函館に到着して一泊、本番前の最終調整も万全に済ませて函館レース場へと到着したヒシミラクルと鷹木。
合宿所からここまで同行していたエアシャカールは、やはりファインモーションのレース前に間に合うよう招かれていたのか、一足先にレース場へと入っていた。
控室の並ぶ廊下をキョロキョロと見回し、ヒシミラクルは荷物を運んでいる鷹木へと尋ねる。
「黒服SPさんたちが警護に立ってるおかげでファインさんの控室がどこなのかは一発で分かりましたけど、シャカールさんいませんでしたね。どこ行ったんでしょ。」
「ファインモーションの控室は、特に警備に隙を作れない場所だろうし、警護対象を増やすわけにもいかないだろうからな……たぶん、観客席にシャカールは通されているんじゃないかな。」
それもおそらく、一般客が入れないエリアだろう。函館レース場の観戦スタンドは独特な形状をしており、一般の自由席や指定席が並ぶスタンドのさらに上、張り出すように備えられた大型バルコニーが存在する。
一般客が予約を入れて指定席の料金を支払ったとしても、入れるのは3階以下、大型バルコニーよりも下のエリアだけである。
大型バルコニーの上に存在するのは、特別来賓室。レース場から直々に招待を受けた客でなければ通されることはなく、招待無しに自分の意思で入れるのは政財界の重鎮やURAの役員、地元の有力者ばかりとなっている。
仮にファインモーションの出走を応援するために、アイルランドから国賓クラスの人物が訪れているとしたら、間違いなく特別来賓室へと通されているだろうし……『ファインと特に親しいウマ娘』としてエアシャカールも同席を求められていることは想像に難くなかった。
「大型ヘリを個人所有されてる結城トレーナーを見た時も思いましたけど、我々一般庶民とは格が違う、やんごとなき方々が居るもんなんですねぇ、ウマ娘レースには。」
「そりゃまぁ、この世界の全てはウマ娘レースを中心に回っているわけだからな……。」
その後、出走前のパドックへとヒシミラクルが姿を現したときも、パドック周囲に集まっている観客たちの数が少ないことはさほど意外でもなかった。
言わずもがな、この日の函館レース場に集まっている観客たちの目当ては昨年12月以来、8カ月ぶりの出走となるファインモーションなのだ。ヒシミラクルが出走する洞爺湖特別は第10レースだったが、それより35分早く、ファインモーションが出走する条件戦は第9レースである。
この日に向けて、佐渡特別以降の2週間をみっちりと担当ウマ娘の調整につぎ込んできた鷹木としては不服に思わぬでもない状況だったが、当のミラ子はリラックスしている様子であった。
既にレース出走だけならば通算14レース目と慣れていたこともあってか、パドックから控室へと帰ってきたヒシミラクルは、気楽な様子で身体を椅子に預けている。
「また新潟の時みたいに、変な注目を浴びた割に微妙な結果で終わるんじゃないか、だなんて不安が無くていいですよ。今日のウマ娘レースについては、ファインさんの話題で埋め尽くされることでしょうし。」
「だからといって、油断していいってワケじゃないんだがな。自分自身でも、ここまでの鍛錬の成果を発揮できずに終わるのは嫌だろ?」
「分かってますって、あ、ほら、そろそろ出てきますよ、ファインさん。」
鷹木の言葉を聞き流しつつ、控室に備えられたテレビ画面へと視線を向けるヒシミラクル。
函館レース場の控室内にも、ウマ娘レースの中継だけが映る古めかしいテレビモニターが設置されていた。当然のことながら、中継画面ではアイルランドからの最高の賓客でもあるファインモーションが映る時間が殆どを占めている。
画面を眺めているヒシミラクルは緊張感とは無縁の状態であったが、それでも今まさにターフの上に出ているウマ娘たちの緊張感については気になるようであった。
「そーいや、このレースに出る子たちって、競走相手がアイルランド王女のファインモーションさんだ、ってことは知ってるんでしょうか。あんまりガチガチに緊張してる子は居なさそうですけど。」
「流石に前もって分かっているだろう、出走登録自体は。準備自体に相当の手間が掛けられているだろうし……なによりも、ファイン自身が全力での勝負を望むだろうし。」
