ノーリーズンとの合同練習を行ってからさらに一週間、念入りな最終調整を済ませたヒシミラクルは、中京レース場にて通算10走目となる未勝利バ戦へと挑む。
トレセン学園2年目、もはや5月の末。ここまで来てまだデビューできていないウマ娘が、なおもレース現役を諦めないのは相当な覚悟あってのことである。出走前のウマ娘たちが詰めている控室の並びにも、どことなく悲愴な空気が流れているようであった。
一方のヒシミラクルはほどよくリラックスできている様子であったが、それはいつもの図太さ故ばかりではない。今まで繰り返してきた練習と実戦の成果として、着実に勝利を必然へと引き寄せている実感があったためだ。
運動服に着替えたヒシミラクルのゼッケンが外れないようしっかりと装着されているか確認しつつ、鷹木は言葉を掛ける。
「前回、前々回のレースで、ゴール前まで来て先頭に届かない流れがどういうものか、充分に体感できているはずだ。今回のレースは2000m、これまで以上に余裕がある、確実に追いつくんだ。」
「はいはい、何べんも繰り返してきた作戦の通り、ってとこですね。でもトレーナーさん、最初っから2000m以上の未勝利バ戦に出走させてくれてたら、こんな長引かなかったと思うんですが。」
「余裕があると分かったら気を抜くだろう、ミラ子は。」
「まぁ、それは、ね……。」
否定することもなく、ヒシミラクルは席を立つ。まだ先がある、まだ本気を出さなくていい、そう意識したが最後、走りを緩めてしまう実感を、彼女自身が抱くところまで既に来ていた。
それに加えての、一着でゴールすることに対する執着心。そこそこのトレセン学園在籍中の実績を手土産に進学だけしようと考えていた彼女も、目の前で他のウマ娘に先着される経験を繰り返す中で、何も思わずにいられはしない。
鍛えてきた実力とメンタル面、その双方が掛けた時間の長さのぶん、丁寧に整えられたのが現状のヒシミラクルであった。
「それにこの場所、中京レース場の2000mとなればますますヒシミラクルくんと相性は良いだろうねぇ!スタート直後から100m近くの上り坂があるだけに、序盤のペースは落ち着きやすい!エンジンが温まってくる向こう正面の中ほどから長い下りが始まる、スローペースは先行有利と言われがちだがヒシミラクルくんならば易々と駆けあがって行けるだろう!」
「分かってますって、コースの性質だってさんざん確認したんですから、これまで……」
鷹木の言葉に続いて、猛烈な早口でまくし立てているのはアグネスタキオンである。後輩ウマ娘が今度こそデビューへと手を届かせる、そんな濃厚な予感を膨らませ、出走するヒシミラクル以上に興奮が止められない様子であった。
本来は、まだ脚が万全の状態とまでは言い切れないタキオンはトレセン学園にて待機させる予定だったのだが……補助用の杖さえ手にしていれば歩くのに難はないところまで回復していたこともあり、何よりもタキオン自身の熱望に押し切られ、ここ中京レース場にまで同行を許したのだ。
それに、ヒシミラクルの出走を待ち望んでいるのは間近の面々ばかりではなかった。パドックでのお披露目時、ヒシミラクルに声を掛けるファンの数も少なくはなかったのである。
控室の扉を開けてヒシミラクルを送り出しながら、鷹木は告げる。
「応援してくれるファンの中にも、前のレース場で見かけた顔ぶれが何人か居た。観客の目線からも、手ごたえは感じられてるってことだ、ヒシミラクル。」
「まー、9レースもしていれば奇特な方も集まってくるともいえましょうかね……」
「何を言うかねぇ!真っ当な評価じゃないかヒシミラクルくん!前回のレース、あの最後方から駆け上がっていく末脚、普段のキミのゆるい雰囲気からは想像もつかぬ魅力を発揮したと言っていいだろう!その本領発揮を、このレース場でこそ行えるというわけだ!」
「あんま興奮しすぎて脚ぶつけたりしないでくださいよー、タキオン先輩。」
興奮が落ち着くどころか、レースの発走時刻が迫ると共にボルテージが上がっていっている模様のアグネスタキオンからも激励を受け取って、ヒシミラクルは地下バ道へと進んでいった。
どうにか喋りを落ち着かせたタキオンを連れて、鷹木もレース場観戦スタンドの最前列、トレーナー用ブースへと出る。
