アドマイヤベガの経験している奇妙且つ不穏な現象について話をする場を、日経賞の中継観戦を開始する前の時間帯にしたのは正解であった。
彼女の抱える不安を和らげることには繋がったとしても、即座には解決へと導かれないことはほぼ確実だった。解決しきれない問題を抱えた認識が残ったまま練習に戻らぬためにも、その感覚を押し流すだけの熱量が必要だった。
ウマ娘レースの本番を見ることは、その目的を達するための確実な手段のひとつであった。空気を切り替えるように、ナリタトップロードが声を明るくして言う。
「そろそろ、シャカールが走る日経賞の発走だね。中継画面をつけてくれるかい、キングヘイロートレーナー?」
「お任せくださいませ、練習場の機器類の扱いにはだいぶ慣れてまいりましたのよ。」
そうは言いつつも、リモコンのボタンを注意深く見てから慎重に押し込んでいるキングヘイロー。先日、阪神大賞典の中継を見ようとして真っ青な画面を表示してしまった時の緊張は、まだ残っているようであった。
恙無く中継画面は大型スクリーンに表示され、中山レース場のパドックに続々と姿を現しているウマ娘たちの様が映し出されていた。
〈2番人気、こちらも人気度上位の常連ウマ娘です、マチカネキンノホシ。先月の京都記念においてはナリタトップロードに次ぐ二着、あのアドマイヤベガにも先着するという好成績を残しています。昨年の日経賞でも二着、2500mを得意な距離とするシルバーコレクターが、今年こそは栄冠を手にするのでしょうか。〉
「キンノホシちゃんは経験があるだけに、シャカールにとってだけじゃない、私達にとっても強敵だね。」
「えぇ、実際に強かったもの。あのレース結果は、必然だと思う。」
トップロードの言葉に応えるように、アドマイヤベガは頷きながら言う。
万が一、アドマイヤベガが本来得意とする作戦を採っていれば、勝てたかもしれない。そう考えるのは観戦する立場にあった者ばかりであり、実際にレースを走っていたアドマイヤベガ自身は厳然たる結果を認識しているのみであった。
普段とは違う走りを実行したにせよ、アドマイヤベガが全力を尽くしたことに間違いはなく、マチカネキンノホシはナリタトップロードに比肩する能力を明確に示したのだ。
〈いよいよ1番人気の紹介です、エアシャカール!こちらも覇王世代の後を継ぐウマ娘として文句なしの1番人気、一昨年の菊花賞以降の苦節をはねのけるように、昨年はジャパンカップにて勝利、強豪の先輩たちと競い合った有馬記念では四着、今年初のレースにも大きな期待がかかります!〉
思えば、エアシャカールもトレセン学園に入学してから4年目である。
ツンツンした外見はその当時から変わらぬものの、独自色が強いながらも彼女なりのロジカルな走りの追及はひとつの到達点を見ようとしている。得意とする追い込みもアドマイヤベガの走りを模倣するばかりではない、自らの脚質に最適化された先行寄りの作戦となりつつあった。
同期のアグネスデジタルの派手な戦績に隠れがちではあったが、覇王引退後の世代における代表的なウマ娘であることは間違いない。キングヘイローにとっても、もちろん注目すべき後輩のひとりであった。
「そういえばシャカールさん、以前に比べてますます前寄りの位置取りを本番レースにて多用するようになっておられますわね。むろん、後方から差し切りやすいレース場では、その限りではないのでしょうけれど。」
「もともとエアシャカールは、デビュー当初は先行で走っていたからな。勝利した皐月賞や菊花賞では追い込みの作戦が目立っていたが、その後は徐々に先行寄りに戻りつつある。」
キングヘイローの言葉を受けて、鷹木もシャカールの走りの変遷を思い返しながら言う。無論、テイエムオペラオーの担当時においても警戒すべきウマ娘として注目しており、ゆえにこそシャカールの作戦は頭に叩き込まれていたのである。
アドマイヤベガの作戦をなぞっていたころのシャカールは、自身が先行策で走っていた時の癖が抜けていなかったため、道中のコース取りや他ウマ娘との干渉でスタミナを余分に使い、最後方から差し切るだけのスタミナを残せていなかった。
