この合宿期間の7月中に、マンハッタンカフェの凱旋門賞遠征についての懸念へと着手しようとしていたタキオンが、その実行を7月の下旬まで遅らせていたことにはふたつの理由があった。
ひとつは当然、タキオン自身が確証を得たいと考えていたためである……莫大な予算、大勢のスタッフを動かして進行中のフランス遠征計画、それを中止させるに足るだけの確証を。ウマ娘としての勘や、単なる嫌な予感だけでは、不十分だ。
もうひとつは……タキオンを担当している鷹木トレーナーが、ヒシミラクルとともに新潟レース場へと行き、合宿所から離れるタイミングが必要だったためである。
「私を心配してくれる彼の心持ちも分からないではないがねぇ、後輩たちとの併走ばかり指示してくるというのは。おおかた、拮抗する能力の相手との併走で、私が本気を出した結果またしても脚の故障を再発してしまうことを警戒しているのだろう。」
「しょうがねェだろ、鷹木トレーナーは担当の怪我に人一倍神経質なンだから。」
佐渡特別への出走のため新潟へと発っていった鷹木とヒシミラクルを見送った後、タキオンとエアシャカールは並んで準備運動を進めながら言葉を交わしていた。
大阪杯での屈腱炎再発ののち、4ヵ月にわたる療養期間を経てようやく走れるまでに回復したタキオン。屈腱炎は繰り返し起きやすいだけに、練習時点で過度な負荷を掛けぬよう、鷹木がタキオンの併走相手に指名するのは後輩であるヒシミラクルが主となっていた。
しかし、タキオンが何にも増して熱望していた併走相手は、マンハッタンカフェである。
それは自分の競走相手に相応しい身体能力の持ち主であるから、だけの理由ではない。凱旋門賞への挑戦を決めた時から、常にカフェに纏わりつき続けている違和感の正体を見極めるためだ。
ウマ娘が海外遠征を志す事自体は、現在となっては珍しいことではない。アグネスデジタルがドバイや香港からその名を世界に轟かせたことも記憶に新しい。しかしマンハッタンカフェは、フランス遠征を決めた時から、どこかいつも通りの彼女ではなくなっていたように思われた。
ウマ娘の走りは、嘘をつかない。
ウォーミングアップを済ませたところで、タキオンとシャカールは連れ立って結城トレーナーのもとへ向かう。マンハッタンカフェは、トレーナーの傍で既に走る準備を万端に整えていた。
「私との併走練習に応じてくれて嬉しいねぇ、カフェ。このところ随分と忙しい様子だったから、断られるのではないかと少々不安だったねぇ。」
「えぇ、来月には遠征のための準備を本格的に開始しなければならないため、トレーニングの傍ら各方面との打ち合わせを行う必要もありましたので。本日も午後から、現地施設の方々とオンラインでのミーティングが予定されています、調子を整える時間も必要ですので早速併走を行いましょう。」
淀みなくカフェはタキオンへと返答し、スタスタと練習グラウンドのコース上へと歩いて行く。
5月末の時点でも同様の振る舞いを見せていたが、声色こそ変わらぬもののハキハキとした喋り方をするようになったのも、現状のマンハッタンカフェに関わる違和感の一端であった。
元々、マンハッタンカフェは低くあまり響かない声で、言葉を慎重に選ぶようにゆっくりと喋るのが特徴だったはずである。
もちろん、この異変にタキオンが気づいていないはずもないが、今はあえて言及することなく、カフェに遅れて練習コースへと向かいつつ口を開く。
「せっかく時間が取れたのだから多少なりと雑談する間を取ってくれてもいいんじゃないかい?待っておくれよカフェェェー……っと、今回はよろしく頼むねぇ、結城トレーナー。」
「あぁ、こちらこそ、実力十分な併走相手を得られて嬉しいよ。」
目と目を合わせた時、タキオンは結城トレーナーの表情の奥を覗き込もうとした。
