探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 このウマ娘が存在する現実世界の異常が、容易に観測できるほどの規模になりつつある現状について、アグネスタキオンが相談することのできる数少ない相手、エアシャカール。あくまでもシャカールは「ロジカル」に、すなわち現実的に考えられる域でのみ話を進めるつもりではあったが、しかし非現実的な現象が発生していることは否めない。毎年同じ展開が繰り返される異変、そして不自然に遠く聞こえる観客の歓声。その日ファインモーションの出走する阿寒湖特別でも、可能性世界による干渉は確認できるものであった。


空白を埋めるは揺るがぬ思い

 今年度の夏、鷹木トレーナーと片桐トレーナーは共に、いっそう慌ただしく過ごすこととなった。

 

 片桐の方はタップダンスシチーの次なる出走が9月初頭の朝日チャレンジカップへと決まり、8月も末へと近づけば最終調整のために余念がない。函館記念では八着と振るわぬ結果に終わったが、トレーナーとしての見立てはタップの本格化を確実に見出しており、GⅢレースでの勝利が今年度中にGⅠクラスへ出走する土台となり得る正念場である。

 

 無論、片桐が同時に担当を抱えているウマ娘、クラシック級の二冠目を狙って菊花賞へと出走するノーリーズンからも目を離せない。

 

 鷹木はといえば無論、ヒシミラクルの野分特別出走への準備に専念するばかりである。こちらもタップ同様に9月初頭のレースで秋以降の方針が決まる状況であり、あとひとつ有利な条件が揃えば勝利を掴めるというレースを繰り返した今、神戸新聞杯という登竜門へとミラ子を届かせることも十分に現実的となっている。

 

 秋以降の出走が大舞台となるのは他のウマ娘たちも例外ではなく、その日も昼下がりの合宿所グラウンドには蹄音や掛け声が盛んに響き続けていた。

 

 そんな中、タキオンは早めにトレーニングを終えて合宿所建物内へと上がっていた。10月の本番までまだ日が空いており、タキオンの屈腱炎の再発を常に危惧している鷹木が作った練習メニューには休憩時間も多めに記されていた。

 

「トレーナーくんは慎重すぎる気もするが、さりとて考え事に時間を割けるのは私としても丁度良いねぇ。」

 

「考えたところで、答えが出る問題じゃねェとは思うがな。」

 

 窓からグラウンドの様子を見下ろしながら喋るタキオンの傍らには、エアシャカールの姿があった。こちらも、10月以降のGⅠ連戦に備えて、体力温存できる期間に十分な休息を設けている。

 

 タキオンとシャカール、この両者が揃った際に湧いてくる話題と言えば、やはり先日の天体観測、火星大接近の事実が消滅した事についてであった。

 

「昨日の夜も、こっそり外に出てたよな?タキオン。何度確かめ直しても、変わらねェだろ。」

 

「分かっているとも、やはり大接近中の火星など見えるはずはなかったねぇ。ネット上で情報を漁っても、去年の夏の観測結果が見つかるばかりだねぇ……本来、それが正常なのだけれど。」

 

 火星と地球は公転周期がズレているため、大接近にまで至らずとも軌道上で近づく最接近は約2年2か月ごとにしか発生しない。特に距離が近づく大接近は、次なる発生が200年以上未来の話となる。

 

 現時点でも、タキオンは国立天文台にまで質問のメッセージを送って確認したが、やはり火星大接近は昨年の夏に起きた現象であり、次に見られるのは相当先になる……との、ごく当然の回答が得られたばかりであった。

 

 昨年まで、夏が来るたび毎年のように火星大接近が話題となっていた状況は、異常であることに違いなかったのだ。

 

「毎年同じことを繰り返す異変が、ウマ娘レースの展開のみならず、厳正なる物理的法則たる天体の運行にまで影響しているとなれば、いよいよもって我々の意思ではどうしようもないとも思えていたんだがねぇ。しかし、それが正常に戻ったと考えられるならば、喜ぶべきことには違いないのだろうねぇ。」

 

「世間の認識がいきなり切り替わったのは、今でも気味悪くて仕方ねェけどな。火星を観測できねェってことを俺たちが確認する直前まで、世の中じゃ今年も火星大接近が起きるって話題で持ちきりだったはずじゃねェか。」

 

 タキオンが楽観的な視座を持ち出すも、シャカールの表情は曇ったままであった。確かに、今年も火星大接近が起きるとの話題が実際に流れていたからこそ、タキオンやアドマイヤベガは天体観測機器を持ち込んで合宿中に確認しようとしたのである。

