4月27日、東京レース場、芝2400m。
翌月の日本ダービーと同じ距離で行われる青葉賞は、そのダービーへの優先出走権を得るトライアル競走である。
その日、桂崎トレーナーに並び、アグネスデジタルの付き添いも得て東京レース場へと到着したシンボリクリスエスは、レース前から場内を湧かせているどよめきの大きさを耳にしても、平常通り落ち着いた表情のままであった。
「1番人気ですよ、ここまで来たら当然ですけど!バ場状態も良好、全力を発揮してきてください、クリスエスちゃん!」
「I'll come into my own……油断なく、勝ちに行く。先輩たち、そしてトレーナーに教わったこと、全てを活かして。」
過剰な力みは見られなかったものの、クリスエスの語調が常にも増して更に重々しくなっていたのは、ますますレースの勝利を現実的に捉えられるようになっていたためだろう。
昨年のデビュー以降は勝ちきれないレースが続き、今月頭の山吹賞でようやく二勝目を挙げたクリスエス。当初は不安視されていた心肺機能も十分に完成へと近づき、その上で自分の走りを最大限に活かせる作戦も確立しつつある。
そして、勝てぬ間は直視が焦りを生みかねなかった本来の目的……URAから与えられた任務、ウマ娘レース全体の水準を引き上げることをも、意識に上らせることが可能となっていた。
「あっ、そうそう!キングさんにトップロードさん、ポッケちゃんからも頑張れってメッセージが来てますよ!」
控室にはスマホを持ち込めないものの、アグネスデジタルが間接的なエールを伝える。
ナリタトップロードとジャングルポケットがこの場に来ていない理由はただひとつ、春の天皇賞への出走が控えているためである。その年の天皇賞は、青葉賞の翌日。桂崎のサブトレーナーであるキングヘイローに引率される形で、彼女らは現地である京都へ既に向かっていた。
先輩たちからも気に留められている実感は、寡黙なクリスエスの双眸を明るく開かせた。
「後輩の晴れ舞台が気になるのも分かるが、明日の自分達の本番に向けて集中しろ、と返しておいてくれ。このレースが済めば、自分も京都へ向かう。」
桂崎トレーナーは言いながら、シンボリクリスエスのすぐ背後に立つ。
ようやく袖を通すことができた、濃緑の勝負服のジャケット。パドックでのお披露目では少々慣れないアピールのパフォーマンスをしたためか、多少着崩れている。
クリスエスのがっしりした背に、服の肩口を合わせてやりつつ、桂崎トレーナーは力強く送り出した。
「クリスエス、きみをマークするウマ娘は数多いだろうけれど、囲まれても慌てる必要はない。今のきみを、捉えられるウマ娘はいないからね。」
「As you say,任務を、遂行する……行ってくる。」
控室の扉が並ぶ廊下から、地下バ道へとクリスエスの蹄音が去っていく。
もはや文句なしにスター性を秘めたウマ娘の背を見送りながら、アグネスデジタルはポツリと口を開いた。
「いやぁ、トレセン入学2年目で、あの風格ですからねぇ……シンボリの名を背負った上に、URAそのものから期待を掛けられるだなんて、このデジたんにはとても真似できませんよ。」
「彼女が目標とする対象に、きみも含まれていると思うけれどね。アメリカに居る頃から名前は知られていたはずだ、世界のアグネスデジタル。」
「うぅ、私に向けられる目には応えたい気持ちも山々なんですが、ファンとしての立場で居たい気持ちもあるんですよぉ……!だってもう既にダービーへの道が見えてるんですよ、クリスエスちゃん!私がトレセン2年目の春ごろって、まだまだダートと芝のどっちつかずな感じだったんですから!」
とはいえその時期からデジタルもまたGⅡクラスのレースに出走しており、後にダートと芝の両方で大成する片鱗を既に見せてはいたのだが。
シンボリクリスエスが並みのウマ娘とは別格の能力を有していることに関しては、桂崎トレーナーも間近で指導を続けながら既に実感しているところであった。それは4月に入るまで負け続けていたクリスエスに対し、一般の観客が1番人気を付けるほどに隠しようのない事実でもあった。
「とはいえ、このレースには……あの子がいないからね。」
「ギムレットくん、ですよね。そういや、ギムレットくんはマイル路線の方へ行っちゃうんじゃないか、って話も出てましたけど……ダービーには来ないんでしょうかねぇ。」
シンボリクリスエスが能力本格化を示し始め、あるいはノーリーズンが皐月賞で大番狂わせの勝利を披露するまでは、この世代の一強ではないかと見られていたタニノギムレット。
