売布特別での圧勝、自分の強みを最大限に活かして披露した5バ身差での勝利は、ヒシミラクルにとっても大きな自信に繋がった。
未勝利バ戦で勝ったときとは違い、地元新聞の記者とはいえインタビューのマイクを向けられた時には、少々照れながら、注目され慣れていない性格を垣間見せつつ控えめな振る舞いを見せていたヒシミラクル。
しかし彼女は率直なウマ娘であった。仁川の駅から在来線で大阪へ、そして新幹線に乗りかえるため新大阪の駅ビル内を歩いている頃には、自然と顔がニヤけるのを止められない様子であった。
「ねぇねぇトレーナーさん、お土産にタコ焼き買って帰りましょタコ焼き。大阪名物言うたらタコ焼き、ですよ。まぁ、持ち帰る余裕があるならお好み焼きでもいいんですけど。」
「いくらなんでも、東京まで戻るまでに冷えるだろ。」
「お土産用の冷凍されたやつでいいじゃないですかぁ、もちろん焼きたてを買って、新幹線の中で冷めないうちに食べるのも、あり寄りのありですけどねぇ。」
「ソースの匂いで周りに迷惑になるかもしれないじゃないか……分かった、分かった、お土産コーナーから冷凍のを選んで来ていいから。」
まだまだ条件戦クラスに過ぎないウマ娘ながら、それなりに著名となりつつある自覚ゆえか帽子を深く被った姿で、しかしウキウキとした足取りで駅ビルの土産物コーナーへ踏み入っていくヒシミラクル。
予約した新幹線に乗り込む頃には、ヒシミラクルの勝利祝いだと思って大目に見ていた鷹木は大きな箱がぎっちりと詰まった紙袋を抱えさせられ、想定以上の出費を強いられた状態となっていた。
「あーでもタキオン先輩は、甘いもののほうが好きだったかなぁ。トレーナーさん、東京駅に着いたらお菓子とお紅茶のお土産も買って帰りません?」
「これ以上は勘弁してくれ、俺の財布も、荷物持ちの腕も悲鳴を上げてる。」
「お財布に関しては心配無用ですよ、これは先行投資って奴です、私がGⅠを勝てば桁も比べ物にならないほどの賞金がドカッと入ってくるんですよ。」
「詐欺みたいな言い方をするんじゃない、担当トレーナーの立場としてはその目論見を否定できるはずもないし。」
練習時には自分がGⅠに出走するなど夢物語だ、と身の丈に合わせた物言いをしていたヒシミラクルも、この昂揚状態であればサラッとGⅠ勝利を我が物としたかのように口走っていた。
日が落ちるのも遅い6月、その後もヒシミラクルは窓外を流れる夕映えの景色を見つめながら、興奮冷めやらぬ様子でペチャクチャと喋っていた。が、新幹線が大阪を発ってまもなく眠気が勝ってきたのか、寝息をたてはじめた。
少々浮かれ過ぎな振る舞いも、興奮が落ち着いてきたら押し寄せてくる疲労に眠り込んでしまう様も、確かに等身大、普通のウマ娘らしい挙動であった。
「大舞台でのレースに勝った後、落ち着き払っていられる連中は、やっぱ普通じゃないんだな……。」
アグネスタキオンやマンハッタンカフェなどは生来の性格もあったろうが、今年のダービーを制したタニノギムレット、皐月賞ウマ娘となったノーリーズンもまた、勝利時には大観衆の前で喜びを表したものの、このヒシミラクルほど浮かれ切った顔は見せていなかった。
GⅠウマ娘たちは軒並み、普通のウマ娘と比べ頭一つ抜けた精神性を有しているものだと、今さらながらに鷹木には感じられた。ならば凡庸なヒシミラクルは、彼女らの仲間入りなど出来ないのか……?
