タニノギムレットが勝利した中山レース場のスプリングステークスから数分後、同日のほぼ同じ時間帯に開催される阪神大賞典。
長距離レースに挑むのは昨年の菊花賞以来となるジャングルポケットへ世間の注目は集まっていたが、一方で鷹木とタキオンの意識が向けられているのは別な要素であった。
この阪神大賞典は、2年前から全く同じレース展開を繰り返している。
タキオンの立てた仮説、可能性世界によって確定されたレース結果から抜け出せない異変……そのひとつとなっていた。
(ナリタトップロードが一着、アドマイヤベガが二着……アドマイヤベガの方は、普段得意とする追い込みではなく、先行策で走る……というのが、一昨年と去年、繰り返した展開だ。)
ノートPCに、阪神レース場からの中継配信ページを表示させながらも、鷹木は脳内で以前のレースについて思い返していた。
おそらく、タキオンも彼と同じことを考え、今年初めて参戦するジャングルポケットの存在がどれほどの変化をもたらすものか、と推測を巡らせていることだろう。
が、鷹木の真隣りに居ながらも、タキオンはその旨に言及することなどなかった。言わずもがな、同じ場にヒシミラクルが居たためだ。何も知らない後輩ウマ娘に、無用な心配事を伝えることはない。
当のヒシミラクルは、変わらずのんびりした調子で、阪神大賞典の出走メンバーが地下バ道から出てくる様の映る画面を見つめている。
「へぇー、出走するの、9名だけなんですかぁ。少ないですねぇ。ってか、あんまり出走者が少ないとレース中止されませんでしたっけ?」
「レース成立の最小枠数は5名だねぇ、さらに出走取消が重なって減ることはあるが……しかし歴史ある重賞レース、阪神大賞典はその状態に至ることなどないだろう。この出走者の少なさは、ひとえにベテラン揃いのレースとなったことに理由があるだろうねぇ。」
「たしかに、そりゃトップロード先輩にアドマイヤベガ先輩なんて、3年前に引退された覇王テイエムオペラオーと同期の方々ですもんねぇ。」
ヒシミラクルからの純粋な疑問にアグネスタキオンはスラスラと答えていたが、その際タキオンの表情に僅かな緊張感がよぎったのを、鷹木は横目で見ていた。
以前から、同じ展開を毎年繰り返すレースが存在することとは別に、タキオンはある現象に懸念を抱いていた。レース中の歓声が、本来の観客数と比べても不自然に小さくなっている現象である。
ウマ娘レースは、実際に走ったウマ娘たちの順位の確定のみで完結しているのではなく、その現場に押しかけた幾万人もの観客やファン達の抱く興奮、緊張、感動といった巨大な情動によっても彩られる。
いわば、この世界における現実として歴史に刻まれ、人々の記憶に残ることが重要であるはずなのだが……非現実的な異変の発生が度重なるにつれ、歓声というひとつのバロメーターはじわじわと低下の一途をたどっていた。
そも、全く同じレース展開を繰り返していることに誰も気づかず、データベース上にも正確な記録がない様を誰も指摘していない時点で、世間一般の関心が向かう先が既に狂いつつあることは明白であった。
さすがに、レースに関わるウマ娘たちならば、おかしい点があることに気づきはしたが。
今まさにヒシミラクルはスマホを弄って過去の阪神大賞典について調べていた最中であったが、違和感に気づいて声を上げた。
「あれ?トップロード先輩って、阪神大賞典めっちゃ勝ってるイメージあったんですけど……前回は三着、ですか?って、一着テイエムオペラオー、二着ラスカルスズカ……これ3年前のレースですよ。」
「おやおや、URA公式が誤ったデータを記載しているねぇ。これはいけないねぇ、学園に報告して訂正を促しておかないとねぇ。」
タキオンはひとまずそう返答し、傍らで鷹木も頷いていたが、おそらく実行したところでデータベースが書き換えられることは無いのだろう。
そも、URAを始めとして、学園理事長までもがこの異常事態に気づいているのか否か……鷹木も、おそらくタキオンも、確認する勇気はなかった。彼ら彼女らが気づいていなければまだ良い、気づいたうえで何らの手立てを講じる事も出来ていないとなれば、いよいよもって現状の切迫は確実となる。
現実性に生じている狂いなど、どれだけ権力や財力があったとしても対処できる類の異変ではなかったが。