一国の王室出身のウマ娘と競うことを急に知らされれば、動揺せずにいられるウマ娘はほとんどいないだろう。
それも中央のGⅠで走っている面々ならばいざしらず、条件戦の1勝クラスで走っているウマ娘たちならばなおさら、ファインモーションという名に畏怖を感じてもおかしくはない。
が、他のウマ娘たちと共に本物のレースを競いたいというファインモーションの意向は、きっちりと実現されたのだろう。
競走相手たちへの不意打ちにならぬよう十分な周知が行われた結果か、アイルランド王女ウマ娘と並んでゲート入りしている顔ぶれに狼狽えた様子は一切見られなかった。
〈函館レース場、第9レースは1勝クラス条件戦であります。涼し気な風が吹き渡る中、バ場状態は良、まさに絶好のコンディションです。全ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました!綺麗に揃いました、まず外を突いて上がってきましたのはプリティジュエル、続いて中から1番人気ファインモーション。更にウチを突いてヒナゲシが並び、そのすぐ後にショウワシングンが続き、先頭集団を形成しています。まずは一周目の直線、大歓声を浴びてウマ娘たちが進んでいきます。〉
さすがに実況アナウンサーの声はファインモーションの名を読み上げる際に少々硬さが表に出ていたが、ファインと並んで駆けだしていったウマ娘たちは全力で勝負を挑んでいた。
デビュー戦の際は単独で先頭に立ち続け、更に後続を突き放すという驚異的な走りを披露したファインモーション。だが今回は、ファインモーションよりも更に前を逃げるウマ娘や、取り囲むようにマークするウマ娘が迫った結果、先頭に集団が固まる形となっていた。
「最初っからペース上げてってますねぇ、やっぱ先行有利ってのは皆分かってるみたいですね。」
「あぁ、ミラ子もよく見ておけよ。お前が出るのは2勝クラスだから、これよりも更に序盤の攻防は激しくなる。」
まったりと観戦する姿勢だったヒシミラクルも、自然と前のめりになって画面の中の走りを注視している。
ひとたびレースが始まれば、出走しているウマ娘の素性の差など消え失せる。包囲される形でありながら、ターフ上のファインモーションはこの上なく生き生きと脚を速めていった。
〈1コーナーを回っていきます、中団はショウワシングンに並ぶようにロイヤルウエスト、さらにウチを突いてメジロタイム。それを追うようにアマーレ、外を回ってテイエムタフネス、この辺りほとんど差が無くアプロディッセ、ルナティックラヴ、さらにライブインザムーンが並んで中団後方。テンジンオーカン、あるいはマイネルタイトルと続き、トワイライトラナイ、メジロヴィーナスが並んで最後方といった形で、間もなく2コーナーを抜けて向こう正面の直線へと出ます。〉
先頭から最後方までの差はさほど開いておらず、どの位置に居るウマ娘も先頭を捉えられる圏内に身を置き、また抜け出せる位置を探り合いながら脚を進めている。
1勝クラスの条件戦らしい光景ではあったが、しかしデビューして2年目、3年目のウマ娘も含まれているだけに、油断すれば即座に勝機を持っていかれる緊迫した展開であった。
「あんだけ後ろから蹄音が迫ってきていたら、前の方で感じるプレッシャーは相当でしょうねぇ……」
「あぁ、だが先頭のウマ娘も意識してペースをコントロールしている。1勝クラスとはいえ、ルーキーってわけじゃないからな。」
ヒシミラクルはあまり経験することも無いだろうが、先頭に立ち続けてなおペースを崩さずにいるのも容易いことではない。
現在、先頭に立っているプリティジュエルはファインモーションよりも1年上の先輩にあたるウマ娘であった。1勝しか出来ていない状態で2年目、なお諦めず現役レースを続けているだけに、その技術は並みならず磨かれているのだろう。
そして、ファインモーションは相手の実力を理解したように、そのプリティジュエルのすぐ背後にぴたりと収まったまま、2番手の位置をキープしていた。