タキオンが普段関わっているトレーナー、すなわち鷹木とは比べ物にならぬ年季と実績を積み重ねた老トレーナーの目の色から内面を読み取ることは、容易ではなかったが……結城トレーナーが抱いている期待が、単純に併走練習への結果に対してではないことだけは推し量れた。
タキオンとカフェが共に練習コースへと入っていった後、シャカールはより直接的に結城トレーナーの内面へと踏み入った。
「なァ、トレーナー……一度だけの併走で、タキオンが見ようとしてるもの、分かンのか?」
「実際には見えなくても、見出してみせなければね。それがトレーナーとしての務めなのだから。」
既に結城トレーナーには話が伝わっていた。タキオンの抱いている懸念、現状のカフェに対する違和感について。
カフェを担当にすると決めてから3年目、ずっとカフェの走りを見続けてきた彼もまた、カフェの今の様子がおかしいことに気づかぬはずもなかった。タキオンが併走を申し出てきた真意も、結城トレーナーは分かっているのだろう。
心なしか他の合宿参加者たちも気を張って見つめる中で、アグネスタキオンとマンハッタンカフェの併走はスタートした。スターターを担当したのは、声の響くシャカールである。
「芝、距離2400m。ンじゃふたりとも、位置について。用意……スタート!……カフェの奴、初っ端から飛ばしてやがンな。」
タキオンもカフェも、昨年度のGⅠレースをクラシック級シニア級の区別なく総なめにしたウマ娘の一員、スタートの合図からコンマ秒の遅れも無く、綺麗に同時に飛び出していく。
もとより先行策が得意なタキオンが序盤からハイペースで飛ばすのはこれまで通りであったが、マンハッタンカフェも彼女に並ぶ勢いで進めていくのは本来の走りのイメージとは大きく異なっていた。
シャカール自身も手にしたストップウォッチでタイムを見つつ、結城トレーナーの傍らに戻ってきつつ言う。
「たしか、今年の春の天皇賞の時も、こんな走りだったな、カフェ……完全に、先行のペースを自分のスタイルにするつもりで居やがンのか?結城トレーナーは、いちいちこんなこと指示しねェよな。」
「あぁ、カフェ自身の判断だ。」
シャカールからの問いかけに、結城トレーナーは頷く。
基本的にウマ娘自身が自らの弱点や改善点を見出し、方針を自身の意思で定めることを是としている結城トレーナーのもとであれば、なおさらマンハッタンカフェが他からの干渉に拠らず、走りに対する姿勢を自ら変えたことは明白であった。
結城トレーナーが言葉少なであることは今に始まったことではなかったが、現在の彼はいよいよもってカフェの走りを凝視することに集中しているらしかった。
最初の直線を抜け、1コーナーを回っていく辺りになっても、なおカフェはタキオンとほぼ差のないペースで進んでいく。既に外回りのコースへと出て、早くもタキオンに並びかける体勢を整えているようにまで見えた。
「いやそりゃァ、カフェの実力なら先行だろうが差しだろうが器用にこなすだろうってのは分かるけどよ……これまでにもまして、前に前にと押しまくってンな。」
「“お友だち”の背を、もはや見ていないのかもしれない。」
結城トレーナーの口から思いもよらぬ言葉が出てきたため、エアシャカールはつい視線を練習コースから逸らし、結城トレーナーの方へと向ける。
無論、カフェを担当する立場として、彼女が“お友だち”なる存在を視認していることは結城トレーナーも聞かされたことはある。現実の存在として確認できずとも、マンハッタンカフェの走りを精神面から支える概念として“お友だち”を結城トレーナーはないがしろにしてはいない。
時には別の姿の“お友だち”が他のウマ娘にとり憑いている様を見たり、カフェ自身も“お友だち”の背をコース上に追ったり、その存在はカフェにとってウマ娘レースと切り離せないものとなっているのだ。