「いやいや、精神面も疎かには出来ないが、そもそもレースの勝敗を決めるのは身体能力、作戦の的確さだ。必ず、今年中にはヒシミラクルをGⅠのレースへ出走させる。」
腹の内で決意を固めた鷹木であったが、そんな決意はミラ子がようやくデビューを果たした頃にはまずもって思い描く事すらできない、大それた目標でもある。
既に自分もまた、今日のヒシミラクルの走りに酔わされているのかもしれないと感じた。ギムレットが鮮烈な走りを見せつけたマイルカップやダービーと並べられる舞台ではなかったが、それでも存分に魅せられる走りだった。
隣席では、そんなヒシミラクルが可憐さとは程遠いイビキをかきはじめていた。
その翌日、世間では待ちに待たれた宝塚記念の出走日であったが、十分に睡眠と腹ごしらえも済ませたミラ子のスケジュールにはトレーニングが詰まっている。
今年の夏は、長期間の合宿をじっくりと行っているわけにもいかない。5月末のデビュー、その後の二勝目が6月とまでずれこんだウマ娘にとっては、強豪の出走しない夏こそがいちばんの正念場である。
とはいえ、あれだけの走りを見せた本番レースの翌日、いかに頑丈で持久力のあるヒシミラクルとて無茶な負荷はかけられない。そのことを鑑みて選択されたのは、プールでのトレーニングだった。
「脚への負担が軽く、心拍数も陸で走るほど上がらない。水圧で抑えられるから呼吸も深く遅くなり、元よりミラ子が長けたスタミナ面の強化にもつながる。十分に気温も上がってきたことだし、リフレッシュも兼ねて頑張っていこう。」
「えぇと……もともとスタミナには自信あるんで、別にやらなくてもいいんじゃないですかね?」
トレセン学園内のプール訓練施設は、空調ならびに温水機能も充実しており、季節に関係なく年中通して利用できる。
が、全身が濡れることによる身体への影響や、外気の低温や乾燥を前提として走る秋季や冬季を重視する鷹木としては、プールトレーニングを行う時期は慎重に選びたかった。足に不安を抱えるタキオンのトレーニングでも、プールに行ったのは数えるほどしかない。
今もタキオンは機器の備えられたトレーニングルームで筋力トレーニングを行っており、水着に着替えてここに居るのはヒシミラクルだけである。
そして、着替えてくるまでは良かったものの、ヒシミラクルはいざプールを目の前にして渋り始めた。
「どうしたんだ?事前のアレルギー検査では問題なくプールに入れると判断されたはずだったが。それとも、溺れた体験が過去にあるのか?」
「いやいやもちろん、入るだけなら問題ないんですけどね……私、苦手なんですよ、泳ぐの。」
「大丈夫だ、泳ぎの上手さを競うわけではないからな。あくまで疲労を抑えつつトレーニングすることが目的だ、もちろん基本的な息継ぎや足の動かし方についてはじっくり教えるぞ。ほらビート板も用意してあるから。」
走ることが身上のウマ娘、彼女らの泳ぎの巧拙について世間の話題に挙がることはほぼ無いが、やはり得手不得手は存在する。
アグネスタキオンは普通に泳げるが、その前に担当していたテイエムオペラオーはといえば泳ぎが苦手であった。
口にするものについては繊細で、飲料水にもこだわりを見せていたオペラオー。溺れてプールの水を飲んで調子を崩すことがあってはならない、と鷹木は彼女のプールトレーニングの間、一秒たりと目を離せなかった。
その当時のことを想起しつ、準備体操をやたらと時間かけて念入りに済ませたヒシミラクルに手渡し、プールトレーニングを開始する。
「……泳ぎに慣れていないのは当然だが、非常に下手、というほどではないか、ミラ子……。」
泳ぎの要領を掴めていない内は、顔を水につけたまま息継ぎできず、定期的に泳ぎを中断して立つことになるものだ。
が、プール際に掴まって足を動かす練習をしばらく繰り返した後、ヒシミラクルはビート板に頼りつつも自ら息継ぎしつつ、プールの端から端まで泳ぎきることが出来るようになっていた。
そもそも顔を水につけること自体に抵抗があったオペラオーが、結局ほぼ背泳ぎのみでプールトレーニングを乗り切っていたことを思い返せば、ミラ子は十分に泳げると評せた。
「しっかり泳げているじゃないか、この調子で、今日はビート板を使いつつ往復できるところまでやってみよう。」
「えぇー、そろそろ疲れてきたんで、休憩したいんですけど。」
「今してるだろ。」
指示された泳ぎが終わったら、そそくさと水から上がってプールサイドに座り込んでいるヒシミラクルを急かし、最低限の練習メニューだけはこなすようにと鷹木は伝える。