〈先頭変わらずプリティジュエル、2番手はファインモーションですが、ここで外を回ってショウワシングンが後ろから上がってきた!まだ向こう正面の直線ですが、ショウワシングン2番手へと並びかけています、残り800を通過。先頭集団に続くはヒナゲシ、こちらもほぼ差のない状態で並んでいます。さらに後方、ルナティックラヴ、さらにはアプロディッセも外に持ち出してじわじわと前へ迫ってきた、間もなく3コーナーへと入ってまいります。〉
カーブを回り切って4コーナーを抜ければ、残りは200m弱の直線ばかりが伸びているのみである。
やはりファインモーションの最後の末脚、後方を一気に置き去る加速は他の競走相手たちも十分に警戒するところなのだろう。最終コーナーに入る前に、前へと間合いを詰める動きを見せるウマ娘たちは続出した。
既にこのレースの出走者たちの中で、ファインモーションの認識は「アイルランドの王女」ではなく「食らいついて勝つべき相手」へと変じていた。
「どんどん上がっていきますね、皆さん。……こんだけ囲まれた状態ではファインさん、いくら2番手の位置につけていても最後抜け出せないのでは?」
「いや、ベテランの逃げウマ娘の背後につき続けて、ファインは余計な体力浪費をしていない。実力相応の末脚を期待できるんじゃないか。」
一気に加速する感覚をなかなか実感的にイメージできないヒシミラクルは、画面の中のファインモーションの状況を案じていたが……鷹木は既にファインの作戦が順調に完成していることを読み取っていた。
位置取りの駆け引きや、ペース配分の判断を細かく求められず、走りを維持し続けるだけに集中できたウマ娘は、それだけ体力の温存も容易いのだ。
そして、そこに十分な身体能力が組み合わされば……勝利はほぼ必然となる。
〈4コーナーを抜けて直線へ向きました、先頭はプリティジュエルですが、ここで2番手ファインモーションが一気に末脚を使って前へ出た!3番手のヒナゲシも粘っている、大外からライブインザムーンが上がってくるが、ファインモーション既に独走状態!完全に抜けた、これは余裕だファインモーション!4バ身、いや5バ身の差をつけて、一気に駆け上がって悠然とゴール!!圧勝です、ファインモーション!二着のプリティジュエルに、5バ身の差をつけての勝利です!〉
ゴール板前を駆け抜けたファインモーションは、心地良く走り抜けた感覚を味わうようにゆっくりと減速しつつ、片手を観客たちへと振り返して大歓声を受け止めていた。
その視線が、時おり一般の観客たちよりもずっと上へと向くのは……特別来賓室のある大型バルコニーに、アイルランドからの国賓、そしてエアシャカールが居並んでいたためでもあったろう。
ゴールの瞬間から数秒間、ポカンと口を開けて画面を見つめていたヒシミラクルであったが、鷹木とほぼ同時に忘れていた呼吸を再開し、深く溜息と共に声を吐き出す。
「ほぁぁ……いや、ファインさんのデビュー戦が凄かったのは覚えてますけど、久々の実戦であんだけ、圧勝まで行きますかね。」
「二着のプリティジュエルだって、三着には1バ身以上の差をつけている。条件戦クラスじゃ確実に強い部類に入るウマ娘のはずだが、ファインモーションが別格すぎたな……いや、呆然としてる場合じゃない、ミラ子、地下バ道に向かう準備だ。」
鷹木は時計に視線を走らせ、ヒシミラクルを急かして立ち上がらせる。
次のレースまでは30分以上の間があるが、体を温め、そして幾度も繰り返した練習の感覚を完璧に取り戻させるために、時間を無駄にしている場合ではない。
他の控室のウマ娘たちも、今のファインモーションの走りを画面越しに観戦していたのか、慌てたように控室のドアが開いて小走りで駆けていく蹄音が廊下に響き始めた。
「余韻に浸っていたいのは山々ですけど、私も頑張んなきゃ、ですねー。」
「ホントに気を引き締めてくれよ、洞爺湖特別は2勝クラスなんだ、今以上にレベルが高いレースになるんだから。」
他のウマ娘たちが同様に気を緩めているとはとても思えない状況で、なおノンビリとした口調を続けているヒシミラクルを案じつつも、鷹木は彼女の足取りを凝視しつつ地下バ道の向こう側へと送り出した。
何よりも、今回ヒシミラクルは2番人気である。前回のレースで三着であったことを思えば、やはり周囲からの警戒はそれなりに集めてしまうものと思われた。
