佐渡特別を終えたヒシミラクルが合宿所でみっちりと調整を積み重ねた7月末はあっという間に過ぎ、洞爺湖特別出走のために函館レース場へと向かったのは8月に入ってすぐのことである。
例によって、夏合宿期間中に出走するウマ娘のために、と結城トレーナーが出してくれた大型ヘリコプターに搭乗しての函館行きとなった。
仮に鷹木が自力でヒシミラクルを連れて行くとなれば、むろん函館まで航空機で向かうことに変わりはないが、合宿所から空港のある都市部まで戻る経路にも相応の時間と費用がかかる上に、空港に着いたうえでも一般の搭乗客相応の手続きに手間がかかる。
レースを控えたウマ娘の体力消耗を鑑みても、最低限の手間で済む個人所有ヘリに載せてくれた結城トレーナーには感謝しきりの鷹木であった。
そんな彼の胸中を察してか否か、重く低くメインローターの回転音が響く機内でヒシミラクルは告げる。
「いや、でもですね、トレーナーさん。また私たち、新潟空港の時と同じように、変な注目を浴びちゃうんじゃないですか?ほら、この大型ヘリ、普通は国賓クラスのお偉いさんが移動するときにしか使わないんでしょ?」
「あぁ、うん……そうだな……。」
局地的な移動や、観光地の遊覧飛行に使われる小型・中型ヘリでも一度のフライトには目の飛び出るようなコストがかかるが、国内とはいえ長距離を移動できる大型ヘリは文字通りに桁違いの存在である。
空港に足を運んでいる航空機マニアが注目するのは言うまでもなく、大多数の一般乗客にとっても、目にすることがごく珍しい機体であることに違いない。新潟では、そんな大型ヘリに大勢がスマホカメラを向けている状態で、ヒシミラクルと鷹木は機体から降りる羽目になった。
その後出走した佐渡特別で勝てればまだ良かったのだが、三着という結果に終わったため、帰りのヘリに乗る時も微妙に生暖かい視線が周囲から集まることとなったのである。
「SNSでも、新潟の地元でのトレンドとしてちょっと話題になっただけだったが……新潟での事を知っている人が少なくない以上、函館でもまた目撃される、ってことになりかねないな。」
「いやぁー、また変な注目されちゃうんですかぁ、私。偉そうに専用ヘリに乗って到着したくせに、新潟で三着だった奴だー……って。」
「グチグチとうるせェな、だったら今度は勝ちゃァいい話だろ。」
エアシャカールの声が、鷹木とヒシミラクルの間に割って入る。
新潟の時と違って、函館へと向かう今回はエアシャカールも同行していた。こちらはミラ子の様にレース出走予定こそなかったが、ファインモーションからの招待を受けての函館行きであった。
ヒシミラクルとは出走レースこそ違えど、同日、同じ函館レース場で出走することが決まっているファインモーション。その報せがエアシャカールのもとへ届いた後、鷹木が調べたところによるとヒシミラクルとは僅か数十分違いの、1勝クラスの条件戦へファインは出走登録されていた。
彼女からの招待を無下にはしない律儀なシャカールであったが……いつもの紫色のパーカーにサイケデリックなジャンパーを被った私服ではなく、黒を基調とした妙にフォーマルな恰好に身を包んでいた。
今さらながらにミラ子はツッコミを入れる。
「そう言うシャカール先輩はなんでそんなカッチリと身なりを整えてんですか、函館空港にドレスコードでもあるってんですか。」
「俺だってそんなつもりじゃねェけどな、函館レース場に見にいくっつったら、ファインの方から送られてきたんだよ、この服。気味の悪ぃことに、サイズもぴったりでな。」
「へ、へぇ……アイルランド王室おつきの方々のリサーチ能力、ですかねぇ。さすがにそこまでされると、着ないで行くわけにもいかないでしょうねぇ……。」
エアシャカールがファインモーションに気に入られているという関係性が、想定していたレベルからかけ離れていたことを思い知らされ、ヒシミラクルは声のボリュームを下げつつ口を閉じた。
そのおかげと言っては何だが、ヘリコプターが函館空港に到着した際、ヒシミラクルと鷹木は心配していたような注目を浴びる事はなかった。
