次なる出走レースに大阪杯を見定め、3月も中旬となってアグネスタキオンのトレーニングにはより一層熱が入る。
先月の京都記念における、ナリタトップロードやアドマイヤベガを相手に得た僅差の勝利もあり、担当トレーナーから急かされずともタキオンはおのずと走りに精が出るようであった。
既に、大阪杯にはエアシャカール、そしてネオユニヴァースといった実力者が出走の意を表明している。アグネスタキオンとて拮抗した勝負の中、掴める勝利の目はほんの僅かの機に限られることは明白である。
ほぼ本気に近い走りで練習コースを駆け抜けていくタキオンを眺めながら、休憩エリアのベンチに腰掛けたヒシミラクルは口を開いた。
「いやー、意外ですねー。タキオンさん、こんな真面目に練習する方なんですねー。」
「今まで何を見ていたんだ、ヒシミラクル。先月の京都記念直前のタキオンの様子も、目の前で見てただろ。」
「そりゃまぁ、見てましたけど……どうしてもタキオンさんには、あんまり必死に練習してるイメージが湧かなくってですねぇ。」
「俺がミラ子の担当トレーナーになる前にだって、タキオンは皆から見られる共同の練習グラウンドで走っていたはずだが……イメージ、なかなか崩れないか。」
鷹木はヒシミラクルに言い返しつつも、今さらになってそんな印象をタキオンが抱かれる理由に察しがついていた。
もちろん、アグネスタキオンにもとより真面目なウマ娘としてのイメージが存在しないことも関係はあるだろう。が、現在のタキオンは、確かにこれまでになくトレーニングへと没頭していた。
その理由は、先日の“実験”の結果にあると思われた。タキオンが粉末ジュースや駄菓子の類をスポーツドリンクに混入させただけのものを、鷹木が飲み干し……翌朝、彼のほぼ全身が光り輝いていたという出来事。
本来あり得ないはずの現象が、客観的に確認できる映像として残されたことで、それは鷹木のみならず、アグネスタキオンをも驚愕させ、そして巨大な不安を見出すことになった。
この世界は、現実ではないのかもしれない。
今となっては、どうにかその不安を飲み込んだ状態でタキオンは平常通り振舞うことに努めていた。が、少しでも意識を現実的なトレーニングへと没入させなければ、タキオンとしても不安を払拭しきれないのだろう。
それとは知らぬヒシミラクルは、いつもより真剣さを増した先輩ウマ娘の表情を、半ば見惚れるようにノンビリと観察していた。
「やっぱ、ギャップですよねー。科学者だとか自称して好き放題やってるみたいな先輩が、練習ではかなり真面目に走ってるとか。ありゃ、惚れさせちゃう相手も増えますよ。トレーナーさんも、そのクチじゃないですかね。」
「俺はタキオンが入学した直後に担当することを決められたんだ……学園理事長の命令で。入学当初は、真面目な顔を見せることはまるでなかった。」
「ということは、今のアグネスタキオンを作ったのはオレだ!と、いったところですかぁ?いやはやぁ、なるほど、担当トレーナーさんとの絆が力になるわけですなぁ。」
相変わらずノンビリした口調で、さほど考え無しに口から出まかせを喋り続けているようでありながら、ヒシミラクルはやはり鋭い洞察力を有していた。
先述の“実験”によって現実世界そのものへの疑惑を抱きかけた体験ののち、確かにタキオンと鷹木の関係性は微妙な変化を迎えてはいた。以前までもタキオンは現実世界の可能性を観測するという目的で実験を繰り返していたが、鷹木が彼女の思いに同調することはほぼ無かった。
しかし、タキオンと鷹木が同じ思い……すなわち、現実性への不安を抱いたことで、両者の歩調は奇妙に合い始めたようでもあった。
鷹木が純粋に担当ウマ娘の走りに注力し、タキオンが独自の探求に没頭するという、かみ合わないままつかず離れずだった互いの意図は、ここに来て重なったのだ。
現実性が疑われる世界で、ウマ娘レースの結果にどれほどの意味を見出せるものか?我々は、この世界に確かな蹄跡を刻めているのか?これから先に行われるレースでは、間違いなく実力を反映した結果が現れるのか?……ウマ娘レースに関わる者たちにとって、それらは重大な問題提起であった。
その詳細な内情をヒシミラクルは読み取るに至らなかったものの、妙に両者の息があっていることについては嗅ぎ取っていた。
「いいですねぇ、やっぱ勝利へ繋がる信頼度ってやつですかねぇ。私じゃ、トレーナーさんと知り合って日も浅いですし、なかなかタキオンさんと同じ域にまで到達するには遠いですかねぇ。」
