皐月賞の熱狂も冷めやらぬ4月の下旬、同期ウマ娘の活躍を目の当たりにしたヒシミラクルが気持ちを引き締めることを鷹木は期待していたが……当のヒシミラクル自身は、ますますぽやんとした表情を見せるようになった。
それはむしろ、皐月賞で栄冠を戴いてトレセン学園へと凱旋したノーリーズンの様を見たことによってより一層強まった傾向だったらしい。
「いやぁ……大舞台でのタイトルを獲ると、変わるもんですねぇ……。」
ヒシミラクル自身が出走する未勝利バ戦も目前、最終調整の合間の休憩時間中。
ほぼほぼ上の空な状態が続いているミラ子に対し、鷹木がいかなる言葉を掛けるべきかと必死に脳内を働かせていた傍ら、先んじて口を開いたのはヒシミラクルの方だった。この機を逃すまいと、慌てて鷹木は聞き返す。
「変わるって、どんな風に?やっぱり、身体面のみならず、精神面でも大きく成長したように感じたか?」
「いやいや、そんな意識高い感じのこと、私には分かりませんけどぉ……まーでも、何と言いますか、余裕があるっていうか、先を見据えてる感じになったっていうか……特に、ノーリーズンちゃん。」
今年度の皐月賞ウマ娘となったノーリーズン、現状最も話題を集める存在となっているだけに色々と立て込んでいるだろうと鷹木は考え、まだ直接会いに行くことはしていなかった。来月末にはダービーも控えているため、早くもその準備に取り掛かっているはずである。
おそらく、ノーリーズンを担当している片桐ならばうまくマスコミや世間の目にさらされないよう立ち回ることだろう。が、ミラ子は級友としての立場を上手く利用してか、彼女に会いに行ったらしい。
「もしも、皐月賞を勝ったのが私だったりしたら、毎日舞い上がってお祭り騒ぎですよ。皐月賞勝利祝いで、お好み焼き食べ放題ツアーに行ったりしてるでしょうよ。」
「ウマ娘レースの賞金は、保護者あるいは管理会社へ送られるから、すぐに好き放題に浪費できるわけじゃないぞ。」
「わかってますって、あくまでトレーナーさんのおごりで、って話ですよ。そりゃもう賞金が直で入ってきたら、億ション買って一生ダラダラ過ごしますよ。」
担当トレーナーが勝利祝いの場を設けてくれる前提で話を進めているヒシミラクルのふてぶてしさはいつも通りだったため、鷹木はそのまま彼女の話の先を促す。
視線の先では、トレーニングルームの中で上半身用の筋力維持トレーニングを行っているアグネスタキオンの姿がある。大阪杯後の故障発覚からそろそろ1ヵ月、まだタキオンの脚に無茶な負荷は掛けられない状態が続いていた。
「でも、ノーリーズンちゃんは違いましたねー。トレセンに帰ってきた次の日からもう練習を始めてましたし、こう、ステージがひとつ上に行った感じのオーラがありました。」
「そりゃ、来月26日には日本ダービーに出走するだろうからな。」
「それもそうですけど……そうそう、ギムレットくんも皐月賞の翌日から練習漬けみたいですねぇ。あんだけの大舞台で一着や二着になったら、それだけで偉業達成なのに、まだまだ飽き足りないって感じ、ストイックですよねぇ。」
ヒシミラクルの話を聞きながら、鷹木の中には一つの疑問が浮かび上がってきていた。
片桐トレーナーが担当しているノーリーズンは、タップダンスシチーと同じく、トレセン学戦敷地の端にある使用されていない芝地を整備した、あの専用練習場で今も走っているのだろう。一度行ったことのあるヒシミラクルが、顔を出しに行くのも造作はない。
が、タニノギムレットは、結城トレーナーの担当下にある先輩ウマ娘と共に、学園公認で与えられた個別練習場で走っているはずである。併走相手として招待された者でなければ中に入れない、練習風景を覗き見られることもない完全に壁に囲われた場所。
ヒシミラクルが拒まれる理由はなかったが、敢えて会いに行く意思を示し、招待されなければ入れてもらえない場所には違いない。ヒシミラクルはそこまでして積極的に情報収集する性格でもなかったはずだが……。