中途半端にスタミナを削りながら後方で待機するのではなく、注意深く不用意なスタミナ消費を抑えながら先頭を捉えられる圏内に収め続け、最後の直線で末脚をフルに発揮する。その作戦が功を奏したのが、オペラオーに勝利した昨年のジャパンカップであった。
「器用な子……私は今さら、シャカールを真似るようなことをして、行き詰まっているというのに。」
「アヤベの能力なら、十分に打破できると思うよ。もちろん、私と競う時は、全力で勝たせてもらうけれどね。」
トップロードがそう返した言葉によって、ようやくアドマイヤベガの頬に小さな笑みが浮かんだ。
とはいえ、アドマイヤベガの場合はそう簡単な話ではないとも思われた。最終コーナーを回りながら大外から加速し続ける走り方は、翻せば爆発的な加速度を実現するのが苦手だということでもある。
最終直線のみで加速しようとした京都記念では三着、先行に近い走りを採った阪神大賞典では二着。アドマイヤベガの模索と苦心の跡が見える戦績であった。
一同が話し合っている内に中継画面内での準備は進み、いよいよ発走の時となった。
〈ゲートイン完了です……スタートしました!好スタートはエアシャカール、ですがウチを突いてハッピーパスが行きました。その外をトーホウシデン、トーホウシデンが先手を取りまして1番手、各ウマ娘、一周目の3コーナーを回っていきます。2番手は固まってきましてマチカネキンノホシ、外を回っているコイントス、ハッピーパスはウチ側で4番手、それとほぼ並んでエアシャカールという形であります。〉
「8名出走のうち5番手、けれど集団全体が詰まっているから先頭との差はそこまで無いね。」
スタートから最初のコーナーまでが短い中山レース場芝2500m、シャカールやマチカネキンノホシといったベテランウマ娘が揃っているだけのこともあり、早々と陣形が固まった様相を見ながらトップロードが言う。
コーナーを6つ回り、坂を二度登ることもあって、スタミナ管理の精度が問われる、ウマ娘としての総合的な能力が試されるコース。有馬記念と同じコースであるだけに、スタンドから浴びせられる歓声もGⅡでありながらひときわ大きく感じられた。
完全に想定通りの走りを実現できているのだろうエアシャカールの姿を前に、キングヘイローも拳を軽く握りながら喋った。
「シャカールさん、いい位置取りですわ。最ウチに収まることなく、先頭との間合いを離される前に理想とするペースで進めますわね。」
「一番ウチ側だとスタミナの消費も抑えられるけれど、前方との間合いを調整したくても外に出づらい……私が本番で意識しきれていなかった。」
キングヘイローの言葉を受けて、アドマイヤベガがじっと画面へ視線を注ぎながら言う。思い返しているのは京都記念での走り、彼女は最ウチに入ったまま、コーナーを回り切るまで前に出ることが叶わなかった。
最終直線で何者も寄せ付けない加速が可能ならば、コーナーを回るあいだ前が塞がれていても多少は取り返せるものの、先頭との距離次第では追い込みが間に合わないウマ娘にとっては致命的なハンデとなる。
自分が現時点で最長クラスのキャリアを有するウマ娘であっても、今の自分が学びきれていない部分を吸収しようとする姿勢がアドマイヤベガにはあった。
〈4コーナーをカーブ、スタンド前に入ってきます。先頭はトーホウシデンのまま変わらず、しかしリードは1バ身で2番手にはマチカネキンノホシ、コイントスが外から上がってきて並びかけました。ウチを通ってハッピーパス、全く下がりません、8名が固まったままスタンド前の直線を駆け抜けていきます。エアシャカールは中団、その外を突いてテンザンセイザ。歓声が上がります、後方から2番手にはペインテドブラック、あとは1バ身差で最後方にロードフォレスターです。〉
先頭からしんがりまで、タイム差にして1秒未満の間合いに収まったまま、集団はばらけることなく走り抜けていく。