かつては現実味の無い話を口にすると気味悪がられていただろうが、トレセン学園にて信頼のおけるトレーナーや友人を得たカフェは“お友だち”について言及することを躊躇わなくなっていた。
そんなカフェが変わった様もまた、結城トレーナーがしっかりと認識するところにあった。
「去年の菊花賞などは特に、まるで先を行く“お友だち”の背を見出しかのように、そしてそれに追いつくように末脚を発揮していたものだ。だが……今のカフェは“お友だち”の背を見ることはないのだろうか、あんなにも先行して。」
「なンか、別のウマ娘の走りを見せられてるみてェだ。」
結城トレーナーに並んで、エアシャカールも改めて視線を練習コース上、併走しているアグネスタキオンとマンハッタンカフェの走りへと向ける。
すでに向こう正面を抜け、3コーナーから4コーナーへと差し掛かっていく区間。マンハッタンカフェは、アグネスタキオンよりも前に出ていた。カフェが後方から差すのを得意としていた頃には、決して見られない光景だ。
相手がアグネスタキオンであるおかげで、カフェがこれまでにないハイペースで最終直線へと向かっていく様は歴然としていた。
既に本領発揮の域へ突入しているタキオンがマンハッタンカフェに対し実力不足であるはずもない。残り1000m通過時のタイムを見るに、タキオンは正確にこれまで通りのペースでコースを回ってきていたのだ。
「なァ、トレーナー。春の天皇賞の時から、カフェの奴、おかしくなってたのかもしれねェな。」
「もちろん、ウマ娘としてレースに勝つことが出来れば他に言うことはない、が……不安がないと言っては嘘になる。このまま、彼女が本来の自分ではない何かへと変わっていくのではないか、と。」
同様の不安は、3年前のアドマイヤベガも抱いていた。彼女もまた、自分が異なるウマ娘の姿に重なり合うような感覚を見出した結果、本来得意としない先行寄りの作戦を一時期採用していたのだ。
練習コース上の最終直線、アグネスタキオンとマンハッタンカフェはほぼ並んだままに駆け抜けていく。
既にいつものように笑顔を浮かべていられる余裕もないタキオンは、真剣そのものの表情で、しっかりとカフェの横顔を凝視していた。
必死の形相の中ではあったが、タキオンの目は何らかの確信を掴んだように明るく閃いていた。
「ゴール!……すげェな、カフェ、絶好調じゃねェか。あんだけハイペースで回って行って、タキオンにも差し返されねェってのは。」
併走練習の結果は、カフェが僅かにタキオンよりも前に出て、ハナ差で先んじてゴールしていた。
シャカールの言葉には軽く頷き返すだけの反応を示し、そのまま練習を開始する時と同様にスタスタと練習コースを去っていき、無言のままにクールダウンを開始している。
一方で、タキオンはいつになく息を切らした様子でしばらく呼吸を整えていたが、汗を何度か拭い、シャカールのもとへやって来て口を開いた。
「私の仮説は証明されたねぇ……覚えているかい?2年前の天皇賞春で、カフェは一着でゴールしたアドマイヤベガ先輩を見て『あれは、私だ』と言っていた。後で問い質せば、アヤベ先輩にカフェそっくりな姿をした“お友だち”がとり憑いていた、とのことだったねぇ。」
「あァ、ンで、その時のアドマイヤベガ先輩と全く同じ走り方で、今年の天皇賞春を勝った、ってンだよな。ンじゃあ、2年前に見えた“お友だち”そのものになっちまってンのか、今のカフェは。」
シャカールの推測に確証を与える材料はなく、タキオンは言葉を返すことは出来なかった。とはいえ、その眼の色は言外に肯定を与えていたが。
続いて、タキオンは結城トレーナーへと視線を向けて口を開く。
「結城トレーナー、この後の昼食後、カフェと共に時間を取ってもらえるかい?場をあらためて、私から伝えたいことがあるんだがねぇ。」