「同期の子たちの様子が気になるのはいいんだが、ヒシミラクル、そんなにマメな性格だったか?」
「もっと面倒臭がりだったはずだとでも言いたいんですか?まー、否定はしませんけど。」
「私が提案し、ヒシミラクルくんへと頼んだんだ。実際、気になっている事には違いないからねぇ。」
ちょうどトレーニングがひと段落し、休憩エリアへと車椅子を向かわせてきたタキオンの言葉が割って入った。
その車椅子での移動では、これまでのように好奇心の赴くままにあちこちに顔を出して回ることは出来ないだろう。そしてヒシミラクルも、車椅子で移動せざるを得ない先輩の頼みを、断るに断れなかったのだろう。
きつく注意できるわけではなかったが、しかし鷹木は苦言を呈した。
「タキオン、分かっているとは思うが、もうヒシミラクルの出走本番はすぐなんだ。それも、去年の11月からほぼ半年ぶりの本番だ。あまり他の事に時間を割かせるべきじゃない。」
「悪いねぇ、だが今年度の主役となるはずの子たちの様子は、やはり見逃せないからねぇ。あぁ、そうこう言っている内にヒシミラクルくん、そろそろキミの休憩時間は終了じゃないかい?」
「あー……です、ね。ちぇー、もすこしおしゃべりしていたら、休憩時間が過ぎてることに気づかれず済むかと思ったんですけど。」
ぶつくさ言いつつも、軽いウォーミングアップを済ませて練習コースへと戻っていくミラ子の足取りは軽い。
今年の初頭、レースから離れていて若干鈍っていたヒシミラクルの肉体は、かなり調子のよい状態にまで戻ってきていた。間もなくトレーニングメニューを再開した彼女の足取りを見ながら、タキオンは呟く。
「それに、ヒシミラクルくんが次に出走するレース、いずれにせよ勝てるとは思っていないのだろう?」
「……まぁ、な。あいつ自身は明らかに遠距離向きの走りをしているんだが、今度のレース距離は1800mだ。いやもちろん、トレーナーとしては勝つ前提で出走させるが。」
「本番の舞台、本気で走らなければ届かぬという意識を植え付けることが最優先目的ならば、いずれ肩を並べるべき同期ウマ娘たちの顔つきが変わっていく様を、見に行かせる時間もまた無駄ではないと思うがねぇ。」
「分かってる。さっきはヒシミラクルが居る手前、あぁは言ったが……俺の気が回らないところまで、後輩の面倒を見てくれて助かるよ、タキオン。」
改めて礼を言う鷹木であったが、素直に礼を言われることに慣れていない点については相変わらずのタキオンは、無言のまま聞き流すばかりであった。
そして迎えた4月20日、京都レース場。
長距離移動の負担も鑑みて、タキオンはトレセン学園での居残りである。後輩ウマ娘に見出した可能性、入れ込みにはいよいよ熱が入っているのか、ひっきりなしにタキオンからの通話は入った。
〈事前に調べ尽くしている事と思うが改めて強調しておくねぇ、直線距離は404mあるからとノンビリ構えていてはいけないねぇ、京都の芝は3コーナーの下りから一気にペースが上がるからねぇ、しっかりと前へ詰めておかなければ先行の面々を捉えることは出来ないねぇ!特にヒシミラクルくん、キミの場合は仕掛けが早すぎるぐらいでちょうどいいのだからねぇ、その点の意識を忘れてはいけないねぇ!〉
「分かってますってぇ、本番の想定で何度もこれまで練習してきたんですから……。」
レース場の控室に入れば使えなくなるスマホの中、先輩ウマ娘として押し過ぎなほど念を押すタキオンの熱弁が響き続け、鷹木は通話を引きついでヒシミラクルを先に着替えへ向かわせた。
ヒシミラクルにとっての適性距離ではない、と分かっていても、やはり本番に向かわせる直前ともなればタキオンもじっと待ってはいられないのだ。
〈トレーナーくんも気を抜いていてはいけないねぇ、ヒシミラクルくんは充分に鋭い洞察力を有しているのだから、最初から最後まで必死で走らせることをキミ自身が意識していなければならないねぇ!〉
