探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 今年の夏合宿は、のんびりしていられる時間も限られている。今年に入って5月にようやくデビューを果たしたヒシミラクルは、秋からの大舞台に参戦できるか否かが、この夏の間にどれほどの実績を残せるかで決まってくる。次なる出走レースは新潟レース場の佐渡特別であったが、条件戦クラスとはいえ油断ならざる相手が出走者リストに名を連ねていることには違いない。スケジュールにも気を抜けない夏合宿、そんな中でアドマイヤベガは毎年恒例となった、しかし周囲からは不安視されている現象を確かめに行こうとする。


暑熱に揺らいだ夢幻へとまた、手を伸ばす

 鷹木は、今までになく、トレーナーとしての立場から熱く意欲を抱く夏を迎えている自分に、合宿所へ到着した時から気づいていた。

 

 トレーナーになりたての頃は、条件戦でも担当に一勝をあげさせられれば万々歳であった。その条件戦が地方ではなく中央となれば、もはや自身の生涯でこれ以上の功績はないとまで思えたほとだった。

 

 そこへ唐突にやってきた覇王テイエムオペラオーによって諸々すっ飛ばし中央GⅠの舞台へと連れていかれ、更にアグネスタキオンという才能の塊が自分のもとへ訪れたため、感覚が麻痺しきっていたのだ。担当トレーナーが勝利への意欲を燃え上がらせずとも、彼女らはおのずと勝利した。彼女らを負かすウマ娘を見つける方が難しいほどであった。

 

 オペラオーもタキオンも細身であり、担当トレーナーとしては常に身体への負荷を気に掛けなければならないウマ娘だったことも、勝利に向けて熱くなっていられる場合ではない要因だった。

 

 だが今は違う。

 

「ミラ子!今月の佐渡特別、去年の日本ダービーに出走した、あのプレシャスソングが参戦してくるらしい!これは油断ならないぞ、この3週間はみっちりと走りを磨き上げるしかない!」

 

「んな大声で言わなくっても聞こえてますって、そんな暑苦しい男でしたっけトレーナーさん……。」

 

 到着して間もなく、長時間移動を終えた体をほぐし、また合宿所に併設された練習場の芝の状態を確かめるため、夏合宿参加者たちが連れ立って軽く走り終えた後、鷹木はヒシミラクルのもとへ大声とともに駆け寄っていた。

 

 去年までの様に、タキオンの大荷物を運ばされることもない。今は、7月末のレースに出走するヒシミラクルのために最大限の情報収集を行うのがトレーナーとしての務めであった。

 

「いいか、今回の佐渡特別は夏レースだからって気を抜いて良い相手ばかりが揃うわけでは決してないんだ。GⅠに出走経験のあるウマ娘は、仮に一着ではなかったとしても類稀な才能の持ち主には違いないんだ。」

 

「その通りだねぇ!去年のダービーに出走したプレシャスソングくんの走りならば、やはり当事者として競ったジャングルポケットくんが詳しいだろう!おおい!ジャングルポケットくん!ジャングルポケットくぅん!」

 

 鷹木に居並んで、アグネスタキオンもまたヒシミラクルへと対峙し、ついでにジャングルポケットをこれまた負けず劣らずの大声で呼ばわっている。

 

 現状のヒシミラクルが、指導者としては最もトレーニングに熱の入る存在であることは、鷹木の認識だけに留まらない周知の事実に違いなかった。今年の5月にようやくデビューを果たした彼女が、先月の出走では他のウマ娘を大きく引き離す明確な才能の片鱗を見せているのだ。

 

 何よりも、潤沢な持久力を備えた頑丈な体つきもあって、ヒシミラクルを前にすると不安感などは微塵も浮かんでこない、不思議な明るさが伴われていた。

 

 当のミラ子は、ますます強まる夏の陽射しの下、周囲からの注目も集まりつつあるのもあって、眩しそうに目を細めているばかりであったが。

 

「いやいーですって、そんなスゴい方と競り合っても勝ち目ないんですから、自分のペースに持ち込めるかどうかで勝負するだけですって……あ、ポッケ先輩も来ちゃった……。」

 

「んだよ、タキオン。併走ならまだムリだぜ、本気で走れるところまでは脚が治ってねーからな。」

 

