3月も半ばとなり、近づく今年度の皐月賞の話題も徐々に世間を賑わせつつある頃。
ノーリーズンは、片桐トレーナーとともに阪神レース場へと赴いていた。その日行われる若葉ステークスに出走するためである。
同じ片桐の指導下にあるタップダンスシチーは、同月の下旬に行われる日経賞に向けた調整のためトレセン学園に残っている。とはいえ後輩ウマ娘への声援を欠かすタップであるはずもなく、レース場に到着する直前のバス内には、スマホからでもよく通る彼女の声が響き渡っていた。
〈You can nail it!Absolutely you'll do fine!皐月賞に行く奴にゃヌル過ぎるレースだろ!絶対勝ってこいよNoreason!〉
「なっはっは!おうとも!タップ先輩におかれては枕を高ぅして吉報を待たれよ!」
〈I'm Freaking out!寝てられるかってんだ!枕じゃなくてダンスフロアを用意しとくからな!〉
互いに言い回しが若干かみ合っていないものの、先輩ウマ娘からの激励を受け取ったノーリーズンはメンタル面でも絶好調の状態で阪神レース場のパドックに姿を現した。
今年1月のデビュー戦から見事な先行策を披露し続け、危なげのない2連勝を達成していたノーリーズン。その評価も高まり、今回は初のオープンクラスへの参戦でありながら2番人気である。
まだまだ伸びしろがありながらも、既にその実力が完成の域に達しつつあるノーリーズンであったが、とはいえ油断できる状況ではない。パドックから控室へと戻ってきた彼女に、片桐トレーナーはおもむろに告げた。
「1番人気はキャプテンベガですね。今や押しも押されもせぬ優駿、アドマイヤドンの妹に当たるウマ娘です。キャプテンベガ自身もまた、デビューからの2戦をいずれも連勝で飾り、ここに来ていますね。」
「ほほう!かのアドマイヤベガの妹分たち、やはり猛将揃いと見える!して、キャプテンベガは差しが得意、じゃったかのう?」
ノーリーズンは頷きつつ、自らも知る所を片桐に聞き返した。
データ収集をトレーナーに任せきりとせず、自らもトレーニングの合間に時間の許すかぎり、情報収集を行うのがノーリーズンの周到さを物語っていた。
片桐としては、レース中にあまり考慮せねばならぬことを増やすべきではないという懸念も無いではなかったが、今はまだノーリーズン自身の力量を見極める段階の最中であった。
「えぇ、今回も後ろ目の位置から仕掛ける作戦で来る可能性が高いです。とはいえ、あくまで本番になるまで競争相手の作戦は不明、ですからね。」
「分かっておる!いかなる策で敵が来ようとも、ワシの柔軟な策にて機をものにして見せよう!にゃっはっは!」
やがて時間が来て、片桐は自信たっぷりな様子のノーリーズンを地下バ道へと送り出し、自らも担当トレーナー専用の最前列観戦ブースへ向かった。
むろん、トレーナーの立場からは、レース出走直前になってもウマ娘たちに伝えたいことをいちいち挙げていてはキリがない。殊に1番人気のウマ娘にはマークが集中しやすいため、包囲されづらいよう周囲から予測されない作戦を採る可能性もある。
その旨をノーリーズンに伝えることは片桐にも出来たが、彼はあえて言及せず、ノーリーズン自身が気づいているか否か試すことにした。
「……担当ウマ娘自身の判断能力を見極めるのも、トレーナーとしての務めです。」
トレーニングや最終調整にてトレーナーが為すべきことは、この日に至るまでに全て済ませている。本番になってからは、ウマ娘自身の判断が勝敗を左右する。トレーナーが横について、適宜指示を出しながら走れるわけではない。
この若葉ステークスは、皐月賞への優先出走権を得るためのトライアルレースである。が、ここで満足なレース中の判断力を発揮できないとなれば、皐月賞へと出ても勝てる保証は無い。
「今回も、作戦がきちんと機能すれば、何ら問題はありませんがね……。」
片桐が想起していたのは、先日、3月10日にシンボリクリスエスが出走したレースでの光景である。クリスエスは万全の状態で、前もって練られていたのだろう作戦どおりに理想的な追い込みを行っていた。
が、想定以上のペースで先頭集団が逃げていたため、追いつくことなく三着。事前の作戦を切り替え、早めに前へつけておく判断が出来ていれば勝てたレースであった。
今のところ好調に勝ち続けているノーリーズンにも同様の懸念があった。1月、2月、とそれぞれ勝ったレースは、いずれも作戦を切り替える必要もなく、想定通りの展開の中で走れたことに変わりはない。
「ノーリーズンさんの身体能力、およびメンタル面には何ら不調はありません。作戦の判断力を、今回こそ試される形となるでしょう。」