 

 世の中で話題になっていた現象が、異変を理解している面々の認識が切り替わったとたん、最初から“なかったこと”になった、あの夜の不気味さは今も胸中から拭えない。

 

 しばしの沈黙ののち、タキオンは形にならぬ仮説の中から、一つの見解を取り出した。

 

「非常に漠然とした言い方になって申し訳ないがねぇ……異常から正常に戻るためには、やはり異常な過程が必要なのかもしれないねぇ。」

 

「アー……言いたいことは分かるぜ。」

 

 この場に他の面々が居ればより詳細な説明も求められただろうが、エアシャカールはタキオンの考えを速やかに汲み取っていた。

 

 異常な現象が起こり得る世界にて、現実的にあり得る現象ばかりが続いても、異常を脱する助けにはならないということだった。

 

「いわば、荒療治が行われたとでも称せようかねぇ。天体観測の日以来、これもずっと私が考え続けていたことだったのだが……一部のウマ娘レースが毎年同じ展開を繰り返していた異変もまた、もしかすると世界を正常に戻す過程だったのかもしれない。」

 

「あァ?明らかに異常そのものだろ。同じレース展開の繰りかえしを崩すために、タキオン、お前は“特異点”とやらになれるウマ娘を探し求めてたんじゃねェのか。」

 

「むろん、私の意図は今なお変わらないねぇ。だが、新たな仮説が私の中で提示されたんだ。……マンハッタンカフェが、春の天皇賞に出走した時のことを、覚えているかい?」

 

 タキオンからの問いかけにエアシャカールも小さく頷き、じっと考え込み始める。

 

 2年前、トレセン学園に入学間もないマンハッタンカフェは、先輩ウマ娘たちが出走した春の天皇賞を観戦し、その中にカフェ自身にそっくりな姿の“お友だち”を見出した。

 

 “お友だち”にとり憑かれていたアドマイヤベガは、いつになく先行のペースで走り、一着で勝利している。

 

 そして、その2年後……すなわち今年の天皇賞春、マンハッタンカフェは2年前のアドマイヤベガと全く同じコース取り、先行ペースで走り、そっくり同じ展開で勝利を獲ているのだ。

 

「まるで2年前の答え合わせのごとき状況だったねぇ。シャカール先輩自身も出走していたから気づいていただろうが、二着になったジャングルポケットくんは、2年前のシャカール先輩とまるきり同じ走りを見せていたねぇ。」

 

「……あァ、マジで気味が悪ィとは思ったけどよ……これが、世界を正常に戻す過程だッてのか?」

 

「可能性はあるねぇ。マンハッタンカフェが春の天皇賞に出走できるようになったのは、今年になってからのことだ。本来あり得るべきレース展開が実現可能な条件が揃うまで、ウマ娘レースの可能性は停滞し、毎年同じ展開をなぞり続けていたんじゃないかねぇ。」

 

 タキオンの述べる仮説はますます荒唐無稽な域へと入っていったが、シャカールは否定する言葉を持たず考え込んでいた。

 

 毎年、同じレース展開を繰り返す異変は延々と続くものではなく、本来実現すべき結果へと至る条件が揃うまで可能性が停滞しているに過ぎない……という考え方は、あながちあり得ぬものでもないと思われた。

 

 今年の宝塚記念でも近しいことは起きていた。昨年、一昨年と、エアシャカールは四着であり、ネオユニヴァースが勝利する展開を繰り返していたのだが、今年はネオユニヴァースが天皇賞春での怪我で活動休止、ダンツフレームが勝利する結果となった。

 

 来年の宝塚記念が実施されるまで断言できることではなかったが、「ダンツフレームが宝塚記念で勝利すること」が実現するまで、同じ可能性をなぞり続けた結果ではないかとも思われたのだ。あるいは、「天皇賞春の後にネオユニヴァースの故障が発覚すること」が起きるまで、かもしれない。

 

 ロジカルに証明できる内容でもないことを明言する気もないシャカールが沈黙を続ける傍ら、タキオンは更に言葉を続けた。

 

「URA史上、幾つか数えられる巨大な特異点のひとつ……世紀末覇王、テイエムオペラオーの時代が過ぎて以来、次代を担うウマ娘たちの輩出が、少々遅れたのが大きいのかもしれないねぇ。」

 

