薄暮の明るみも空から去った頃、病院の一室は清潔でうすら寒い照明に白々と照らされている。
大阪杯のレース場から救急車で搬送されたアグネスタキオンは、今は大観衆たちの歓声からも遠く、ベッドの上で静かに横たわっていた。
鷹木トレーナーは、医師から詳細な説明を受けるためにこの場を一旦離れている。それでもタキオンが孤独でなかったのは、ちょうど阪神レース場現地に観戦に訪れていたマンハッタンカフェが見舞いに駆けつけていたためであった。
「タキオンさん……。」
「お互い、勝負服姿ではないのは……準備の悪いことだねぇ、カフェ。ちょうど私は白装束、カフェは黒の一式だというのにねぇ……。」
「こんな時にまで、縁起でもない冗談はよしてください……というか、私の勝負服を喪服呼ばわりするおつもりですか……。」
お互いの付き合いの長さもあって、少々際どい冗談を口にするタキオンを前に、呆れ顔のマンハッタンカフェ。
とはいえ、いつになく元気のないタキオンと、常より低い口調のカフェのボソボソとしたやり取りは、室内の雰囲気を湿っぽくするには十分すぎる要素であった。
廊下をバタバタと走ってくる足音が近づく。医師やトレーナーの足音ではないことは、その遠慮のない響きからすぐに知れた。
他の入院患者に聞こえる恐れも鑑みず、勢いよく引き開けられた扉の向こうには、息を切らし血相を変えたジャングルポケットの姿があった。
「ッ……タキオン!!おい、タキオン、大丈夫なのか!?」
「おや、ジャングルポケットくん……トレセン学園から、わざわざ見舞いに来たのかい?……府中を出発して、阪神の仁川へ到着するにしては、随分と早い到着だねぇ……」
「結城トレーナーがヘリを飛ばしてくれたんだ!んなことよりも、大丈夫かって聞いてんだよ!!」
足早にタキオンのベッドへ近づいてくるジャングルポケットの背後では、その大声が漏れないよう、マンハッタンカフェがそそくさと病室の扉を閉じている。
ウマ娘のためならば個人所有のヘリコプターを即座に飛ばす結城トレーナーの異次元のフットワークはさておき、ジャングルポケットは目の前で力なく病床にあるタキオンの姿に釘付けとなっていた。
ジャングルポケットにとっては、昨年味わった最大の恐れ、一番の好敵手が目の前から去ること……それが再び、現実になろうとしていたのだ。
「おい……レース場関係なく、お前に勝って最強を証明するって言ったよな!お前も、オレに勝つつもりで走るんじゃねーのかよ!タキオン!!」
「すまないねぇ……今年の、春の天皇賞……一緒に走れそうにないねぇ……。」
「ふざけんなよ……どうしてなんだよ……タキオン!……おい、タキオン……?」
ジャングルポケットの目の前で、タキオンは既に目を閉じ、それ以上の返答はなかった。
みるみる顔を青ざめさせながらも、ジャングルポケットは慌ててタキオンの手を取る。それは充分に温かかったが、少々過剰な握力にも抗することなく、ただ力なく握られるばかりであった。
「ちょっと待て……タキオン?タキオン……!?」
「あ、タキオンさん寝ちゃいました?やっぱ食べ過ぎですねぇ、病院の食事は味も薄くて食べた気がしないっていうもんですから、近所で照り焼き弁当ふたつ買ってきてあげたらペロリと平らげちゃって。」
血相を変えているジャングルポケットの背後、病室の扉を開けて入ってきたのはヒシミラクルである。
アグネスタキオンが脚の故障でしばらく走れないことが確定した後も、気兼ねなく自然体で振舞えるヒシミラクルはあれこれと用事を言いつけるのに重宝する相手であった。
その結果、自分のわがまま通りに腹いっぱい食事を終えていたタキオンは、レース後の疲労が押し寄せてきたこともあって、まるで睡魔に吸い込まれるかのように眠りに就いたのである。
まもなく盛大に響き始めたタキオンのいびきを聞きながら、ジャングルポケットは少々赤面しつつ手を離した。
「……紛らわしい真似すんじゃねーよ、ったく……。」