オープン戦、それも皐月賞へのトライアルレースとなれば、それまでの条件戦とは競争相手のレベルも違ってくる。
自分の担当ウマ娘の勝利を願いつつも、これがノーリーズンの走りをより磨くための試練となることをも予期しつつ、片桐はコース上でゲートへ入っていくノーリーズンにじっと視線を注いだ。
〈観戦スタンド前、ゲートインしていくウマ娘たちに多くの声援が浴びせられています。阪神レース場第11レース、若葉ステークス、全出走ウマ娘のゲートイン完了……スタートしました!綺麗に揃ったスタートとなりました11名、まず先手を取って前へ出ましたのは2枠のシゲルゴッドハンド、続く2番手にコスモディグニティ、その後ろ、3番手にはハイファッション、そして今回2番人気となりましたノーリーズンがその外に並んでいます。〉
7枠と若干外側の枠となったノーリーズンであったが、速やかに3番手、それも囲まれづらい外側の位置で先頭集団につく事が出来ていた。
このまま先行策のペースで進めれば、負ける要素は薄い。2000mの距離に本番で挑むのは初であったが、当然ながら今までトレーニングで何度も何度も走り抜いてきた距離である。
「後ろが想定以上に詰まっていますね……なるほど、キャプテンベガがその位置ですか。」
逃げや先行の位置につけた面々が想定通りのペースで会った以上、片桐の注目は中団以降のウマ娘たちへと向いていった。
差しを得意とするキャプテンベガは、片桐が事前に予測していた通り、いつもより前目につけた先行寄りの位置、ノーリーズンのすぐ背後にいた。
当然、1番人気の彼女をマークするウマ娘たちもその付近に密集している。ノーリーズンにも、すぐ背後に殺到している面々の蹄音が聞こえているはずであり、彼女自身には十分な判断材料が与えられていた。
〈大歓声の一周目直線を抜け、先頭は早くも1コーナーへと差し掛かっていきます、1番手は変わらずシゲルゴッドハンド、ゆったりしたペースで逃げていきます。コスモディグニティ、ノーリーズンと続いた後は混戦模様、1番人気のキャプテンベガをマークするようにリゼルヴァ、そのすぐ後にサントニービン、さらには外側にメジロアービン、チトセサクセスがその後、とかなり詰まった隊形で、各バ1コーナーから2コーナーを回っていきます。〉
阪神レース場の内回りコースは、正面スタンド前の上り坂を越えれば、そこから向こう正面を抜けて3コーナーに入るまでずっと平坦なコースとなる。
すなわち、速度を大きく変えるような要因もなく、競走しているウマ娘たちはスタミナを極力すり減らさぬようにしつつ、ゴール前の攻防に備えて緊張感を維持するような状況が続く。
「ノーリーズンは、好位置を取れたおかげで無駄な消耗は防げそうですね。あれが油断に繋がらなければ良いのですが。」
ブツブツと呟きながら、片桐はノーリーズン自身よりも、その背後に固まっている集団をやはり注視し続けていた。
このレースの流れで負け筋があるとすれば、密集隊形のまま上がってきた後方集団に飲み込まれる状況である。ノーリーズンが本来想定しているよりも早いタイミングで仕掛けられた場合、突破し難い包囲状態に陥る恐れがある。
想定の外の要素を持ち込みかねないウマ娘集団に、ノーリーズンが気づいているのか否か、ここから確かめるすべは無い。
〈コーナーを抜けて向こう正面の直線へ、1番人気のキャプテンベガは変わらず5番手から6番手の位置をキープ、その後ろメジロアービンが若干前へと出始めたか、サントニービンの後ろでもチトセサクセスが外に出して少々早めに様子を窺っている。あとは最後方、タケハナオペラ、メイショウスイセイが並んで、こちらもじわじわと上がろうとするところ。残り1000m、先頭から後方までの距離がますます縮み始めて、いよいよ3コーナーへと差し掛かろうとするところであります。〉
このレースのスタート直後から片桐が危惧していた状況は、徐々に現実へと近づきつつあった。
3コーナーに入れば、コースは緩やかな下り坂となり、レース全体のペースも早くなっていく。そのタイミングで、前へ上がろうとするウマ娘たちが後方集団のなかで怪しげな動きを見せている。
「あれは、こちらも早めに仕掛けなければ……呑み込まれてしまいますよ、集団に。」
片桐はそう呟いたが、コース上のノーリーズンは動く気配が無かった。2000mというこれまでよりも長めの距離であったことも、またゴール前に上り坂が待ち受けていることも、彼女の判断を慎重にさせていたかもしれない。