「ちょっと話を聞かせてもらいたいだけだねぇ、昨年のダービーでプレシャスソングくんが参戦していただろう、覚えている限りでいいから彼女の走りについて教えてもらいたいねぇ!」

 

 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、呼ばれてすぐ寄ってきた律儀なジャングルポケットは、これまた真面目に腕組みして悩み顔である。

 

 目の前には、本格的なトレーニングへ移るためのストレッチを開始しているヒシミラクルの姿がある。この後輩ウマ娘の力になってやりたい思いは充分にあり、同時に一度競った相手についての記憶をおざなりに出来ないという真面目さもジャングルポケットは抱えている。

 

 とはいえ、1年以上前の話である。それに去年のダービーで最も存在感のあるライバルはダンツフレームであり、それに続くはクロフネであり、ウマレナガラノであり……プレシャスソングについての印象を思い出すのに、少々間があったのも致し方ない。

 

 それでも、自分の走ったレースについての記憶は確かに刻まれており、まもなくジャングルポケットは口を開いた。

 

「たしか、黄色い勝負服の奴だよな。アイツはずっと中団の前につけてた、あんだけ後方から上がってったメンツが強かったダービーで、あの位置をキープする実力は本物だな。最後も粘り続けてやがったし、先行有利のレースだったら勝利争いに食い込んでいたはずだ。」

 

「なるほどねぇ、聞いたかいヒシミラクルくん、そしてトレーナーくん!売布特別では先行寄りの位置から後ろを突き放す作戦が通ったが、しかし元より先行得意なGⅠウマ娘をヒシミラクルくんが相手するのは初のことだろうからねぇ、同じ手が通用するとは思わぬほうが良いねぇ!」

 

 ジャングルポケットの言葉に、大きく頷きながらアグネスタキオンが助言を付け加える。

 

 このあまりにも豪華な指導環境の贅沢さを理解しているのかいないのか、ヒシミラクルはじっくりとストレッチを終えつつ、いつものノンビリした口調と共に練習コースへ向かっていった。

 

「はぁい、ま、次も勝ってきますんで、心配しないで見ててくださいよ。」

 

「新潟の600m以上ある直線を意識して、まずはスタートからの加速だ、練習でも気を抜くんじゃないぞミラ子……油断してないだろうな、売布特別で圧勝できたからって。」

 

 挙動は常通りのペースとはいえ、ヒシミラクルが周囲から急かされずとも積極的に練習へ向かう姿勢を見せていることには違いない。この夏こそ、現役ウマ娘としての勝負をかけるべきシーズンであることは理解しているのだ。

 

 ストップウォッチやデータ管理用のタブレット端末を抱えて後を追う鷹木トレーナーを見送りながら、ジャングルポケットはボソッと口を開いた。

 

「実力がつけば、GⅠ行ける奴じゃねーか?ヒシミラクルは。なんつーか、あんだけ図太けりゃあ、大事な所でミスらないだろうしな。」

 

「少なくとも力み過ぎて失敗することはないだろうねぇ、皐月賞の時のジャングルポケットくんのように。」

 

「まだ言うかよ、それ。」

 

 ジャングルポケットと言葉を交わしながら、タキオンは周囲を見渡す。

 

 合宿所に到着して荷物の類はトレーナーやスタッフに任せ、ウォーミングアップをも済ませたウマ娘たちは広大な練習場の中、各々のトレーニングを開始していた。

 

 ミラ子と同期のノーリーズンやシンボリクリスエスは、共に秋以降のGⅠ戦線を見据えて、こちらも気の抜けない合宿期間を過ごすことになる。シニア級以上の面々もまた、秋の天皇賞やその前哨戦を視野に入れ、9月になれば本番に向けた最終調整へと移行できるように鍛錬を怠れない。

 

 中でもマンハッタンカフェは、凱旋門賞へと向かう準備のため、8月の頭には早々に合宿を終えることとなる。それまでに彼女に纏わる違和感を明かさねば、とタキオンは目を細める。

 

 ともあれ、夏の陽射しが注ぐこの芝の上を一渡り眺めたタキオンは、脈絡もなく喋った。

 

「普通とは、なんだろうねぇ……。」

 

「……え?何の話だよ。」

 

 隣でそれを聞かされたジャングルポケットは、あまりに唐突かつ抽象的すぎる問いかけに、ただ困惑している。

 