「いいよ。いずれにしても、午後からのオンラインミーティングのための部屋を準備する予定だ。そこに来てもらえれば、落ち着いて会話も出来ると思う。」
結城トレーナーは、タキオンからの予告なしの申し出にもすんなりと頷いた。まるで、そう言ってくるだろうことを予測していたかのように躊躇はなかった。
やがて午前中の練習時間が過ぎ、昼食を摂るためウマ娘たちは建物内へと戻っていく。
その日の合宿所は、佐渡特別へ向かったヒシミラクル、函館記念に向かったタップダンスシチーが不在であったが、それでも先年度から更に参加者が増えたおかげで昼食時も賑やかさが衰えることはなかった。
昼食を終え、午後からの練習へと賑やかな面々が出て行った後、建物内に残っていると極端に静かに感じるほどであった。
建物内の一角では、会議室にて結城トレーナーや合宿所スタッフらが立ち働き、モニターやPCを繋いでオンライン会議を行う準備を整えている。
その隅で、今回のフランス遠征計画について自分が喋るべき内容のメモに目を通していたカフェは、呼んだ覚えのないタキオンが部屋に入ってきた方へチラと視線を向け、怪訝そうな表情を浮かべた。
しかしそっけない態度は相変わらずであり、一瞬ののちにカフェは無表情へと戻り、再び視線をメモへと向けていた。
「ちょっといいかねぇ、カフェ?まだ遠征先とのミーティング開始時刻には早いだろうから、私とおしゃべりする時間はあるはずだねぇ。」
「確かに時間的余裕はありますが、タキオンさんのために用意した時間ではありませんので用件は手早く済ませていただけると助かります。」
先ほどまでと同様、常のカフェに似ずスラスラと淡白な声で返答する間も、その視線はタキオンへと向くことがない。
興味なさげに返事されることは予測済み、あるいは普段から慣れているためか、取り付く島もないカフェの態度を前にしてタキオンの側も怯むことなく喋りつづけた。
「いやなに、先ほどの併走について改めて礼を言いたくてねぇ。素晴らしいデータが取れたよ、やはり私の間近で走るのはカフェでなくてはねぇ。最近はヒシミラクルくんとばかり併走していたが、いやむろんヒシミラクルくんが私にとって実力不足だというわけではないのだがねぇ……。」
「雑談ではなく、用件を手早く済ませていただけますか。あなたとのおしゃべりと事前準備を同時に進められるほど、私も器用ではありませんので。」
「冷たいねぇ、カフェ。結城トレーナーに聞いたが、ミーティング自体は1時間後に開始予定とのことじゃないか。いずれにせよリラックスした状態でなければ話し合えないねぇ……あぁ、来た来た。シャカール先輩、こちらだねぇ。」
飲み物を載せた盆を手にして現れたのはシャカールである。暗褐色に氷を浮かべてストローをさしたグラスは、側面を結露に濡らしてカランと涼し気な音を立てている。
「ほらよ。ったく、なんで夏合宿にまで来てメイド喫茶の真似事しなきゃならねェんだよ。」
「シャカールくんのようにぶっきらぼうな態度で接されるのも悪くはないねぇ。」
夏の結露を受け止めるコースターを4つ敷いた上に、シャカールが飲み物のグラスをテーブル上に配り終えた頃には、結城トレーナーも示し合わせたように並べた席についていた。
ここにきてようやく、これが前もって用意された話し合いの場であるとカフェも察したらしい。
「結城トレーナーまで……タキオンさんとシャカールさんを、ここに招いたのですか?」
「いや、この場を設けたいと言い出したのはアグネスタキオンだ。けれど、確かに僕も話し合いが必要だとは思ったからね。」
結城トレーナーの落ち着いた声色に、マンハッタンカフェも狂いかけた調子が戻ってきたらしい。
カフェがストローに口をつけて、よく冷やされたドリンクを飲んだのを見計らいつつもタキオンはカフェへ尋ねた。
