスマホ操作をピタリと止め、呟いた。
「あぁ、これだね……。」
正直な所、鷹木は単に何の変哲もない一人の男が目を覚まして、寝床から起き上がる映像だけが残っていればいいと考えていた。
自分は、単に担当トレーナーに寝起きの顔を撮影したものを見せただけの、妙なイタズラに引っ掛かっただけのマヌケな大人でいい。そうであれば、この件は多少の恥と共に笑い話になって終わる。
しかし、そうなりはしなかった。
「凄いものだね……いや、これは想定外だねぇ、これほどの光度を発するとは……私も、驚きだよ……。」
タキオンは目を皿のようにしてスマホ画面を凝視していた。だからこそ、彼女の目に反射して、スマホ画面の映像を鷹木も間接的に確認することとなった。
画面上には、途轍もない光量で輝く人体が撮影されていた。目を覚ました時、陽光が窓から差し込んでいるのと勘違いしたのも、無理はないほどに。決定的な証拠が、疑う余地もない形でしっかりと撮影されていたのだ。
鷹木は、そのスマホ画面を目に映しているタキオンの表情をも、じっと見ていた。彼女は、確かに最初笑っていた。が、その笑みは凍り付いたように、タキオンの口元をゆがめ続けているに過ぎなかった。
「トレーナーくん。実験は成功だ。……成功するはずのない、実験が。」
「……どういう実験だったんだ?」
尋ね返す鷹木の声色は、彼自身が想定していたよりもずっと落ち着いていた。
自分の担当ウマ娘の声色に、明確な動揺を聞きとれた今、トレーナーとして為せる精一杯の務めでもあった。タキオンを混乱の中へ押し込まぬよう、冷静に考えをまとめるよう促す事しか、今の鷹木には出来なかった。
鷹木の声を聴いたタキオンは、口元のこわばりをどうにか解いて、ようやっと忘れていた呼吸をひとつ済ませ、言葉を継いだ。
「やったことだけであれば、以前伝えた通りだ。駄菓子屋で購入した、ジュースの素となる粉末や、水で溶くことでグミやアイスを作れる粉末を、ただ混ぜ合わせただけ。市販されていない薬品など、私には手に入れられないのだからねぇ。」
「それだけのものを飲むだけで、俺の身体は光った……のか?」
「あぁ、そうだねぇ。以前の試行でも、キミはそう報告した。私が確認できない形であったから、確定していなかったのだが……人体が光るだなんて、そんなことになるはず、ないんだがねぇ……トレーナーくん、ありえないことが、起きてしまっているんだ。」
タキオンを安心させねば、と鷹木は担当トレーナーとして考え続けながら、このやり取りを続けていた。
だが、その先を聞かぬ訳にもいかなかった。人体が発光するなどという、一見ギャグのような現象を前にして、タキオンが笑いも喜びもせず、ただただ怯えている理由を、明確に聞かなければ……。
「トレーナーくん。」
その先を聞いた時、彼女にその言葉を語らせてしまった自分を、鷹木は心底から後悔した。
「この世界は、現実ではないのかもしれない。」
簡単な事では感情を動かさず、動揺も見せないアグネスタキオンが今、怯えている。
対処できる課題ではない、対峙できる問題ではない。自分自身を含めた、この世界全てを疑うこと、疑わずにいられなくなること。
思考をもたらす自分の脳そのものを信じられなくなる、根本的な狂気。
理性が片付けられる状況ではなかった。アグネスタキオンの口が叫喚を吐き出さんばかりに大きく開かれるのを見る前に、鷹木は彼女を強く抱き寄せ、抱きしめていた。
「違う、現実だ。」
「……トレーナーくん?」
「ウマ娘がいる、ウマ娘レースを中心に社会が回っている、アグネスタキオンが今こうして、シニア期に向けて走り出そうとしている、これが現実だ、間違いなく現実なんだ。」
幸いだったのは、鷹木がタキオンほど柔軟に思考を切り替えられない、まさに凡人そのものであったことだろう。
自分の視野に収まるものしか信じられない凡人であった、自分が信じてきたものしか認識に含められない凡人であった、鷹木という凡庸なトレーナーは。
抱きしめたタキオンの耳元で語れる内容も、全てわかり切った、確定した現在でしかなかった。
「ジャングルポケットもマンハッタンカフェも、強力なライバルになり続ける、特に春の天皇賞ではカフェに要注意だ。ヒシミラクルはマイルで走りの感覚を得てから、長距離に向けて本格的な練習を始めるんだ。そのころにはシンボリクリスエスも本格化している、GⅠに上がればタニノギムレットに並び、確実に強敵になるだろう。タキオン、対処すべき現実はこんなにもハッキリしている。疑うこともない、恐れることもない……」
「わかった、わかったよ、トレーナーくん……。」
タキオンの声色が、どうにかいつも通りの調子を取り戻しだしたのを確認して、ようやく鷹木はタキオンの肩から腕を離した。