「いやぁー、にしてもポッケ先輩、あんなベテラン揃いのレースに殴り込んで、どこまで食い込んでいくんでしょうかねぇ。一番絶好調な時期でしょうし、すんなり勝っちゃったり?」
「さてねぇ、ジャングルポケットくんは長距離が決して苦手というわけではないが、なにぶん相手が強力すぎるからねぇ。昨年はマンハッタンカフェに届かなかったことだし……。」
ヒシミラクルとのやり取りを続けつつ、タキオンもまた自らのスマホ画面に視線を落としていた。
彼女のもとに、今しがた話題に挙げたマンハッタンカフェからのメッセージが届いたところであった。カフェらしい、端的な文面は、しばしタキオンの視線を捉えて離さなかった。
〈ジャングルポケットさんに、全く同じ姿のお友だちが、重なって見えます。〉
今は個別練習場に居るマンハッタンカフェもまた、ゲート入りが進んでいく阪神大賞典を画面越しに見つめているのだろう。
2年連続で慣れない先行策を採ったアドマイヤベガに、栗毛の“お友だち”がとり憑いている姿を、以前マンハッタンカフェは見出していた。詳細に見ればみるほど、“お友だち”はジャングルポケットに酷似した外見であったことも。
今年になって、いよいよジャングルポケット自身が阪神大賞典に出走する時となり、その“お友だち”はジャングルポケットと重なって見える、とカフェは言うのだ。
まるで、これまでアドマイヤベガが代役を務めてきたレースの、本来の展開……可能性世界で確定していたと思しきレース展開の答え合わせが、これから始まるかのように感じたタキオンは緊張を隠すだけで精一杯であった。
画面の中では、既にレース出走直前の状況となっていた。
快晴の夕空、2年前から繰り返して見ている同じ光景の中、アドマイヤベガの位置がジャングルポケットに置き換わっている点だけがこれまでとの差異であった。
〈全ウマ娘、ゲートインが終わりまして……スタートしました!少し出遅れたかアドマイヤベガ、ミツアキサイレンスが先頭で引っ張る形、まず最初の3コーナーへと向かいます。エリモブライアンが早めに2番手、アリシバキングがウチをついて3番手、そして外側を……ジャングルポケット!ジャングルポケット、ここで前につけて4番手!その後ウチ側にナリタトップロードが5番手という順になっています!〉
実況アナウンサーの文言も、昨年まで繰り返してきた内容とほぼ同じであり、昨年まではアドマイヤベガの名を読み上げていた部分がジャングルポケットへ変わっているだけである。
とはいえ、流石に変化はあった。追い込みに専念してきたアドマイヤベガとは違い、時おりは先行策での走りを見せることもあったジャングルポケットに対しては、さほど大きな驚きが示されていない。
観客席からのどよめきも、前回よりも小さい。これは先述のタキオンがたてた仮説による原因もあり得たが、ジャングルポケットが先行策で走ることにそこまで大きな意外性が見いだされなかったためでもあるだろう。
タキオンや鷹木と並んで観戦しているミラ子も、全く意外そうな顔も見せずレースの様を眺めている。
「やっぱアドマイヤベガ先輩は後方からの追い込み策ですねー、先行集団にトプロ先輩とポッケ先輩ですかぁ……こりゃあ後ろにつけた面々には結構なプレッシャーになってそうですね。」
「そうは言うけれどねぇ、あの中ではジャングルポケットくんがいちばんの後輩だからねぇ。出走ウマ娘はいずれもベテラン揃いだ、レベルの高い駆け引きが見られるだろうからしっかり観察して勉強したまえよ、ヒシミラクルくん。」
何の事前記憶もなく、このレースに出走するメンバーを見ていれば、鷹木も同じことを言っていただろう。
実際には、今しがたそう言ったタキオンも分かり切っていた事ではあるが、もはや昨年まで繰り返された展開が再現されるに過ぎないのだ。
確定したわけではないものの、一周目の3コーナーに入っていく画面内のウマ娘たちの隊形は、既に見覚えのある展開となっていた。
〈3コーナーから4コーナーへと回っていきます、変わらずミツアキサイレンス先頭、エリモブライアンが単独2番手という流れ、アリシバキングにほとんど並んでジャングルポケット……その外からボーンキング、ボーンキングが今、多少外へ持っていかれながらも後方から4番手、3番手へと上がってまいりました。ナリタトップロードは6番手、ウチ側落ち着いたペースで脚を運んでいきます。〉
