4月も半ば、いよいよ目前に迫った皐月賞の話題が世間では湧きつつある。“皐月”とは旧暦の5月を指す語だが、実際に5月に実施されたのは何十年も前のこと、現在は4月に行われるのが一般的である。
皐月賞ウマ娘となり得る期待は、タニノギムレットの一身に集中していた。
デビュー以降の連勝、それも二着以降に十分すぎる差をつけての勝利や、トリッキーにペース配分を切り替えてもなお勝つ様を見せつけるなど、同世代のウマ娘たちと比しても際立った強さが知れ渡っていたためである。
とはいえ、当のタニノギムレットは油断なく、ばかりか皐月賞当日に向けての最終調整では尚のこと、自らを追い込むように懸命に走り込んでいた。
ギムレットが負けるはずがないという世間の評価とは裏腹に、勝ち目のないレースへ挑みに行くかのごとき必死さをギムレット自身は有していた。
「今日のところは、ここまでにしましょう、ギムレット。これ以上はオーバーワークになる。」
アドマイヤベガの静かな声色が、眩い練習場照明の下で響く。
その日の仕上げとして、結城トレーナーの指導下にあるウマ娘たちで模擬練習を行った後、なおも練習を止めようとする気配のないタニノギムレットの姿があった。
アドマイヤベガに加え、エアシャカール、そしてマンハッタンカフェ。練習競走相手としては申しぶんない実力者揃い、彼女らが次に目指すレースは皐月賞とは距離が違うため本気での走りではなかったが、そんな錚々たる面々をギムレットは大外から差し切って先頭でゴールしたところであった。
それでもなお……ギムレットは充足を得るに遠かったらしい。
「破滅に満ちたワタシの旅路(クロニクル)は、暗雲垂れ込める酷烈(インフェルノ)でこそ輝かねばならない……行き着くはアスポデロスの野だ、見出さねば、運命(フェイト)の筋書き(シナリオ)をも変える、一滴のガーニッシュを……!」
「まだ足りねェって気持ちは分かるけどよ、肝心の皐月賞本番で脚が壊れちまうほうがよっぽどマズいだろ。オマエの能力は充分なんだ、立ち回りのイメージトレーニングなら好きなだけやりゃァいい。」
独特過ぎる言い回しを用いるのは、同じトレーナーの指導下にある先輩ウマ娘たち相手でも変わらないギムレットだったが、流石に間近でそれを聞かされ続けた面々は要旨を掴めるようになっていた。
意を酌みつつも引き留めるエアシャカールからも説得され、ようやくタニノギムレットは練習コースから踵を返し、結城トレーナーの待つ休憩エリアへとクールダウンに向かう。
基本的にはウマ娘自身の意思を尊重する方針の結城トレーナーも、万が一ギムレットが走りを続行するつもりならば止めに入るつもりだったのか、立ち上がって練習コースの方へ歩きかけていたところだった。
「ギムレット。最後は追い込みの練習に徹底していたね、今のきみならば、差しでも先行でも勝ち目はあると思うけれど。」
「刹那にて強烈に残り、思いを馳せたくなる美酒―――それがギムレットだ。愛されるのは長い輝きだが、心を焦がすのは刹那の煌めきだけだ。ワタシは、だからこそ勝つだけじゃない、深く爪痕をこの世界(ガイア)に刻み付けよう……!」
「あぁ、ウマ娘にとって最高の大一番だ、望むように走ってくれればいい。きみは常に、先頭を捉えることが出来る。」
レジェンド級の指導者、結城トレーナーからの心強い言葉に、タニノギムレットはようやく深く頷いた。
とはいえ、それでもなお満たされ切っていないような不完全燃焼の色は、彼女の瞳から失せることなど無かったが。
練習時刻を終えて皆がコース上から去った後……それまで一言も発していなかったマンハッタンカフェは、結城トレーナーの傍らでポツリと呟いた。
「ギムレットさんの、お友だちが……彼女自身を、随分と追い立てているように見えました。」
「焦りの原因は、それかもしれないね。けれど、一層のこと、周囲がブレーキ役にならなければ。その焦りに従えば、勝ちは近づくのかもしれないけれど。」
