4月に入って間もなくの頃。今年も新年度を迎えたトレセン学園には、新入ウマ娘たちも加わった賑わいが溢れている。
その喧噪から離れ、トレセン学園敷地の端、練習場間を繋ぐ通路に沿った植え込みの向こう側……かつて使われていた芝の養生地を、片桐トレーナーが許可を得て整備している練習場にて、ノーリーズンは独り走っていた。
世間では先日の大阪杯の終了後に脚の故障が発覚したアグネスタキオンが、昨年に引き続き引退の危機に見舞われているとの憶測で持ち切りである。
(今年の皐月賞の日程も迫っておるというに……ワシらの世代をないがしろにして貰っては困るのう。)
誰もいない、植え込み裏手の練習場、中山レース場の向こう正面に見立てた芝の直線を駆け抜けながらノーリーズンは考える。
確かに、昨年のクラシック路線……アグネスタキオン、ジャングルポケット、マンハッタンカフェ、そしてダンツフレームといった錚々たる顔ぶれが競い合った種々のレースは、今後再びお目にかかれるとは思えぬほどに白熱した戦線でもあった。
翻って、今年のクラシック級レース最初の大舞台、皐月賞での活躍が事前に見込まれているのは……タニノギムレット、ただひとりである。
(クリスエスの奴も重い期待を背負って頑張っておったんじゃが、なにぶんまだ本調子ではない……そこにワシが食い込めれば、とも目論んだんじゃが……)
デビュー以来2連勝を重ねたうえで挑んだ先月の若葉ステークスで、ノーリーズンは七着という結果に終わっていた。
無敗記録は早々に途切れ、皐月賞への優先出走権も得られなかったノーリーズン。並みのウマ娘を遥かに超える能力を有していることは間違いないながらも、今世代を代表するウマ娘としては世間からの注目が外れる結果となった。
考えを巡らせながら走り続けているノーリーズンは、練習コースの直線からコーナーへと入る。距離設定は2000m、ここから2つのコーナーを回り、約300mの直線を抜ければゴールである。
この設定は、中山レース場芝2000m……すなわち皐月賞の条件に殆ど合わせられていた。
(まだ諦めるには早い、そうであればこそワシは、こうして皐月賞の練習を重ねつつ、軍師殿からの報せを待っておるのじゃから……!)
優先出走権が得られなかったとはいえ、出走への道が断たれたというわけではない。
競争率の激しい抽選に通れば、皐月賞への切符は手に入る。ウマ娘として第一線に上がるための登竜門、求められる実力もさることながら、皐月賞出走者リストの中に自分の名を加えようとする者たちは殺到することだろう。
何よりも現状、タニノギムレットに比肩し得ると見られるウマ娘がほぼ居ない以上、我こそはと挑む気を起こすウマ娘が少ないはずもない。
練習コースも4コーナーへと差し掛かり、ノーリーズンは一旦思考を頭の隅に置いて走りへと集中し始める。
(ここじゃ、若葉ステークスではここで、判断ミスをした。)
ノーリーズンがじわじわと脚を早めながら神経をとがらせたのとほぼ同時に、コース外に控えていた2名のウマ娘が、まるで乱入するように駆け寄り、そして直線コースを走り始める。
水色リーゼントのウマ娘と、ボサボサピンク髪のウマ娘……かつてのジャングルポケットの悪友であり、今はタップダンスシチーと度々一緒に走っている練習仲間であった。
むろん、彼女らも無断で乱入したワケではない。前もってノーリーズンから頼まれていた通り、直線コースの内ラチ沿いを塞ぐように、横一線になって駆けていく。
(可能な限り、ここで手こずらず、前へ……!)
