一方で、むやみな騒動を引き起こした元凶たるタキオンは、駿川たづなによって引っぱって行かれながらも、自らの思惑通りに状況が進んでいるかのように悠々とした反応を示していた。
アグネスタキオンがスタート合図として披露した薬品の破裂音が未だ校舎の壁に反響し、グラウンド上空にどぎつい紫色の煙が滞留していた。
至近距離で薬品爆発の衝撃を食らった黒ジャージのウマ娘2名とアグネスタキオンは、どうにか転倒状態から立ち上がったところである。
「あ……あはは、皆、大丈夫そうで何よりだねぇ。」
「テメェ、こんな爆発が起きるなんて聞いてねーぞ……!」
突発的に始まったレース見物のために集まっていたウマ娘たちは、あまりに唐突な爆発に唖然として現状を把握できていなかったり、身近にいる友人の安全を確かめて言葉を交わし合っていたりと、騒然とした様相を呈している。
そんな周囲の状況などまるで意にも介さず、練習コース上を走っていくジャングルポケットとタップダンスシチー。入学式を終えたばかりの制服、制靴の姿のままであったが、早くも本気での競い合いへと移っていた。
鷹木とキングヘイローも最初は周囲に怪我をした者が居ないかと見回しつつ、自然と視線が彼女らの走りに吸い寄せられていった。
「……あの足取りではスタミナの無駄が多い、だが、ストライドを活かせればタップダンスシチーは確実に伸びそうだ。」
「体格が段違いですもの。ジャングルポケットさんの方は、コーナーの攻略がかなり慎重気味のようですわね。」
実際に走っている両名が互いの存在のみしか視界に入れていないのと同様、鷹木とキングヘイローもトレーナーとしての気質からか、走っているウマ娘の姿にのみ視野が自然と絞り込まれ、周囲の騒動も聞こえなくなっていくようだった。
タップダンスシチーは、その堂々たる体格から繰り出される一歩一歩が大きな走りで、ジャングルポケットを突き放すように逃げていた。ちょくちょく後方を振り返って競争相手を見ようとするせいで、足取りは僅かに乱れ、速度にもばらつきが生まれてしまっていたが。
一方で、ジャングルポケットは先ほどまで見せていた荒っぽい言動とは裏腹に、タップダンスシチーと自分との間合いが離れていくことに焦りも示さず、淡々とコーナーを攻略していた。
野良レースで頻繁にブロックし合うような走りを今まで続けてきた影響か、コーナーでは速度をさほど上げない走りが染みついているらしかった。
「コーナー攻略の練習を積めば、もっと速度を出せるはずだ……とはいえ、しっかりジャングルポケットが追い込みの態勢を整えている、それと分かっていればタップダンスシチーも走りに無駄は出さないはずだが。」
「彼女の場合はどうにも、まだ楽しんで走るという感覚が抜けきっていないようですわね。その感覚自体は大切ですけれど、本気で勝ちに来るウマ娘との競い合いを制するためには、十分にトレーニングを積まなければ。」
やがて練習用コースの直線に両名が向いたとき、鷹木とキングが共に想像していた通りの展開が繰り広げられた。
コーナーでじっくりと溜めていたジャングルポケットは、一転してスタミナを出し尽くすように猛然と加速し追い上げを始める。背後から迫りくる足音に気づいたタップダンスシチーもいよいよ前方へのみ視線を集中させて逃げ切ろうと足を速めるが、ジャングルポケットには瞬く間に追いつかれた。
歯を食いしばって懸命に脚を動かしたタップダンスシチーが練習用のゴール線を越えた時、既にジャングルポケットはゴールし終えて足を止め、腕組みして競争相手を待っていた。
「勝たせてもらったぜ、今後は俺相手に走りをエンジョイできるとは思わねぇことだな。」
「Phew、Amazing……いいや、楽しませてもらったよ!さすがに、トレセン学園へ入るだけの走り、並みのウマ娘とは全然違うね!」
息を切らせて、どうにかジャングルポケットの待っているところまでたどり着いたタップダンスシチーは、分かりやすくスタミナを使い果たした様を見せて彼女の足元に倒れ込む。
キングヘイローからの鋭い声が飛んだのは、その時であった。
「ちょっと、あなたたち!」
「おいおい、今さら叱らねーでくれよ、もうレースは済んだんだ。」
「Hey,keep your shirt on.お互いに満足いく走りが出来たんだから、全部チャラだろ?」