一般からの注目を、もっと強く集める存在が、すぐ身近にいたためだ。
「ッと、ファインからの連絡だ。ちょうど函館空港に到着したところ、らしい。プライベートジェットが見えるか、だと?……あァ、あれか。」
エアシャカールは、ヘリポートへと降下していくヘリの窓から空港を見下ろし、他の航空機とは明らかに存在感からして違う、黒い鏡面のごとく磨き上げられた優美な細身のジェット機が佇んでいるのを見出した。
大勢の黒服SPたちに囲まれてプライベートジェットを降りたところで、純白のブラウス姿が眩しいファインモーションが佇んでいる様も。
護衛達の外側には、URA関係者や空港職員、各メディアの取材班たちがずらりと並び、さらに一般の観客たちも集まって道を作っている。
ヒシミラクルもシャカールの隣から窓外を覗き込み、もはや異次元の世界を見てしまったかのように半ば茫然としながら喋る。
「わ、わぁ……あれが本物の国賓扱い、ですね……。」
「あぁ、ンで、歩くのを止めてンのは、俺を待ってるから、だとよ。」
エアシャカールは呆れたように言いながらサングラスをかけ、今乗っているヘリがゆっくりと着陸し、昇降口が開くのを待ってからツカツカと歩み出た。
ツンツンと逆立てた黒髪、ピアスの銀が光るウマ耳、そして粗く櫛を入れただけの尻尾が、黒の礼服の裾と共に空港の風になびく。
ヘリポートからプライベートジェットの駐機エリアまではそれなりに距離があったが、ウマ娘の早歩きならすぐに届く。その歩き姿もまた、颯爽としか表現しようのない軽やかさであった。
服装一式を送りつけてきたファインモーションの見立ては正確だったのか、シャカールの出で立ちは整った顔立ちの内に攻撃性をも秘めた本来の魅力を、最大限に引き立てていた。
気取ることなくスタスタ進んでいくエアシャカールの前に、ファインモーションはブラウスの胸元に垂らしたリボンを風に任せながら佇んでいた。
「招待に応じてくれてありがとう、シャカール。私の手を取ってくださる?」
「あァ?わざわざ、ンな気取った事やるかよ。」
「ごめんごめん、ちょっと気分が乗りすぎちゃった。でも、私たちを見ている人たちは、期待しているみたいだよ。」
確かに、単に集まってきただけの野次ウマたちを始めとして、カメラを構えているメディアの取材陣、さらにはファインの護衛たるSPたちまでもが、期待を込めた視線を、この“アイルランド王女と親友のウマ娘”に集中させている。
シャカールはサングラスの眉間に盛大に皺をよせ、ついでに諦めたようなため息をついてから、ファインへ右手を差し出した。
これといって深く考えずに決めた振る舞いだったろうが、ファインは目に見えて表情を明るくし、その上に自分の手を重ね、寄り添って空港建物へと歩いて行く。
シャッター音が鳴り響き、周囲から感嘆のどよめきや嘆息も数多響く中、何者にも向かう先を邪魔されぬまま、両者は大群衆を引き連れて去っていった……。
「いやぁ……あれこそGⅠウマ娘の貫禄ってやつですかねぇ、トレーナーさん。やっぱシャカール先輩って、すごいお方なんですねぇ。」
「そりゃまぁ、ひとたびレース場に出れば、あの何百倍もの観客から声援を受けるわけだからな……。」
ヒシミラクルと鷹木は、大多数の注目がエアシャカールとファインモーションに集中しているのを良いことに、少し遅れたタイミングでヘリを降り、そそくさと空港建物へ向かっていた。
数え切れないほどの視線やカメラレンズがこちらに向いている状況で、いっさいの気負いなく悠然と歩み出て行ったエアシャカールの背。やはりGⅠクラスのレースに出るウマ娘は、中央トレセンに所属する大多数のウマ娘と比べてもなお次元の違うところにいるのだ、と改めて思い知らせてくるものであった。
まるで映画撮影の邪魔をしないように通行するエキストラのごとく、心なしか背をかがめて足早に進んでいくヒシミラクルと鷹木。そんな両者を、空港建物前で呼び止める声があった。
「あの、少しお話をよろしいでしょうか?」
「へ?え、えぇっと、いや私、シャカール先輩と単に同行しただけの、一般ウマ娘でして……。」
