地下バ道を抜けて控室へと戻ってきたヒシミラクルは、既に常通りの調子を取り戻していた。それは彼女特有の、身体的なクールダウンの早さだけの話ではない。
六着という結果を得て掲示板を見上げていた目には紛れもなく熱さが宿っていたのだが、日常的には力を抜いた振る舞いを続けてきた以上、今さらトレーナーの前で明確に悔しがって見せるのも調子が狂うのだろう。
今、彼女はゼッケンを外してテーブルの上に放りだしながら、椅子に身を任せて脱力していた。
「いやぁー届きませんでしたねぇー……まさか、あんなに前の集団、膨らむとはねぇー……。」
「あの状況なら仕方ないだろう。順位こそ前回より下だが、上がりは今回の出走メンバーの中では最速だった。条件や展開こそ違うものの、これまで走ってきたレースと比べても一番の加速だったんだ。手ごたえのある結果には違いない。」
「ちゃうんですよトレーナーさん。そりゃ私も本気出して走りましたけど、そんだけ必死になったあげく六着ってのは、やっぱ恥ずかしいもんですよ。必死になってるのは皆同じですけど……あぁー、届けばなぁー。」
喋っている内にレース中の感覚が戻ってきたのか、両目を手で覆ってのけぞり、ついでに背伸びをしてからダランと全身を弛緩させているヒシミラクル。
必死になって勝てなかったことよりも、先頭に届かなかったことを悔やむ思いの方が明確であったため、鷹木はヒシミラクルの心境面で心配することなどなかった。
今は両手両足を投げ出す形でだらしなく椅子の上にあるヒシミラクルの肢体も、着実に引き締まり、本番レースに堪え得る筋肉量を維持できている。他のウマ娘と比べれば、身長と胴回りのバランス上ふくよかに見られがちな彼女も、トレセン学園2年目の現在、ウマ娘が最も身体能力を高める時期へと差し掛かりつつあるのだ。
むろんそれは、日々ヒシミラクルを指導し、彼女の身体データを事細かに頭に入れている鷹木であればこそ把握できる事実ではあったが……だらしない恰好を続けているヒシミラクルに別な心配が湧き上がるのはすぐであった。
「ヒシミラクル、そろそろ着替えておけ。クールダウンも済んだことだし、半袖姿で居ては身体を冷やしすぎる。」
「でも、この後ウイニングライブですし、着替えなくても良くないですか?何時からライブの準備始まるのか知らないですけど。」
「まず準備開始するのが16時からだ。あと4時間近くは待機時間だぞ。」
「えぇー!?ほんまですか!?」
未勝利バ戦ばかりを繰り返しているヒシミラクルはあまり体験することのない状況であったが、同日の同じレース場、観客の大多数が注目するレースが行われる場合、ウイニングライブはその後に実施される場合がある。
レース場内にライブステージが組まれる場合は言わずもがなレースの邪魔になってしまうし、レース場に併設されたライブ会場で行われる場合も、幾万人もの観客たちの移動が煩雑になってしまうためだ。注目されるレースと時間が被ったウイニングライブにて、観客数が極端に少なくなってしまう事態も考慮されている。
「今日の京都レース場では、15時30分から都大路ステークスがある。ロサードやジョウテンブレーヴ、トレジャーにエイシンスペンサーといったベテランウマ娘が勢揃いするだけに、注目度は高いだろうな。」
「じゃあ、それまでに私らのウイニングライブ終わらせちゃうってのはダメなんですかね。今までの私の出走レースの後も、そんな感じでしたし。」
「そもそもレース主催側が決定したことを今さら覆せないって前提もあるんだが……都大路ステークスが始まる前にも、ダートレースが何本かある。それに何より、ウイニングライブの意図だってある。」
勿論、ウイニングライブ第一の意図は、レース場へと足を運んでくれたファンたちに向けての感謝を示す事である。一着となったウマ娘が、自分の得た勝利を心底から受け止めていることの表現でもある。
が、それと同時に、しばしば激闘となるレースを走り切ったウマ娘たちが全員、故障も不調もなく心身ともに健康そのものであることを示す場でもあるのだ。
ライブを行えるだけの体力を有しているのみならず、歌詞や振り付けを正確に記憶し実行できるだけの精神状態を維持している事。時に極限状態ともなり得るレースを乗り越えた後も、心的錯乱などに陥っていない証を自らのパフォーマンスによって披露することが重要である。