「まァ、確かに、トップロードとアドマイヤベガ、そんでもって俺とデジタルがしばらく引っ張ってた感じはあったけどな。」

 

「だが、今年になってようやく出そろったのではないかねぇ。この私、そしてポッケくんにカフェ、ダンツくん……さらにはシンボリクリスエスくんやノーリーズンくん、ヒシミラクルくん。彼女らが、十分に現役ウマ娘として活躍できる状態になった今年、これまで停滞していた可能性たちは、帰結点を見出すのではあるまいか。」

 

 今挙げた面々の中でも、ヒシミラクルは未だ条件戦クラスのウマ娘であり、歴史に名を刻まれるほどの舞台に至れるか否かは怪しいところであったが、タキオンはごく自然に彼女も今世代の一員に加えていた。

 

 将来の見通しはさておき、可能性の停滞が解消されれば、同じレース展開が毎年繰り返されるという異常性も消えることとなる。

 

 だが、タキオンは口先でこそ楽観的に述べていたものの、目の奥は暗いままであった。

 

「けれどねぇ……そのまま、“正常”に戻って良いものかねぇ?」

 

「何が問題なンだよ。妙なことも無しで、本来のウマ娘レースが出来ンのならいいじゃねェか。」

 

「シャカール先輩なら分かってくれると思うのだがねぇ、本来実現されるはずだった可能性に行き着いて異変が解消されるということは、すなわち“可能性世界”で定められた通りの出来事をなぞる世界に戻ることと同義だねぇ。」

 

 タキオンが“可能性世界”として仮定している、別世界。ウマ娘レースを中心に回っている現実世界とは違う、並行世界とも称すべき概念である。

 

 こことは別の世界で決まった結果が、現実世界にも干渉してくるという仮説。ウマ娘レースも、ウマ娘たちが懸命に走り抜いた、実力勝負の結果が現れているのではなく……別世界で既に決まったレース結果を、そのまま再現しているに過ぎないという……望ましくない考え方。

 

 むろん、その考えをタキオンから聞かされた時、シャカールはロジカルではないとして一蹴したのだが、今に至ってはタキオンの懸念が実に明快に理解できるものであった。

 

「受け入れられるわけ無ェな……どっかで勝手に決まったレース結果の通りに、俺たちウマ娘が走ってるだなんて状況は。」

 

「未来のウマ娘レースの結果は、誰にも分からない。それは厳然たる事実であるべきだねぇ。仮に可能性世界で定められた通りのレース結果しか出ていなかったとしても、今は気づきようがなかった。しかし、可能性の停滞が毎年同じ結果を見せるという異変が引き起こされた今、我々は知ってしまったねぇ……まるで元データを復元するように、既存の可能性を再現するだけのウマ娘レースなど、望むべくもない。」

 

 弛まぬ努力、拮抗する実力、本番でのギリギリの駆け引き、その結果に至るレース結果。

 

 あるいは、思いもよらぬ不運によって、勝利を獲るまえにレース現役から退かねばならぬ、脚の故障や、負傷。

 

 そのいずれもが、既に決まった筋書きをなぞった結果に過ぎないということなど、あってはならない。

 

 既存の可能性、いわば運命に縛られず、自らの意志で不運を退け、栄光へと突き進んでいくこと。それを希望させるものは、やはりタキオンが“特異点”として求める存在たちにあった。

 

「シャカール先輩。我々は今後も観測を続けよう。Parcaeは、可能性世界を間接的にとはいえ我々に示してくれる杖だ。Parcaeの予測でエラーを引き起こす存在、すなわち可能性から外れた存在が勝利を獲ること。それが今後も起き続けていることが確認できるうちは、少なくともウマ娘レースは可能性に縛られてなどいない。」

 

「事前に何の手も打てるわけじゃねェし、レースが終わってから確かめるしかねェが……確認できるだけ、マシか。」

 

「それに、これはもはや仮説ではなく私個人の希望でしかないのだがねぇ……将来的にウマ娘レースを可能性から解き放つ存在として、担当トレーナーたちが機能し得るのではないかと考えている。ウマ娘のみの意思でレースを走れば既定の可能性をなぞるばかりとしても、担当トレーナーの干渉が不確定要素となり得るのではなかろうかねぇ。」

 

 タキオンらしからぬ希望的観測を前に、エアシャカールは肩をすくめるばかりであったが、その考えがタキオンの中から出てくることには妙に納得できた。

 