観客席は、やはりというか空席の目立つ様子であった。言うまでもなく、今日、5月26日は東京優駿、日本ダービーが行われるためだろう。
それでも中京レース場に足を運んできた疎らな観客はこの未勝利バ戦を待つ間もスマホ画面ばかりを注視し、今年のダービーで頭がいっぱいの様子である。パドックで推しのウマ娘に向けて声援を上げていた観客たちだけは、まもなく出走となるターフに視線を遣っていたが。
時おり、最前列のブースに昨年度皐月賞ウマ娘アグネスタキオンの姿を発見した観客が、驚きとともにスマホカメラをこちらに向ける。タキオンの側も、雑に手を振る程度という彼女なりのファンサを返しつつ、少々低めた声で鷹木に告げた。
「ヒシミラクルくんの晴れ舞台が注目されないのも何だが、しかし今年のダービーに関心が集まるのも致し方ないねぇ。タニノギムレットくんが、やはり1番人気だろう?」
「そりゃまぁ、圧倒的に、だな。2番人気は皐月賞を獲ったノーリーズン、そして3番人気にようやく本格化を迎えたと見られるシンボリクリスエスだ。」
「ギムレット一強かと思われた今世代に2名が加わり、三強の構図になりそうだ、ともなればますますファンも白熱するだろうねぇ。三冠を誰かが独占するか、あるいは二冠を獲るか、三つ巴となって分かち合うか……ヒシミラクルくんがそこに入れば、四強となるがねぇ!」
「ミラ子を担当する身としては、そうなってくれれば言うことなしだが、さすがに現状から食い込むってのは断言できないな……。」
地下バ道から姿を現して出走ゲートへと向かっていくウマ娘たちの中、ヒシミラクルが悠々としているのを見ながら鷹木は呟いた。ギラついた競争相手たちに囲まれながらも、やはり彼女は平常心のままであった。
自分たちと同じ世代のウマ娘が日本ダービーへと出走する日に、こちらは未だ一度も手にしていない初勝利を渇望し、出走する18名。
ずらりとスターティングゲートに並んだ彼女たちに睨まれたターフが、しんと静まり返ったようになったのも、鬼気迫る闘志にあてられたためだろう。
〈中京レース場、5月26日、第2レースは天候晴れ、バ場状態は良となっています。芝2000m、未勝利バ戦の出走者がゲート入りを済ませ、まもなく発走となります。全ウマ娘体勢完了……スタートしました!まずまず揃った形で一周目の坂を上ってまいります18名、果敢にハナを取ったのは10枠のミラクルイチコー、更に大外からユタカジェニオが2番手へと付けました。あとは今回1番人気のメイショウノビノビが3番手、続く4番手はウチをついてロングキングダムが上がってきます。〉
上り坂からスタートするレースのセオリー通り、先頭に立って逃げるウマ娘もそこまで大きくリードせず、ペースは速まらない。
ペースが緩んだ状態で続くのは、先行寄りのウマ娘に有利となりがちな展開であったが……後方につけているヒシミラクルにとっても、悪くない状況ではあった。
「いいねぇ、外枠から出たものの、そこまで後ろに追いやられる流れではなさそうだ、ヒシミラクルくん。」
「あぁ、スタートダッシュを幾度も鍛え直したこともあるが、中団の内には収まっているな。あそこまで前目につけられれば心配はない、あとは巻き込まれずに上がって行けよ……!」
1番人気のウマ娘が先頭を追う位置につけたため、先団から中団先頭に至るまでの位置に多くのウマ娘が殺到している。
自分がマークされていないおかげで、ヒシミラクルは中団の外側、コース取りを妨害されづらい位置につけることが出来ていた。まずはひとつ、勝利を必然とする布石が積まれた。
〈坂を上って1コーナーへと入っていきます。先団を追う形でステイブルエース5番手、ほとんど並んでフォレストサンディ、ウチを突くようにハイパーホーラー、そのすぐ後にアルマブライアン追走、この辺りぐっと詰まった隊形です。外を回ってヒシミラクル、ウチを突いてフジノラピュタ、そしてタマモゴーオンが外に並びかけ、マーベラスダンディ、あるいはヨロコビノサイフが続きます。後方集団にはホクザンプレジャー、さらにスーパーマグナムといった形となっています。〉
