不調を乗り越えたシンボリクリスエスが見事に青葉賞を勝利し、日本ダービーへの優先出走権を勝ち獲た朗報に沸いた翌日。
この時期、ウマ娘レースの大きな話題は、立て続けに訪れる。青葉賞の翌日は他でもない、春の天皇賞の開催日であった。
黄金世代が去った後を埋められるウマ娘が居るか否かの懸念はもはや遠い昔、覇王世代から現役続行しているアドマイヤベガとナリタトップロード、さらに続くエアシャカールに、ジャングルポケット、マンハッタンカフェ、加えてネオユニヴァースとゼンノロブロイ……と、錚々たる面々が集う、近年稀に見るオールスター戦の様相となっていた。
「そこに、この私が加わっていれば盛り上がりは最高潮だったろうにねぇ。実に残念だねぇ、このアグネスタキオンが天皇賞に出られないというのは!」
「んなこと、もう誰にも言わせねーよ。お前抜きだろうが、天皇賞は最高のレースだ。」
松葉杖を握り締めながら、本心とも演技とも取れる口惜しさを表現しているアグネスタキオンに対し、ジャングルポケットが即座に返答する。
ポッケとしては、一世一代の大舞台となった昨年の日本ダービーにて、“アグネスタキオンさえいれば……”という評が世間に少なからず流れていたことを今なお忘れていないのだろう。
とはいえ、現地である京都レース場へと応援に行きたいと言い出したタキオンがまだ杖を手放せない状態であることを気遣い、レース場へ直通する出走ウマ娘用のバスに同乗を許したのも当のジャングルポケットであった。
「つーかタキオン、わざわざ俺の方を選ぶとはな。カフェの奴だって、タキオンが観戦に行きたいっつったら、断ることはねーだろ。」
「確かに私がジャングルポケットくんよりもカフェの走りに向ける興味の方が大きい、というのは事実だがねぇ……いや無論、ジャングルポケットくんの走りとて十分に興味深いとも?」
同期のウマ娘として頼られるのと同時に、マンハッタンカフェと比較されることへの複雑な感情がまじりあった表情で睨んでくるジャングルポケットに対し、タキオンは短く補足を入れる。
しかし、やはりタキオンとしてはマンハッタンカフェの走りの観察を優先したがための決定に違いなかった。
「今回の春の天皇賞について、私はカフェがいかなる走りを披露するつもりか、純粋な観察結果を得たいからねぇ。そのためにはカフェに対し、出走前の干渉は極力減らすに限る。」
「じゃあ俺には出走前にいくら絡んでも気にしねーってか。」
「ジャングルポケットくんほどに頑丈な意思の持ち主ならば、私との会話を多少重ねた程度のことなど問題にはなるまい?」
またも、自分が褒められたような、逆に繊細さが無いと貶されたような、二つの印象がまじりあった複雑な表情をジャングルポケットは浮かべている。
現地での宿泊施設から出発したバスは間もなく京都レース場に到着する。タキオンも、ジャングルポケットに微妙な顔つきをさせたまま本番レースへと送り出すのは不本意だったのか、話題を他に振った。
「まぁ、うちのトレーナーくんが結城トレーナーと顔を合わせるたびに委縮するのも可哀想だし、あとは、私の可愛い後輩ウマ娘のためでもあるねぇ。事あるごとに、ジャングルポケットくんから稽古をつけてもらっていたヒシミラクルくんも、間近できみの走りを見たいと所望していたものだから。」
「んだよ、そんなの中継番組で見たって変わらねーってのに。でも嬉しいぜ、律儀に俺のレースを応援しに来てくれる後輩が居るってのは……」
タキオンと共に、ジャングルポケットはバスの端に席を占めていたヒシミラクルへと視線を向ける。
先ほどまでまるで会話に参加していなかった時点でタキオンは少々嫌な予感がしていたのだが、やはりというか折悪しく、ヒシミラクルは車窓の外へと視線を向けっぱなしであった。
「うわぁ、人がいっぱい……あっ、レース場の中にフライドチキンのお店もあるんだ……ついたら行こ……」
「ったくよ……食うのを忘れさせるぐらいのレースを見せてやらなきゃダメそうだな、この俺が。」
「……あっ!はい!応援してます、ジャングルポケット先輩!」
車内の視線が自分に集中していることにようやく気付き、さすがのタキオンからも慣れたような目つきで見守られつつ、取ってつけたような応援の言葉を口にするヒシミラクル。