 おそらく、タキオンが自らの判断を優先すれば、昨年の皐月賞を最後に引退していたことだろう。可能性の限界点を見出すために、脚が壊れてしまうことも厭わず全力で走り、そのまま二度とターフ上へ戻ることはなかったろう。

 

 全力疾走ではなく勝利できる最低限の走りを行わせ、タキオンが現役復帰する希望を繋いだのが鷹木トレーナーであったのだ。

 

「……さて、そろそろ時間じゃないかねぇ?」

 

「時間って、なンのだよ。」

 

「薄情な先輩だねぇ、ファインモーションくんからぜひ見てほしいと連絡が来ているのではないのかい?今日の阿寒湖特別。」

 

 眉間にしわを寄せていたエアシャカールは、ガバと顔を上げて室内の時計を見上げる。

 

 既に時刻は午後の2時半、その日ファインモーションが札幌レース場で出走する阿寒湖特別の発走時刻間近となっていた。タキオンは室内のテレビ電源を入れながら、言葉を続ける。

 

「せっかく招待が来ていたのだから、また応じて北海道に行ってあげればよかったのではないかい?」

 

「前はヒシミラクルと同じ函館レース場だったから、ついでってことで行けたんだ。さすがにレース観戦のためだけに北海道まで俺ひとり、合宿所を抜けるわけにもいかねェよ。セレブ扱いも疲れちまうし、俺が行ったらファインがわざわざ出迎えに来ちまう。レース直前で気を遣わせるわけにもいかねェ。」

 

「急に早口になったねぇシャカール先輩。」

 

 おそらくは最後に付け加えたのがシャカールの本音なのだろう、タキオンからのツッコミをうるさがりながらも、画面に映し出された札幌レース場の様相にシャカールは視線を注いでいた。

 

 デビュー戦から無敗、それも圧勝続きのファインモーションは、当然ながら1番人気として札幌レース場の掲示板に名が挙がっている。

 

 既に枠入りが進んでいるターフ上、ファインモーションは5枠であった。2600mと長丁場になる阿寒湖特別、内枠を取れたのは更にファインにとっての追い風となっていた。

 

〈間もなく発走の時を迎えます、札幌レース場、2600m、阿寒湖特別。やはり1番人気のファインモーションに期待が集まる所ではありますが、今回も圧勝劇を見せてくれるのでしょうか。全ウマ娘、体勢完了しまして……スタートしました!まずまず揃ったスタート、まずハナを取りましたのは真ん中から抜け出してきましたハギノプリンス、続いてウチを突いてメジロライデン、その外並んでファインモーションが3番手。好スタートから良い位置を取りましたファインモーション、まずは向こう正面を抜けて一周目の4コーナーへと入っていきます。〉

 

 ただでさえ直線よりもコーナーの占める割合が多い札幌レース場、そのコーナーを6回通過するとなれば、位置取りは非常に重要となる。

 

 スタートして約200mという区間で一気に良い位置を取らねばならないレース、ファインモーションの判断と駆け引きは完璧であった。

 

「完璧すぎる展開だねぇ、あの短時間で最適解を見出しているねぇ!先行策の教科書たり得るスタートだねぇ!」

 

「ウマ娘レース自体の勉強は、トレセンに留学で入ってから始めたンだろうに……優秀すぎンな。」

 

 自身も先行策を得意とするだけに、タキオンはファインモーションの走りを目の前にして感嘆の声を上げている。

 

 エアシャカールもそれには同意見であったが、ファインモーションがこのままURAのレースに打ち込んでいられる時期が無制限ではなく、いずれはアイルランドへ帰らねばならないことを思って複雑な気持ちになっていた。

 

〈4コーナーを回り切りまして、一周目スタンド前直線へと向きます。先頭変わらずハギノプリンス、そしてメジロライデン、さらにはファインモーションといった形で先頭集団を形成。続きましてウチにヤマノラヴリー、すぐ外並んでナムラハクシャ、タニノデスティニーがその後に続きます。中団なかほどにボンジュールカミノ、ハリケーンルドルフ、その外2番人気のフロンティアシチー、中団後方はスリートニービン、また並びかけ増してツルギセンタンと、かなり詰まった隊形で1コーナーへと向かっていきます。〉

 

 2600mを走り抜くペースということもあって、この時点ではまだペースは落ち着いたまま、先頭から最後方までの差もそこまで開いていない。

 