レースからウイニングライブまでに十分な時間が置かれるのは、走り終えたウマ娘たちに必要な休憩時間を設けるためでもあったが、時間経過によって悪化する症状が隠れていないか見極めるためでもあるのだ。
「時間はたっぷりある、じっくりと体を休めるためにも長袖長ズボンのジャージに着替えておくんだ。俺はスマホの着信履歴が溜まっていないか見るためにも、いったん控室から出て行くから。」
「分かりましたけど、私はライブまでずっと控室から出ちゃダメなんですか?え、4時間、ここに閉じ込められるってこと?うそやん。」
ヒシミラクルは眉間にしわを寄せて尋ねたが、その懸念は必要なかった。
ウマ娘レースでの規律が厳格だった一昔前は、ウマ娘だけでなくトレーナーも、ウイニングライブも含めた全行程が終了するまで自由行動が許されなかった時期もある。とはいえ、現在はそこまで厳密ではない。
……鷹木は、ヒシミラクルにその旨を伝えると同時に、注意事項を付け加えておくのも忘れなかった。
「昔とは違う、レース場そのものから出て行かなければ、ある程度の自由行動は許されてる。……とはいえレース場内のフードコートで立ち食いはダメだぞ。」
「えー、それも禁止されてるってんですか?」
「そうじゃない、次のヒシミラクルの出走レース、もう登録の目当てはつけてあるんだ。5月26日、ダービーと同じ日に中京レース場の未勝利バ戦の出走枠が空いてる。今日から3週間後だ、カロリー摂取に無駄を出してる余裕はない。」
鷹木からの注意に、ヒシミラクルは至極残念そうな表情を浮かべはしたものの、目の奥まで失望で染められたわけではなかった。
買い食いの機会よりも、今度こそデビューできる機会を得る事のほうが、今のヒシミラクルには大きな価値を見出せるものであった。
とはいえ、何だかんだでダラダラ過ごしているほうが性に合っているミラ子は、結局ジャージに着替えた後も気晴らしにぶらぶらと立ち歩いた以外はほとんどの時間を控室内で過ごし、レース中継しか視聴できない室内のテレビを眺めるのみであった。
砂煙を巻き上げて競うダートレースの迫力も彼女の視線を釘付けにしたが、やはりベテランがそろい踏みした都大路ステークスの様相にはおのずと昂揚させられるらしかった。
〈残り200を切って先頭はパープルエビス!これはセーフティーリードか!外から上がって来たジェミードレス、ウチを突いてサイキョウサンデー、中で粘っているロードキーロフ並んで2番手争い!さらにはエイシンエーケン、しかし先頭はもはや独走状態、パープルエビス!後続との間合いを2バ身以上保って、今、パープルエビスが悠々と一着で勝利しました!逃げ切りましたパープルエビス!〉
その日の都大路ステークスを制したのは13番人気のパープルエビス。人気どころを抑えての大番狂わせに、レース場内は大いに沸いていた。
とはいえパープルエビス自身も相応の実力者には違いなく、クラシック級の年にはエアシャカールやアグネスフライトらと皐月賞および日本ダービーで競った経験もあるウマ娘だ。
ヒシミラクルは自販機で買って来た紙パックジュースのストローを鳴らして吸いながら、感嘆の声も上げていた。
「おぉおー、なかなかお目にかかれませんけれど、やっぱ最後まで先頭に立ち続けて逃げ勝つってのは、映えますねぇー。」
「逃げだって単純な作戦というわけじゃないからな。今のレースも、パープルエビスがレース全体のペースを上手くコントロールできた結果だろう。後続の面々が殆ど並んで2番手争いしていただけに、牽制しあって動きづらい状態だった。」
「にしても13番人気から勝っちゃうだなんて気持ち良いでしょうねぇ、私が真似しようとしても、まぁ13番人気にはなれるでしょうけど。」
「冗談には収まらないだろ。その状態から勝つことだって、ヒシミラクルになら十分に出来る。」
「いやいやいやそんなそんな……」
冗談めかして喋っているヒシミラクルであったが、彼女ならば低い人気度から出走して一着をかっさらうという芸当も十分に可能だろう……と鷹木は考えていた。
そんなやり取りを続けつつも、鷹木は席を立ち……リモコンが備えられていない古臭いモニター脇についているツマミを回し、チャンネルを切り替えた。
「あれ?そろそろウイニングライブの準備に行かなくていいんですか?あと30分ぐらいで16時ですけど。」
「準備開始が16時だ、そこまで急がなくてもいい。それよりも、タキオンから『必ずヒシミラクルに見せるように』と再三言われているレースがある。」
