毎年、同じことを繰り返す異変はウマ娘レースだけで起きていることではない。天体の運行までも、毎年同じとなっていた……一見、それは異変ではないようだったが、しかし地球と公転周期が異なる惑星の運行は毎年同じように見えるはずがない。アドマイヤベガ、エアシャカールも参加し、今年の合宿においても観測会が開かれることとなっていた。
8月初頭のレースを終えて合宿所へと戻ってきても、鷹木の務めは担当ウマ娘たちを秋以降のレースに勝たせるため専念することに変わりない。
屈腱炎が治癒したばかりのアグネスタキオンについては、これまで様子を見ながら徐々にトレーニング時の負荷を上げてきていたが、秋の天皇賞への出走を想定している以上、8月の時点で本腰を入れた鍛錬へと移る必要がある。
またタキオンとは違って、一気に大舞台へ上がるだけの切符を手にしていないヒシミラクルについては、さらにタイトなスケジュールでの調整及び出走を用意せねばならなかった。
「ミラ子、次の出走は9月8日の野分特別だ。以前勝った売布特別と同じ、阪神レース場での開催で、距離は2000m。これまで繰り返してきた中でも、ミラ子に有利な条件が揃ってる。これで実力を証明し、神戸新聞杯を目指すぞ。」
「そりゃ私だって、あとちょっとで勝てるとこまで行ってる実感はあるんで、次こそとは思いますけど……2勝クラスの特別レースから、ひとっ飛びにGⅡレースなんか出走できるんですか?」
「心配することじゃない、出走登録する権利は充分にあるんだから。ミラ子は練習に専念するんだ。」
ヒシミラクルに対してはそう言ったものの、菊花賞への優先出走権が得られるトライアル競走、神戸新聞杯に出ようとする希望者は殺到することが容易に想像できる。
あと一勝を上げれば、その狭き門を通りぬけられる可能性が高まることは間違いなかったが……それでも、現状のヒシミラクルと同等の実績を上げているウマ娘は数多く存在するのだ。
いずれにせよ9月の野分特別で結果が出せない限り、神戸新聞杯への出走登録自体厳しくなる。ヒシミラクルは、少なくともクラシック級の年には、条件戦クラスのウマ娘という立場から脱せなくなってしまう。あと一か月の間、担当ウマ娘を目指す舞台へ連れて行けるか否か、鷹木は己の精神を焦らし続けることになる。
間もなくトレーニングを開始したヒシミラクルの足運びを、汗をダラダラと垂らしながら険しい目で見つめていた鷹木であったが、突如頭にひんやりしたものが被せられて顔を上げる。
傍らには、いつの間にかアグネスタキオンの姿があった。
「帽子のひとつでも被りたまえ、熱中症で倒れられても困るねぇ。殊に首筋は比較的体表に近い部位を動脈が通っているために、体温の際限ない上昇の一因となってしまうねぇ。私が開発した特製の帽子を活用するといいねぇ。」
「スポーツタオルと帽子を重ねただけじゃないか……ありがとう。」
実際、鷹木の脳内はヒシミラクルのレース実績を条件戦クラスに終わらせてしまうか否かの瀬戸際、その不安に占められていたし、8月の日射に熱せられていたため現状へ常通りの判断を下せない状態にも近かったかもしれない。
アグネスタキオンから気遣われ、それに対し自分が礼を言った……というやり取りが、あまりにも稀に過ぎる事象であったことに気づかされるまで相応の時間を要した鷹木。
ハタと顔を上げた鷹木であったが、被された帽子の鍔が視界の上半分を遮り、アグネスタキオンがあわててこちらから視線を外す動きを首元に見出したのみであった。
帽子とタオルは前もって適度に湿らされ、冷蔵庫に入れられていたのか、炎天下でも涼やかさをしばらく保っている。タキオンが、自分の担当トレーナーのために済ませた念入りな準備、心遣いが鷹木の脳内を澄みきらせていった。
こちらに話しかけるタキオンの声色だけは、平常通りを装っていた。
「ときにトレーナーくん、私とアヤベ先輩は今夜、天体観測会を行うことになったのだが……キミも参加するかい?」