何とも締まらない出走前の激励であったが、あまりにもいつも通りの振る舞いを見せるタキオンとヒシミラクルを前に、ジャングルポケットも余計な力みなど抱えずに本番の舞台へ向かうことが出来た。
一方で、レース場到着後のバスから降りた後、ヒシミラクルはレース場グルメを堪能している暇など与えられなかったが。
「えー、せっかくタキオン先輩のために指定席も取れてるんですし、ちょっとぐらい、いいじゃないですか。」
「ヒシミラクル、お前の本番出走が来月の頭に予定されてることは、既に伝えたと思うんだが。」
鷹木は、杖をついているタキオンの片手を支えてバスから降りるのを手伝ってやりながら、ヒシミラクルを諭す。
来月の5月4日、ヒシミラクルにとって通算9レース目となる未勝利バ戦が控えていた。残り1週間も無い状況、本来ならばトレセン学園の練習場に詰めて最終調整を進めるというのが通常の判断だ。
それでも今日という日に京都レース場へと赴いたのは、タキオンが強く現地観戦を希望したためでもあり、まだ脚が完治には遠いタキオンのための同行者が複数名必要だったためでもある。
「食事量も身体への負荷も、厳密に計算しているんだ。今日一日の休憩を得られた分、間食ぐらいは我慢しろ。」
「それに、ただでさえ満員の乗客に揉まれる電車移動ではなく、ゆったりと座れる専用バスでの移動だ。ヒシミラクルくんの体質ならば、京都行きという遠出も大した疲労にはなり得ないからねぇ。多少の間食で得たカロリーは、トレセン学園に帰るまで消費しきらずに持ち帰ることとなるだろうねぇ。」
「いやいや、そんなに消耗無しってわけには……とも、否定しきれませんかねぇ、あれを見ると。」
ヒシミラクルは、淀駅から京都レース場へと直結する通路に、途轍もない大群衆が押し合いへし合いしながら進んでいく様を見上げつつ口を開いた。
何しろ、ここ数年で姿を現した優駿たちが一堂に会する天皇賞なのだ。収容人数が満員であることは当然のこと、レース場内の客席に収まらない観衆たちも場外のスクリーンや広場でレース結果を間近に感じようとしているのだろう。
タキオンもヒシミラクルと同じ方向を見つつ、その目つきは少し懐かしさを帯びていた。
「思い出すねぇ、私が入学間もない頃のことだねぇ。トレーナーくんと、あとはカフェと共に、あの時は駅を降りて大混雑の中、レース場まで歩いて行ったものだねぇ。」
「タキオン先輩ほどのウマ娘が、満員電車に揺られて現地レース入りすることなんてあるんですか?」
「入学間もない頃だと言ったろう、私はまだまだ無名のウマ娘だったのだから仕方ないねぇ。トレーナーくんが、観戦チケットを入手できたのがほぼ奇跡のようなものだったねぇ。」
入手競争率の高い春の天皇賞の観戦チケット、それをウマ娘のレース研究のためと多少苦しい理由をつけ、学園のつてで入手した2年前のことを、鷹木も懐かしく思い出していた。
今年に関しては、タキオンが文句なしに著名なウマ娘となったこともあり、また前々よりタキオンがこの天皇賞の観戦を希望することは分かり切っていたため、無理なく指定席のチケットは準備できていた。
タキオンが今年の天皇賞をどうしても現地で見たがる理由こそ、2年前の天皇賞の際に生まれたものであった。
「覚えているかい、トレーナーくん。2年前の天皇賞で一着になったアドマイヤベガ先輩のゴールを見て、カフェは『あれは、私だ』と言ったねぇ。思えば彼女のその発言が、私の可能性世界仮説の原点となったわけだからねぇ、2年越しにでも忘れられないねぇ。」
「たしか、カフェ自身にそっくりな“お友だち”がアドマイヤベガにとり憑いていたんだっけか。あの時はどういう意味だったのか、さっぱり分からなかったが。」
今もなお鷹木は完全な理解ができているとは言えない状態だったが、それでも2年前から今に至るまで、不可解かつ非現実的な現象はいくつも経験したため、カフェの発言やタキオンの仮説を半ば信じるまでには至っていた。
タキオンも予測していることだろう……今回の天皇賞で、カフェは2年前のアドマイヤベガとほぼ同じペースで走り、勝利するのではないかと。
その予測が的中することは、実のところさほど明るい兆しではなかった。ウマ娘レースの展開や結果は、決して誰にも予測されないものであるはずなのだから。