想定しているよりも早めのタイミングで速度を上げれば、確かにそれだけスタミナ残量は厳しくなる。が、集団に前をブロックされてしまう方が、よほど抜け出せなくなるリスクは高い。
〈残り800を切りまして3コーナーを回っていきます、ますますぐっと詰まった隊形となりました。先頭は変わらずシゲルゴッドハンド、ここまでペースを作ってきただけに楽々と逃げていきます。2番手争いコスモディグニティも粘っているが、その外からハイファッションが上がってきた、残り600!ノーリーズンも並んでいますがさらに大外をキャプテンベガ、さらにサントニービン、チトセサクセス、と続々上がってきました!〉
状況がここまで来れば、ノーリーズンがむしろ前へと上がっていかない方が不自然に思われるほどであった。
が、片桐は彼女の考えていることが掴めていた。これまで本番で挑んだことのない2000mという距離、ゴール前の上り坂を意識して慎重になっている以上の理由が、そこにはあった。
「あぁ、スピードが上がって回ってきた4コーナーの出口では、皆が遠心力に引っ張られて集団が外へ膨れるから、ですか……。」
それは阪神レース場、あるいは京都レース場にて見られる光景であった。
いずれも、3コーナーから下り坂となり、スピードに乗った状態で最終直線へ突入するコースである。遠心力でバ群が横に伸び、隙間も大きくなるのでそこを突いて抜け出す策は、無いわけではない。
「ですが、それを為して勝利を手にした先輩ウマ娘たちが著名であるのは……まず狙って成功させることが困難な走りであるため、なんですよ。」
言いながら片桐は、コース上のノーリーズンが全く集団から逃れられないまま、4コーナーを回り切って直線へと入っていく様を見ていた。
確かに多少は、コーナーの外側へと、ラストスパートにかかるウマ娘集団は膨れたものの……都合よくノーリーズンが抜け出る道が出来るわけではなかった。
〈残り400を切って最終直線へと入りました!先頭はシゲルゴッドハンド、逃げていく!ハイファッションさらに伸びて先頭に並ぶ、キャプテンベガも並んで横一線!先頭争いはこの3名に集約された、残り200!コスモディグニティ、サントニービンも懸命に追うが、先頭の3名完全に抜け出している!シゲルゴッドハンド、ハイファッション、キャプテンベガ、並んだままゴールイン!確定のランプが灯っています、勝ったのはシゲルゴッドハンド!大接戦の末、クビ差での勝利です!〉
場内は、完全に拮抗した3名のウマ娘たちによる白熱の勝利争いを前に、大歓声に包まれていた。
結局、実況にも名の挙がらぬまま、ノーリーズンは抜け出せずじまいのウマ娘集団に囲まれたままゴールした。結果は七着だった。
「さて、皐月賞への切符は手に入らなかったわけですが……そう肩を落とすことはありませんよ。」
ゴール後、ターフの上から気丈にも観客たちへ手を振って頭を下げていたノーリーズンであったが、流石に地下バ道を抜けて控室に戻ってきた時には憔悴した表情を隠せていなかった。
いつもの豪快な笑いを披露する余裕もない様子であった。
「抜けだせると思った……考えが甘かった。」
「ギリギリの判断を強いられたことには違いませんよ、それに悪手ってわけでもありません。逃げの子に迫る勢いで上がっていったら、たぶんゴール前の上り坂で失速してましたから。」
「でも、これじゃ、皐月賞には……。」
項垂れるノーリーズンの肩にポンと手を置いて、片桐は笑顔を見せた。
トレセン学園内でも曲者として著名な片桐の笑顔は、少々胡散臭さの方が勝っていたものの……彼は勝てぬレースを繰り返したうえで担当ウマ娘を大成させてきた実績を伴っていた。
「問題ありません、皐月賞に出走する道は一つじゃない。この若葉ステークスで得られるのはあくまで優先出走権、抽選を抜けられれば皐月賞への出走は叶いますよ。」
「抽選って……」
「某、運試しには少々覚えが御座いましてな。あるいは、賭けはお嫌いですか?殿。」
いつもいつも真面目そのものな口調を崩し、少々おどけて時代劇の登場人物のごとき口調で語りかける片桐。
いたずらっぽい担当トレーナーの笑みを前にしてノーリーズンは、意気消沈しきっていた自分の口調を平常通りに戻す事がようやくできた。
「……うむ!なれば、此度の賭けはそちに任せるとしようかの、軍師殿!にゃっはっはぁ!!」
「は!御意のままに。」
その日のウイニングライブではバックダンサーに徹することになったノーリーズンであったが、大敗にもかかわらず彼女のパフォーマンスは眩く、朗らかさに溢れていた。
舞台裏での片桐トレーナーとのやり取りを知らぬ観客たちも、他のウマ娘たちも、ノーリーズンの胆力に一目置くこととなったのである。