むろん、皐月賞での勝利を逃したとて、ギムレットの能力が過小評価される余地などない。世間の評価もさることながら、ギムレットを指導している結城トレーナーも、彼女の走りは高く買っているはずだ。
いずれにせよ、この青葉賞にギムレットが参戦してこない以上、シンボリクリスエスが一着勝利の最有力候補となることは必然であった。
「18名のフルゲート出走はクリスエスにとって初だが、ペースを狂わされることは無い……はずだ。」
「心配いりませんって、これまでも16名出走のレースを何度か走って来てるんですから。」
クリスエスの前では見せなかったものの、彼女を送り出した後の桂崎トレーナーはデジタルの前では少々不安な表情を浮かべていた。
掛けられる期待や重圧には耐えるだけのメンタル面を有していたとしても、GⅡレース、フルゲート出走、そのうえ1番人気によるマークの集中……といった初めて経験する状況が重なっていることについての懸念は、トレーナーの脳内で常に居座りつづけていた。
〈快晴の空に恵まれまして、東京レース場、芝2400m、青葉賞。間もなく発走の時を迎えます、全ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました!一線の綺麗なスタートとなりました、さぁ先行争いに入ります一周目のスタンド前直線であります。まずは中をついてダンツシェイク、ステルスコンコルド、さらにウチを突いてボールドブライアンが上がっていきますが、トウカイアローが交わしてハナを奪いました。その後に1番人気シンボリクリスエスが4番手、コース内側に収まっています。〉
3枠からのスタートとなったクリスエスは、これまで勝てなかった後方につける位置取りではなく、先行のペースで脚を進めていた。
むろん桂崎トレーナーと決めた作戦の通りであり、また競争相手のウマ娘たちはもちろん、大多数の観客が予想していた通りのスタート直後のペースである。
「後ろから追い込もうにも差し切れない、だから前目につけて好位置から勝ちを狙いに行く。山吹賞でも見せた通りの走りだ。」
「やっぱりというか、周りのウマ娘ちゃんたちも予想通りって感じですねぇ。完全に囲まれちゃってます、クリスエスちゃん。」
コーナーを小回りに進める内ラチ沿いの位置を取れたまでは良かったものの、前も後ろも外側も塞がれ、身動きの取れない状態にクリスエスは押し込まれていた。
彼女の大柄な身体が集団の中で慎重に走りを進めているのを見つめながら、桂崎トレーナーはクリスエスの脚取りに焦りや乱れが見いだされないかとばかり目を凝らし続けていた。
〈今回2番人気となりましたヤマノブリザードはおよそ7番手、中団のほぼ真ん中あたり。その外ニシノサブライムと中団を形成、その後にアグネスプラネットという形で、まずは先頭が1コーナーを回っていきます。最後方にポツンと離れてギャロップサンダー。さて先頭は抜けましたトウカイアロー1バ身半ほどのリード、2番手争いはウチにボールドブライアン、外にステルスコンコルド、それからチョウカイフライトがその外を突いて上がっていく!4名並んで大きく外へ広がりました。〉
シンボリクリスエスが完全にコーナー内側に押し込まれている状況を見てのことか、コーナーの外側では向こう正面に入るのを待たず好位を得ようと上がっていく動きがみられる。
競争相手達も、クリスエスのこれまでの走りを分析し、対策を既に練っているのだろう。
「クリスエスは前方のウマ娘を差し切れずに負けていたレースを繰り返している。このレースでも、クリスエスに勝とうとすれば先んじて前へと出て行こうとするのも自然なことだ。」
「こちらの予想通り、でもありますよね。しっかし……ひょぇぇ、あんなに集団が外に膨らんでたら、前に上がるだけでも精一杯ですよ。」
桂崎の言葉に頷きつつ、アグネスデジタルはレース展開を見つめながら短い腕を組んで展開を俯瞰していた。
先行も差しも自在に実行できたデジタルの目から見れば、大外を回って上がっていこうとする面々が多い状況がいかに厄介であるか明瞭であった。
皆がシンボリクリスエスの存在を意識して我先にと上がっていこうとするあまり、中団に殺到して先行争いをする状況は混戦へともつれ込みつつあったのである。
〈バ群の後方ではウチを突いてオモシロイ、さらにバンブーユベントスが外を突いている、更にその外からダディーズドリームが上がっていきまして1400の標識を切りました。更にその後方で内々を回るディーエスサンダー、更にその後方ではジュピターシチーが続いている、そのウチを突いてブリットレーン、最後方ギャロップサンダーであります。さぁ坂の下りに入りまして3コーナーの手前です、先頭ではトウカイアローが淡々と飛ばしています。〉