直線に入っていざラストスパートを掛けよう、とした矢先に前を交わさねばならぬ状況に陥っても、もはや先頭を捉えることは出来ない。
ゆえに、自分が前方をブロックされる可能性を充分に考慮に入れておき、直線に向いた頃には既に大外から駆けあがって行ける位置取りになっていなければならないのだ。
むろん今回の練習では打ち合わせ通りの立ち回りであったため、派手な髪色のウマ娘たちが並んだ……と思った次の瞬間にはノーリーズンは既に外側から抜き去っていた。
そのまま、現役のクラシック級ウマ娘の走りを存分に披露し、あっという間にゴールラインを越えてノーリーズンは減速していく。
早歩きで直線を引き返し、ゴールラインから百メートルほど手前で息を切らして膝に手を突いていた派手な髪色のウマ娘たちに頭を下げ、ノーリーズンは息を整えつつ礼を述べた。
「はぁ、ふぅ……感謝いたすぞ、先輩方!ワシの突発的な練習につきおうてもらって、かたじけない!」
「感謝されるほどのこともしてねーよ、ウチらじゃマトモな走りの相手にもならねーし。」
「いい走りだったぜ、もうポッケの奴より既に速ぇーんじゃねーか?」
水色リーゼントとピンク髪のウマ娘は、それぞれ軽く汗をぬぐい、コースわきに脱ぎ捨ててあった作業服の上着を拾って羽織っている。
もはやかなり年季の入った作業服姿は、既にトレセン学園内で目撃されても不審者としては扱われず、敷地内の保全や管理を請け負っている作業員ウマ娘として十分に扱われるほどの風格であった。
2年前の入学式で文字通りの乱入騒ぎを起こした頃はすでに遠い昔、早々に就職して働いているためか顔立ちは大きく成長し、ジャングルポケットと同年齢とは思えぬほどにおとなびた雰囲気を纏っている。
「それに、ウチらは先輩ってワケでもねーよ、トレセン学園生じゃねーからな。」
「何を仰るか、ワシの方が若輩者である以上は、ウマ娘としての先輩に胸を借りる思いは常にござろう!」
「ヘンテコな喋り方の割には、律儀な奴だな……。」
とは言いつつも、直接ではないとはいえ後輩にあたるウマ娘の屈託のない笑顔を前にして、作業服姿の彼女らは僅かながらはにかんだ様子であった。
トレセン学園に入学できないウマ娘としての負い目などはとっくに失せており、今はごく一部の区間のみとはいえ共に並んで走ったおかげか、自分たちの届かない高みへと向かおうとするノーリーズンの背を押したいという思いも抱かれていた。
「にしても、まだ決まんねーのか?皐月賞に出れるか、出れねーか。」
「ワシも待ちわびておる……今日、決まるはずなのじゃが、軍師殿からの連絡がまだ来ておらぬ。」
「まぁ、あの片桐のおっさんのことだから、もったいぶった伝え方でも準備してんじゃねーのか。ダメだったらアッサリ連絡入れるだろ、それをやらねーってことは、たぶん抽選、通ってるぜ。」
ピンク髪のウマ娘の言葉に、隣で水色リーゼントを縦に揺らしながら相方も頷いている。タップダンスシチーとつるみ続けた結果、彼女らもまた片桐トレーナーの曲者じみた言動を良く知り尽くしていた。
当のノーリーズンは、表向きには鷹揚に構えているつもりではあったものの……心底においては、皐月賞出走の抽選に通っているか否か、気がかりでならなかった。
走る間は外していた腕時計をバッグから取り出し、時刻を確認した水色リーゼントのウマ娘は作業服の前を閉じながら立ち上がる。
「まだ片桐のおっさんも、タップさんも来ねーな。悪ぃ、出走決まったかどうかの報告も聞きてぇけど、そろそろウチらも次の仕事に行かなきゃならねー。」
「タップさんの後輩が活躍できねーわけねーぜ、今年の皐月賞、楽しみにしてっからな!」
「うむ!枕を高ぅして、吉報を待たれい!」
作業服姿の2名が去っていった後、ノーリーズンはクールダウンの運動も済ませ、芝地にストンと腰を下ろした。
四月に入れば、この練習場もすっかり春めいて、芝の隙間から雑草が若芽を伸ばしつつある。温かな気候の始まりであり、ここを管理する片桐トレーナーにとっては地獄の草刈り作業の始まりでもあった。