先ほど、一旦外に出て、控室では使用禁止されているスマホの着信履歴を確認した時も、タキオンが繰り返しメッセージを送りつけてきていた。
ヒシミラクルに見せるべきレースは、都大路ステークスの数分後、こちらは東京レース場で行われるNHKマイルカップである。
「あー、ギムレットくんが出走するっていう。確かに、これも見逃しちゃダメですねぇ、どっちにしろニュースで何度も放送されるでしょうけど。」
「タキオンいわく『結果が分からない状態で観戦することに意味がある』とのことだ。どの位置のウマ娘が、どれだけ上がって行けるのか考えながら見るのは、間違いなく勉強にはなるからな。」
おそらくアグネスタキオンが言いたかったのは、未確定のレース結果、可能性の干渉を待つ状態を観測することこそ有意義だ……とのことだったろうが、鷹木はヒシミラクルに理解できるような説明に置き換えていた。
既にゲート入りがあらかた済んでいる画面内、タニノギムレットは言うまでもなく1番人気である。
〈初夏を感じさせる陽射しの注ぐ中、NHKマイルカップ、いよいよ発走です。東京レース場、芝1600m、全ウマ娘の体勢完了……スタートしました!揃いました、先行争いは外からメジロマイヤー、ウチを突いてはスペシャルストック、スペシャルストックが先頭へと行きました。そのウチからはゲイリーファントム2番手、後は固まって1バ身差、エンドレスデザート、スターエルドラードといったところ。1番人気タニノギムレットはぐっと下げた位置、後方から5番手あたりを追走しています。〉
18名立てのレース、9枠という囲まれやすい位置からのスタートとなったタニノギムレットは、1番人気ゆえのマークを巧みにかわしてするりと後方へ位置どっていた。
マイルの距離を走り抜くスピードが重要であることは大前提なレースであるが、東京レース場の芝1600mコースは、緩やかな下りでスピードに乗った向こう正面の出口に上り坂があり、すぐ下りながら3コーナーへと入る。
「レース全体を通してハイペースで進みがちだから、マイルとはいえ持久戦に近い状態になる。ギムレットも後方に控えたし、これは追い込み勝負になりそうだな。」
「クラシック路線のダービーにも出走するって言ってただけに、マイルと中距離の両方で勝つつもりなんですかねぇ、ギムレットくん。」
マイル路線とクラシック路線、両方のGⅠで勝ちを狙いに行くというハードすぎるローテーション。
とはいえ、それを成し遂げたウマ娘の存在が、ウマ娘の歴史に消え難く刻まれるだろうことも鷹木は理解していた。ヒシミラクルの未勝利バ戦出走日程を、5月4日と5月26日……すなわち、NHKマイルカップと日本ダービーの同日に合わせたのも、これを意識したことが少なからず原因としてあった。
〈ウチからはキネティクス、そしてサードニックス、外からはカフェボストニアンが上がっていきました。さらには中団前にはタイキリオンが追走していきます、あとは1バ身下がりましてウチを突いてビゼンスバル、そしてタニノギムレット、後方から4番手のところであります。後はメジャーカフェ、3コーナーをカーブ。後はマヤノサリーダ後方から3番手、カノヤバトルクロスが居て、最後方にはアグネスソニックです。残り800を切りました、〉
やはり全く息をつく暇もなく、先頭から最後方までぎっちりと詰まった密集隊形のままにウマ娘たちは3コーナーを回っていく。
この控室に置かれている古い型のテレビ画面越しにでは、むろん走っている最中のウマ娘たちの表情は読み取れなかったが……既に、最後方から集団を見やっているタニノギムレットの余裕が伝わってくるようだった。
「無理なく回っていきますねぇ、ギムレットくん。今回も勝ち確定、ですかね。」
「いや、この前のスプリングステークスでギムレットにせまったビゼンスバルもいる。ギムレットの独走ってわけにもいかないだろう。」
先行争いに加わることなく、最後方に控えている面々もまた、ギムレットとほぼ変わらぬペースで脚を進めていることに変わりはない。
一切の失策が無ければ、実力が拮抗し合う。それは同じレースに出走できるだけの能力を有している者たちが競う以上、必然である。