「何を言ってるんだ、俺はヒシミラクルのトレーニングも、タキオンに対するのと負けず劣らず重視して組んでいる。」
「そうですか?んー、変に口を濁してもアレなので、率直に言いますけど、私の練習量、少なくありません?専属の担当トレーナーさんがついたら、もう毎日息が上がりっぱなしになるまでシゴかれると覚悟してたんですけど。」
練習コースを走っていくタキオンの脚から目を離さなかった鷹木であったが、ここに来てさすがに視線をチラと隣席のミラ子に向ける。
彼女は常通りにぼやんとした目つきを変えていなかったが……やはりヒシミラクルは鋭かった。
確かに鷹木は、ヒシミラクルが息を切らすにはまだまだ早すぎる段階で練習を切り上げさせ、休憩時間をしっかり取らせていた。彼女独りでトレーニングしていれば、おそらく倍以上は走る時間を取っていただろう。
その措置に対する答えは、十分に用意できていたため、鷹木は返答内容を迷うことなどなかった。
「ウマ娘のトレーニングは、常に疲弊の蓄積との勝負でもあるんだ。ヒシミラクル、キミは潤沢なスタミナを有しているから疲労をさほど感じづらいだろうが、走るたびに脚に負荷が掛かっていることには違いない。」
「そうですかね?まーそりゃ、トレーナーさんがつくようになって、毎度うるさく叫ばれるので、以前よりは脚に込める力は強くなってはいますけど。」
「あぁ、それも関係している。どれだけウマ娘自身の取り組みの質が向上しても、身体能力の成長速度には限度がある。無茶なトレーニングで、本番の前に身体を壊してしまっては元も子もない。」
言いながら、鷹木は立ち上がり、正面の直線を駆けて来たタキオンの脚が練習コースのゴールラインを通過する瞬間を凝視しつつストップウォッチを押した。
タキオンが減速していく間にも、彼女の足取りから鷹木は全く視線を逸らさない。走った直後から、タキオンが自らの脚に違和感を抱えていないか、ほんの僅かでも走り方や歩き方に不自然な変化がないか、異常の予兆を見逃してはならない。
この慎重さが、ヒシミラクルに対する指導にもそのまま反映されていることは間違いなかった。当のミラ子は、タキオンが走り抜いたのを見届けてから大きく伸びをし、あくびしながら喋っていたが。
「まー私は、たっぷりと休憩させてもらえんのなら、もんくないれすけろねぇ……ふぁーあ。」
「あくまで確実にレースで勝つための練習量だと自覚はしておいてくれよ。せっかく最近、本気で走る気力をつかみつつあるんだから。」
「きっと心配ないねぇ!今日行われるレースを立て続けに見せられれば、否応なしにレース熱は燃え上がるはずだねぇ!」
手早く汗を拭き終えたタオルをベンチに投げつけ、クールダウンを開始しながらタキオンが鷹木の言葉に口を挟む。
時刻は15時半近く、鷹木もタキオンが言及しているレースをヒシミラクルにも観戦させるために休憩時間をここで設けていた。さほどピンときていないミラ子は、今日行われるレースの中でも有名な方を先に挙げる。
「阪神大賞典、ですよね。今日行われるのは……それ以外になんかありましたっけ。」
「GⅡレース、スプリングステークスだねぇ!他でもないヒシミラクルくんの同期、そしていずれライバルとなるタニノギムレット君が出走するレースだねぇ!」
「いやいや、私がライバルだとか、夢の中であっても言えませんよ……でも、ギムレットくんの走りなら、見逃すわけにもいきませんかね。どっちが先に行われるんです?」
「スプリングステークスの発走予定時刻は、阪神大賞典の10分前だねぇ!トレーナーくん、中継番組の切り替えも既に準備してあるだろうねぇ!」
タキオンから急かされるまでもなく、鷹木は持参していたノートPCにURA公式による配信画面を表示し、差しだしていた。
スプリングステークスと阪神大賞典、いずれも大きなレースに違いないため一般のテレビ放送でも扱われるだろうが、同日立て続けに行われるとあっては学園内のテレビ設置エリアは今ごろ観戦者たちでごった返しているところだろう。
阪神大賞典は言わずもがな、今年クラシック級を迎える世代の中でも抜きん出た戦績を有するタニノギムレットが走るスプリングステークスも、大きな注目を浴びるだろうことは間違いなかった。
「ギムレットくんは1番人気ですかぁ……いや、もう他に考えられない人気順ですけどね。」
「2番人気以降のウマ娘とも、集めた票の差は大きいだろうねぇ!私もタニノギムレット君の勝利が確実だと考えているが、まぁ見てみようじゃないか!」
タキオンの意図するところは、ここでも純粋なレース観戦とは少々違っていただろう。