そんなポカポカとした陽気に包まれ、先ほどまでの練習の疲れもあって微睡みながらも、ノーリーズンの胸中を占めていたのは、やはり不安であった。
(デビュー戦で初勝利して、その場で担当トレーナーが決まって、2戦目も連勝して……そこまでの運が、ワシにとっては幸運すぎたのかもしれんなぁ。)
思い返せば、今年に入ってからのノーリーズンは怒涛の進展に見舞われていた。
トレセン学園入学一年目、すなわち昨年はデビュー戦にも漕ぎつけず、ほとんど目立てることも無く、強いて言えば自己アピールのために作った、この古風な喋り方を変な目で見られることばかりであった。
それでも、ノーリーズンはおとなしく収まっているつもりはなかった。
まさに背水の陣、引き下がれない状況に自らを追い込んで、遂に今年、皐月賞への優先出走権を手に入れるレースまではたどり着いたのだ。
(いやいや、運ではない、少なくともここまでは、ワシの実力じゃ。実力が伴わなければ、たどり着けぬ戦場じゃ……。)
そう、その実力を、世間も高く評価していた。デビュー後のこぶし賞でも、若葉ステークスでも、今年になってようやくデビューしたウマ娘であるにもかかわらず、ノーリーズンは2番人気の評価を得ていた。
実力が如実に出るのがウマ娘レースであればこそ、若葉ステークスの七着という結果は、翌月となった今なお重く、ノーリーズンの意識の中心に鎮座し続けていたわけであるが。
しかし今や、皐月賞への出走権を得られるか否かは、運次第……出走希望者の殺到する中、担当ウマ娘のため抽選に挑んだ片桐トレーナーが見事切符を引き当てるかどうかに、今は掛かっている。
せめて待つ間だけは心穏やかにしていよう、と目を閉じていたノーリーズンの背後に、何者かがそっと近づく気配があった。
「む、軍師殿か……?」
振り返ったノーリーズンであったが、そこには誰もいなかった。
が、この練習場と通路を隔てるように繁っている植え込みの向こう、黒鹿毛のウマ娘の尻尾が去っていくのが垣間見えたようであった。
「母上?」
何故かそのようなことを思ったノーリーズンは、そのウマ娘を追うように立ち上がり、植え込みをくぐり抜けて歩いていく。
ノーリーズンの親もまた、黒鹿毛の堂々たるウマ娘ではあったが……このトレセン学園に来ているはずがない。
奇妙さと不可解さに加え、不自然なまでの好奇心に惹かれるように脚を進めた先、校舎に囲まれた中庭までたどり着いたノーリーズンが目の当たりにしたのは、眩い光の塊であった。
太陽ではない。直視しても目を灼かぬ、温かくも鮮烈な光。
唐突に視野に入れても、不思議と驚きは感じなかった。周囲の全てが暗闇に沈んでいくような感覚の先、ぐずぐずしていると去ってしまいそうなほど稀少なものにそれは見えた。
「待たれよ!ワシも……ワシも、そこに辿り着けるはずじゃ!」
放っておけば果てしなく遠くへ去っていきそうな、その黄金の光に向かってノーリーズンは駆け出していく。
光の粒子が全身にぶつかり、まとわりつき、その熱は間もなく自分自身の体の芯に届き、いよいよ熱く活力を放ち始めるようであった……。
「……ey!Eyy!NoReason!Hold yourself!どうしちまったんだ、んな場所でボーッとしちまって!」
「……うん?……わ、ワシは、いったい……。」
気がつけば、ノーリーズンは三女神像の前、タップダンスシチーに大声で呼びかけられながら肩を揺すぶられていた。
タップが不可解そうな表情を浮かべていたのは当然のことながら、ノーリーズン自身にも説明できることはまるでなかった。どうやってここに辿り着いたのか、その記憶自体がすっぽりと抜け落ちていたようであった。
「む……すまぬ、タップ先輩。どうやら、ワシ、休憩に入ったあと寝ぼけてフラフラとしておったようじゃ。」
「おいおい、気をしっかり持ってくれよ!せっかく皐月賞、出走が決まったってのによ!」
「えっ!?」