「はい、あなたについてのお話をお伺いできればと。申し遅れました、私、月刊トゥインクルの乙名史と申します。」
ヒシミラクルとしては初対面であったが、鷹木にはその名に聞き覚えがあった。
昨年、アグネスタキオンが活動休止を宣言する記者会見を行った際、他のインタビュアーたちとは一線を画すウマ娘への理解を示したベテラン記者である。
現時点においても、ほとんどのメディア記者たちがシャカールとファインの後を追いかけてカメラのシャッターを切るのに夢中になっている。当然、国賓クラスの存在と軽々に接触できるはずもなく、空港の警備員や護衛部隊に阻まれてばかりだ。
一方で、乙名史記者だけは、確実に返答を期待できるヒシミラクルと鷹木に狙いを定めて待ち構えていたのだ。
「突然お呼び止めして申し訳ございません、お時間に余裕がなければ移動を優先していただいければと……。」
「いえいえ、今日は宿泊場所について休憩してから、最終調整するだけですので。いくつか質問に答えるだけなら、構いませんよ。」
鷹木としても、以前の記者会見で信頼のおける相手だという印象を抱いている以上、拒む気持ちは湧いてこなかった。
乙名史記者ならば長々とこちらを引き留めるような真似はしないだろうし、数少ない質問だけで的確に情報を掴む手腕も備えているだろうためだ。
取材を受けている様を他の記者から見つけられて立て続けにマイクを向けられないよう、建物内へと場所をすぐ移した判断も好感度であった。
「ヒシミラクルさんは洞爺湖特別への出走登録がかなり早い段階で為されていましたが、先月の佐渡特別を走った時点で2週間後の出走も決めていた、ということでしょうか?」
「えぇ、それはもちろん。さすがにシビアな出走スケジュールを、急遽決めるようなことはしませんからね……。」
「おかげさまで、この2週間は鬼のようなトレーナーさんからの猛烈なしごきがありましたよ。」
口を尖らせたヒシミラクルが言葉を挟む。他の記者の前であれば今の発言も訂正させるところであったが、乙名史記者ならば曲解したり不本意な誇張を付け加えたりする心配はない。
それ以上に、乙名史記者からはどれほどウマ娘トレーナーの目論見が見抜かれているのか、そちらの方が気にかかった。
「8月初頭のレース出走が予定通りということは、8月末ないし9月頭のレースにも出走するおつもりでしょうか。」
「はい、今日のレース1度だけでは勝利まで届かなくとも、2度のチャンスがあればヒシミラクルはさらに上の舞台を目指せるはずだと考えています。」
「ということは、9月下旬の神戸新聞杯、そこで優先出走権を得ての菊花賞出走までも視野に入れておられるということですか?」
「……ま、まぁ、それに届くなら、の話ですけどね……。」
やはり的確に、鷹木の思惑に乙名史記者の推察は届いていた。ひょっとすると、この記者は並みのトレーナーを凌駕するほどの知識及び判断力を備えているのでは、とまで思われた。
そして今、そんな乙名史記者によって注目されたということ自体、ヒシミラクルにGⅠを勝たせるという夢物語に限りなく近い計画が現実化しつつあることの証左であるようにも考えられた。
鷹木は少々言葉を濁す形となっていたが、乙名史記者には十分に情報が伝わったらしい。こちらを呼び止めた時と同様に、取材の終了もあっさりとしたものだった。
「お答えいただき、ありがとうございました。お忙しいところを引き留めてしまって申し訳ございません。ヒシミラクルさんの洞爺湖特別、応援していますね!」
「はーい、精一杯走ってきまーす……ちょっとトレーナーさん。考えてたこと完全に筒抜けだったじゃないですか。タキオン先輩は、トレーナーさんは嘘をつけない人だって言ってましたけど、あまりにも隠せなさすぎじゃないですか。」
「うん、分かってる。レースで予定してる作戦とかを質問してくるような記者だったら、確実に最初から相手しないから……。」
ウマ娘を指導すること以外の能力をほぼ磨く機会がない鷹木は、大人同士でのやり取りの際、ほとんど相手が有する良識次第で助けられている現状を自覚しながら頷いていた。