「そういうことではありませんわ、全力で走り切った直後に、すぐ足を止めたり倒れ込んだりなさらないで!簡易的なクールダウンのため、少なくとも数分間は呼吸を整えながら歩き続けるべきですのよ、ほら立って!」
人間の陸上競技においては効果が薄いと言われてもいるが、ウマ娘の場合は息が切れるほど全力で走り抜いた後、体を動かし続けることは重要である。
桁違いの運動量を必要とするウマ娘、心肺機能は人間の身体構造では考えられないほどに高まる。レース本番の舞台では、ごく稀にではあるがゴール直後に心房細動や心不全を引き起こして倒れるウマ娘も存在する。
本番の場合は練習とは段違いにストレスのかかる状況ゆえに起きると言われているが、練習に取り組んでいる時も呼吸や脈拍を急激に抑えようとすること自体は避けるべきであった。走りの中で脚に掛かる衝撃が心拍に繋がっているウマ娘の場合は、なおさら急に足を止めるリスクは高まる。
先ほどまでは騒ぎから距離を取るように身を引いていたキングヘイローだったが、今は躊躇することなくタップダンスシチーのもとにつかつかと近寄り、彼女の腕を引っぱって立たせている。トレーナーとしての振る舞いにおいて、彼女がためらう余地は見いだされないようだった。
「お淑やかなトレーナーだと思っていたら、あんた意外と強引なところあるんだな、not bad.」
「ただでさえ、あなた方は制靴に制服、と全力で走るには相応しくない恰好なのですから。さぁ、そちらのあなたも、心拍が落ち着くまでは足を動かして!」
「分かったよ、どうせアイツらから俺のシューズを取り返しに行かなきゃならねーからな。」
既にジャングルポケットとタップダンスシチーの競走がメインとなってしまっていたため、そしてスタート合図としてアグネスタキオンが披露した薬品の爆発が強烈な印象を残したため、ほとんどの見物者たちは本来この野良レースが行われた名目を忘れてしまっていた。
そもそもは、ジャングルポケットの入学式を冷やかしに来た黒ジャージ姿のウマ娘たちを、ジャングルポケットが挑発して始まったレースなのだ。自分の新調した練習用シューズを賭けるため、彼女は黒ジャージのウマ娘たちにそれを一時的に預けていた。
当の黒ジャージ姿のウマ娘たちは、今アグネスタキオンに向かって不満を述べ立てることに一心不乱だったが。
「さてはポッケとグルだったな、テメェ!よりによって、ウチらの真横であんな爆発を起こしやがって!」
「いやいや、私は彼女らとは初対面だよ、もちろん君たちともね。ただスターター役が必要だと聞こえたから、私の発明品を披露したまでのこと、さ。」
「だーから、お前自身が口でスタートって言えばいいだっただけの話じゃねーのか!」
「視覚的にも不平等が無いように考慮せねばならないだろう?ハンデのためにジャングルポケットやタップダンスシチーは、君たちより200m後ろがスタート位置だった。それほど離れれば、私がスタートと言った声は約0.6秒ほど遅れて到達することになる、レースにおいては無視できぬ差だ。」
「じゃあスタートの合図と同時に、腕を振り上げるなり何なりすりゃあいいだけの話じゃねーか!」
「いいかい、反射神経をいかに鍛えていようとも、認識と実際の体の動きにはどうしても誤差が生まれる。体内の神経を信号が伝わる時間は一瞬ではない、私の発声と腕の動きが完全に同調することはなく……」
「既に200mもハンデがあるんだから、その程度の誤差なんて大したことねーだろ!爆発を起こしたら、そもそもウチらのスタートが妨害されちまってんだよ!」
次々に理屈を並べ立てるアグネスタキオンに対し、黒ジャージのウマ娘たちの方が語るに落ちるような形となってはいれども、よほどマトモな言い分を口にしているように傍から聞いている鷹木には思えてならなかった。
しかし鷹木の視線は、既に彼女らの言い合いの現場ではなく、今しがた学舎から出てきてつかつかと歩み寄ってくる存在の方に吸い寄せられていた。
遠目からも、その存在感は明瞭であった。明るい緑色の制服と制帽、すらりとした背丈の後ろには、まとめられた髪の束が二本、風になびいている。
「アグネスタキオンさん、ですね?」
「いかにも、私こそがタキオンだが。」