 この場に鷹木が居たら、タキオンの意図するところはある程度つかめたかもしれない。昨年、合宿所に到着して早々に、見えるはずのない一昨年の光景を目にするという異常事態に遭遇した鷹木ならば。

 

 だが現在、この広大な練習場を見渡す限り、異常な光景など無かった。毎年同じことを繰り返す異変そのものは消えたわけではなく、おそらくこの夏の夜空にも大接近中の火星が出現するのだろうが……少なくとも今、この場には、現実的な現象しか存在しなかった。

 

 それはまるで、場を共にするだけで不安や不穏が消えていくような、ヒシミラクルがここに居るおかげであるようにも感じられたのだ。

 

「ヒシミラクルくんは、自身を“普通のウマ娘”と称しているがねぇ……異常が起きる可能性がある状況で“普通”を貫ける性質もまた、普通ではないのかもしれないねぇ。」

 

「だから何の話してんだって、さっきからややこしいことをブツブツと。」

 

「いやいや、聞いてもらいたいのではなくて私の独り言だねぇ。あぁ、そうだ、明確に問いたいこととしては、秋以降のレース参戦についてだねぇ、ジャングルポケットくん。」

 

 怪訝な表情のジャングルポケットに、タキオンが改めて視線を向けて問いかける。

 

 わざわざ呼び寄せたあげく、こちらの都合ばかりに付き合わせるだけにするのも済まないとタキオンなりに思ったのだろう。それに、実際にタキオン自身が気がかりな話題でもあった。

 

「先に私の予定について伝えておこうかねぇ、こちらは秋の天皇賞に出走する。去年は菊花賞に出る皆を差しおいて、先んじて秋シニアの1冠を獲らせてもらったからねぇ。今年は引き続いて連覇と行かせてもらおうと目論んでいるとも。ダンツくんも来るとのことだし、それにフライト姉さんも参戦するとのことだねぇ。」

 

「……賑やかになりそうなとこ悪ぃが、オレは出られねぇ。脚が完全に治るのは秋あたりだって話だ、調整期間を考えりゃあ天皇賞には間に合わねーな……オメーとの勝負はジャパンカップまで持ち越させてもらう。」

 

 春の天皇賞後に脚の怪我が発覚、宝塚記念をも回避することになったジャングルポケットは、今でこそ杖を手にしながら歩けるまでには回復したものの、全快には遠いのだろう。

 

 タキオンの胸中に、秋の天皇賞にてポッケと競い合うことを期待する思いが無かったわけではないが、少しの間を置いた後でタキオンは頷いた。

 

「いいだろう、存分に回復し全力で来れる状態でジャパンカップに来たまえ!私とて相手するならば万全のジャングルポケットくんを所望するし、何よりもキミの大好きな東京レース場だからねぇ、いかなる結果となろうとも言い訳は聞けないねぇ!」

 

「あぁ、去年以上に突き放してやるよ。」

 

 走らずにはいられない本能を有するウマ娘、中でも際立って闘争心の強いジャングルポケット。仮に秋ごろには走れるまでに脚が治っていたとしても、ジャングルポケット自らが天皇賞秋を回避する決断を下した背景には、担当の桂崎トレーナーや診断した医師による判断もあったろう。

 

 仮にレースの展開や結末が、可能性世界からの干渉により運命づけられていたとしても、ウマ娘と担当トレーナー、その周囲の人々との出会いはこの世界だけのものであるはずだ。

 

 ウマ娘のことを第一に想う人たちからの助言を重視することが、より良い結末へと導く選択になることもまた、十分にあり得る因果関係であった。

 

 鷹木らトレーナー陣が集まっているところに、アドマイヤベガが顔を出したのは、その日のトレーニングを皆が一通りこなした夕刻の頃である。

 

 ちょうど今回の合宿期間内におけるスケジュール打ち合わせを終えたタイミングであり、生真面目なアドマイヤベガらしく端的に本題から切り出して来た。

 

「出来れば今年も、この合宿所の地元を使っての長距離ランニングを企画したいのだけれど、良いかしら?」

 

「後輩ウマ娘たちにも、せっかくの夏合宿での思い出を作ってあげたい、との考えだね。」

 

 すぐに返答したのは、結城トレーナーである。アドマイヤベガは、即座に頷き返している。

 