それは片桐トレーナーと共に後でサプライズとして伝える予定だったらしく、タップダンスシチーはつい勢いで喋ってしまった直後、ハタと自分の失敗に気づいたように顔を俯け、頭をかいた。
あまりに突然に知らされた決定事項に、ノーリーズン自身も絶句して言葉が出ない。
が、真っ先にその報告に反応した拍手が、すぐ間近から聞こえて来た。ノーリーズンと同じように、三女神像の前でぼんやりと突っ立っていたウマ娘は、奇妙なことに他にも数名いた。
そのリアクションは、あまりにも大きすぎたが。
「ククッ……そうか、オマエもまた、俺を為す価値(アクシオロジー)となり得るか!いいだろう!お前自身の輝き(セーラス)を、俺も間近で見ることになるだろう!勝利の余韻(ディジェスティブ)を味わうは我か汝か、狂乱の舞台、その中央に立ち示そうじゃないか!ハーッハッハッハーーッ!」
「お、おぉ、タニノギムレット殿もまた、ここに……。」
ノーリーズンが多少距離を取りながら見つめる目の前には、タニノギムレットの姿があった。
つい先ほどまでは、いつの間にかこの場所に立っていたことを不思議がるノーリーズンと同じ感覚を味わっていたはずだが、タニノギムレットはすぐさま平常通りの振る舞いを取り戻し、難解な言い回しをつらつらと述べて高笑いを披露していた。
その騒がしさに、同じくぼんやりと三女神像を見つめていた面々も意識を取り戻したらしい。ギムレットの隣に並んでいたのはシンボリクリスエス、その長身の影にヒシミラクルの姿もあった。
「What a …… curious feeling.私は……いつの間に、この場所へ?」
「ふわぁ、ぁあ……んむ、あえ?せっかくの休憩時間なのに、私なんでここまで来てんの?」
シンボリクリスエス、そしてヒシミラクルもまた、三女神像の前に突っ立っている自分を見出し、不思議がっている。ヒシミラクルに関しては、それ以上に眠気がまさっている様子であったが。
さすがのタップダンスシチーも、この珍妙な事態を前にして、何も告げるべき言葉が出ないらしい。
唯一、タニノギムレットは状況を分かっているのかいないのか定かではないものの、どこか恍惚とした表情で語り続けていた。
「これは甘美なる白昼夢、しかし現実に三女神はワタシたちのもとへ舞い降りたのだ、夢の神(モルペウス)に扮して!刮目するがいい、観測者たちよ!震えるがいい、世界よ!鮮烈な輝きにより、冠が灼き払われるか否か!……感じるぞ。我が筋書(シナリオ)を確たるものとする、車輪(ホイール)の音を……!ククッ……フハハハッ……ハァーッハッハッハーッ!!」
独り言にしては余りにも盛大すぎる高笑いを響かせながら、まるで舞台の役者が退場する時の様に悠々とした足取りで、練習場へと戻っていくタニノギムレット。
過剰すぎる声量が耳元で響いたためか、他の面々もすっかりと本来の意識を取り戻していた。
「I have to go back……トレーニングを、再開しなければ。」
「私も休憩時間に戻らないと、タキオン先輩も自分が走れないからって、無駄に厳しいし……ふわ、あぁ……」
やはり今世代を代表するとの期待が集まるウマ娘は普通ではない……そんな目を向けつつ、シンボリクリスエスは気を取り直してトレーニングへと戻っていき、ヒシミラクルも大あくびを連発しながらこの場を立ち去る。
個性的に過ぎる彼女らを見送った後、中庭には静けさが取り戻され……思い出したようにタップダンスシチーは改めてノーリーズンへと告げた。
「んで、そう!NoReason!お前、皐月賞に出れるんだぞ!片桐トレーナー、ちゃんと抽選に通りやがった!」
「ほ、本当か!ワシの運、軍師殿に預けて正解じゃった!今ふたたび、ワシの蹄音を響かせようぞ!」
その報告を喜ぶべき瞬間が、あまりに奇妙すぎる事態で遮られてしまった分、ノーリーズンは多少オーバーなリアクションで歓喜を表現していた。
この日、不思議にも三女神像の前に集まっていた面々が、今年のクラシック戦線、およびシニア級をも巻き込んでの活躍を示す事になることなど、未だ誰も知る由はない。