「さきほど、鷹木トレーナーとお医者様が会話しているのを聞きましたが……症状は、屈腱炎の再発、だそうです。」
ヒシミラクルから自販機で買ってきたジュース缶を受け取りながら、マンハッタンカフェが遅ればせの説明を口にする。
屈腱炎は、昨年の皐月賞の後、アグネスタキオンが長期の休養を取る原因となった症状である。一度発症すると、一旦治っても再発するリスクは残り、ウマ娘が引退する原因としては繋靱帯炎と並んでよく聞かれる。
腹いっぱい食っていびきをかいて寝られる程度に健康であることは何よりであったが、アグネスタキオンの選手生命にとっては苦難の道が続くことに違いはなかった。
「また復帰できんのか、タキオンは?」
「さぁ、それは……診断結果を元に、鷹木トレーナーが決めることですから……。」
低い声で尋ねるジャングルポケットに、マンハッタンカフェは曖昧な返答しか与えられない。
重い空気をまるで気にせず、カシュッとジュースの缶を開ける音を響かせているヒシミラクルがいなければ、この病室は暫し静寂で包まれていただろう。
「だいじょぶですって、タキオン先輩、本気で走れなくなったらこんなグウグウとイビキかいて寝てらんないでしょうし。前も同じ症状から復活できたんですし、また秋ごろにはレースに復帰してますって。」
「本気で走れなくなってもイビキかいて寝てそうな奴だから心配なんだよ、前と同じ症状を繰り返してるから安心できねぇんだよ。」
ジャングルポケットが即座に言い返す。が、開けたジュースの缶をヒシミラクルから差し出された際には、後輩の厚意をむげにすべきではないとの信条からか、それは黙って受け取った。
いつもマイペース、のんびり屋に見えるヒシミラクルであったが、どのような状況でも変わらぬ精神的な支柱としての役割は、このような場でこそ強まるようであった。
「ところで、さっき聞きそびれたんですけど、結城トレーナーがヘリコプターを飛ばしてくれた、でしたっけ。レジェンドトレーナーは色々と規模が桁違いですねぇ、じゃあ結城トレーナーも一緒にトレセン学園から飛んで来たんですか?」
「いえ……結城トレーナーは今日、大阪杯に出走するシャカールさんの付き添いで、私と共に阪神レース場に来ていました。正確には結城トレーナーが遠隔で、府中にて待機中のヘリパイロットの方に指示を与えた、と言うべきでしょう……。」
「ってことは、ヘリコプターのパイロットの方と、ジャングルポケットさんだけでわざわざ飛行を?」
「流石にオレもそこまで図々しくねーよ、オレはついでに乗せてもらっただけだ。」
誰のついでにポッケがヘリコプターに乗せてもらったのか、問いただすまでもなく、病室の扉がガラリと引き開けられる。
そこには、つい先ほどまで医師からの診断結果を聞いていた鷹木と、同行するように桂崎トレーナー、キングヘイロー、そしてアグネスデジタルといった顔ぶれが揃っていた。
ジャングルポケットに負けず劣らず、タキオンの負傷が気がかりな様子のアグネスデジタルであったが、さすがに自分の感情を病院内で抑えるために努めて控えた行動としていたのだろう。結果、特に自制することもなく突っ走っていったポッケが先んじたのだ。
鷹木は完全に憔悴しきった表情で目の下に隈を作り口を閉ざしていたが、代わりに桂崎トレーナーが医師からの診断結果を簡潔に一同へ伝えた。
「既に聞いたかもしれないが、タキオンの症状は再発性の屈腱炎だ。脚に違和感があって即座に対処できたため悪化は食い止められ、レース復帰に要する期間は数カ月程度で済むとのことだ。」
「数カ月って、どの程度なんだ?天皇賞春は無理でも、宝塚記念は?」
「……流石に、秋以降になるだろうね。タキオンの復帰は。」
ジャングルポケットからの問いかけに淡々と返答している桂崎トレーナーの傍ら、力なく肩を落とした鷹木がベッド脇のスツールに腰掛け、小さなため息を吐く。
いずれ復帰できるとはいえ、担当ウマ娘の怪我を防ぎきれなかった事実は、トレーナーとしての不甲斐なさを否応なしに感じさせられるものであった。どれだけ気を配っていても完全に防げるわけでもない事態とはいえ、心底に堪えることは避け難いのだろう。