むろん、鷹木も心底からそう信じているわけではなく、また観戦席へと向かう道中付き添い続けているヒシミラクルも聞いている手前、それ以上の言及は避けた。当のヒシミラクルは、観戦スタンド手前の通路を漂ってくるソースの匂いに気を取られている様子であったが。
「いいこと思いつきました、一人前だけ焼きそばを購入して、それを3名で分けて食べればいいんじゃないですか?一口ぐらいなら、大したカロリー量にはなりませんって。」
「確実に一口じゃ済まなくなるやつだろ、ダメだ。」
多少なりと不安を心底に抱えて観戦へと向かうタキオンと鷹木の前で、通常営業なヒシミラクルの振る舞いだけがあっけらかんと平穏そのものであった。
春の天皇賞の発走時刻が近づく中、2年前と異なる点を鷹木もタキオンも胸中で整理し続けていた。まず、ネオユニヴァースやゼンノロブロイは昨年からの出走であり、2年前はクラシック級の序盤ゆえに参戦していない。
変化は、出走ウマ娘の顔ぶれだけに留まらなかった。タキオンは場内に響く声へと耳を立て、そして口を開く。
「……実況アナウンサーの隣に、解説のスペシャルウィーク大先輩が居るのは例のごとくだがねぇ、確か2年前はオペラオー先輩も特別ゲストとして顔を出していなかったかい?」
「あぁ、居たな。オペラオーは去年も解説席には顔を出していなかった、自身の用事があるからだろうが……。」
引退後も何やかやと忙しそうに働いているテイエムオペラオーの姿は、タキオンを指導し始めた頃にも鷹木は目にしている。
それ故に今回もオペラオーはスケジュールの都合上、オファーを断ったとも考えられた……オペラオー自身が意図したことか否かは判然としなかったが、そのおかげで2年前と全く同じ状況の繰り返しは回避されるようにも思われた。
観戦席の賑わいの上に、今年も実況アナウンサーと解説のスペシャルウィークの声が響き渡っている。
〈いよいよ発走時刻が近づいてまいりました、最も強いウマ娘が勝つ、頂点を決める春の舞台、天皇賞!曇り空の下ではありますが芝状態は良、地下バ道から11名のウマ娘たちが続々と姿を現しています。スペシャルウィークさん、これほどのスターウマ娘が一堂に会する天皇賞はいかがでしょうか!〉
〈いや凄い顔ぶれですよこれ!やっぱり長距離となればマンハッタンカフェちゃんにも注目が集まりますけれど、昨年の天皇賞を制したネオユニヴァースちゃんの連覇もかかっていますからね!さらにはGⅠの常連なナリタトップロードちゃん、2年ぶりの勝利がかかるアドマイヤベガちゃんに、秋シニア三冠のゼンノロブロイちゃん、これはレース中に目が足りなくなること間違いなしですよ!〉
スペシャルウィークが次々に挙げていくウマ娘たちの名前に、レース開始前から観客たちの上げる期待の声々は高まっていく。
未だかつてないレース模様が期待できることは、ここまで来ればほぼ確実であるようにも思われた。ここに出走している面々が一緒のレースを走る機会は、これまで無かったのだから。
しかし、アグネスタキオンはぽつりと別な懸念点を指摘していた。
「トレーナーくん。歓声が、小さく聞こえないかい?」
「……あぁ。」
指摘されて初めて、鷹木もその異変をハッキリと聞きとっていた。
京都レース場に押しかける観客たちの数に衰えが無いのは先ほど見ての通りであり、自分たちが座っている指定席から見回しても、観戦スタンドが満員状態であることは間違いなく確認できる。
ただ、前々からタキオンが言及していた通り……幾万人もの観客が立てる歓声にしては、異様に声が小さく、遠く聞こえたのである。
ヒシミラクルも、ウマ娘の聴覚を持つだけあってその点は分かっていたようであった。
「まーでも、指定席はガラス越しですし。そのせいじゃないですか?」
「かもな。」
おそらくタキオンはそう考えていないだろう……と、鷹木は思いつつヒシミラクルに頷いておいた。タキオンの仮説に拠れば、可能性世界とのかかわりが希薄化していくことが、レース場に響くファンたちの歓声が薄まることの原因であるらしいのだ。
とはいえ、難しい顔をして考え込んでいる様子のタキオンに喋らせ始めると、せっかくの天皇賞の発走の瞬間にも被ってしまうだろう。