中京レース場の1コーナーから2コーナーは、3コーナーから4コーナーにかけてのスパイラルカーブに比べても半径が小さく、また上り坂が続いているためスピードが出しづらい。
その条件もまた、ヒシミラクルにとっては追い風となっていた。殺気立って前へと詰めかけていく集団の、さらに外を回らされながらも、十分についていくことが出来ていたのである。
「いいぞ、その位置をキープして……向こう正面から仕掛けていけ、ミラ子の作戦に気づかれても付いてくるウマ娘は居ない。」
「皆、1番人気のマークに必死だろうからねぇ。それに、高低差2メートルのゴール前の坂を越えるためには、向こう正面で脚を使おうとする選択肢も無いだろうからねぇ。」
未勝利バ戦としては、比較的ハードなコース。上り坂を走りながらコーナーを2つ回るのも含め、1700m近くを駆け抜けた上で高低差2メートルの坂を駆けあがらなければならないのだ。
ペース配分をミスすれば、ゴール直前で一気に失速する様を披露する羽目になる。ベテラン揃いのレースならばまだしも、未勝利バ戦で変則的な作戦を選ぶ者はまずいないだろう。
〈向こう正面に入りまして先頭かわらずミラクルイチコー、2番手ユタカジェニオがじわじわと先頭との差を詰めていく、3番手メイショウノビノビ、ほとんど並んでロングキングダムといった形ですが、ここで外からヒシミラクルが徐々に前へと出て行った!残り1000mを切って、ようやく向こう正面の上りを越えたあたりですが、ここでヒシミラクルが上がっていく!ステイブルエース、フォレストサンディを交わして、4番手あるいは3番手あたりにまで上がりましたヒシミラクル!〉
関心事が日本ダービーばかりに向いていた観客席からも、ここで大胆な策に出たと見られたヒシミラクルの走りにどよめきと歓声が沸き起こる。
競争相手のウマ娘たちからも、無謀な作戦、あるいは焦りによる掛かりかと見られたのか、上がっていくヒシミラクルに追随しようとする動きは見られない。
「そこまで上がって……そう、その位置をキープしてコーナーを回り切るんだ。無理をして前を塞がれてもダメだ、大外を回る形を作っていけ、ミラ子!」
「誰もヒシミラクルくんを警戒視していないから、先頭まで行ってしまっても問題はなさそうだがねぇ。とはいえ、より上のクラスのレースに出ることを考えれば、作戦の遵守も必要だねぇ。」
いよいよ最終コーナーへと向かっていくレースを眼前にして熱が入りつつある鷹木とは逆に、タキオンはもはや勝利の可能性が必然へと変わる様を確信したのか、むしろ冷静になっていた。
いつも、探求者たる彼女を熱狂させるのは、未だ確定し得ない可能性を見出した時であった。
すなわち、すっかり落ち着いた眼差しでレースを見ているタキオンの姿は……そのままに、ヒシミラクルの勝利を意味するも同然であったのだ。
〈3コーナーを回っていきます、残り800を通過。先頭はミラクルイチコー、並んでユタカジェニオ、そのすぐ外を回っていくヒシミラクル!ウチを突いてロングキングダム、フォレストサンディ、さらにはフジノラピュタが前へと詰めていきますが、ここでヒシミラクルが外を回ってさらに上がっていく、現在2番手!掛かり気味でしょうか、あるいは勝機を見出したか!残り600、間もなく4コーナーを抜けて直線へと向かいます!〉
これが未勝利バ戦ということもあって、大方の観客たちの反応は純粋な歓声よりも、大胆な走りを見せるミラ子に対するどよめきによって占められていた。
中京レース場は、最終直線に入ってからが苦しい。400m以上の距離があり、そのうち100m足らずの区間で一気に2mを駆けあがらなければならない。そのことがすっかり頭から抜け落ちたウマ娘が、気の早いラストスパートを掛けてしまったのではないか、と。
しかしヒシミラクルにとっては、作戦通りであった。間もなく、さらなる加速を始めたヒシミラクルを前にして、鷹木は熱く、タキオンはますます冷静に、このレースの決着の瞬間が迫る様を見つめていた。
「行ける!!ミラ子、行け!!もう誰も追いつけないぞ!本気で行け!!!」
「6月にもすぐ出走するのだろうから、疲労についても考慮してやりたまえよ。……まぁ、初勝利ぐらいは、思うがままに気持ちよく駆け抜けたって、悪くはないだろうがねぇ。」