マンハッタンカフェの様に“お友だち”の姿が見えるわけでもなく、結城トレーナーの行う指導はあくまで現実的な視点であった。
ただ、マンハッタンカフェの言い分には一定の理解を示していたし、結城トレーナー自体、長年ウマ娘レースを見てきた経験ゆえか、先の展開を見通す能力が尋常の域を超えていたようでもあった。
世間からはタニノギムレットの勝利確実と見られている皐月賞が、彼女にとって大きな試練となり得る予感を、結城トレーナーも確かに得ていたのである。
そして4月14日、皐月賞当日。
ヒシミラクルは、あわよくばトレーナーのつて頼りに中山レース場現地にて、最前列での皐月賞観戦が叶うかと目論んでいたが、結局はトレセン学園内での中継番組観戦という形に落ち着いていた。
「せっかく、私の同期の子たちの晴れ舞台なんですよー?ほら心なしか今日の学園は若干静かですし、皆、中山レース場に行ってるんですよ、たぶん。今日行かないなんて選択肢、あります?」
「忘れているはずがないとは思いたいんだが、ヒシミラクル、お前は来週、いよいよ本番レースが控えてるんだぞ。のんきにレース観戦に向かってるヒマなんて無いだろ。」
鷹木はもはや呆れることすらせず、ヒシミラクルの愚痴に淡々と返している。
自分と同学年のウマ娘たちが皐月賞に出走している一方で、自分が今なお未勝利バ戦に勝てずじまいであるという現状にも、まるで焦りや劣等感などとは無縁でいられるのは、ヒシミラクルが平常通りである証に他ならなかった。
鷹木の傍らにいたアグネスタキオンは、もはや自在に操れるようになった車椅子でクルクルと回りながら言葉を付け加える。
「ここで画面越しに観戦するのも悪くはあるまい、何と言ってもこの私自らが真隣りでレース解説を聞かせてあげられるのだからねぇ。それとも、車椅子の私を学園に放置して、自分だけで楽しみに行くつもりだったのかい、ヒシミラクルくん?」
「いやいや、中山レース場だってバリアフリー工事も進んでますし、車椅子専用席もありましたって。」
「その場所は限られているし、観戦を望む一般の車椅子客のために活用されるべきだねぇ。トレセン学園在籍の、いずれ治癒すれば車椅子から解放される私が、占拠していいはずもないねぇ。」
「うっ……ッスー……です、ね。」
タキオンが偶に放つド正論を前に黙るしかなかったヒシミラクルは、結局皐月賞の発走時刻目前まで黙々とトレーニングを続けることとなった。
皐月賞のコースは、中山レース場、芝2000mである。先日、シンボリクリスエスが勝利した山吹賞よりも200m短く、内回りコースのためコーナーのカーブも緩やかではない。
そのためコーナーを回り始めるまでに好位置についている必要があり、直線部分での先行争いは激しくなるのが恒例であった。
「タニノギムレットくんが1番人気であるのはまぁ当然として、マークが集中するだろうギムレットくんの位置取りが気になるところだねぇ。先行でも差しでも追い込みでも、彼女には勝ち目があるだろうけれどねぇ。」
「18名のフルゲート出走だし、激しい先行争いに敢えて突っ込んでいくことは考えづらいかもな。枠番も、2番人気や3番人気とかなり近いし……っと、ヒシミラクル!まだ発走時刻じゃないから、そんな焦らなくていいぞ!」
鷹木が声を掛けた先では、ちょうど練習コースのゴールラインを越えたヒシミラクルが、そのままほぼ減速することなくタキオンと鷹木が待つ休憩エリアへと突進してくるところであった。
足を引っかけて転びかねない物が多々存在するこの場所で走らせるべきではないため、鷹木は制止したのだが、同時にヒシミラクルがその気になれば本気の走りを維持し続けるポテンシャルは充分に示されていた。
たった今、皐月賞の発走時刻が迫る状況で、最後の走り込みを行ったヒシミラクルのタイムはこれまでで最も早かったのである。タイムを記録しながら、鷹木は口を開く。
「今後は、ヒシミラクルが見たがっているレース中継の直前にタイムを計るのがいいかもな。」