どれほど荒っぽい言葉を浴びせられようとも平然と返し続けていたアグネスタキオンは、振り返った先にある笑顔を見て、動きが固まる。
駿川たづな、理事長秘書は常と何ら変わらぬ笑みを浮かべていながら、心なしか目の奥には深い暗がりが広がっているようにも思われた。
ただそこに立っているだけで周囲を圧する空間を前にして、憤っていた黒ジャージウマ娘たちも本能的に危機を察したのか、口を噤んで視線を逸らしている。
「お話があります、理事長室まで来ていただけますか?」
「しかし、入学式は終わったことだし、学園からの通達事項は既に全て受け取ったと思うけれどねぇ。」
「あなたに関しては通達事項に追加があります、来ていただけますか?」
「えぇー……。」
あの威圧感を前にして減らず口を続けられるアグネスタキオンの胆力も大したものではあったが、駿川たづなの有無を言わさぬ調子には、それ以上とても抗えない様子であった。
長すぎる白衣の袖の中にタキオンの腕は隠れていたが、たづなは的確に彼女の肘の上あたりを掴み、タキオンを引っぱって学舎の方へと歩かせていった。身のこなしは軽く、無理な力が掛かっていないようではあったが、抵抗する余地なく歩かされている様はタキオンのぎこちない足取りから見てとれた。
連れていかれながら、タキオンは振り返り、確かに鷹木の方へと視線を向けた。助けを求める目つきではなく、己が思惑通りに事が進んでいることを確かめるような、心得顔であった。
とはいえ、鷹木の方はそんなアグネスタキオンに、神経の太さを感じ取るばかりだったが。
「入学初日から、あんなことを起こして理事長室に呼び出されて、まだ顔色すら変えていないとはな……。」
「私の同期にも様々な変わり者は居ましたが、入学式の日に爆発を引き起こしたウマ娘は他に類を見ませんわね……。」
キングヘイローも、先ほどの駿川たづなの静かながらも凄絶な迫力に当てられたためか、たづなに連行されていくタキオンの姿を蒼ざめながら見守っている。
黒ジャージのウマ娘2名も、至近距離でその現場に居合わせてしまったためか、すっかり威勢を失くして呆然と立ち尽くしていた。ジャージのポケットにねじ込んでいたシューズを、背後から寄ってきたジャングルポケットに取り返されてもほとんど抵抗しなかった。
「返してもらうぜ、俺のシューズ。んだよ、二人ともボーッとしやがって。張り合いの無ぇレースだったぜ?」
「……う、うるせぇ、余計なアクシデントのせいだ。」
「色々と邪魔が入っちまった、今日のところは仕切り直しだ。次に会った時は覚悟してろよ……。」
去り際の捨て台詞にしては余りにもありきたりな言葉を口にするだけで精一杯と思われる黒ジャージのウマ娘たちは、そのまま意気消沈したような足取りでトボトボとグラウンドを去っていく。
既にグラウンドの至る所では、爆発と共に始まった野良レースの感想を興奮気味に言い合っているウマ娘、駿川たづなの迫力について声を潜めて語り合うウマ娘たちの声が溢れ始めていた。入学式の日が爆発音で脅かされるという事態に、ショックを受けて怯えている様子のウマ娘がいないことを、鷹木もキングヘイローもひとわたり見回して安堵した。
トレセン学園に来る以上、そして将来的に大歓声に包まれるレース場に赴く以上……新入ウマ娘たちはいずれも、ちょっとやそっとのことで揺るがされるメンタルではないらしかった。
殊に、今しがたレースを披露した両名については、いよいよトレセン学園で始まる日々に昂揚ばかりを覚えているようだった。
「お勉強ばっかりで退屈なんじゃないかと思っていたが、So exciting、初日からこんだけ楽しけりゃあ窮屈な制服を着るだけのことはあるってワケだ!」
「俺が見る限り、アイツらがケンカ売ってくることはしばらく無ぇだろうけどな。」
突発的なレースに添えられた爆発というアクシデント続きに、タップダンスシチーは十分に満足した様子を見せている。その傍らで、ジャングルポケットは短くない付き合いであろう黒ジャージのウマ娘たちの胸中を推し測っていた。
鷹木もキングヘイローも、トレーナーとしてはその推測が正しいことを願うばかりであった。こんな騒動がこれから毎日続くことも、トレセン学園においては十分に考えられ得たのだ。