東京レース場の向こう正面は、出口付近から下り坂へと入る。当然ながら、前へ上がろうとしていた面々は勢いに乗り、全体のペースも上がっていく。
そんな状況で、相変わらずコース内側に押し込まれたままのシンボリクリスエスはじりじりと後ろへ下がっていた。前半は3番手付近に居たのだが、今や9番手から10番手あたりにまで下がっている。
ここまでクリスエスの足取りを凝視し続けていた桂崎トレーナーの表情には、焦りなどほぼ無かったが。
「あぁ、予想通りだ。クリスエスも、あれだけ囲まれた状況で、冷静にペースを運び続けてくれた。」
「いい感じですよぉ、ずっとコーナーの内側を進み続けていたおかげで、ロスも全くありませんし!しかし最後の正念場、4コーナー出口で前へ抜け出られるかどうかです!」
それがこのレースにおけるクリスエスの命運を分ける瞬間であることは、間違いなかった。
既に、大外から前へと出る道はない。それは想定済みの通り、クリスエスの外側から前へ出ようと殺到する集団が膨らんで、完全なる混戦状態であるためだ。
(Where there's a turf,There's a way……その道を、見つけ出すのは……私自身だ。)
トレーナーと共に立案した通りの作戦、想定通りのペース。
しっかりとした土台に支えられた走りの中、クリスエスは前へと抜け出るルートを見出すことに全神経を集中させることが出来た。
〈トウカイアロー、リードは2バ身あります、そして2番手は今度は外からダディーズドリームが上がってきた、それを追ってステルスコンコルド、その外を突いてチョウカイフライトあたりも上がってまいりました。残り800を通過、ウチを突くボールドブライアン、これが現在5番手、アグネスプラネットもこのグループに加わってヤマノブリザードもおります、その直後にはシンボリクリスエス、まだバ群の中に埋もれているか、4コーナーを回っていきます、残り600m!〉
早くも観戦スタンドの中にはやきもきしたようなどよめきが響きつつあった。
当然、1番人気と見られたシンボリクリスエスの姿が、完全に集団の中で包囲されたままのようにしか見えなかったためだ。が、桂崎トレーナーは、一つの確信を得て顔を上げていた。
「問題ない、そのままだ、クリスエス。外に振られず、最ウチを行け。」
「がっしりした脚運び、あれなら完全に内側で踏ん張り続けられますよぉ!」
アグネスデジタルもまた、クリスエスがその大柄な体格に似合わぬ器用さを発揮している様を見てとっていた。
下り坂の勢いをつけて回ってきた4コーナーは、特に東京レース場においては回転半径の小さいものである。速度の出ているウマ娘たちは、遠心力でコースの外側へと振られてしまう。
特に体格のあるウマ娘は、その遠心力で引っ張られる割合も高まると思われていたが……クリスエスは鍛え上げた脚により、速度を上げると同時に最ウチをなぞるように、綺麗にコーナーを回っていった。
〈先頭へはダディーズドリーム接近して直線へと向いている、さあ最終直線です一線に広がりました!中を突きましてグングン上がってくるのはヤマノブリザード、残り400を通過!外を突いてアグネスプラネット、さらに大外からはバンブーユベントスも伸びて来ました、残り200の標識……シンボリクリスエスが上がってきた、最ウチからシンボリクリスエスが完全に抜け出した!脚色が良い!バンブーユベントス追うが、差は縮まらない!シンボリクリスエス!圧倒的に抜け出した!今先頭で、シンボリクリスエス、ゴールイン!〉
すっかり大外での攻防に視線を奪われていた観客たちは、シンボリクリスエスの大柄な姿がするりとコース内側から抜け出した様に気づくまで一拍ほど遅れていた。
が、その場で共に競っていたウマ娘たちには、すでに直線へと向いた時点でクリスエスの勝利が確定していたことを実感していたことだろう。
誰もが多少なりとコース外側へ振られかねない状況の中、加速と位置取りの維持を尋常では無い水準で実現し、クリスエスは完璧なペースで先頭を駆け抜けていったのである。
「ひょぉお!ダービーですよ!これでダービーへの優先出走権ですよ、クリスエスちゃん!」
「あぁ、これは前哨戦での勝利だ……とはいえ、もっと喜んでもいいんだぞ、クリスエス。」
興奮するアグネスデジタルの傍ら、桂崎トレーナーは最前列の観戦ブースの柵に手をもたせ掛け、コース上のクリスエスへと視線を向ける。
作戦通りに任務を遂行したばかりのクリスエスは、確かに真面目そのものな表情を崩さず、笑顔は見せていなかった。
しかし、自らの走りが大いに沸かせた観客席を見やった時、彼女の瞳はしっかりと輝いていた。