「俺の方も分かってる、去年までの走りとは変わっているところを見せられるはずだ。」
鷹木はそれだけ言い残してタキオンとの通話を切り、自らも遅れて控室の方へ急いだ。
そうは言ったものの、昨年までヒシミラクルが挑んでいた、1年目の夏から秋にかけての未勝利バ戦とは状況が大きく違う。
2年目、既にクラシック級の戦いが始まっている最中、まだ未勝利バ戦に出走するようなウマ娘たちは……もはやほぼほぼ後が無い状況、血眼になってターフへ向かうような面々ばかりである。
控室の中では、既に運動服に着替えゼッケンをつけていたヒシミラクルが、椅子に腰かけて伸びをし、ついでに大あくびも披露していた。
「おい、緊張感を持てよ。1800mなんて、あっという間にゴールなんだから。」
「いやぁ、分かってますけどねぇ、もう既に他の控室からギラギラしたというか、ヒリついた感じが伝わってくるもんですから。こんなレースに巻き込まれる前に、走らなくてもいい立場に落ち着いておこうと思ったんですがねー。」
それは今年の初め、ヒシミラクルを担当するにあたって知らされた、彼女の本心であった。
もうレース発走時刻を目前にして今さらそんなことを言うヒシミラクルに、いちいち驚かされる鷹木でもなかったが。
「だが、ヒシミラクル、お前は引き戻されたんだ。その走りなら、頂点を目指せるとトレセン学園は判断したし……俺もそう思ったから、ここに居る。」
「まー、調子はいいですから、行ってきますよ。この本番用の運動服のおかげで、だいぶ身体が引き締まってるの、実感できてますし。」
「どちらかというと、今日に至るまでの練習の走りで実感するところだよな。」
やり取り自体はなかなかに締まらないものであったが、何よりも緊張とは無縁の状態でターフ上へと向かえることがヒシミラクルの本領発揮に繋がる、と鷹木は確信しつつ彼女を送り出した。
その日、ヒシミラクルが出走する未勝利バ戦は18名のフルゲート出走。
午前10時半の発走時刻を前にして、この一戦を逃せば今の今まで諦めずにいたデビューがさらに遠のく、と目をぎらつかせたウマ娘たちが勢揃いしている。
「ヒシミラクルは7番人気、17枠。大外からマークされず、抜け出していくには丁度良いだろう。まずは……どこまで届くか。」
タキオンが先ほどの通話で言った通り、向こう正面の坂を上り切ったあと、下りの勢いがついて全体のペースが急に上がる区間でどこまで食らいつけるかが勝負であった。
大外を回らされることによるスタミナの消費量については、何も心配はいらないのだ。
〈4月20日の京都レース場、第2レースはバ場状態も良となりました、未勝利バ戦です。全18名のゲートイン完了、体勢整いまして……スタートしました。向こう正面からのまずまず揃ったスタート、外から果敢に上がっていきますのは12枠のローレルフェアリー、そのすぐ外のコゼットも続きまして、大外スリースクランブルも並んで先団を形成。あとは今回1番人気となりましたメイショウノビノビ、こちらもウチ側から好位につけて、まずは長い向こう正面を抜けて坂へ向かっていきます。〉
900m近い直線が続く、京都レース場の外回りコース向こう正面。
18枠フルでの出走とはいえ、これだけ長い直線となれば最初のコーナーに入るまでの位置取りも安定しやすい。
「ヒシミラクルは……ちょうど真ん中あたりか。何度も教えた通り、スタート直後から極力前へと意識できているな。」
逃げウマ娘が飛ばしていき、徐々に縦長に間延びしつつある集団の真っただ中、8番手か9番手あたりにヒシミラクルの葦毛が靡いていた。
集団内での位置取り争いに苦戦している様子はない。周囲に揺るがされないメンタル、そしてスタミナでの不利とも無縁でいられる強靭さが、乱戦における走りをしっかりと支えていた。