「まぁ、今回の作戦はむしろ焦らない方が上手くいく……はずだ。」
佐渡特別では先行に迫る勢いで序盤から上がっていったところを、元より先行策を得意とするウマ娘に逃げ切られている。
同じ手を二度使えば周囲からも対策されやすい、と判断した鷹木は、この函館での洞爺湖特別にて異なる作戦をミラ子に指示していた。
担当トレーナー用の観戦ブースに出てくると、観客席はなおも先ほどのファインモーションの走りで沸き立った熱が冷めやらぬ様子であった。心なしか、これから始まる洞爺湖特別に目を向けている数が少ないようにも思われた。
〈第10レース、洞爺湖特別の発走時刻目前となりました。変わらず雲に覆われた空でありますが、芝状態は良となっています。枠入りも済みまして、全ウマ娘体勢完了。……スタートしました!まずまず揃ったスタート、さて先行争いですが、まず上がってきましたのはアイアムツヨシ、続いて外からセンターダイナが前へと向かいます。さらに並んで今回1番人気のニシキオーカンが3番手、続くはプレジオ、さらにウチに並んでスキャンボーイ、この辺りほとんど差が無く続いています。〉
先ほどのレース同様、やはり直線が短くコーナーの占める割合が高い函館レース場では、先行の位置にウマ娘が殺到しがちである。
ひとまず、鷹木は今回ヒシミラクルに出した指示が間違いではなかったと胸をなでおろしていた。このレースでは、後ろ目に下げた位置から仕掛けるようにと指示していたのだ。
「いくら前目につけていても、あんなに混戦状態になる中に放り込まれたら、ヒシミラクルの体格じゃ押し込まれっぱなしになってしまう。まずは良い位置を取ることに集中しろ、ミラ子……。」
鷹木の脳内には、新潟から合宿所へと帰った後に目にした、タップダンスシチーの函館記念の状況がこびりついていた。同じく函館レース場での競走であったが、先行の好位置につけていたタップは後方から上がってきた集団にコースを塞がれ、前に出られず八着という結果に終わっていたのである。
とはいえ、現在ヒシミラクルがつけている位置にも、何ら不安が無いわけではなかったが。たしかに出走枠は13枠と外側だったため、外を塞がれて動きを封じられる恐れは最小限である。
だが今、ヒシミラクルは後ろから4番手につけており、こちらも最後方に陣取るウマ娘たちからマークされる位置には違いなかった。
〈最初の坂を下っていきまして1コーナーへと入ります、先行集団はかなりの混戦模様、スキャンボーイのすぐ後にマチカネキモッタマ、そしてほとんど差が無くイングランドシチー、ビーファイター、ミスキャストが続きます。中団後方にはディープカレント、あるいはブランディス、さらに続きましてメジロアービン、その外を回って今回2番人気のヒシミラクルが追走。ハリケーンルドルフ、サンエムサテュロスも並びまして、最後方にグランツスワンといった形になっています。〉
人気度の高いウマ娘は前方に集中していたものの、さりとて他の面々が実力に劣るというわけでもない。
中団につけているミスキャストは、弥生賞や皐月賞、さらに安田記念にも出走したGⅠ経験者である。ほかにもGⅡ経験者としては弥生賞に出たブランディス、スプリングステークスに出走したビーファイターなども名を連ねている。
「ミラ子、分かっているか、あまり後ろに居すぎると、お前の加速ではゴール前に届かない恐れがあるぞ……よし、徐々にだが前へ出始めたか……?」
ひとまずスタート直後の先頭集団の混戦には巻き込まれずに済んだヒシミラクル。しかし現状の、後ろから4番手の位置取りのままでは勝てないことはミラ子自身も理解している。
いかにも読まれやすいミラ子の作戦であったが、どうにか気づかれないようじわじわと前へ位置を上げ始めるヒシミラクル。だが、2番人気となっている彼女へのマークがそうそう簡単に外れるはずもない。
〈2コーナーを抜けて向こう正面へ。先頭は1000mを通過、ここで中団から一気にマチカネキモッタマが上がって先頭に立った!やはり向こう正面で展開が動きます函館レース場!かなり早いタイミングでの仕掛けでしたが後続はどうか、ブランディスがじわっと上がって9番手、さらにイングランドシチーも外目につけて前へと出る、最後方からはハリケーンルドルフもやはり外に出して駆けあがってきました。残り800を通過、入れ替わりは激しいですが1番人気ニシキオーカンは3番手辺りをキープしています。〉