〈全ウマ娘、ゲートに収まりましてまもなく発走です!京都レース場、芝3200mの戦いが今……スタートしました!11名のウマ娘が綺麗なスタートを切りました、まず一周目の3コーナーへと向かっていくところですが、おっと!?マンハッタンカフェ、マンハッタンカフェが先頭に立とうする勢い、しかしエリモブライアンがすぐさまハナに立ちました。2番手にアドマイヤロード、先ほど前へと飛び出たマンハッタンカフェは4番手あたりに収まっています。〉
〈差しの印象が強いマンハッタンカフェちゃん、今回はぐっと上げて先行の位置にまでつけていますね!これは意外な展開です、しかしこの形となれば逃げに対する良い牽制になりますよ!〉
スタート直後からマンハッタンカフェのみならず、ゼンノロブロイやナリタトップロード、エアシャカールといった面々が先行の位置で押し上げてくる。
逃げの位置についたエリモブライアンとしては自分のペースに持ち込みたいところであったが、これほどの錚々たる顔ぶれが背後にせまってきていては、想定よりもペースを上げざるを得ない。
「うわぁー、前の方はツラそうですねぇ。あんだけ追い立てられながら3200を走り抜くのは大仕事ですよ。」
「これだけのベテランが揃えば、どの位置につけていてもマークされずにいられることはないだろうな。」
ヒシミラクルの言葉に返答しつつ、鷹木はチラとタキオンの方を見やる。
スタート直後からいつになく静かになっていたアグネスタキオンは、今、瞠目した状態でレース展開を注視していた。鷹木には、タキオンがターフ上から目を離さずにいられない理由がはっきり分かっていた。
2年前の春の天皇賞では、アドマイヤベガがスタート直後から先頭に迫る勢いで走っていたのだ。まさにたった今、マンハッタンカフェが走っているのと同じペースである。
〈一周目の3コーナー登っていきます、3番手にはエアシャカールがつけて、マンハッタンカフェにウチから並ぶ形でゼンノロブロイ、その後にアクティブバイオという順。中団の後ろ、ウチ側にナリタトップロードが進み、1バ身ほど空いて外側をジャングルポケットが進んでいきます。最後方にアドマイヤベガ、ネオユニヴァース、ホワイトハピネスが固まっています。〉
〈スタート直後に位置取りが固まったおかげか、ここから下り坂ですけれども落ち着いたペースです!〉
現在、アドマイヤベガは追い込みの位置取りである。これこそ本来彼女が得意とするポジションであり、何者にもとり憑かれていない状態での走りであろう。
2年前、マンハッタンカフェそっくりの“お友だち”にとり憑かれたアドマイヤベガと同じ走りを、現在、マンハッタンカフェ自身がなぞるように披露しているのだ。
「このまま……勝つのも確定かい、カフェ?」
「いやー、ポッケ先輩も良い位置についてますよ、まだまだ分かりませんて、もう一周あるんですし。」
ポツリとタキオンが呟いた内容に、ヒシミラクルは初めて目の前で見ることとなる天皇賞の本番へ視線を向けつつ、常通りの口調で答える。
だが、タキオンにとって、これは初めて目にするレース展開ではなかった。2年前の天皇賞と、出走ウマ娘の顔ぶれこそ違えど、位置取りやペース配分はまるきり変わらなかったのである。
自身がレースを走るウマ娘であればこそ、気味悪いまでに2年前と同一の展開であることは、否応なしに見てとれたのだ。
〈さぁ、一周目のスタンド前、変わらずハナに立ち続けるのはエリモブライアンです、エリモブライアン大歓声を浴びながら堅実に脚を進めていきますが、外からゼンノロブロイが位置を上げてきました、先頭に並ぶ勢いで現在2番手!アドマイヤロード、エアシャカールが続き、マンハッタンカフェはインコースを現在5番手で進んでいます!〉
〈ゼンノロブロイちゃんもかなり上がって来てますね!確かに先行のペースでも強いウマ娘ですが、ますます先の読めない展開となってきましたよ!〉
あるいは、解説席で今まさにそう言っているスペシャルウィーク自身もまた、この事態に気づいていたかもしれない。
昨年の宝塚記念の際、鷹木はオペラオーやメイショウドトウづてに、黄金世代の面々もウマ娘レースに奇妙な異変が起きていることを薄々感じ取っていると聞いていた。
むろん、確証の得られない異変ではあったが……だからこそ、スペシャルウィークはマイクに向かって“先の読めない展開”という文言を敢えて声高に述べたのかもしれない。
「えぇー、ロブロイ先輩があんなに上がってくるなんて、今までありましたっけ?いや、あったような?」