「……なんか、ずいぶん早いな。予定してたのは8月末じゃなかったのか?確か、大接近する火星が最も見やすくなるのは、9月近い時期だって話だった気がするが。」
「9月が近づけば、ヒシミラクルくんのトレーニングも大詰め、キミも夜更かしなどしていられないだろう?それに……私としては、認識を共有しておきたい人間が欲しいんだ。」
タキオンは、敢えて“人間”という表現を用いた。それはむろんウマ娘ではない者であり、この現実世界でウマ娘が新たな可能性を開くきっかけを与える、担当トレーナーがその最たる存在だ。
本来の予定よりも天体観測のスケジュールを大幅に前倒ししてまで、トレーナーたる鷹木が同席しやすい条件を整えたタキオンには、相応の考えがあるに違いない。
「わかった、一緒に見よう。ヒシミラクルも来れれば、良い気晴らしになるかもしれない。」
「私としては共同の観測者が多いに越したことはないが、しかし彼女はきっと夜になれば爆睡するだろうねぇ。」
練習コース上を駆けていくヒシミラクルの走りを見つめながら、タキオンは言った。
確かに、ヒシミラクルの走りは以前にも増して力を込めたものとなっていた。彼女自身、自分が来月の野分特別で勝利することをいよいよ現実的に感じているのだろうし、うまくすれば神戸新聞杯から優先出走権を得て、菊花賞へと進むビジョンも描けているのかもしれない。
8月の陽射しの下、ますますもってトレーニングに本腰を入れていたのはヒシミラクルばかりではなかった。入浴や夕食を済ませて間もない時間帯、早くもウマ娘らの寝室からは盛大にイビキが響いている。
その日の夜、星々が瞬き始める宵闇のグラウンド上に集った面々は、アグネスタキオンとアドマイヤベガ、そしてエアシャカールである。
鷹木も、約束に応じてグラウンドへと出たが、昼間ミラ子のトレーニングにつきっきりになっていた分の体力消耗ゆえに、睡魔に襲われぬ保証はなく、ブラックコーヒーの缶を数本ポケットに忍ばせていた。
「やはりヒシミラクルくんは真っ先に眠りに落ちていたねぇ、風呂から上がって満腹になったら素直に睡眠欲へ身を委ねる、まさに健全なウマ娘だねぇ。」
「俺が今まで見てきたウマ娘の中でも、安定感だけは間違いなく群を抜いているな、ミラ子は。」
タキオンとやり取りをしつつも、鷹木は夜風を吸いながらウロついていた。椅子は用意されていたが、早くも肉体的疲労が押し寄せてきつつある実感ゆえに、じっとしていたらそのまま眠気に沈んでいきそうだったのだ。
直後、シャカールから鋭い声が飛んだおかげで、眠気だけは退散させられたが。
「おい、あんまウロウロすんじゃねェ。三脚やらコードやらに脚を引っかけて倒したらどうすンだ。」
「仮に観測機器を壊されたら、トレーナー相手だからって大目には見ないわよ。高いんだから、きっちり弁償してもらうわ。」
「ご、ごめん……。」
アドマイヤベガからも注意を受け、鷹木は縮こまって結局用意された椅子に収まることとなった。
確かに、ここに並んでいる観測機材は、中央トレセン所属のトレーナーとて弁償するにはあまりにも高額なものばかりである。昨年ほど大型の望遠鏡ではないが、タキオンが持ち込んだカタディオプトリック式鏡筒と高精度赤道儀のセットなどは、周辺機器も合わせれば100万は下らないだろう。
観測機材に装着したカメラ、その画像を保存するPCとケーブルが有線で繋がれていることもあり、シャカールの言う通り下手にウロつかないに越したことはなかった。
タキオンが生き生きとした様子で、星空のあちこちに望遠鏡を向けている様は楽しげであったが、一方で手持無沙汰になりつつあった鷹木は尋ねる。
「……それで、大接近中の火星はいつ見れるんだ?去年と同じ時間帯に上がってくるのか?」
「まぁ、本来は去年に引き続き今年も火星の大接近が発生すること自体、非現実的なのだがねぇ。その前提はさておき、各種メディアが書き立てている予報を信じるならば、21時ごろに地平線から上がってくるはずだねぇ。」