「あまり本題を引き延ばすのは私の性にもあっていないねぇ、単刀直入に聞こうか。カフェ、キミはいつから“お友だち”の姿が見えなくなっていたんだい?」
「……何の話ですか。」
「むろん、私とてカフェが言う所の“お友だち”を視認できるわけではない。だが先ほどの併走を経て、確信を得たからねぇ。少なくとも昨年までのカフェは、まるで見えない何者かを追っているかのように、後方から鋭く差す脚で上がってきていた。そう、昨年の有馬記念などはその最たる走りだった!私よりも更に速い存在、運命の限界を超える存在、キミはそれに追いつこうとしていたねぇ!」
興奮気味の口調で喋り続けているタキオンであったが、目の色にまで興奮は上がってきていなかった。
昨年の有馬記念……皐月賞を最後に引退が危ぶまれたアグネスタキオン、一方で上半期は不調のままに過ぎたマンハッタンカフェ。一時は不可能かと思われた両者の直接対決が実現した、まさに夢の舞台であった。
錚々たる面々を引き離すように、自分が思い描いたままに最適なペース配分でぐんぐんと上がっていくタキオンを、マンハッタンカフェは尋常ならざる末脚で差し切り、昨年の有馬記念覇者となったのだ。
一方で、今日行われた併走練習では……確かにカフェはタキオンに先着したものの、何かを追いかけるような走りでは既に無かった。
「確かに走りのフォームとして、カフェの視線は前に向いていたがねぇ。だが、その視野に“お友だち”は既に入っていなかったろう?まぁ、あれほど前へと押し上げる先行策では、よほどの逃げ切りウマ娘でもないと視界に収まることは難しいだろうがねぇ。」
「何か問題があるのですか。単に、私が先行策を採用すると判断しただけのことです。何よりも、“お友だち”は私の意図通りに行動してくれるわけでは、ありませんから……。」
タキオンへと言い返すカフェの語調こそ淀みは無かったものの、どこかしら声色は以前のカフェに戻ってきているようであった。焦りを落ち着けるためか、飲み物をもう一口飲んでいる。
もう一押し。タキオンは、カフェらしい言動が戻ってくるにつれて、それまで「マンハッタンカフェ」として接していた存在が異様であったことを、あらためて知らされるような心持ちを味わいながらも言葉を続けた。
「そうだねぇ、しかし本来“お友だち”はカフェ、キミを導いてくれる存在ではなかったのかねぇ?幼いころから“お友だち”が行く方へとついていけば、きっと楽しいことがあったのだろう?だが、今はそうではないようじゃないか。」
「タキオンさんが、何を知っているというんです。“お友だち”の姿を、見ることが出来ないのに……。」
「現に、今、目を通していたメモは手書きだねぇ。パソコンの画面、あるいはプリントアウトして確認すればよいものを、今のご時世に自ら手で書くことになったのは、やはり“お友だち”からの妨害があったためじゃないのかねぇ?画面に表示できず、プリントアウトも出来ず……あぁ、今もまた、せっかく手描きで用意したメモが、消されそうになっているねぇ!」
タキオンからの指摘を受け、カフェはハタと気づいたように、メモ用紙をテーブルから取り上げる。
そこには、後ほど遠征先のフランスでのスタッフらとミーティングする時のために用意した内容が書いてあったのだが、今は水で滲んでインクが薄れ、一部が読めなくなってしまっていた。
冷たい飲み物を置く際に、シャカールはちゃんと結露して垂れてくる水を受け止めるためのコースターを置いていた。
が、そのコースターにも遮られず、グラスの側面から垂れてテーブル上を広がっていった水は、まるで何らかの意図を反映したかのようにピンポイントでメモ用紙へと向かっていたのである。