さすがのヒシミラクルも黙って鷹木の横に座るだけしか出来ていない一方、静かに眠っているアグネスタキオンの姿を前にしていよいよ黙っていられなくなったアグネスデジタルが恐る恐る近づいてきた。
「あ、あのぅ……タキオンさんは、今、痛かったり、辛かったりしないでしょうか……。」
「ついさっき、オレと話すよりも眠気を優先してイビキかきはじめやがったからな。そこは問題ないだろ、タキオンが今後をどう考えてんのかは分かんねーけど。」
「でも、きっと、胸中穏やかじゃないはずです。最近のタキオンさん、ご自身のレースだけじゃなくて、後輩の面倒見るのも一生懸命で……現役ウマ娘の中心にいて、ウマ娘レース全体のことをずっと思ってらっしゃるみたいで、ずっと頑張っていて……。」
タキオンと張り合う思いを常に宿しているジャングルポケットも、そのデジタルの発言については敢えて否定しなかった。付き添っていたキングヘイローも、黙って頷いている。
2年前の入学当初の状況からは、タキオンがレースに全力で打ち込む姿や、後輩ウマ娘のことにまで気を掛ける姿は想像できなかったろう。確かに傍から見れば、タキオンが自分の勝利のみならず、ウマ娘レースの将来と盛隆を思って行動し続けているようであった。
当のタキオンから面倒を見られている後輩ウマ娘たるヒシミラクルがピンときていないのは、そういったタキオンの行動が結局はタキオン自身の探求心を満足させるために過ぎないことを、既に見抜いていたためであったが。
デジタルはタキオンの手を取り、じわりと目尻に涙を浮かべて言葉を続けた。
「レースに全力なタキオンさんは、すごくカッコいいです。でも、ご自身の身体を、大事にしてください。タキオンさんの走りが放つキラキラ、ずっとずっと輝いていてほしいんです……!」
「デジタルさん、今はタキオンさんも眠っているから……。」
徐々に感情の昂りを示しつつあるデジタルの様子に、背後からキングヘイローが近寄って静かに諭そうとする。
が、デジタルの耳にはすでに届いていない様子であった。
「私、それなりに長いことレースを続けてきて、何名も見てきたんです、勝ちに本気になり過ぎて、身体を壊しちゃう子たちを。勝負の世界は本気、ですが無事に帰ってくることも、ウマ娘ファンの皆が望んでいることなんです!だって、そうじゃないと、それっきりでウマ娘のキラキラは……」
「うるっさいねぇ!おちおち寝ていられないねぇ!」
既にイビキをかいていなかったタキオンは、デジタルが耳元で喋りはじめたことですっかり目覚めてしまっていたらしい。本気で自分のことを心配する言葉を長々と聞かされ、寝たふりで乗り切ることも諦めるほかになかったようだ。
急にパチリと目を開いて言い返してくるタキオンを前に、デジタルは一瞬驚いた様子であったが、想定以上に元気そうな様子を見たことで多少なりと顔色を明るくした。
「タキオンしゃん……!よかったです、思ったより元気そうで……。」
「トレーナーくんから説明を受けなかったのかい、私は今ただ眠いから寝ていただけだと!おい、トレーナーくん!キミがそのように沈み切った顔をさらしているから誤解を拡げてしまったのではないかい!?」
「……すまない、タキオン、俺がちゃんとしてないせいだ。」
「いい加減に立ち直りたまえ、トレーナーくんが沈んでいたところで、私の治癒が早まるわけでもあるまい。それ以上に、為すべきことは明確だろう。」
言いながら、アグネスタキオンは視線をヒシミラクルへと向ける。
当のヒシミラクルは、ジュース缶をグイグイと飲み干している最中だったため、顔は完全に上を向いており、タキオンの視線はミラ子の喉元を捉えるばかりであったが。
「ヒシミラクルくんの未勝利バ戦は、四月下旬に行う予定だったはずだねぇ。これを好機と称するのは相応しくないかもしれないが、ヒシミラクルくんのトレーニングにいよいよもって専念すべきだねぇ、トレーナーくん。」