「そして22時ごろに南中するわね。7月よりも早い時間帯だから、少なくとも鷹木トレーナーが寝落ちする前に観測できるはず。」
地球と公転周期がずれている火星が、毎年、全く同じ時期に接近してくることがあり得ない……という話は、鷹木もたびたびタキオンから聞かされている。
それでも、世間が夏休みシーズンに入り、テレビ番組やネット上で子供向けのコーナーが組まれるたびに触れられる火星大接近の話題を見れば、一般人の視点からは例年のイベントとしてごく当たり前の出来事のようにも感じさせられた。
「いやはや、素人同然のメディア連中はさておき、この国の、いや世界中の本職の天文学者は違和感のひとつも抱かないのかねぇ?」
「データ上はロジカルなンだろ。去年だって、2年前に火星大接近が起きたって記録はことごとく消えてた。毎年同じ展開を見せるウマ娘レースの時と同じようにな。」
それは確かに類似した現象であった。ウマ娘レースにおいても、2年前から毎年同じ展開、同じ結果をなぞるように繰り返すという現象が見られたが……前年度のレースデータが消えており、以前の繰り返しであると気づけるのは昨年度のことを覚えている者たちの記憶によってのみであった。
ウマ娘レースを中心に回る、この現実世界が明らかに異変を抱えていることは、毎年繰り返す火星大接近、ならびにそのことが異常だと気づかぬ世間の様相によっても見出されたのだ。
「けれど、今年は昨年のようにはいかないねぇ。私は去年の火星大接近の観測結果をきちんと記録したし、データのバックアップも取っている、更には印刷して紙媒体でも複数保管しているからねぇ!」
「……そろそろ、火星が地平線から見えてくるはず。」
タキオンの言葉を遮るように、アドマイヤベガが時計を確認して告げる。スマホの光は明るすぎるため、星の観測に慣らした目の状態を変えぬよう、蓄光の時計盤を用いている。
確かに時刻は午後9時を過ぎていたが……昨年の様に、素人目にも異様に赤く眩く見える火星は、上がってこなかった。
お喋りの口数も徐々に減ってきたタキオンは、シャカールとアヤベと共に地平線付近の星空を念入りに観測し、目立つ恒星の位置を確認もしたが、やはり火星の姿は無い。
そうしている間に小一時間が経ち、既に大接近中の火星が南中しているはずの時刻となってもなお、とうとう火星の姿は見られることなどなかった。
今年の火星は、大接近など起こしていない。
ごく当たり前の現象として、惑星が昨年と全く同じ位置に観測されるはずがない。
完全に夜の暗がりの中であったが、タキオンらが顔色を変えていることは、鷹木にも雰囲気だけで伝わってきた。シャカールの声色は、はっきりと焦燥の色を帯びていた。
「どーなってンだよ。いや、これが本来正常なンだよな、去年、火星大接近が起きた事実がある以上は……。」
「しかしだねぇ、今年も火星大接近が起きると騒いでいた連中はどうなっているんだい。今日の昼に確認した時点でも、火星大接近特集を組んだ記事はネット上にいくらでも見つかったんだがねぇ。」
「私たちはあまり夜更かしするわけにはいかないから、7月中に観測は行っていなかったけれど、だとしても7月時点で大接近なんて起きていないことは分かっていておかしくないはず。そもそも、惑星の軌道が急に変わることなんてないんだから、もっと前に正確な予測が立っていていいはずよ……。」
タキオンも、アドマイヤベガも半ば狼狽えた声色で喋り合っている中、シャカールはPCのタップ音を響かせていた。
火星大接近が2年連続では発生しない、というのは現実的なことなのだが、だとすれば今年も火星大接近が起きると書き立てていたメディアの記事は、間違いだと分かった後も堂々と掲載されていたことになる。
さすがにグラウンドの真ん中ではネットに繋ぐための電波が届いていなかったのか、シャカールは苛立たし気にケーブルを引き抜き、合宿所建物付近まで走っていき、あらためて画面を覗き込んでいる。