 が、昨年の事のみならず、例年ここの合宿所に訪れているトレーナーたちは、一様に顔色が芳しくなかった。認識の程には個々に差があったろうが、アドマイヤベガが毎年のように夏合宿で異様な現象に巻き込まれていることについては知られていたためである。

 

 この合宿所からウマ娘の脚でも小一時間掛かる場所に、古びた地方都市の商店街がある。既に過疎の影響で営業していない店が殆どであり、いわゆるシャッター街となっているのだが……酷暑の陽炎揺らめく中や、黄昏時の薄暗がりの中で、人通りの活気な往時の光景が浮かび上がることがあるのだ。

 

 ―――そして、アドマイヤベガ自身の望まぬ末路、クラシック級の年にて早々に現役引退した“アドマイヤベガ”が寿命を全うした旨を載せた新聞記事が、古びた掲示板に張ってある。

 

 この異変の解消を見届けようとして、その根源と思しき場所へ自ら近付いていくことは、夏合宿中のアドマイヤベガが毎度の如くこだわりを見せている振る舞いでもあった。

 

 会議用の長テーブルの端に席を占めていたキングヘイローが、結城トレーナーに続いて声を上げる。

 

「アドマイヤベガさん?気になる思いは分かるけれど、今年は別な形でのアクティビティにしてもよろしいのでは?ほら、懇親会なら合宿所内でもできますし。」

 

「いえ、私は行くつもり……きっと、今年が最後になるだろうから。」

 

 最後、というのは、今年でレース現役を引退するということだ。

 

 まだ公表はしていないし、結城トレーナーとの間でも正式には決めていなかったろうが、しかしデビューから7年目に突入している世代、至極当然の判断でもあった。最後の最後まで解消しない毎年恒例の夏の謎を、自分の目で確かめずして終わることはアドマイヤベガとしても取り難い選択だろう。

 

 ……なおのこと、アドマイヤベガの提案を拒むことはトレーナー達としてもしづらかった。沈黙の中、改めて口を開いたのは結城トレーナーである。

 

「分かったよ、気になるのなら確かめに行ってもいい。ただこの合宿期間中、妙な不安を抱くようなことがあっては秋以降のレースへの影響も無視できないし、この夏にレースへ出る子達も居る。きみを独りで行かせるわけにはいかないが、同行する者もきちんと選ばなければならないね。」

 

「ならば私が同行しても構わないねぇ!むしろ同行させてくれたまえ、昨年や一昨年に引き続き異様な現象が起きるのならば、観測せずにおく手はないねぇ!」

 

 場に割って入るタイミングを見計らっていたのか、タキオンが唐突に顔を出して名乗りを上げる。

 

 その背後にはエアシャカールも視線を逸らしながらついてきていた。タキオンほど乗り気ではなさそうだったが、こちらも昨年一緒に異常な現象を目の当たりにしている以上、気になってはいるのだろう。

 

「ロジカルに考えりゃあ、去年はあまりの暑さで幻覚でも見たんだろうとは思うンだがな。どっちにしろ、冷静に対処できる奴が一緒に居た方がいいだろ。」

 

「その通りだね、キミなら安心感がある、シャカール。さて、例年ならばウマ娘たちだけでランニングに送り出しているんだが、出来れば今回はトレーナーに誰か同行してもらいたい。僕自身が行ってもいいんだが……。」

 

 シャカールに頷き返しながら、結城トレーナーは傍らに集まった面々を見回す。

 

 彼の言葉には含むところなどさしてなかったろうが、しかし老齢の、かつURAのレジェンドたる結城トレーナーを、炎天下にてウマ娘たちと同行させることの方がよほど現実的な不安を伴う。

 

 即座に席を立って名乗りを上げたのはキングヘイローであった。

 

「なら、同行するのは私が最適ね。ウマ娘の脚についていくとなれば、人間だと確実に乗り物が必要になるでしょうから。」

 

「キングヘイロートレーナーが居てくれるのは心強いがねぇ、私としてはトレーナーくん……あぁ、鷹木トレーナーに来てもらいたいんだがねぇ。」

 

「えっ、俺に……?」

 

 頭の中では、タキオンが余計なことをしでかさないかという心配が多くを占めていた鷹木であったが、急にタキオンから自分の名を挙げられて脳内の不安は一気に別種のものへと塗り替えられた。