〈先頭はスペシャルストック、リードは半バ身、2番手にはゲイリーファントムで、ウチを突いてメジロマイヤー、そしてエンドレスデザート、残り600を通過!あとは外を回ってカフェボストニアンさらにスターエルドラードが追走、さらにはタイキリオンといった形で、いよいよ4コーナーを抜けて直線へと向かいます!まだバ群の中、後方に居りますタニノギムレット!さぁこれから400の直線ですが先頭は入れ替わってゲイリーファントム!〉
直線に向いた時、集団は横に大きく広がっていた。
確かにそこには抜け出せる隙間はあったものの、ゴールへ向かうタニノギムレットの直線上には他のウマ娘の姿もあった。即ち、それを交わしながら追い込んでいかなければならない。
「わー、厄介な所にいますよ、あれを交わしてからゴールって、行けますかね?いやギムレットくんなら、行けちゃいます?」
「だいぶ厳しいだろう、アグネスソニックの方がもっと良い位置についてるし、ビゼンスバルが抜け出したら、そのままタニノギムレットの前に来る。」
鷹木が言っている傍から、画面内ではゴールへと向かうルートへ抜け出したビゼンスバルの姿が、ちょうどタニノギムレットの進行上にあった。
タニノギムレットは十分に追い込む余裕もあり、ひとたび抜け出せば勝つには申し分のない走りを発揮しただろうが、このままでは厳しい状況だ……鷹木も、東京レース場の観戦スタンドを埋め尽くす観衆も、そう考えていた。
しかしギムレットは特異点だった。まるで、ビゼンスバルが自分の進路上に出てくることを予見していたかのように、彼女に並ぶコースへと既に出ていたのだ。
〈全体大きく横に広がってきた!上がってきたカフェボストニアン、更には外から懸命に追い込んできたのは、アグネスソニック!間からはビゼンスバルが抜け出して先頭!メジャーカフェ3番手、ようやく追い込んできたタニノギムレット!残り100mもない!3番手から上がってくるタニノギムレット!これは速い、先頭に届くか、届くか、届いたゴールイン!!タニノギムレット、一着でフィニッシュ!マイルのGⅠで勝利を獲たタニノギムレット!日本ダービーでの走りに、早くも期待がかかります!〉
最後方、完全に前を塞がれたかと思われた状況から抜け出しての勝利。東京レース場が幾万人もの大歓声で震えたのは言うまでもない。
京都レース場の控室に備えられた古臭いテレビのスピーカーは、その大歓声を捉えきれずにノイズまみれとなっていたが、まもなく画像も乱れ始め、電波障害でも起きたのかブツリと切れてしまった。
タニノギムレットが腕を突き上げて歓声に応えている様を食い入るように見つめていたヒシミラクルは、突如真っ暗な画面に自分のポカンと口を開いた顔が反射して見え、興ざめの様子であった。
「あれー?いい感じの所だったのに、このぼろっちいテレビ壊れちゃったんでしょうか?」
「いや、そんなことはない……と、思いたい。」
改めて電源を付けた鷹木は、チャンネルのツマミをあちこちに回し、他の中継番組がきちんと映るのを確認して胸をなでおろしていた。レース場の備品を壊してしまったとなれば、報告も厄介である。
……しかし、何故か東京レース場の中継チャンネルだけは、どうしても表示されることがなかった。
「あれだけの名レースですし、アクセスが集中しすぎてサーバーがダウンでもして、繋がらなくなったんですかねぇ。」
「そんなネット中継じゃないんだから……」
いまどきの感覚を披露しているヒシミラクルに返答しつつ、鷹木は妙な胸騒ぎを覚えていた。
以前も、おそらく特異点と思われるウマ娘の出走するレースでは、遠隔からの中継が繋がりづらくなったり、ネット経由での配信が一時的に表示されなくなったりと、奇妙な異変が併発していた。
今回のタニノギムレットの勝利も……アグネスタキオンが言うところの「可能性世界」でのレース結果を逸脱する事象だったのかもしれない。
「ま、レースの結果だけは見れたんで満足です。いやぁ、あそこから勝っちゃうだなんて、やっぱギムレットくんは今世代最強ですね!」
「その世代にお前もいるんだから、ノンビリしてる場合じゃないんだがな。ともあれ、そろそろ出発するぞ、着替えてウイニングライブの準備だ。」
ノンビリ喋っているヒシミラクルに着替えるよう急かし、鷹木は一足先に控室を出る。
先ほどの現象は奇妙であったが……裏を返せば、タニノギムレットは確かに可能性世界からの干渉に流されない実力の持ち主でもある、ということになる。
既定されていた結果を覆された、この世界の反応も不気味であったが、常日頃からの言動通りの力を示したギムレットのことを、心強く感じる思いも同時に鷹木は抱いていた。