アドマイヤベガが序盤からあんなにも前の位置につけていたからこそ、違和感は抱かれたのであって、その同じ位置にジャングルポケットが入っている様はすんなりと受け入れられた。
長距離における敗因を分析したジャングルポケットならば、序盤から前目につけて進める選択は充分にあり得たのである。
「昨年の菊花賞では、カフェの追い込みに遅れて上がっていったが届かない、という展開だったからねぇ。こと長距離においては、得意の直線での加速一本勝負では無理があると判断しているのだろうねぇ。」
「スタミナ、3000m走り抜いてきたぶん使ってますもんねぇ。ひょっとしたらスタミナ勝負に持ち込めば、私でもポッケ先輩に勝てるかも……だなんて、それは言い過ぎですけど。」
ヒシミラクルはツッコミを待つようにチラとタキオンの方を見たが、思いの外タキオンが真剣な眼差しで画面を見つめていたため、それ以上は口を噤んだ。
タキオンは意識していなかったが……既に彼女は、ジャングルポケットの脚さばきから目を離せなくなっていた。
〈さぁ1周目のホームスタンド前に入ってきます、ナリタトップロードとジャングルポケットは5番手6番手、並んでいますが徐々にジャングルポケットが後ろへ下がり始めたか、スタートして1000mを通過……1分6秒、超スローペースであります。後方にはアドマイヤベガ、キングザファクトが後ろから2番目、トシザブイが最後方の展開となっております。まもなく先頭は1コーナーへと入って行くところです。〉
こんなにスローペースだと、追い込みの位置にしがみついたままじゃ前の連中に逃げ切られちまう。
そう語っていたのは、ちょうど一年前のジャングルポケットであった。昨年の阪神大賞典は、タキオンがジャングルポケットを誘って一緒にトレセン学園で中継番組を見ていたのだった。
「そうだねぇ……確かに、これは……ジャングルポケット君の走り、だねぇ……。」
「今、後ろに下がっていったのも、余計なスタミナ浪費を避けるべきコーナーを抜けて、直線に出たことでペース配分を調整する余裕が生まれたから、だろうな。」
鷹木の言に、タキオンは静かに頷く。そんな先輩ウマ娘と担当トレーナーの姿を、ヒシミラクルは単にライバルのことを念入りに観察する姿だとのみ感じていた。
実際は、タキオンと鷹木はまさに“答え合わせ”の最中だったのだが。
〈ナリタトップロード、エリモブライアンの後4番手の位置をキープして向こう正面を抜けていきます。その後をアリシバキングと並んだジャングルポケットが5番手6番手を追走、あとはアドマイヤベガ、キングザファクト、トシザブイは変わらず最後方の形。先頭からしんがりまでは6、7バ身といった開き、後ゴールまで1000mにかかると言ったところで、第3コーナーへと入っていくところです。〉
あまりにも違和感のない一致であった、ジャングルポケットがナリタトップロードの背を追うようにレースを進めている姿は。
時系列的には、昨年までのアドマイヤベガの走りをポッケがなぞっているという認識も生まれかねない状況だったのだが、ジャングルポケットが最初からこの走りを選択し、判断して実行したことを疑う余地はなかった。
カフェが以前言った内容……ジャングルポケットの姿をした“お友だち”がアドマイヤベガにとり憑いている、という内容は確かに正しかったのだろう。
「トップロード先輩の安定感、それを理解したジャングルポケット君ならば、その背を追うように後半もレースを進めることはごく自然な選択だねぇ。」
「ホント、綺麗なペースで進んでいきますよねー、トプロ先輩。私が本番に出走する時も、トプロ先輩と一緒に走れないかなーって……GⅡとかGⅠに届くの、私にとっちゃまだまだ遠いですけどねぇ。」
またしてもヒシミラクルはタキオンから返答を得られず、いつになく真剣な先輩の邪魔をすまいと改めて口を噤む。
が、タキオンがミラ子に返答を寄越さない理由は、目の前のレース中継に集中したいという意思以外に、別にあった。先ほどからミラ子が口走る内容が、不気味なまでに現実味を帯びていたためである。
もちろん、ヒシミラクル自身が言っている通り、今のところ未勝利バでしかない彼女にとっては非現実的な仮定ばかりである。それでも、『ヒシミラクルがジャングルポケットやナリタトップロードと同じレースに出走する』という内容は……いやに生々しく、約束された将来の出来事としてタキオンの耳朶に響いた。