「あぁ、時々だが先行の走りを披露しているぞ。2年前のダービーでも2番手で進めていたな、ロブロイは。」
これといって違和感を見出していないヒシミラクルに鷹木は言葉を返してやりつつ、ずっとタキオンの様子が気がかりになり続けていた。
今まさに正面スタンド前の直線を駆け抜けていくウマ娘たちを見つめるタキオンの視線は下を向いていたが、その姿勢がともすればすっかり落ち込んでいる胸中の表れであるようにも見えたのである。
〈1コーナーのカーブを回っていきます、淡々とした流れ、エリモブライアンのペースで進んでいます。順位は変わらずエリモブライアンに続きゼンノロブロイ、アドマイヤロード、そしてエアシャカールといった形。その後にマンハッタンカフェ、ナリタトップロード、ほとんど並んだ状態で2コーナーを通過していきます!〉
〈後方のアドマイヤベガさんにネオユニヴァースちゃんも、ずっと控えて全体を見渡してますね!まだまだ、誰が来るのか分かりませんよ!〉
スペシャルウィークの声色からは、誰が来るのか分からないレースであってもらいたい、との願望が聞き取れるようでもあった。
いや、それは自分の考えすぎではないか……と、鷹木は首を横に振る。全出走ウマ娘が懸命に走り、勝つために必死でペース配分やコース取りを模索した結果が、既に見覚えのある展開にしかならない事態は、これまでも幾度か繰り返されているわけだが。
「この後……カフェは、コースのウチ側をついて……」
「えぇー、外に出るかもですよ?なんたって、すぐ後ろからポッケ先輩が上がってきそうですし。」
ブツブツと呟いているタキオンの言葉に、ヒシミラクルは尤もな反論をしている。
確かに、向こう正面で好位置を取っていなければ、下り坂と共に一気にペースが上がる3コーナーから最終直線までの間に先行争いに加われない。コース内側に居続けると、前へ抜け出すルートを見出せないリスクもある。
しかし、鷹木はタキオンの予測が当たるだろうことを、ほぼ確信していた。2年前の天皇賞春、アドマイヤベガがそれと同じルートを取って勝ったためだ。
その予想通り、向こう正面でもマンハッタンカフェは大きく位置を変えることなどなく、じわじわとペースを速める全体の速度に合わせて前へと詰めていく程度であった。
〈後方はアクティブバイオ、ネオユニヴァース、アドマイヤベガという並び。最後方にホワイトハピネス、まだバ順は変わりません3コーナーを回っていきます、先頭集団の順位は変わっていないが徐々に詰まって来たか、5番手集団、ナリタトップロードとマンハッタンカフェが並んで前へと詰めてくる!ジャングルポケットもすぐ後ろにぴったりとつけて、リードの差はほとんどありません!ナリタトップロードが外から仕掛けるか!〉
〈いよいよここからです、勝負が大きく動くのは!ウチ側に残っているマンハッタンカフェちゃんは、前に抜け出せるんでしょうか!〉
「あぁ、抜け出せるさ。勝てるか?ジャングルポケットくん……。」
タキオンは相変わらずブツブツと呟いているため、さすがに3コーナーを回ってくるウマ娘たちを前に高まり始めた大歓声の中で、その声はかき消されていた。
レースの決着間際になれば、小さく遠く聞こえていた歓声が、本来の大きさで響き始めるのもこれまで通りであった。傍らのヒシミラクルも、自然と声のボリュームが上がっていた。
「これポッケ先輩、行けちゃうんじゃないですか!?メッチャいい位置ですよ!」
「トップロードとシャカールが並んでいるから、楽にとはいかないだろうが、勝ちを狙えるポジションではあるな。」
ヒシミラクルに応えてやりつつ、しかし鷹木もタキオン同様に、ジャングルポケットの勝ちを脅かすのがマンハッタンカフェであろうことは読み取っていた。
2年前は、コース内側に居たアドマイヤベガが勝利している。
〈残り600を通過!マンハッタンカフェ、その後ジャングルポケットが続いて5番手6番手!アクティブバイオが後に続く!アドマイヤベガはまだ最後方だが、4コーナーを回り、今度はゼンノロブロイが先頭か、外からナリタトップロード!外からナリタトップロードが追ってきた!ナリタトップロードにジャングルポケットが並ぶ、僅かにジャングルポケットが前か、しかしマンハッタンカフェ!マンハッタンカフェが先頭だ!〉