「んぐ、ん゛っ?ぷは……私のトレーニングに……?あっ……そっか、タキオンさんが春の天皇賞に出ないということは、完全にトレーナーさんは私の練習ひとすじになる、ってことですよね……。」
それは本来、担当トレーナーを得て鍛錬を行えることを夢見るウマ娘からすれば、身の引き締まる思いがする状況のはずであった。
GⅠウマ娘の先輩が故障し、担当トレーナーからの指導を独り占めできる状況となること。先輩が怪我したことを喜ぶべきではないが、自分の走りをより磨く機会であることに違いはない。
が、ヒシミラクルは、アグネスタキオンへの遠慮とはまた別の理由で、さほど喜ばしそうにはしていなかった。
「……まぁ、今日もこんなことになったわけですし、とりあえず明日はトレセン学園に帰って、じっくり休息の日ということにしますかねぇ。」
「何を言っているんだ、ヒシミラクル。明日もいつも通りにトレーニングを行う。今日の大阪杯を現地で観戦しに来たぶん、取り戻さないと。」
鷹木は両手の指先で額を支えるように顔を持ち上げつつも、既に脳内では翌日以降の為すべきことを整理し始めている様子であった。タキオンの言葉は、確かに彼の中に響いたのである。
いよいよもって、自分が本格的に鍛錬へと追い立てられる流れが出来つつあるのを感じつつ、ヒシミラクルは最後の抵抗を試みた。
「いやでも、やっぱ怪我したからってすぐタキオン先輩のことを放り出して、私のトレーニングばかりするってのも、なんというか外聞が良くないといいますか……」
「どういう気の遣い方をしているんだいヒシミラクルくん、私としてはトレーナーくんが腑抜けた結果、後輩までもレースで勝てなくなってしまうことのほうがよほど唾棄すべき状況だねぇ。」
「にしても、今からトレセン学園に帰るとしても、新幹線ありますかね?ここから大阪駅へ向かうまででも、それなりに時間かかりますし、タキオンさんは少なくとも車椅子での移動ですし。」
「移動手段なら気にしなくていいわ、結城トレーナーの出してくれたヘリコプターでひと飛びだから。」
タキオンに加え、キングヘイローも口を開く。掲げた不安要素を的確に解消され、ヒシミラクルは表向きは安堵したように頷きながら、翌日以降のハードトレーニングに向かう覚悟を固める他になかった。
今のやり取りの中でアグネスタキオンも、ヒシミラクルの魂胆に気づいていなかったわけではなかったが、単に彼女のサボりを防ぐ以上の意図がタキオンの中にはあった。
「ヒシミラクルくん。ウマ娘は、この世界でレースをし、自らの実力で歴史を紡いでいる。」
「な、何の話ですか、いきなり?」
疲労も取れ、身体の状態も安定していると判断されたため、移動に向けてベッドから起き上がりつつタキオンは語り始めた。
ヒシミラクルは普段自分に向けられる類ではない話がいきなり始まったため、戸惑うばかりである。タキオンが突拍子もない話を開始することはいつもの振る舞いであったため、他の面々は慣れた調子で聞き流していたが。
「だが、ほとんど必然的に行き着く結果を乗り越えるためには、相応に限界へ近づき、限界を超えねばならないのだよ。」
「えぇ、そりゃまぁ、皆さん全力で走ってますし……。」
「だから私は、キミに大きく期待しているんだよ、ヒシミラクルくん。頑健で、衰弱を長く遠ざけておける、キミというウマ娘に。」
アグネスタキオンの発言の意図を、この場でほぼ完全に理解できているのは鷹木トレーナーと、ずっと黙って聞き続けていたマンハッタンカフェだけであった。
可能性世界で一度確定したレース結果は、この現実世界におけるウマ娘の尽力で塗り替えることも不可能ではない。しかし、それだけの無茶を自分の身体に強いることにもなり、殊にアグネスタキオンは限界を分かったうえで超えようとするがあまりの故障を繰り返している。
その点、ヒシミラクルの潤沢なスタミナ、壊れ難い頑丈な身体は、ウマ娘として限界へ近づく際の安定感はずっと大きかったのだ。