「いやですって、そんなの完全に気が気じゃなくなって、ノンビリ走ってられなくなるじゃないですか。」
「ノンビリ走ってちゃダメだねぇ。」
またしても尤も過ぎるタキオンの発言を聞き流しながら、ヒシミラクルは汗を拭きつつ中継画面を映したノートPCの前に陣取る。
ちょうど中山レース場の2000mスタート地点は今、ゲート入りが終わったばかりであった。
〈正面スタンド前、ずらりと並んだ18名のウマ娘たちに大歓声が送られます!クラシックの第一関門、さぁ、天が見つめる中、今スタートが切られました皐月賞です!好スタートを切ったのはやはりタニノギムレット!しかし先行争いはウチ枠の面々、メジロマイヤーがまず果敢に出て行って先頭、2番手は外からダイタクフラッグ、続くシゲルゴッドハンド、さらに外からはバランスオブゲームと続いています。タイガーカフェも上がってきました、一周目のゴール板前を通過していきます。〉
さすがに18名が殺到する先行争いともなれば、バ群は相当な密集隊形となる。
どんなペースでも勝ち目があると見られたタニノギムレットは、ここは無謀な策を採ることなく、後方からの追い込み策を決したようだ。
「これは消耗無しで回っていくギムレットくんを見れそうだねぇ、先行の位置を取った面々は、ずっと背後を気にし続けることとなりそうだねぇ。」
「心なしか、前の方の子たちは焦ってる感じですねー、そりゃ当然ですけど。」
タキオンの声を聴きつつ、ヒシミラクルもスポーツドリンクのボトルに口をつけながら答える。
画面内では、殊に先頭へと躍り出たメジロマイヤーが既に必死の形相で逃げていく様が際立っていた。
〈続くはホーマンウイナー、そしてマイネルリバティーと言った面々が先団を形成、その後ろにメガスターダムが追走し、さらに外を回ってゼンノカルナックが行って1コーナーをカーブしていきました。さぁタニノギムレットはかなり下げた位置、後方から2番手3番手といったあたり、モノボライザーと並んでほぼ最後方となっています。2コーナーへと回っていきます、間もなくスタートから1000mを通過。先頭はメジロマイヤー、1バ身ほど開いて2番手にダイタクフラッグといった順であります。〉
ここまで来ると先頭は必死で逃げている様相ではあったものの、2番手や3番手の面々は多少なりと落ち着いた雰囲気で追っているようであった。
いかにタニノギムレット一強の前評判であったとしても、この皐月賞に出走できている時点で相応の実力者であることには変わりないのだ。
「あのタイガーカフェって子、もしかしてマンハッタンカフェさんの妹さんだったり?なんか、走りに迷いがない感じが、既にベテランの風格ですね。」
「確かに似ているが、彼女の妹がトレセン学園に入学したという話はまだ聞いたことが無いねぇ。遠い親戚か何かだとは思うがねぇ。」
先団の面々の脚運びに注目している中、ヒシミラクルもアグネスタキオンも同じウマ娘に目を惹きつけられていたらしい。
マンハッタンカフェとは対照的に先行の走りながら、確かにそのウマ娘には鷹木も走りの強さを感じずにいられなかった。
〈向こう正面に入っていきます、2バ身差でシゲルゴッドハンドが先団のタイガーカフェを追う、さらに外からマイネルリバティーが行きました、残り1000mです。ウチのメガスターダムと言った形で中団も固まって、向こう正面中間を通過、集団後方ホーマンウイナーの後、ノーリーズンが続いています。1000mのタイムは一分を切る形となりました。ゼンノカルナックあるいはチアズシュタルク、ここまでが集団で後方にモノポライザー、タニノギムレット、サスガと並んで800を切りました!〉
皐月賞に出るだけの実力を見出されたウマ娘たちの中、ここにきてようやく名前を呼ばれたのがノーリーズンである。
前哨戦の若葉ステークスでは集団に呑まれ七着、その後どうにか抽選を通って皐月賞への出走が叶ったノーリーズンは、今回15番人気という評価に落ち着いていた。