 それよりも、ファインモーションの挙動に後方のウマ娘たちがこぞって注目し続けているような状態であった。ひとたびファインモーションが加速を始めれば、もはやゴール前まで追いつくことが叶わない、というのはほぼ確実だった。

 

「皆、ファインくんを追いかけるような展開となっているねぇ。あれほどの実力が示された今、ファインくんがレースの中心にあるのは間違いないねぇ。」

 

「……タキオン、お前が考える所の“特異点”とやらに、ファインモーションは入ると思うか?」

 

 エアシャカールからの問いかけに、タキオンはしばらく画面を見つめたまま沈黙で返した。

 

 むろん、レース展開そのものに夢中になっているためでもあったが……そうそう簡単に答えが出せるものではなかったためだろう。

 

 それに、どちらかというとエアシャカールの方がそれを確かめる術を有していた。「Parcae」に、このレースの出走者データを入れてシミュレーションを行わせれば、実際のレース展開との異同は確認できるのだ。

 

〈スタート開始から1000mとなりました、中団後方にはダイワフロリダ、並んでスカイゴーラン、そして最後方ジェニアルラビットといった形で、各バ1コーナーから2コーナーへ。先頭は変わらずハギノプリンス、リードは1バ身ほど。続く2番手メジロライデン、さらにその後3番手にファインモーションが続いています。全体がゆったりとした流れ、これは先行有利といったところか。先頭集団ヤマノラヴリーがじわっと前に詰めて3番手に並んだ、ナムラハクシャちょっと後ろに下げて、これから向こう正面の直線へと向かいます。〉

 

 札幌レース場は、函館レース場と同じく洋芝のコースが採用されている。これは寒冷な地域に適した芝であるがゆえだが、ウマ娘が地面を蹴って走る際の反発が弱く、脚が芝の中へ沈み込むようだとも称されるほどである。

 

 そのため、レースは高速化しづらく、長距離寄りともなればスタミナを温存するためにゆったりした流れとなるのはほぼ必然であった。

 

 先行策を得意とするファインモーションにとって有利な条件が揃っているのは、むろん前もって出走レースを吟味した結果に違いない。タキオンは目を凝らして中継画面を見つめ、シャカールへと遅めの返事をした。

 

「特異点、ではないだろうねぇ……ファインくんは。彼女の周囲は、必然の帰結によって構成されている。」

 

「じゃあ、既に決まった可能性をなぞってるだけだ、ッてのか?」

 

 再び、タキオンは口を噤んで、すぐさまの返答をシャカールに与えなかった。

 

 軽やかに、そしてごく楽しげに、本番レースのターフ上を駆けていくファインモーションの足取りは、“可能性世界”からの干渉を受けた結果だとはとても見えなかった。

 

 それはあまりにも自由で、彼女自身の意思に満ちていたのだから。

 

〈向こう正面の直線を進みます、ゴールまで残り1000mの地点を通過。ここでメジロライデンが上がっていって先頭ハギノプリンスに並んだ、ちょっと下げたかヤマノラヴリー。後はどうか、3番手のファインモーションは速度を落とさず位置取りはそのまま、中団先頭のタニノデスティニーが外に出して前を狙う形、さらに後ろでハリケーンルドルフも外を回るコースを取った。向こう正面の坂を上り切って、まもなく二周目の3コーナーへと入ります!〉

 

 好位置につき続けているファインモーションを追うように、あるいはリードを稼ぐように、最終コーナーを目前として仕掛ける準備を始める出走ウマ娘たち。

 

 相手がアイルランド王女だからといって、手加減や忖度を実行する振る舞いなどは微塵も見られなかった。そんな本気の勝負の中に身を置いている実感を、ファインモーション自身も感じ取っているのだろう。

 

 位置取りを変えず、ペースも維持したままのファインモーションであったが、間もなく迫ってくる勝負所を前に滾っている熱は、その走りの様に如実に現れ出した。

 

「あの走りは、間違いなく……ファインくん自身の意思だねぇ。現実世界でも、可能性世界でも、存在するファインモーションとしての意思は完全に重なり合っているのかもしれないねぇ。」

 

「……わざわざ、抗ったり、塗り替えたりする必要なんて無ェ、ってことか。」

 

「そりゃそうだろうねぇ。既定の可能性を拒んで、本来得られるはずの栄冠をわざわざ逃そうだなんて、そんなウマ娘はいないねぇ。」

 

 タキオンの口調は、シャカールとのやり取りを行うと同時に、タキオン自身にも言い聞かせるように慎重だった。

 