カフェは、水で滲んで読めなくなったメモを手にしながら、空中の一点を睨んでいるようであった。むろんそこには何も居なかったが、しかしカフェにだけ見える存在があったのかもしれない。
あまり自分が得意げな声色を出していては耳に逆らうだろう、とタキオンは注意深く声を低めながら、更に言葉を続けた。
「……カフェ、確かに私は状況証拠しか得ることは出来ないが……しかし“お友だち”が今のキミの行動を、強く拒んでいることはほぼ間違いないようじゃないか。今回の凱旋門賞への挑戦についての、吉兆だとはとても思えないねぇ……あまりにも非科学的な発言をしてしまったが。」
「なァ、カフェ、前にも見せたが、俺のParcaeも、何度シミュレーションをやり直させてもお前が13着になっちまう結果しか表示しねェんだ。さっきみてェな、先行策で進んだ後、ゴール前で急に失速しちまッてな。お前がロンシャンで、ヤバい怪我をすることを予測してるようにしか考えられねェ……これも、ロジカルとは言えねェけどよ。」
シャカールも、タキオンに引き続いて忠言を重ねる。
マンハッタンカフェは項垂れつつも、その眼の色は二つの意思の間で揺れ動いているようであった。多大な労力を支払ってでも、凱旋門賞へと挑みたいと言い出したのは、それ相応に固い決意が芽生えたためである。
しかし誰よりも信頼のおける存在、同期や先輩のウマ娘たちが、一様に口をそろえて懸念している。それぞれ、お得意の『科学的視点』や『ロジカル』へのこだわりを捨ててでも、カフェのことを心配している。
「ですが……私自身の意思は……。」
「カフェ。言葉を選ばずに言うが、私はキミが、本来のウマ娘としてのカフェであるか否かについても、気がかりだったねぇ。たった今、グラスの結露が思わぬ事態を引き起こしたが、そもそもキミが飲んだのは何だったか、気にも留めていないのかい?」
「えっ……?」
マンハッタンカフェは、タキオンの目が促すままに、あらためてストローに口をつけて暗褐色の液体をさらに飲み……信じがたいことを確かめるように、ストローを抜き取ってグラスに直接口をつけ、それをゴクンと一口飲んだ。
自分の口の中に広がる風味、舌が感じる味わい、鼻に抜けていく香り……それらを存分に感じ取った後、カフェは唐突にブッと口から飲んだものを吐き出した。
「ぶっは!?げっほ……こっ、これ、紅茶じゃないですか……!?」
「ヒェェ!?な、なんでよりにもよって、私に向かって吐き出すことがあるかねぇ!?」
ちょうど、カフェに面と向かって話しかけていたタキオンは、カフェが口から噴き出した紅茶を盛大に浴び、悲鳴を上げている。
ここまでのやり取りを緊張の面持ちで見つめていたエアシャカールと結城トレーナーであったが、思いもよらぬハプニングを目の前で見せつけられ、堪えきれずに笑い出した。
「ック……ッハハハ……!バァカ、タキオン、自分で妙な検証を言い出した報いだろ、カフェに紅茶飲ませて気づくか、だなんてよ。」
「だが、効果的な手段だったのは、今まさに確かめられたねぇ!そうさ、カフェ、先ほどまでのキミは、普段やたらと毛嫌いする紅茶を平気な顔をして飲んでいたんだ、だが今はどうだい!」
「とても……飲めたものでは、ありませんね……私をだますだなんて、恨みますよ、タキオンさん……。」
いつしか、マンハッタンカフェの口調は、タキオンらが聞き慣れたものへと戻ってきていた。
カフェはタキオンのことを睨みながらも、しかし口から噴き出した紅茶まみれにしてしまったことは申し訳なく感じたのか……そして、本来の自分自身を取り戻すきっかけを、思いもよらぬ形で与えてくれたことへの感謝も遅れて湧き上がってきたのか、タオルで紅茶を拭きとるのを手伝ってやっていた。
彼女の目の色は見慣れたものに戻っており、喋り方もボソボソとした口調へと返ってきていた。
周囲では、すでにオンラインミーティングの準備が整っていたが、カフェの決意は変わっていた。