向こう正面の直線を進んでいる間に、出来る限り前へ上がっておきたかったヒシミラクルであったが……立て続けに前へと順位を押し上げた面々がコース外側を占拠しており、思惑は遮られた。
むしろ後ろから2番手という位置にまで下げられてしまい、こうなっては取るべき選択も限られてくる。
「いや、まだだ、まだ諦めるなミラ子、落ち着け……お前のスタミナなら多少外を回らされてもコーナーで順位を上げることは出来る……いや、そこで集団に捕まったら、ますますキツいか……!」
実際にレースを走っているヒシミラクルに聞こえるはずもないのに、鷹木は必死でここからの作戦を考え、ブツブツと独り言を続けていた。
この難局でどう判断するか、それは実際に走るわけではない担当トレーナーも、本気になって思考を回転させるべき課題であった。現状は、前へ前へと上がっていこうとするウマ娘集団で、コースは外側まで大きく塞がれている。
最適解は、むろん激しい位置取り争いを制して先行の位置に居座り続けることであったが……ヒシミラクルに出来る作戦は、そうではなかった。
〈3コーナーから4コーナーへ、マチカネキモッタマ変わらず先頭でリードは1バ身、2番手にアイアムツヨシ、センターダイナが並んでいるが、その外から上がってきたのは1番人気ニシキオーカン!残り400を切りまして、さらにディープカレントが外に出して前の様子を窺っている、その前にプレジオがこれは先頭を狙う体勢か、さぁ下り坂に入って全体のスピードが乗り始めた、4コーナーを回り切って直線へと向かいます!〉
既に勝利圏内に脚を進めている面々は、前を塞がれず先行の位置へと踏み込んでおり、まさに絶好のペースで盤面を進めてきたという体である。
一方、今のところ一度しか実況で名前を上げられていないヒシミラクルは、相変わらず後ろから2番手の位置であった。が、ここまでの経験はきちんと生かされているのか、ちゃんと前へ出られるよう塞がれぬコース取りをヒシミラクルは見出していた。
「いいぞミラ子!行け!行け!お前がいちばん速い!いちばん余裕ある!勝てるぞミラ子!!」
まるで、ヒシミラクルを担当し始めたばかりの頃のように、鷹木は声を張り上げていた。
その時には既に、観戦スタンドの観客たちもレースへの熱狂を高めており、大歓声の中でたったひとりの叫びは埋もれてしまっていたが……ヒシミラクルは鷹木の思いに呼応するかのごとく、猛然と加速を開始した。
(いやキッツいですって!さすがに、こんな後ろから一気に上がるの、私の得意分野じゃないですって!このコースで有利な走りでもないですし!)
胸中で盛大に愚痴を吐き出しながらも、ヒシミラクルは懸命に自らの脚に鞭打って前へ迫っていく。
彼女の長所は、確かに万全に発揮されていた。ここまで約1800mを走り抜いてきた面々の中で、たったひとり、いっさい消耗していないも同然のスタミナが末脚を支えていたのだ。
〈先頭はマチカネキモッタマに代わりニシキオーカン、しかし外からプレジオが上がってきた、残り200!ディープカレントもウチを突いて上がってくるが、ここで大外からヒシミラクル!最後方からヒシミラクル、物凄い末脚だ、14番手から、一気に上がってくる、先頭に並んだ!先頭のニシキオーカン粘っている、だがプレジオか、さらに大外のヒシミラクルか!ほとんど並んでゴールイン!!猛烈な追い上げを見せましたがヒシミラクル、半バ身の差でプレジオの勝利でしょうか!〉
ほとんど最後尾から、先頭に並ぶまで。残り200mを切った最終直線でのヒシミラクルの追い込みは、函館レース場の観客席をこの日一番の歓声で包んだ。
とはいえ、鷹木としては悔いる結果に違いなかった。まもなく確定のランプが灯った掲示板において、ヒシミラクルは三着であり……上がりハロンは以前、デビュー前に敗れた時と同様、最速だったのだ。