渋々といった様子で再びビート板に掴まってバタ足を開始するヒシミラクルを、鷹木の傍らから見つめていたのはいつの間にか自身のトレーニングを終えて様子を覗きに来ていたアグネスタキオンである。
「泳ぎはウマ娘としての戦績には直結しないというがねぇ、カフェもビート板が手放せないようだし、ロブロイくんも泳ぎは苦手だし、かの“怪物”オグリキャップもプールは苦手だったそうだ。しかし、いかにして決まるのだろうねぇ、ウマ娘の泳ぎの得手不得手というものは。」
「まぁそりゃ、誰にでも向き不向きはあるだろうし……。」
「しかしこれまで探求を続けてきた私の立場としては、やはり可能性世界からの干渉があるのではないかとも考えられるねぇ。こことは違う世界の“ヒシミラクル”もまた、泳ぎが苦手であったのかもしれないねぇ。」
「さすがに、こじつけが過ぎるんじゃないか?」
何にでも『特異点』や『可能性世界』を絡めて考えようとするタキオンの癖は相変わらずであったが、今に至るまでのことを思い返せば、タキオンの独特な言説にも妙な説得力が備わっているようであった。
鷹木とタキオンに見守られながら、ヒシミラクルはビート板を頼りに、ちゃんと泳ぐことが出来ていた。技量は及第点でありながら、いかにも気乗りしないといった調子で、泳ぎのスピードそのものは遅々としていたが。
スタミナトレーニングとしてのメニューを淡々とこなし、プールから上がってきたヒシミラクルは、目に見えて機嫌が斜めになっていた。
「もう、いいっすかね。なんか、身体よりも先に気持ちが疲れちゃったんですけど。」
「……うん、ノルマ通りの運動はこなしたから、ここまでにしようか。休憩時間を長めにとって、午後からの時間は夏のレースに向けてのミーティングとデータ確認にあてよう。」
プールでのトレーニング後は想定以上にカロリーを消耗している場合もあり、また水に浸かっていたことで体内深部の体温が低下している恐れもあるため、鷹木は慎重に判断してそう告げた。
とはいえ、見たところヒシミラクルの血色は良好そのものであり、テンションが落ち込んでいる理由は完全に気分的な要因であるのも明白だった。
「どうだい私の仮説は。水にトラウマがあるわけでもなく、体質的にも問題がない以上、ヒシミラクルくんの様子を見る限り、あながち外れてもいないんじゃないかねぇ、可能性世界からの干渉という考え方も。」
「いやまぁ、明確な理由もなく気分が落ち込む、ってことは実際あり得ることかもしれないが……。」
傍らのタキオンに言い返しつつ、鷹木は昨日のヒシミラクルのはしゃぎっぷりから一転して落ち込み切った様相を目の当たりにして、突飛な仮説をも否定しきれぬままであった。
長めの休憩時間を挟み、昼食を摂り、ついでにじっくりと昼寝を終えたころには、ヒシミラクルの調子は常通りに取り戻されていた。
体力回復も兼ねたミーティング及び作戦確認の場でも、なお満腹感と共に目がトロンとしているヒシミラクルの眠気には警戒しつつ、鷹木は安堵感とともに話を進める。
「次に出走登録を予定しているのは新潟レース場で7月に行われる佐渡特別だ。夏のレースは体調管理が難しく、スタミナ配分を崩すウマ娘も少なくないがヒシミラクルなら不安感も無いだろう。」
「はい。」
「しかし新潟レース場特有の長い直線と、緩やかな下りでペースが上がりがちな3,4コーナーは緩急の差がつきやすい。一定のペースで逃げるよりも、ここぞという所で上がって行ける脚を持つウマ娘に有利なコースだ。」
「うん。」
「だがあくまでも用いられるのは内回りコースであり、最終直線はそこまで長大なものではない。だから完全な瞬発力勝負にはならないんだ、ヒシミラクル、やはり中団から粘り強く上がっていく作戦で今回も組み立てていこう。8月には函館でのレースも視野に入れている、ゴールまでの直線が短いコースにも対応できるように……」
「んー。」
「寝ているねぇ!新潟レース場を走るのは初めてなのだからコース配分はしっかり頭にいれておくべきだねぇヒシミラクルくん!」
鷹木がレース資料を手に解説している前で、プール後の疲労と満腹感が合わさり、ヒシミラクルはうつらうつら舟をこぎ出していた。
そんな後輩ウマ娘に脇から声を掛けて、資料の内容を確認するよう促しているタキオンの姿を見つつ……鷹木は、2年前の夏合宿での光景を思い出していた。あの年、授業への出席日数が足りず補講と追試を受けねばならない状況にあったタキオンのため、アグネスデジタルが同じように隣について一緒に勉強へと付き合ってくれていたのだ。