 状況は単純ではなかった。既に定められた通りの結果しか出ないレースなど、誰も望まない。が、既定の可能性において本来勝つはずだったウマ娘が、勝ってはならない理由もまた、無い。

 

 今行われているレース、あるいは将来行われるレースが、確実にウマ娘個々の実力を反映した結果であると確証を得られる手段こそが、渇望された。

 

〈残り600を通過、先頭は変わってメジロライデン、ハギノプリンスそろそろ厳しいか、ファインモーションはすぐ後ろでまだ脚を溜めている!ここで外を回ってタニノデスティニー、ハリケーンルドルフもつれて上がってきた、中団先頭ではナムラハクシャも粘っている、残り400を通過!まもなく4コーナーを抜けて最後の直線へと向かいます、ここで動いたファインモーション!末脚を発揮しましたファインモーション、抜けた抜けた!!〉

 

 急に、レース中継番組の音量が上がったように聞こえたのは、札幌レース場を埋め尽くす大歓声が一気に湧き起こったためであった。

 

 観客たちが沸かぬはずもない、今か今かと待ち望んでいた1番人気ウマ娘、ファインモーションが遂に仕掛けたのだから。後方から迫ってくる面々を、いともたやすく突き放し、集団から完全に抜け出して独走態勢に入る。

 

 誰もが期待していた通りの光景が、そこにはあった。

 

「あぁ、確かに熱狂すべき光景だねぇ!シャカール先輩、我々には分からないのが正常なんだ……この熱狂が、可能性世界による既定通りであるか、あるいは特異点によって可能性が塗り替えられた結果であるか。」

 

「そりゃ、まァ、そうだよな。実際に走ってても、ンなこと気にしてる余裕は無ェ。後からデータを見比べて、記憶と参照して、ようやく奇妙さに気づくだけなンだ。」

 

「本当に、私が気づいたことを、あまり大勢に広めなくて正解だったねぇ……異常現象に気づいてしまった存在が増えることは、すなわち異常性の拡大に他ならないのだからねぇ。」

 

 タキオンの視野には、抜きん出て並ぶ者のないファインモーションの走りだけではなく、純粋にレースの熱狂を楽しんでいる幾万人もの観客たちの姿も映っていた。

 

 観客たちは、この場でタキオンやシャカールが案じている“可能性世界からの干渉”など一切気にすることもなく、目の前で起きているレース展開が完全に現実のものと信じて疑っていない。

 

 それが、観客席も含めたウマ娘レースの、本来あるべき姿に他ならなかった。

 

〈残り200mを切った!先頭はファインモーション!リードは5バ身!ここでも見せてくれた圧倒的な末脚!2番手メジロライデン、さらに外から上がってきたタニノデスティニーが食い下がるが、先頭はファインモーション!後続から大きく差を開いて、今、ファインモーション、余裕のゴールイン!シニア級以上のウマ娘相手にも、5バ身ものリードを以ての勝利を見せつけましたファインモーション!デビュー以来の無敗は継続中、秋以降の活躍が既に楽しみです!〉

 

 偶然やギリギリの駆け引きなどではなく、その圧倒的実力によって必然へと引き寄せられた勝利。

 

 轟く歓声を浴びながら、ファインモーションは観客席へ満面の笑みで手を振り返していた。ウマ娘のレースが、幾万人ものファンの心を掴み、感動を繋げる光景がそこにはあった。

 

「気づいたかい、シャカール先輩。最終直線でファインくんが末脚を発揮するまで、札幌レース場に詰めかけた観客たちは異様に静かだったねぇ。」

 

「あァ、また、例の現象だな。つーか、前よりも更に露骨に歓声が小さくなってたんじゃねェか?」

 

 現場に居ない限り、放送局側の収録機材に左右されかねない歓声の大きさは正確に確認することは出来ない。

 

 が、ファインモーションが圧倒的な差をつけて勝利する瞬間の大歓声と比較してみれば、幾万人もの観客たちが入っているにしては、レース序盤から中盤の喧騒はあまりに小さすぎたことは間違いない。

 

 可能性世界が既定し、観客たちが期待したレース展開が発生しない限り、感動は人々とウマ娘レースを繋がぬということだろうか。

 

 結局、全てが憶測の域を出ぬことに変わりなく、タキオンは世界の将来への多大なる懸念と希望を同時に抱えたまま、8月の合宿期間を終えることとなった。

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