「加速だけは、出走者のなかで一番……それでいて勝てないのは、やはり最初に出した指示のミスか……いやでも、あの混戦状態に巻き込まれるリスクをおしてまで先行させる判断は……うーん……?」
鷹木は腕を組み、眉間に深い皺を刻みながら、ヒシミラクルが帰ってくるのを迎えるために控室へと戻る。
ほとんど自分の足元だけしか視野に入っていないほどに俯いていた鷹木は、控室の前に何者かが待ち構えている様に気づくのが遅れていた。
「あぁ、ミラ子、もう戻って来てたのか。まずは体を休めるために部屋に入って……」
ボソボソと喋りながら視線を上げた鷹木は、その相手が想定していた存在とは全く異なることに気づき、そしてその正体に数秒遅れて気づき、顔面蒼白となってたじたじと後ずさった。
そこに満面の笑みで立っていたのは、ほかならぬアイルランド王女ファインモーションであり……ついでに、黒服のSPたちがずらりと横に並んでいた。
相対している黒服集団のサングラス内に、鷹木は自分があまりにも腑抜けた表情をしている様が映っているのを見ていた。ファインモーションはまるで動じる様子も無く、笑顔と共に口を開く。
「ごめんなさい、急に来ちゃって、驚かせてしまったかな?でも私、ヒシミラクルちゃんにぜひご挨拶したくって。今のレース、すごく感動したもの。あれだけ後ろに居たのに、短い直線で先頭に追い付いちゃうだなんて。」
「え、あ、ど……どうも……お褒め頂いて……結果は三着、だったけれど……。」
「勝ちは逃しても、強いウマ娘の走りだって、観客の全員が分かったと思うよ。あ、ヒシミラクルちゃん!おーい!」
未だに、物々しい黒服のボディガードたちを前にして冷や汗をダラダラと流している鷹木であったが、ファインモーションから呼ばれたヒシミラクルは多少意外そうな表情を見せただけで、すぐに寄ってきた。
本番レースを終えて戻ってきたばかりだというのに、殆ど息切れもせず汗を流し過ぎてもいないヒシミラクルは相変わらずであった。
「ねぇ、ミラ子ちゃん、さっきのあの末脚、一番の加速だったね!夏前に併走練習した時よりも、もっと速くなってる!やっぱりいっしょに行けるよ、有馬記念!」
「えぇー……確かに、あの時よりは成長したつもりだけど……どうかなぁ、ファインちゃんと同じクラスに行けるかなぁ、私。GⅢに手が届けばいいんだけど……まぁ頑張ればオープンクラスにはあがれる、かなぁ……?」
「GⅠ行けるよ!きっと、今年の有馬記念、一緒に出よう!」
「いやいやいや……そんな簡単に……。」
ヒシミラクルは助けを求めるように鷹木へと目を向けるが、当の鷹木はすでにアイルランド王女とボディガード集団を前にガチガチに緊張してしまっており、調子を合わせられる状態ではない。
とはいえ、鷹木の目論見が上手くいけば、実現の可能性がゼロではない夢ではあった。8月に入って間もない今、レースをこなしたうえで、8月末ないし9月の頭に次の一勝を上げ、神戸新聞杯への出走に間に合わせられれば……菊花賞への切符が手に入るかもしれない。
そして菊花賞でも勝つことが出来れば、もしかすると、年末の有馬記念にヒシミラクルが出走するという未来とて、ありえないものではなくなる。
いずれにせよ、今はまだ実現を断言できないそんな内容を、鷹木は堂々と語れる人間ではなかった。
「あぁ、が、頑張ったら、有馬、行けるかも、な、ミラ子……。」
「トレーナーさん……!?そんな前提からしてあやうい約束、出来ないですって……。」
「きっと行けるよ、年末の中山レース場で会おうね、ミラ子ちゃん!」
望んでいた助け舟を出さないトレーナーに対し困り顔のヒシミラクルを前にして、ファインモーションはにこやかに握手を交わし、そして次の予定があるのかSP達に促されながら去っていった。
とはいえ、困惑するヒシミラクルの目の内には、完全に途方に暮れる色ではなく、いつも通りに楽観的な心境が覗き見られるようでもあった。
他の存在から言われる内容ならばいざ知らず、はっきりと尋常の存在とは異なるファインモーションが口にした将来の約束は……何故か、実現し得るものであるように聞こえたのだ。
先月の売布特別前の併走で言われた時よりも、1か月分先に進んだがためか、ファインの語る将来の信頼性はいよいよ強固なものとなったようだった。