「結城トレーナー……その、ここまで皆さんに準備していただいて、今さら翻意するのは、心苦しいのですが……私の本心は、凱旋門賞への挑戦を……諦めようと、感じています。」
「あぁ、カフェがそう言うのなら、僕の方からスタッフたち全員に伝えよう、現地へも話を通しておく、ちょうどこれからミーティングだからね。」
結城トレーナーに対し、そして周囲でオンライン会議の準備設営をしていたスタッフたちに対し、申し訳なさそうに頭を下げているカフェ。
とはいえ、やはりタキオンの見込み通り、結城トレーナーの内心でもカフェが天皇賞春以降、異様な状態であったことは察していたらしく、カフェの凱旋門賞挑戦が無かったとしても代替のプランは既に立ててあった。
自分が意志を覆すことがどれほど大きな影響をもたらすか、ますますもって実感しつつ恐縮しているカフェの前で、彼は全く狼狽える様子を見せなかった。
「……しかし……既に、私がフランスへむかうことは、現実的になっていて……これをキャンセルするのは、多大なご迷惑に……」
「キミが心配することじゃない、カフェ。言ってしまえば、このフランス遠征計画自体は中止にならないからね。キミの帯同ウマ娘となっていたイーグルカフェは、予定通りにフランスへ向かい、ドラール賞へ出走する。そして凱旋門賞に関しては、日本からではなくイタリアから出走するウマ娘のサポートをURAのチームが手伝うことになっている。」
「い、イタリアのウマ娘さん……ですか……?」
「あぁ、ファルブラヴ、という子なんだが、聞いたことはないかな?」
さすがに海外ウマ娘の名まで網羅しているわけではないカフェやタキオンはピンときていない様子であった。
今回の凱旋門賞についてのシミュレーションを行うため、データを集めていたシャカールだけが結城トレーナーに返答した。
「確か、今年のイタリアの上半期GⅠをことごとく勝った、かなりの実力者だよな。」
「そうとも、ファルブラヴについても話は同時進行していてね。凱旋門賞の後、今年のジャパンカップにも参加してもらう流れで調整が進んでいる。日本のウマ娘レースが気に入ったなら、そのままURA所属のウマ娘になってもらう予定でもあるんだ。」
「ほう!凱旋門賞でお近づきとなった相手を、URAへ引き込むというわけだねぇ!さすがは結城トレーナー、老練な手腕の持ち主だねぇ!」
ともあれ、多額の予算や大勢のスタッフを動かしていたマンハッタンカフェの凱旋門賞挑戦が中止となったとしても、その影響は最小限で済むことは明らかとなったのだ。
スタッフたちへと頭を下げ終えたカフェは、今度はタキオンとシャカールの方へ向き、表情を改めてから口を開いた。
「……では、タキオンさん。シャカールさん……私は、今年の秋、シニア路線でのレースに身を投じます。対決するときは、ぜひ、ご遠慮なく。」
「望むところだねぇ!こちらとしても、万全の状態のカフェと当たらねば本気の出し甲斐が無いねぇ!」
「言ってくれるじゃねェか、強敵はカフェだけじゃねェってのに。ったく、今年のジャパンカップ、ただでさえ魔境だってのに、イタリアからファルブラヴも来やがンのか……まーいい、相手に不足は無ェよ。」
数年来、GⅠ勝利を逃し続け、せめて今年までにはもう一勝を上げたいと闘志を燃やし続けているエアシャカールにとっては大きな試練の秋となることは間違いなかった。
ともあれ、カフェに関する懸念が一つ解消したことでタキオンは大きな懸念も晴れ、その勢いで自分とカフェが全力で併走練習した時の動画を鷹木のスマホへと送りつけたのであった。
ミラ子の佐渡特別を終え、新潟レース場から出てスマホの着信履歴を目にした鷹木が、故障も厭わぬ勢いで本気の走りを行うタキオンの映像を見せられ、蒼ざめたのも無理はなかった。