空港を出て、函館レース場近くに予約していたトレーニング施設にてヒシミラクルの身体状態を見極めつつ調整を行った後、宿泊場所に到着する一行。
ヒシミラクルや鷹木と同じ宿泊場所をとっていたエアシャカールも、ファインのもとから帰ってきていた。旅館のロビーでは、既にあの窮屈な礼服ではなくいつもの紫色のパーカー姿へと戻っている。
「あれ、シャカール先輩はファインモーションちゃんと一緒にお泊まりじゃないんですか?」
「向こうもそう言ってはきたけどよ、さすがに宿は別だ。俺としては、あくまでヒシミラクルの付き添いって体で来てんだからな。」
「ほほぉ、良い距離感ですなぁ。ふつーのウマ娘としての視点から言わせていただきますと、爽やかさが保たれて一口目の味わいが続く関係性と言いましょうか。」
「あァ?なンの話だよ。」
おそらくアグネスデジタルに語らせれば今の百倍ぐらいの文字量で語られる内容を口走っているヒシミラクルを、エアシャカールは眼力で追い払う。
ミラ子が自分の荷物を引っぱって部屋へと向かった後、鷹木は今さらながらに気になっていた話をシャカールに尋ねた。
「……そういや、マンハッタンカフェに関する話はどうなったんだ?ほら、前に凱旋門賞へ挑むって言ってたけれど、タキオンが嫌な予感を抱いていた……。」
「ンだよ、まだ聞いてねェのか、タキオンが連絡したはずだが。カフェは凱旋門賞に行かねェってことで話がついてんだよ。……まァ、2週間でミラ子の奴の調整を仕上げなきゃならねェとなりゃ、他のウマ娘にかまけてるヒマはねェか。」
呆れ顔ながらも、エアシャカールはマンハッタンカフェが凱旋門賞遠征計画を中断するに至った経緯を、かいつまんで鷹木へ伝えた。
タキオンとカフェが併走を行った結果、今のカフェが何者をも追いかけていないと判明したこと。カフェの近くにいる“お友だち”は、なおのこと海外遠征を阻止する意思を強めていること。結城トレーナーも薄々感じていたのか、イーグルカフェやファルブラヴを中心とした別プランを同時に進めていたこと。
そして、黙って飲まされていたのが紅茶であることに遅れて気付いたカフェが、タキオンの顔面めがけて紅茶を噴き出した場面については、シャカール自身も面白いと感じていたのか少々細微にわたって伝えられた。
「あぁ、そういう経緯だったのか……。タキオンからは、カフェと併走する映像だけが送られて来たから、脚が無事かどうかだけを心配させられたんだが。」
「相変わらず回りくどい伝え方しやがンな、タキオン。何にしても、カフェの奴は徐々に元通りになってきてる。平気で紅茶飲んでたってのはホンの一部だ、やっぱいつものカフェ自身の精神からズレてたらしい。」
「結城トレーナーは、そこまで読み取れていたのか。カフェみたいに無口なウマ娘の内面を見抜くのは、俺にはまだ難しいかもな……ミラ子みたいに分かり易かったら良いんだが。」
シャカールとの会話の間に、ペタペタとスリッパの足音が近づいてくる。
見れば、既にくつろぐ気全開で旅館の浴衣に着替えたミラ子が、持参したシャンプーやリンス類を入れたポーチを小脇にきょろきょろしながら歩み寄ってくる。
「旅館のスタッフさん、居ませんかね。普通の浴場はあったんですけど、温泉に入れるところが見つからないんですよ。」
「ミラ子、今日のところは普通の風呂で汗を流すんだ。温泉は血行を良くする効果があるが、慎重に体の調子を整えたところで温泉に浸かると、溜まっていた筋肉内の疲労物質が通常より多く流れて明日のパフォーマンスに響く可能性がある。」
「えぇー、函館レース場といったら温泉じゃないんですか?楽しみにしてたんですけどねぇ……。」
「ウマ娘が温泉に浸かンのは勝った時だけだ、トレセン学園にはそういう伝統もあンだよ。ロジカルじゃねェけどな。」
鷹木、そしてエアシャカールから立て続けに諭され、ヒシミラクルは渋々といった調子で旅館内へと戻っていく。
昼間の空港では大勢の取材陣に囲まれて堂々と振舞っていた面々を遠く眺めていたミラ子であったが、明日の本番を前にしてあれほどリラックスしていられるメンタルを有しているのもまた、普通に収まらない性質ではあった。