ペインテドブラックも、またアドマイヤベガやナリタトップロードには因縁深いウマ娘であった。3年前にアドマイヤベガが勝利した東京優駿、そしてナリタトップロードが勝利した菊花賞、そのいずれにもペインテドブラックは参加していたのだ。
そして鷹木にとっても忘れられない名前であった。3年前、クラシック級だった頃のテイエムオペラオーが有馬記念の前哨戦として挑んだステイヤーズステークスにて、一着を獲られた相手だった。
「あの子、今もまだ本気で走り続けているのね……。」
「そう、本気だよ。先月も東京レース場のダイヤモンドステークスに出てた。これだけの戦績を挙げてるアヤベがヘコんでいたら、ペインテドブラックさんに噛みつかれちゃうよ。」
ナリタトップロードの言葉に、アドマイヤベガは改めて表情を緩めながら頷いた。
世紀末覇王テイエムオペラオーに勝利した数少ないウマ娘でありながら、ペインテドブラックは3年前のそのステイヤーズステークス以来、一勝も挙げていない。それでも諦めることなく走り続ける姿に、かけられる声援の量は少なくないようにも思われた。
〈淡々とした流れ、1コーナーへ入ってまいります、先頭はトーホウシデン変わらず、外を回りましてコイントス、2番手へと上がってまいりました。ウチをついてハッピーパス、その外並んでマチカネキンノホシ。エアシャカールはすぐ後ろ、コーナーのウチ側に入っています。テンザンセイザがその外を通りまして、まだウマ娘たちは一様に控えた走りといったところ。〉
確かにまだ仕掛けるにはゴールまで遠すぎる間合いとはいえ、スタート直後から地味に位置取りを変えたエアシャカールに気づいた鷹木が口を開く。
「完全にシャカールはコーナーのウチ側に入ったな。位置取りの調整が不要だと判断したのか?」
「かも、しれませんわね。どのウマ娘も、ほとんど互いに引き離されず、安定したペースで進んでいますもの。」
こうなれば、コーナーはウチ側を通ることで走る距離を縮めるに越したことはない。
落ち着いたペースで進む展開がずっと続いていたが、不用意な動きを見せれば自分だけがスタミナをロスさせられる羽目になり、仕掛けどころに遅れれば置いて行かれる。
その絵面の安定感とは裏腹に、走っているウマ娘にとっては一番精神面に堪える場面が続いていた。が、こういう場でこそ、エアシャカールの動揺とは無縁の性質が活きるものであった。
〈さぁ向こう正面へと入っていきます、トーホウシデンが先頭は変わらず、2番手のコイントスとの間合いは縮まって半バ身差、その外をマチカネキンノホシ3番手、1000mを通過。内側のハッピーパス、ほとんど差が無くエアシャカール前から5番手。全体がますます詰まってまいりました、先頭から最後方までの差はほとんどありません、800mを通過、いよいよ3コーナーへと入っていきます、最初に仕掛けるのは誰か。〉
先ほどからずっと無言の鷹木は完全にレース展開に呑まれてしまっていたが、状況がここに来るとウマ娘たちも同様である。
トップロードが口を開いたが、その言葉は短く詰まっていた。
「これ、ハイレベルだなぁ。すごく、研究しつくされた走りだよ、全員。」
「お互い1秒未満の差の中で、既に2000m近く走り続けているものね……。」
応えるアドマイヤベガも、目を見開いて中継画面に食い入っている。自分が走っているわけではないにせよ、最終直線前のコーナーに差し掛かる辺りでは否応なしに気が昂るものであった。
〈トーホウシデン、コイントス、2名並んで先頭でコーナーを回っていく、マチカネキンノホシも3番手ではあるがほとんど先頭と並んでいる、4番手には大外から、テンザンセイザが上がってきた!600mを通過、前が固まってきました、エアシャカールはまだ集団の中だ、先頭は4名固まっています、大きく外側に膨らんで、最後方からロードフォレスターも進出、残り400を通過です!〉
ここまで来れば、ウマ娘やトレーナーでなくとも、このレースのレベルの高さは一目瞭然といったところであった。