彼女の目はうるみかけていたが、涙は途中で引っ込んだ様子であった。今はどこか、恥じらいのような色がその頬に残っていた。
しばしの気まずい沈黙ののち、タキオンはおずおずと口を開いた。
「なんだろうねぇ、疑いは……まぁ、晴れたねぇ。たった今の私が経験したことが、仮に現実の事象ではないとしたら、今、こんなに気まずくなるとは、その……さすがに、思わないねぇ。」
「……ゴメン。タキオン、教え子に対し、担当トレーナーとして相応しくない行為だった。」
「いや、別に気にしてはいないねぇ……いや、気にはするが……大っぴらにすることではないねぇ、そも私が元凶なのだから……。」
いつも余裕ありげに鷹木の視線を直視してくるタキオンが、すっかり顔を赤らめて目を逸らしている様は、間違いなく鷹木の行為が如実に反映された結果であった。
鷹木の側も、自分が間違いなくこの世界に干渉できる存在であることを、あらためて実感したようでもあった。以前に担当していたオペラオーであれば、このように明確な反応は示さなかっただろう。
内心、若干の焦りがあったとしても、覇王としての振る舞いがそれを覆い隠すに十分すぎる役作りとなっていた。
タキオンもまた、自分の研究という関心事以外には心を動かすことなどほぼないウマ娘であったが……もはや3年目に入ろうとする付き合いの担当トレーナー相手には、動揺の隙に入り込むことを許すまでにはなっていたらしい。
自分のやってしまったことを反芻している鷹木が急激に増す後悔の念に責められつつある傍ら、タキオンはスマホを弄るうちに冷静さを取り戻していったらしい。
鷹木へスマホを返しながら、彼女が告げる口調はすっかりいつも通りのものへと戻っていた。
「とりあえず、映像のデータバックアップは取ったが、後ほど私の実験室に持ってきてくれたまえ、別の端末にも保存しておきたい、これは貴重な実験データに間違いないからねぇ。まぁ、シャカールくんが見れば、編集された映像だと決めつけられることだろうけれどねぇ。」
「あぁ、分かった……。」
鷹木は頷き、背を向けたタキオンに引っ張られるように自身も脚を動かし、練習場へと戻った。
濡れたままの頭髪やシャツがそのままであることの不自然さに気づいたのは、練習場で待っていたヒシミラクルの視線にあてられたときであった。
今になって眼が冴えてきたのか、思い当たる節にいくつも気づいたヒシミラクルは、いつも通りにのんびりした口調のまま、やけに鋭い詰問を投げかけてきた。
「あれぇ?トレーナーさん、着替えてこなかったんですか?」
「あ、あぁ、ただの炭酸水だし、そのまま放っておけば乾くし……。」
「タキオン先輩も、炭酸水をトレーニングの水分補給に選ぶなんて変じゃないですか?というか、さっき、トレーナーさんの顔に水をぶっかけた時、やたらと説明口調じゃなかったですか?」
「そうかねぇ?私はいつも理路整然とした口調を心がけているから、そう聞こえただけじゃないかねぇ?炭酸水を持ち込んだのもまた、一つの新たな知見を得るための試みであってだねぇ……」
鷹木だけでなく、タキオンもまた歯切れ悪い返答しか出来なかった。先ほどのやり取りを、正直に伝えるわけにもいかない。
ヒシミラクルに無用な混乱を与えてしまうべきではないし、万が一タキオンが気づいたのと同様のことにミラ子の試行がたどり着けば、極限の不安を与えてしまうことになる。
……が、そんな心配とは無用の場所にヒシミラクルは居た。タキオンに顔を近づけた彼女は、いかにも決定的な証拠を掴んだかのように満足げな表情を浮かべる。
「おや、タキオン先輩の身体から、トレーナーさんの匂いがしますねぇ。なるほどなるほど。」
「なっ、何がなるほど、なんだい?待ちたまえ、ヒシミラクルくん、キミは妙な思い違いをしていないかねぇ?」
「いやいや、良いんですよ、お仲が宜しいのなら、傍に居させてもらう私も雰囲気も良く練習できるでしょうからねぇ。ですけど、まぁ、イチャコラするのなら、時と場所を考えてもらえれば、とね?」
「ちょっと待ってくれ、ヒシミラクルくん!ほぼ確実にキミは、大きな誤解をしている!私はトレーナーくんの服が過剰に濡れてしまっていないか、それを調べるために多少接触したに過ぎない!待ってくれ、待って!」
タキオンの珍しい焦り声を背に、ヒシミラクルはウォーミングアップがてら練習コースを走り始める……そのズブさゆえ、切れ味の鋭いタキオンの脚に追いつかれるのはすぐであったが。
後輩ウマ娘に余計な心配事を与えてしまう気配が無いことについては、安心して良さそうであった。
昨年より頻発するようになった、この世界における異変については……そう易々と解消に届く状況でないこともまた、明確になりつつあった。