今、後輩の面倒を見る立場へと移ったタキオンを見つめる鷹木の眼差しは、しっかり当のタキオンにも受け取られていたらしい。
「なんだいトレーナーくん、そのねっとりした視線は。時間は限られているのだから作戦の打ち合わせを進めたまえよ。」
「いや、あの時のタキオンが、ここまで内面の成長をしたんだなと思うと……」
「いいからさっさと進めたまえと言ってるだろう!昼寝を許しながらダラダラと進めていたらあっという間に15時になってしまうねぇ、そうこう言っている内にまた寝ているねぇヒシミラクルくん!」
「ふが。……いや、おきてますよぉ……おはなし、きいてます……はい……」
タキオンの言う通り、睡魔を追い払うたびに次なる眠気で首をこっくりこっくりしだすヒシミラクルを相手しつつ、今後のスケジュール確認を進めている内に、初夏の午後はゆるゆると過ぎていった。
そしてタキオンが急かしているのは、後輩ウマ娘を思ってのことであると同時に、今日、全国の注目を集めるレース……すなわち、売布特別の翌日に実施される大舞台、宝塚記念の観戦時刻が迫っているためでもあった。
15時を過ぎ、そろそろ中継観戦の場を鷹木が準備し始めた頃には、ヒシミラクルの両眼はパッチリと開いていた。
「いやしかしタキオン先輩による解説を真隣りで聞きながら観戦できるだなんて、恵まれた視聴環境ですよこれは。もちろん毎度実況の方と一緒に現地で解説する特別ゲストさんの登場も楽しみですけどね?」
「先ほどまでの眠気はどこに行ったんだいヒシミラクルくん。授業が終わったとたんに眠気が吹き飛ぶ現象にも名前を付けるべきかねぇ。」
そんなことを言い合っているタキオンとヒシミラクルの前でURA公式の配信画面をPCで映しつつ、鷹木もまた実況解説に訪れる特別ゲストが今年は誰になるのか、ずっと気がかりであった。
以前までは、実況アナウンサーと解説役のスペシャルウィークに加え、GⅠレースで勝利したトレセン学園OG、すなわちメイショウドトウやテイエムオペラオーが出演することもあった。しかし、最近はめっきり姿を見ない。
むろん引退後とてヒマを持て余しているわけではないGⅠウマ娘、彼女らなりに進むべき道が定まった今となっては、スペシャルウィークのようにメディアでの活動を主とする仕事に就かない限り露出も減るものだろう。
そして今、画面に出た宝塚記念直前の阪神レース場では……レースの時を待つ大観衆を前にして、実況席にアナウンサーとスペシャルウィークの姿だけがあった。
〈さぁ今年も人気投票で集まってきた優駿たち、今回の宝塚記念ではどのウマ娘に注目しておられますか、スペシャルウィークさん。〉
〈やっぱり1番人気、去年のクラシック三冠でも良い走りを見せてくれたダンツフレームちゃんが有力候補ですね!今月の頭に安田記念を走って、3週間のスパンでこの宝塚記念ですけど、中距離での強さは折り紙付きですから!でも、勝利争いならゼンノロブロイちゃんも間違いなく入ってきますよ、あの安定した強さは今年に入っても衰え無しですから!走りの巧さであればエアシャカールちゃんの右に出るウマ娘はいませんし……すみません注目の子を絞り切れてなくて!〉
〈いえいえ、それだけどの子が勝ってもおかしくない、実力者揃いのレースということでしょう!〉
いつも通りに多少取っ散らかった、しかし視聴者たちには耳馴染みとなったスペシャルウィークのトークがレース前の場を繋いでいる。
ヒシミラクルは、プール後のカロリー補給用にと取っておいたバナナを齧りながら早くもリラックスして画面を見つめていたが、タキオンは鷹木の胸中を察したようにボソッと告げた。
「このところ、オペラオー先輩もドトウ先輩も姿を見せないねぇ。確実に、特別解説ゲストとしてオファーは行っているだろうにねぇ。」
「あぁ、それぞれスケジュールの都合もあるんだろうが……。」
そう鷹木は答えたが、昨年まで宝塚記念の特別ゲストに呼ばれていたドトウも然り、こうした華やかな舞台に顔を出すことを厭わないだろうオペラオーも然り、なかなか会えない時期が続く中では気がかりが晴れないことに変わりはない。
これまでの大舞台でのレースの例に倣い、タキオンの耳が現地で湧き起こる歓声の大きさにも傾けられているのに気づきつつ、鷹木も今年の宝塚記念の発走を待った。