最後方から上がってきたウマ娘はコーナーの出口付近で集団が横に広がった際の隙間を縫って、抜け目なく前方へと踏み出してきている。ほとんどタイムの差が無い状況、差しや先行といった違いではなく、純粋な能力勝負の場となっている。
とはいえ結果的に8名、出走ウマ娘の全員が横に広がり……大外から上がって来ようとしていたウマ娘は更に大回りを強いられる形となってしまっていた。
「ウチ側に入っていて、正解ですわね、シャカールさん。」
「あぁ、こうなるのも、計算出来ていたのかな。」
キングヘイローの呟きに、トップロードは頷く。
ほとんど全員が並びかけるほどに近いタイムで走っていれば、最終コーナーから激化する競り合いは、ますます速度を上げることになる。速度を上げるほどに、コーナー出口における遠心力に引かれての膨らみは大きくなる。
エアシャカールはロジカルに算出した結果か、それを見越したようにコーナーの内側から僅かに外へでた程度の位置で前方を向いていた。
〈8名が横一線に並んで、直線コースへ向かいました!さぁ先頭はどうか、エアシャカール、コイントスさらにはマチカネキンノホシ、ウチを突いたのはハッピーパス、ちょっと遅れているかテンザンセイザ!さぁ先頭は横に広がって、コイントスかエアシャカールか、マチカネキンノホシ!前が並んだ!ずらっと並んだ態勢でゴールイン!これはどうでしょうか、一着は審議です!ほとんど差のないゴール、大接戦であります!〉
この場にテイエムオペラオーが居れば、ゴールの瞬間に立ち上がって喝采を送っていたかもしれない。いや、実際のところ、入院中の彼女は病床の上で今まさにそうしているかもしれなかった。
エアシャカールの追い上げは存分にスタミナを燃やし尽くし、ゴール前の上り坂でも減速の兆しすらなかった見事なものであったが、ほぼ横並びで駆け抜けていった他のウマ娘たちも彼女からまるで引き離されることのない脚を披露していた。
「……全員が、理想通りの動きを出来ていた。必然的に、能力は拮抗する。」
ようやく涸れ切った喉から声を絞り出すように鷹木が口を開く。
一瞬、誰が喋ったのか分からなかったのか、キングヘイローが僅かにギョッとしたように振り返り、鷹木の顔を確認して頷き直すと同時に返答する。
「えぇ、皆一様に、トレセン学園で練習し、大舞台へ出走するだけの能力なのですもの。純粋な走りであれば、並び立つのは当然ですわ。」
「差がつくとすれば、レースごとに誤ることの無い判断力か、あるいは並び立つ者のない脚の持ち主か……。」
アドマイヤベガが、ポツリと呟く。レースごとに判断をほぼ誤ることの無いウマ娘、たとえばすぐ隣にいるナリタトップロードなどは、その代表格であった。彼女は今なお、安定した戦績を残し続けている。
そして、並び立つ者のない脚。トレセン学園の歴史にも刻まれる優駿たち、その際だった能力が自分には備わっていないのかもしれない、そう信じることは耐えがたいことに違いなかった。
自分が自分でなくなる恐れを伴い、あの大外からの加速を行った際、アドマイヤベガにとり憑く何か……あれだけは、並び立つ者のない脚の持ち主ではないかとも思われたが。
〈掲示板、確定のランプが灯りました!一着はエアシャカール!エアシャカール、アタマ差で勝利です!ほとんど並ばれながらも、自らの能力を見事に証明しました!二着はマチカネキンノホシ、三着にはコイントスといった結果となりました!〉
「さすがだよ、シャカール。ほんの数センチ差で決まる勝敗、そこを詰められるウマ娘はそう多くない。」
「研究心の賜物ですわね、シャカールさんの為してきた勝利に向けての研鑽が着実に形を成していますわ。」
ナリタトップロードもキングヘイローも、実力が拮抗する中で更に一つ抜け出すこととなったエアシャカールの能力を褒めている。中継画面内にて喝采に応えているエアシャカールは、表情こそクールに保っていたものの両頬の紅潮はハッキリと映っていた。
その傍らで、アドマイヤベガが軽く俯き、自らの足元へと視線を落とす様に鷹木は気づいた。その眼差しは決して暗いものではなかったが、堪えきれぬ勝利への野心がその瞳の輝きの大半を占めているようでもあった。