戻ってきたシャカールは、困惑と苛立ちのまじりあった声で語った。
「全部消えてやがる、今年の火星大接近関連のニュース記事は。それだけじゃねェ、ンなことがあったらSNS上がメディア叩きの声で溢れてもおかしくねェんだが、誰ひとりとして、火星大接近のニュースが間違いだったことに触れてねェ。」
「最初から……何もなかった、と世間は認識しているということかねぇ……?」
タキオンは茫然と呟いた。
本来の観測目標が存在しない、となれば夜風に体を冷やし続けるのも良くない。不可解さから逃れられないウマ娘たちを鷹木は促し、ひとまずは観測機器とともに建物内へと撤収させた。
鷹木自身も気になって自前のスマホで調べたところ、「火星大接近」の検索ワードでヒットするのは昨年の現象についての記事ばかりであった。
今までに見いだされた異変とは、種を異にしていた。あり得ない繰り返しが例年の様に続いていたのが、急に途切れたのだ。
多少なりと顔色を失っているアドマイヤベガとエアシャカールを前に、少々時間をかけて思考を整理し終えたタキオンがおもむろに口を開く。
「まず……私たちの認識が共有されていることは、確認しておこうかねぇ。たった今、火星が観測できない様を確認するまでは、たしかに昨年同様に火星大接近が起きることが世間のニュースとなっていたねぇ?」
「そうね。それはあり得ない現象のはずだったけれど、去年まではそのあり得ないことが……毎年のように火星が大接近を起こすことが観測できていたわ。」
アドマイヤベガも、自分が喋っている内容によって自身が惑わされぬよう、注意深く言葉を選びながら返答している。
黙りこくっているエアシャカールにもタキオンは視線を向け、シャカールが口を開こうとしていないことを確認してから喋りを続けた。
「そして今、火星が昨年通りの位置に観測されないことを確認した途端、火星大接近は今年発生しないと世間が認識している“ことになった”というところ、かねぇ……?」
「ドッキリじゃねェだろうな?俺たちが目にするニュースだけ、本来とは違う内容を敢えて見せてた、みてェな。」
シャカールから鋭い視線を向けられ、むろん鷹木は冷や汗を飛ばす勢いで激しく首を横に振った。
ただでさえ、情報収集の過程を疎かにしないエアシャカール、アドマイヤベガ、そしてアグネスタキオンが相手である。利用するメディアも多岐にわたる彼女らに、偽のニュースを信じ込ませることなど出来る存在などいないだろう。
信じがたいことではあったが、今ここでタキオンらが現実を観測した結果、世間の認識が全て塗り替えられた……との状況に違いはなかった。
「だが……もしかすると、これは悪くない方に向かっている結果なのかもしれないねぇ。」
沈黙の中、タキオンはボソッと呟く。
怪訝そうに見つめてくるアドマイヤベガ、エアシャカール、そしてまだ状況を呑み込み切れていない鷹木の茫然とした視線を受け止めながら、タキオンは語った。
「世間の認識が急に切り替わることは確かに異常だが、火星大接近が毎年発生し続けるという異変は消えたのだからねぇ。同じ現象を繰り返すことから脱した、という点では、世界は異常をひとつ排除したとも取れるのではないかねぇ。」
「言われてみれば、ウマ娘のレースでも……毎年同じ展開を繰り返す異変が、徐々に崩されつつあるものね。」
「ロジカルじゃねェ状況には変わりねェけどな。データは集めねェと、何も断言できねェ。」
手放しに安心できるものではないにせよ、タキオンの解釈は多少なりとアドマイヤベガやエアシャカールの表情を晴れさせたようであった。
一方、ウマ娘のトレーニングを見ること以外については素人そのものな鷹木は、ただただ目を白黒させるばかりの状態が続いていたが……タキオンは、そんな彼に一つの頼みを告げた。
「秋以降は忙しくなるだろうが、確実に会っておきたい相手が居るねぇ。向こうもきっと暇などないだろうから、早めにアポイントメントを取っておいてもらいたい……ネオユニヴァースくんと会うために。」