〈さぁ長い、長い向こう正面の直線、先頭は間もなく坂を上りはじめました。1番手は変わらずローレルフェアリー、リードは3バ身とやや広げています。続く2番手メイショウノビノビ、ウチを突いてロス無く最初のコーナーへ入ろうとする形。2番人気のタマモマイウエイは5番手あたり、中団先頭を進んでいます。そのウチ側にホシノササヤキ、すぐ後グリュックリヒ、アドマイヤシガーが並び、ほとんど差が無くサカイヤゲッカモン、その外ヒシミラクルといった形で残り1000mを通過、間もなく3コーナーへと入っていきます。〉
18名出走の1800mレースともなれば、実況による出走ウマ娘名の読み上げも慌ただしく進んでいく。
数多並んでいるウマ娘の一員としてのみヒシミラクルの名は呼ばれ、そしてこのまま前に出られなければ1秒にも満たないその読み上げだけで、ヒシミラクルの名が場内に響くことは今後無いだろう。
「いや行ける、完全に外側から上がって行けるコースだ、他のウマ娘が加速し始める前に行け、ミラ子!」
他の観客が見ても、ヒシミラクルは中団の真ん中でじわじわと仕掛けどころを探っているようにしか見えなかったろうが、鷹木には彼女が既に足を速めている様が見て取れた。
すでに下り坂へと入っていたウマ娘の加速も重なってしまっていたが、それでもヒシミラクルは9番手から8番手へと上がりつつあったのだ。
〈ここからは下り、そしてゴールまでずっと平坦なコース、先頭ローレルフェアリー、徐々にリードが狭まってきたか、2番手のメイショウノビノビが差を詰めて来た!中団の先頭に居たホシノササヤキも前へと上がってくる、残り600を通過!同じく2番手付近に居たコゼットは流石に厳しいか下がっていく、その外ではスリースクランブルが粘る、あとは外を回ってグリュックリヒ、更に外からヒシミラクル、サカイヤゲッカモンと並んで前を目指す、いよいよ4コーナーを抜けて直線へと向かいます!〉
追い込みウマ娘としては、かなり理想的なコース取りでヒシミラクルは上がってきていた。
これが、加速時の切れ味鋭い脚質のウマ娘ならば、鷹木も勝利を確信していたことだろう。
「……もう一押し!もう一押し欲しい!ヒシミラクル、もっと全力で来い!!」
未勝利バ戦ということもあって、観客席は疎らであったが、それでもゴール前の歓声が小さいわけではない。
鷹木の必死な叫びがコース上のヒシミラクルに届いたか否か定かではなかったが、ヒシミラクルは確かに全力で直線を駆け抜けようとしていた。
彼女の走りが最高速度に到達するには、さらに長い直線が必要であったが。
〈残り400!メイショウノビノビ先頭を交わして1番手へと躍り出た!あとはホシノササヤキも外から並びかける、1バ身ほど空いてグリュックリヒが3番手、あとはどうか、ヒシミラクルとサカイヤゲッカモンが4番手争い、残り200!ホシノササヤキ、メイショウノビノビ並んでゴールを目指す、完全にこの2名が抜け出した!どっちだ、わずかにホシノササヤキが抜けたか、ホシノササヤキ今先頭でゴールイン!勝ちましたのはクビ差でホシノササヤキです!メイショウノビノビ二着!〉
僅差で決した勝敗を前にして、観客席からはパラパラと拍手が送られる。
地を揺るがすような大歓声が響くわけではないのは、未勝利バ戦らしい光景であった。ギリギリのところでデビューを逃したウマ娘にとっては、心穏やかではいられない状況であったろうが。
そんな中でも、ヒシミラクルは四着に食い込んでいた。とは言っても、三着のグリュックリヒから3バ身以上離されてのゴールである。
「まだ、足りないか……だが、掴めるところはあったか?ヒシミラクル。」
鷹木は、ターフ上で減速していくヒシミラクルにじっと視線を注ぐ。
汗まみれ、肩で息をしている他のウマ娘と違い、やはり独り際立って消耗の無い様子のヒシミラクル。いつも通りにノンビリとした表情で居るかと思われたが、彼女は真顔のままであった。
久々の本番レースの空気を吸ったためでもあったかもしれないが……これだけの余裕を残して、三着に届かなかったという結果に、ヒシミラクル自身が思う所はあったらしい。