「あのノーリーズンちゃんですら15番人気になっちゃう世界ですからねぇ、恐ろしいですよGⅠレースは。」
「現状は中団の後ろに押し込められたような形となってしまっているねぇ、ノーリーズンくん。抽選に通ったは良いが、どうかねぇ。」
ノーリーズンの走りに可能性を見出していたタキオンですら、この時点での位置取りは芳しくは見えないものであった。
何よりも、そのすぐ後ろにタニノギムレットが控えていたことが、ノーリーズンの勝ち目を薄く見せていたのかもしれない。いよいよ仕掛けどころへと近づき、大歓声を浴びながらウマ娘たちは最後のコーナーを回り始める。
〈ヤマノブリザードが終始外を回って後方から3番手、ローマンエンパイアはまだ最後方の位置、さぁ先頭はメジロマイヤーにダイタクフラッグが並びかけていきました!タイガーカフェも3番手から前へと詰めていく、外を回ってシゲルゴッドハンドがじりじりと上がってまいりまして、残り400を通過!バ群は一団となって大きく膨れています、大外にモノポライザー、更にその外、かなり大きく回ってタニノギムレットがようやく上がり出した!〉
18名もの出走者が、一気に前へ前へと殺到すれば、それだけ集団は膨れ上がる。
大外から上がっていくコースを選んだ面々は、それを大きくかわすため、ウチ側を回るウマ娘よりも更に長い距離を走らなければならない。
その影響を、最も大きく受けていたのが大外から駆け上がろうとしていたタニノギムレットであった。
「いよいよ直線ですけど、ギムレットくん、これかなり厳しくないです?」
「彼女ならば巻き返せるかもしれないが、100m近くはロスしているねぇ……しかし見たまえ、ウチ側からノーリーズンくんが抜け出ている!」
皐月賞を目前としたタニノギムレットが、ずっと胸中に抱えていたモヤモヤに、明確な答えが突きつけられた瞬間でもあった。
確かに先行させたウマ娘たちは、まともにギムレットと競い合っても勝ち目がないと思われる者たちばかりであったが……巧みな策で抜け出すことが出来れば、話は別である。
〈大外をタニノギムレットが回っている、さぁ直線へと向いた!ダイタクフラッグ先頭ですが、ここで内側からノーリーズン!?2番手のノーリーズンが上がって来た!残り200を切ってノーリーズンが抜けてくる!!並んでタイガーカフェ、そして大外からタニノギムレットが、既に10名以上は抜き去って、もはや3番手だが、先頭はノーリーズン!ノーリーズン!ノーリーズン一着!!大きく右手が上がった!!今年度の皐月賞ウマ娘、ノーリーズン!〉
中山レース場は、幾万人もの大叫喚で揺れんばかりであった。
15番手から3番手まで一気に駆け上がってきたタニノギムレットの異次元の末脚を見せつけられたのもさることながら、そんな化け物に差し切られず勝利したのはノーリーズンである。
15番人気、まず勝つことなど無いだろうとの予想を大きく覆してのノーリーズンの勝利であった。
「うえぇ!?勝っちゃってますよ!?ノーリーズンちゃん!」
「見たまえよ、あれがウマ娘レースというものだねぇ!勝ち目無しと見られたウマ娘が、そんな下バ評を裏切って勝利を手にするというものだ!これだけ見せられてもまだ自分が勝つのは非現実だと思うかい、ヒシミラクルくん!」
「いやそりゃ時の運もあるでしょうけど、実力もなくっちゃ手が届かないですし……」
タキオンとミラ子のやり取りを傍らに流しながらも、鷹木は画面内のノーリーズンが歓喜の笑みとともに観客席へ両手を振りまくっている様を見つめていた。
確かにノーリーズンには相応の実力が備わっている。が、鷹木の見る所では、そこに片桐トレーナーの策が機能した結果でもあるようでもあった。最終コーナー、集団に揉まれながらウチ側から抜け出すという策は、ひとたび前方を塞がれれば機能しないリスキーすぎる作戦である。
それを実行するだけの計画力、そして献策するトレーナーとの信頼関係を、大舞台で見せつけたのがノーリーズンであったのだ。