すなわち、ウマ娘レースを通しての、現実性の確認。可能性や予測性を、どこまで実際のレースが覆すのか。それを確認することが僅かでも出来れば、タキオンも安堵を得られるのだろう。
〈好天に恵まれました、中山レース場内回り芝1800m、スプリングステークス。今回のレースにおきましても、今年絶好調のタニノギムレットに期待が集まります。全ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました!まずは揃いました、好スタートを見せたのは外枠のビゼンスバル、ウチを突いてメガスターダムが出を窺いますが、楽に交わしてウイングブライアンが行きました。さらにはローエングリンも先頭に並び、サードニックスも続いて先行集団を作っています。〉
スタート地点に中山レース場特有の上り坂があるため、スタート直後から他のレース場ほどにはスピードの出づらい中山芝1800mのコース。
しかし、その日に限っては熾烈な先行争いが勃発していた。実況アナウンサーも、先頭に立とうとするウマ娘たちの名を、二転三転する状況を前に慌ただしく読み上げ続けている。
「うわすっご……最初っからゴール直前みたいな加速してますね、皆。」
「ほぼ確実に、ギムレットくんの存在が背後にあるからだろうねぇ!おそらく、ギムレットくんを前に出させまいという考えは、共通しているのだろうねぇ。」
今世代における王者の気質を、既にデビューからの3連勝で実績と共に示しつつあるタニノギムレット。
殊に、先月のアーリントンカップにおける、二着から3バ身離しての余裕の勝利は、今ここで走っているウマ娘たちの印象にも深く刻まれていることだろう。生半可な位置取りでは、ひとたびギムレットが抜け出すのを許したが最後、勝ち目はほぼゼロになる。
その思いが、ぎっちりと密集した先頭集団の形となって表れていた。……ギムレットの姿は、その近くには無かったが。
〈さぁ第1コーナーを回っていきます、タニノギムレットはぐっと下げて、後方から4番手の位置に居ました、今回は16名の出走者のうち、かなり後ろにつけての走りとなっています。現在先頭はローエングリンが立ちました、2番手ウイングブライアン、そのウチ並んでメガスターダム、この3名が先団を形成しています。少し開いてマイネルリバティー、外にサードニックスが続いて中団となっています。向こう正面に入りました、間もなく残り1000mを通過します。〉
結城トレーナーによる的確な采配のおかげか、あるいはタニノギムレット自身の判断か……熾烈な位置取り争いを繰り広げる先団から中団の位置ではなく、ずっと後方にタニノギムレットは位置していた。
集団に包囲されずに走る上では、間違いのない判断であった。ほぼ全ての出走ウマ娘は、ギムレットに置いて行かれる状況を最も危惧していただろうためだ。その的確な判断力を、鷹木もトレーナーとして自然と称賛する言葉を口にしていた。
「能力ばかりではなく、作戦も完璧か、タニノギムレットは。自身を見る相手の視点をしっかり意識しているな。」
「あるいは、普段から示しているあの珍妙な振る舞いも、それを鍛える一環なのかもしれないねぇ。自らが注目されざるを得ない状況に身を置くこと……なかなか真似できることではないねぇ!」
「それはそうですけど、タキオン先輩も他のウマ娘のこと言えないでしょ。」
鷹木の発言に言葉を添えたタキオンに対し、ヒシミラクルがツッコミを入れている。
そうしている間も、ヒシミラクルは中継画面から目を離せていなかった。先ほどタキオンが言った通り、仮にミラ子自身がライバル意識などを抱くには遠すぎる自覚があったとしても……自分と同学年のウマ娘が巧みな走りを見せる様からは、視線を外せないのだ。
〈向こう正面、位置取り争いは一旦収まったでしょうか、全体の隊列がやや縦長になってきました。中団はメモリーブロンコの姿があって外からホーマンウイナーが追走、さらに3バ身差、セイコーアカデミーが前から9番手の位置。そしてサダムブルースカイ、そしてセピアメモリーが並んで、その後さらに3バ身ほど空いたところでウチを突いてタニノギムレット。最後方にビゼンスバル、ダディーズドリームが並びまして、これから3コーナーへと入っていきます。〉
距離も1800mとマイル寄り、そして上り坂やコーナーが多くスピードも出づらいコース……となれば、逃げや先行が有利になりがちではあったが、今回は逆の状況であった。
先頭集団は多少落ち着いたとはいえ、この時点で幾度も位置取りの入れ替わりを繰り返しており、既にスタミナを相応に消費してしまっている。密集隊形は向こう正面なかほどでようやく広がったものの、中団での身動きは困難な状態が続いただろう。