〈抜けだしてますね!カフェちゃん!並んでる子たちは外に振られてます!〉
実況アナウンサーも観客たちも一様に、大外を回って上がっていくジャングルポケットに視線を吸い寄せられていたが、解説のスペシャルウィークは迷いなくマンハッタンカフェに注目していた。
スペシャルウィーク自身のレース経験ゆえ、でもあったかもしれないが……コース内側に閉じ込められたと見えていたカフェが抜け出す様は、2年前の天皇賞を覚えている者であれば予測できる光景であった。
「あれは……カフェの勝ちだねぇ……。」
「いやー、ギリギリですよギリギリ!ポッケ先輩も迫って行ってますし!」
ヒシミラクルはなおも、自分に目を掛けてくれた先輩ウマ娘への声援を惜しんでいなかったが、ここまでゴールが迫れば鷹木の目にも勝敗は明らかに見えつつあった。
ここからの直線、淀の坂の上りがあるといえど、ジャングルポケットの加速は衰えないだろう。
しかし、内側を走っていたナリタトップロードやエアシャカールが勢いのあまり外に振られたため、ジャングルポケットは大回りでコーナーを抜けざるを得ない。そのために生まれた差は、コンマ秒で勝敗が決まるレースの世界ではあまりにも重い。
〈マンハッタンカフェが先頭だ!アドマイヤベガ上がってきたが、ナリタトップロード、ジャングルポケットには届かない!その先にマンハッタンカフェ!マンハッタンカフェ!ジャングルポケットが詰め寄るが!マンハッタンカフェ先頭!マンハッタンカフェ押し切ったゴールイン!!この淀の坂を登り切り、3200の末に栄冠を手にしましたマンハッタンカフェ!菊花賞に続いての天皇賞制覇!ビワハヤヒデ、あるいはマヤノトップガン以来の偉業であります!〉
〈さすがは菊花賞ウマ娘です!それに有馬記念まで勝ったうえですから、ほんとにスゴいですよ!〉
マンハッタンカフェが突き上げた拳に、大喝采が降り注ぐ。
むろんレース場内は大いに沸いており、ヒシミラクルも観客席に渦巻く興奮の中に身を任せていたが、タキオンはいつになく静かな様子であった。
彼女の表情は、鷹木にもすぐさま読めるほど単純ではなかったが……ほどなくして、タキオンの視線が一点に吸い寄せられていった様だけは明確であった。
「待ちたまえ、ネオユニヴァースくんの様子がおかしい。」
「そうか?いや……確かに、片脚を庇うような歩き方だな……」
それは一般の観客にはまるきり分からぬ程度、常にウマ娘の脚を見ているトレーナーであればこそ気づくほどの僅かな異変であった。
ネオユニヴァースは、いつになく苦戦して後方に留まったままのゴールとなっていたが、明らかに脚に違和感を抱えている様子だった。すぐ隣で駆けていたウマ娘たちも、ゴール後の減速の後に気づいたのか、ネオユニヴァースの周囲に集まっていく。
彼女自身は明確な痛みがあるわけではないらしく、救急車が出動するほどではなかったものの、足早に控室へとウマ娘たちが戻っていった後しばらくして、その日のウイニングライブの中止が宣言された。
「トレーナーくん。この天皇賞は、明らかに可能性世界での既定に干渉されたと見えるねぇ。」
「……そういう、運命が決められていた、ってことか?」
レース場から出て行く群衆の混雑に巻き込まれぬよう、帰りのバスに先んじて乗り込んでいたタキオンは、鷹木へポツリと告げる。
ヒシミラクルは食べ物を購入しないという条件つきで、レース場内の店巡りに行っていたため、ふたりきりの車内は静かであった。タキオンは鷹木の問いかけに頷き、言葉を続けた。
「カフェが、2年前のアヤベ先輩とまるきり同じ抜け出し方をしただけじゃない。ネオユニヴァースくんが昨年、天皇賞を勝利した後、私は彼女が引退するのではないかと、わけもなく危ぶんだのを覚えているかい?」
「えっと……さすがにハッキリとは覚えてないが……」
「ネオユニヴァースくんは、あの時確かに特異点だったねぇ。だからこそ去年は、天皇賞での勝利を獲ることができたんだ。だが……特異点としてあり続けることは、確約されていないらしい。」
視線を落としたタキオンは、彼女自身の脚を見つめているらしかった。
タキオンもまた、去年の皐月賞後の引退の危機を乗り越えていたのだが……春先に故障が発覚して走れなくなるという運命からは、逃れられないのかもしれない。