タキオンの言った通りの思いを、ヒシミラクル自身も確かに抱いていた。
自分の前には、誰もいない。傍らで響いていた競争相手達の蹄音は、後ろへと遠ざかっていく。疲れも抵抗もなく、飛ぶようにターフが自分の足の下を去っていき、考える間もなくゴールラインが迫ってくる。
(うわ気持ちいい、一番先頭だ。これ経験できないの、もったいないなぁ……去年までの私、思いもしなかったなぁ。)
今年に入って自分の進路希望を決定するはずだったあの日、教室にアグネスタキオンが押しかけてきた日、そして鷹木トレーナーのもとへと連れていかれた日。
当時は夢か、何かの間違いかとまで感じた、あの瞬間に生涯の路線が切り替わったことを、今は大いに得難い機会だったのだと自然と彼女は理解していた。
そして何よりも、ぼんやりとしか考えていなかった自分という存在、「ヒシミラクル」が、何になり得るかを実感する瞬間も、間もなく訪れる。
〈400を切って最後の直線へと向きました、変わらずヒシミラクル先頭!後方から、メイショウノビノビが上がってくる、更に大外、最後方から一気に上がってくるのはサクラファラオーだが、ヒシミラクル先頭でリードを広げていく!残り200を切って、上り坂でも脚色は衰えない!ヒシミラクル先頭でぐんぐんと上がっていく、リードは2バ身、いや3バ身!これほどまでの走りの持ち主が、今日ここにきて現れた!ヒシミラクル、今先頭でゴールイン!余裕の勝利です、ヒシミラクル!!〉
もはや中京レース場の観客全員が、ヒシミラクルの走りに釘付けとなり、そしてゴールの瞬間に大歓声が沸き起こっていた。
ここに至るまでが、あまりに着実に成果を積み重ねてきた結果であったため、さすがのヒシミラクルも自分の勝利を実感するのにさして躊躇は無かった。
それでも、結果をきちんと受け止めるために彼女は深呼吸を一つ済ませ、走りを減速させながら観客たちに向かって手を振った。
一方、観戦スタンドの最前列、トレーナー用ブースにて、指先が真っ白になるほどに強く手すりを握り締めていた鷹木。
ヒシミラクル一着とともに確定のランプが灯った掲示板を確認したのち、へなへなと床に崩れ落ちた。背中のシャツが冷や汗でべったり張り付いている様にも、今になってようやく気付いた。
「こらトレーナーくん、気持ちは分からないでもないが、キミが腰砕けとなってしまっては誰が私をトレセン学園まで連れ帰るんだい?少なくとも、私はキミの介抱など出来ないねぇ、ただでさえ杖をついて歩いているのだからねぇ。」
「分かってるって……あぁ、勝った、勝ってくれた、ミラ子……。」
「そんなギリギリの勝利ではあるまいに。ヒシミラクルくんは確かな実力を身につけ、限りなく必然に近づいた勝利を手にしたじゃないか。これからが、彼女の本当のレースの始まりだねぇ。」
タキオンの言うことは尤もであったが、鷹木にとっては重い意味を持つ、担当ウマ娘の勝利であった。
何しろ、彼の担当ウマ娘はアグネスタキオン、その前はテイエムオペラオーだ。共にトレーナーの指導力云々よりも、元から有している能力が飛び抜けているウマ娘であるがゆえに勝利を獲ることが続いていたのである。
トレーナーとして未熟な自分を実感することに変わりない日々が長らく続いたうえで……ここにきて、ヒシミラクルを初勝利に導けたという実感がようやく湧いてきたのだ。
実際に鷹木も一緒になって走ったかと思われるほど、全身汗びっしょりになっている様子を見ている内に、タキオンもそんな彼の胸中に気づいた。
「その気持ちは分かるがねぇ、しかしトレーナーくん。ヒシミラクルくんとて、元より稀有なる身体能力の持ち主には違いないのだからねぇ。あの無尽蔵とも思われるスタミナこそ、最大の武器となるねぇ。」
「あぁ。ミラ子なら、今からでも目指せるはずだ、クラシック路線へと殴り込んで、四強の一角になってやろう。」
「勝利を目の当たりにしたからって、今度は強気になり過ぎだねぇ。そのクラシックの二冠目が本日行われるのも、忘れたわけではなかろうねぇ?」
内心も外面も、誰よりも勝利の興奮に沸き立っている鷹木を連れて、レース前とは対照的な様子でタキオンは彼と共に控室へと向かい、ターフ上から帰ってくるヒシミラクルを出迎えたのであった。