 

 アドマイヤベガが毎年夏に巻き込まれているという異常現象そのものに近付くのも少々怖かったし、実際には何事も無かったとしてもウマ娘たちの長距離ジョギングに人間の体力をもってしてついて行かねばならないのだ。

 

 目を見開いたまま固まっている鷹木の顔を見て、タキオンは少々愉快そうな表情を浮かべつつ言葉を続けた。

 

「何も我々とて全力疾走しつづけるわけじゃないねぇ、あくまで体温や心拍数が上がり過ぎぬようジョギング程度なのだから、自転車にでも乗ってくれれば追いつくスピードだねぇ。それに人間の方がウマ娘よりも長距離の持久力に優れると言われているじゃないか。」

 

「いやそれは普段から走るのを専門にしている人間にとっての話であってだな……というか、なんで俺なんだ、せっかくキングヘイロートレーナーが立候補してくれたのに。」

 

「むろん、私はヒシミラクルくんを連れて行くつもりだからだねぇ。」

 

 そのことを今初めて聞かされ、更に鷹木は目を大きく見開き、ついでに口をポカンと開ける羽目になった。

 

 まさにこれから3週間後、新潟レース場での本番が控えているヒシミラクル。確かに軽いジョギングならば丁度良い気分転換にもなるし、ただでさえ持久力豊富なミラ子にとっては余計な体力消耗にはならないだろうが……何が起きるか分からない目的地へ向かうとなれば、話は別である。

 

 余計な不安事項を増やさぬようにと、鷹木はタキオンの思い付きを却下するつもりであったが、それを見越したようにタキオンは先んじて口を開いた。

 

「ヒシミラクルくんが参加した今年の夏合宿、まだ初日ではあるが、何も妙なことは起きていないねぇ?昨年は、到着して間もなく、奇妙な現象にトレーナーくんは遭遇したがねぇ。」

 

「あ……あぁ、そういえば。」

 

 その件については単なる思い違いだと判断していたため、敢えて周囲には伝えなかった鷹木。他のトレーナーからの好奇心交じりの視線を受けつつ、タキオンに対しては首を縦に振る。

 

 言われてみれば、到着してすぐヒシミラクルの練習を実施している間、異様なことは何も起きていない。わざわざ意識するまでもなく、普段と場所が違うだけで、ごく普通の練習時間を過ごすことが出来ていた。

 

「全く以て、ヒシミラクルくんは“普通”のウマ娘だ。彼女に同行してもらえれば、こちらの認識が歪んでしまう異変も収まり、アドマイヤベガ先輩の身に起きた異変についても客観的な観測が可能になる、と私は踏んでいるんだがねぇ。むろん、ヒシミラクルくんがダラダラせず長距離を走り抜く様を、担当トレーナーの立場としても見届けたいと思うだろう?」

 

「……分かった、俺も行く。万一に備えて、補給や連絡手段を確保している人間が同行するに越したことはないだろうからな。」

 

 否応なしの決意を口にする鷹木を、隣席の片桐が小さな拍手とともに彼なりに讃えていた。普段から自前の練習場の草刈りに追われている片桐は、既に鷹木よりもハッキリと濃く日焼けしている。

 

 トレーナー側にも話が通ったことで、アドマイヤベガは改めて自身の決定を告げる。

 

「では、合宿中のレクリエーションとしての長距離ジョギングは、来週に実施する予定で皆にも伝えてもいいかしら。7月の後半に入ったら、もう本番レースに備えなければいけない子も何人か居るし。」

 

「そうだな、8月に入ればマンハッタンカフェも日本を発つ準備を開始しなければならないから、じっくり時間をとっていられないだろう。鷹木トレーナーも、長距離を同行するだけの覚悟と体力を固めなければね、一週間では限度があるかもしれないが。」

 

 頷いている結城トレーナーの隣で、あらためて自らの費やすべき労力を現実視した鷹木が項垂れている。

 

 アグネスタキオンは相変わらず愉快そうな表情を口元にこそ浮かべていたが、目の奥では考えを巡らせる真剣な色を浮かべていた。

 

 アドマイヤベガの件も、マンハッタンカフェの件も……この現実世界へ、可能性世界が干渉した結果の歪みではないか、との仮説が既にタキオンの中では立っていた。

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