「後ろに控えている面々だろうな、勝利争いに参加できるのは。タニノギムレットは当然として……。」
「あのビゼンスバルというウマ娘、来そうだねぇ。ギムレットくん同様に、ずっとウチまわりに徹してスタミナの消費を抑えている。というか、ギムレットくんを後方からマークし続けているねぇ。」
タキオンの言った通り、今回は8番人気ではあったが安定した脚運びを見せているビゼンスバルにはかなりの余裕がありそうであった。
ギムレットがこれまでと違って大きく下げた追い込みの位置に来ることまでも予測していたのか、全く迷いのないペースで3コーナーに入ってもなおギムレットより後方の位置に徹し続けていた。
〈3コーナーを回っていきます、先頭はまたまた変わってローエングリン!2番手にメガスターダム、3番手にウイングブライアンといった形で、残り600を通過!各ウマ娘接近してまいりました、サードニックス4番手、大外に出して上がってまいりますホーマンウイナー、ビゼンスバルも大外に出て前を目指す形!さらにその外からタニノギムレットも追い込み準備万端!いよいよ最後の直線へと向かいます!〉
スタート直後から多くの観客が思い描いていた通りの仕掛けをタニノギムレットが披露し、そこに予想外の刺客も並んで直線を駆けあがっていく。
先団や中団でゴタゴタと位置取り争いを続けていた面々はあっという間に置いていかれていた……ただ1名、ビゼンスバルだけは、タニノギムレットに並んで駆けるだけの脚と、余力を有していた。
「おぉぉー、ギムレットくんの独り勝ちかと思いきや、あの8番人気の子、並んでるじゃないですか!」
「これがあるから、ウマ娘レースは幾度繰り返しても目が離せないんだねぇ!ひょっとすると、ビゼンスバルくん、今世代の王者に食らいつくかもしれないねぇ!」
ヒシミラクルもアグネスタキオンも、揃ってこぶしを握り締め、視線は画面越しのターフ上に釘付けとなっている。
タキオンの興奮が、純粋なレース展開に向けられるものだけで占められているわけではない、と鷹木はきづいていた。確かにここには、レース開始前に見いだされた可能性に収まらない展開があったのだ。
〈さあ残り200を切った!ゴール手前には中山名物の坂があるぞ!ウチ側でホーマンウイナーも粘っているが、これは3番手争い!先頭は2名に絞られた!タニノギムレット、そしてビゼンスバル!競り合っている、が、タニノギムレットが捉えたか!3番手との差は2バ身以上!後ろは完全に突き放した!タニノギムレットか、ビゼンスバルか!クビ差で今、タニノギムレット先頭でゴールイン!豪快に差し切りましたタニノギムレット!!ビゼンスバルも並んで、上がりタイムは文句なしの1位です!〉
後方集団を置き去って、2名並んでゴールラインを駆け抜けていったタニノギムレットとビゼンスバル。
ギムレットはこぶしを突き上げて大歓声に応え、暫く減速した後に自分に並んでいるビゼンスバルに何やかやと話しかけている。
おそらく彼女なりに相手の走りを讃える言葉を掛けているのだろうが、やはりいつも通りに難解な言い回しなのだろう、ビゼンスバルの方は笑顔とともに困惑の表情も同時に浮かべていた。
ようやく画面から視線を外し、丸めかかっていた背筋をぐんと伸ばしつつ、ヒシミラクルはつぶやいた。
「ほぉぉー……ギムレットくんが今年の絶対王者だと思ってましたが……あそこまで追いついちゃう子、居るもんなんですねぇ……。」
「我が身に引き換えても考えてみたまえヒシミラクルくん!キミとてギムレットくんと肩を並べる位置に到達することは充分に現実的なのだからねぇ!このアグネスタキオンという天才の走りを目の前で見続けているのだから、十分に可能だろう!」
「いやいやいや……そりゃまぁ私も今は一旦中距離で練習してますけど、性に合ってるのは長距離ですし、1800mで勝てるとは思ってませんし……。」
「ならば長距離の走りを、間もなく見る事が出来るからそちらを参考にしたまえ!トレーナーくん!ぼやぼやしている暇はないねぇ、さっさと阪神レース場からの中継画面を表示したまえ!」
タキオンから急かされるまでもなく、鷹木は既にノートPCを操作し始めていた。
スプリングステークスからわずか10分という時間差で実施される阪神大賞典。中山レース場の中継ページから阪神レース場のページへ移るだけでもアクセスが集中しているためか、年季の入った鷹木のPCは空冷ファンの唸りをあげていた。