その感覚に正面から取り組んでいる余裕は今のタキオンには無く、決して聞き流せる発言ではないものの、現状は一旦脇に置いておくほかなかったのである。
〈変わらずミツアキサイレンスが全体のペースを作って先頭を行きます、ボーンキングも2番手でリードを徐々に詰めている。だいぶスローな流れとなっておりますが、ここでナリタトップロードがじわっと上がって現在3番手!ジャングルポケットも今5番手から4番手へと並びます、人気度1位、2位のウマ娘が最後の仕掛けに備えて前に出始めた!最後方の集団もつられたように前方へ詰めてくる、だんだん流れが早くなってまいりました、残り800を通過!〉
向こう正面で若干後ろに下がってからの、ここに来て、得意の大外からの追い込みか。メチャメチャ器用なペース配分だな……。
「生半可な練習量では、真似できないねぇ。実際に走ってみると、いつもと違うペース取りをした結果、自分のスタミナ残量を把握することは難しくなるだろうからねぇ。」
「へ?あ、あぁ、ジャングルポケット先輩の走りが、ですか?ですねぇ、途中で速度を調整して追い込みに備える、って、難しいでしょうからねぇ。」
アグネスタキオンは、昨年はすぐ横に居て一緒に観戦していたジャングルポケットの発言に返答しているようであった。
今は、ジャングルポケットが目の前の画面内で阪神大賞典を走り、すぐ横に居るのはヒシミラクルである。ミラ子は、唐突に独り言のごとく呟かれたタキオンの発言に、どうにか合わせることが出来ていた。
ヒシミラクルもまた十分にレース展開についての勉強をできていたおかげであったが、鷹木もまた彼女を褒めている余裕はなかった。
そこから先、ゴールまでの展開に、昨年までと大きく違う要素が入り込む予兆があったためだ。
〈外からジャングルポケット、ジャングルポケット!ウチで食い下がるボーンキング!間からはエリモブライアン追い込んでくるが、ナリタトップロードが抜けた!完全に抜け出した!2番手争い、エリモブライアン、ジャングルポケット完全に並んでいるが、ナリタトップロードとの差は開いていく!ここで大外からアドマイヤベガ!今まで後方で構えていたアドマイヤベガが、ここで上がってきた!残り200!〉
「違う、これまでとは……!」
タキオンがつい口を開いて言ってしまった内容を、さすがに今度ばかりはヒシミラクルは理解できず、一方で鷹木はすぐに把握できていた。
昨年までは、慣れない作戦を採ったアドマイヤベガが他のウマ娘たちと競り合っている中、理想的なペースで進んでいたトップロードが完全に抜け出し、そして4バ身もの差をつけて圧勝するという流れだった。
それが、明らかに変わっている。ジャングルポケットが可能性世界で確定した展開をなぞっていたとしても……何かが、繰り返しを打ち壊し、特異点として機能しているのだ。
〈先頭はナリタトップロード!大外からアドマイヤベガが食らいつく!間から負けじとジャングルポケット!ジャングルポケット意地を見せる、再度の加速!並んだ、3名並んだ!ほとんど並んでゴールイン!!これは審議です!審議のランプが点灯しております……映像が出ました、勝ったのはハナ差でナリタトップロード!大接戦を制しました!二着はジャングルポケット、三着アドマイヤベガ!ベテランウマ娘たちとの激戦、よく走り抜きましたジャングルポケット!〉
タキオンは何の衒いも無く鷹木の方を向き、鷹木もまた自然とタキオンと目を見合わせていた。
アグネスタキオンの目は、ごく稀に見せる光を宿していた。いつもノイズの走ったような目に、彼女が明白に隠し切れない希望を見出した時、浮かび上がる光があった。
「トレーナーくん……やはり、ウマ娘の走りは……!」
「あぁ、可能性だ。それに聞こえるだろう、画面越しでも、大歓声が。」
毎年、全く同じ展開のレースを繰り返すたび、まるでレコードが擦り切れるがごとく小さくなっていた、レース場に響き渡る歓声。
しかし、今、ノートPCの多少音質がお粗末なスピーカー越しとはいえ、空間が割れんばかりの大歓声は阪神レース場を包み込んでいた。同じレース展開の繰り返しも、現実性の希薄化も、この時ばかりは解消されていた。
ジャングルポケットは、結果こそ覆せなかったものの……ナリタトップロード、そしてアドマイヤベガと並んで渾身の走りを披露し、確かに新たな可能性の扉を開いたのだ。