9月8日にヒシミラクルの野分特別出走を予定している鷹木は、無論ながらミラ子のトレーニングにかかりきりとなる。が、夏合宿中にタキオンから告げられた約束は忘れていなかった。
「タキオン、相手方と連絡がついた。7日ならネオユニヴァースは会えるそうだ。俺は翌日に備えてミラ子と一緒に阪神レース場へと行っていなければならない日だが、構わないな?」
「おや、てっきりヒシミラクルくんのレースで頭がいっぱいになっているものと思っていたのに。何なら向こうのトレーナーと話をつけずとも、私だけでも勝手にユニヴァースくんのもとへお邪魔していたんだがねぇ。」
「それはホントに邪魔になるから……まぁ、俺も、ネオユニヴァースの担当トレーナーと直接話せたためしがないんだけど。」
今回も、メッセージ上でのやり取りで面会可能日時をやりとりしたのだろう。
タキオンとしては、ネオユニヴァースの担当トレーナーが仮に現実世界で直接会えない存在であったとしても、何ら驚くべきことではないように感じていた。
鷹木は、GⅠウマ娘の専属トレーナーとなれば多忙を極めるのも当然だ、と現実的な理屈を見出していただろうが……タキオンはウマ娘としての感覚ゆえか、姿なき存在に信頼を寄せるネオユニヴァースの挙動に気づいていたのだ。
直接視認できずとも、マンハッタンカフェの“お友だち”の実在を信じられることに近かったかもしれない。ただ“お友だち”が様々な干渉を通じて身近に感じられるのに対し、ネオユニヴァースのトレーナーは存在感すら近くに無い、という違いはあったが。
そもそもネオユニヴァース自体が、日常にて予測のつかない挙動を見せるウマ娘であった。これまた後付けで、現実的な理屈を見出すことはできるものの。
約束の日時、相変わらずタキオンが不当に占拠している実験室こと理科準備室。
残暑を追い出すために窓を開け放ってPCの画面を見つめていたタキオンは、ふいに背後から至近距離で語られた言葉に小さく跳びあがることとなった。
「“LMSE”……ファインモーションのレース、『可能性を観測する』をしている?」
「ほぉう!?いっ、いつの間に入ってきていたんだいネオユニヴァースくん……!?この部屋の扉は、たてつけが悪いから開閉時に音がうるさいはずなのだがねぇ……?」
言いながら振り返ったタキオンの視界にて、ネオユニヴァースは小首を傾げながら、今しがたタキオンが注視していたPC画面を覗き込んでいた。
まるで部屋の中へ直接ワープでもしてきたかのように、いっさいの気配や物音なしに背後に立っていたネオユニヴァース。
彼女の背後では、きちりと閉められた理科準備室の扉があった。おそらく、扉がガタつく物理的原因を探り出し、タキオンの集中を乱さぬために開閉音を最小限にとどめたのだろう……と、理屈づけることはできた。
本題に関係ないことで驚いていても仕方ない、とタキオンは気を取り直し、先ほどのネオユニヴァースからの問いかけに答えた。
「……あぁ、そうだねぇ、つい先月末のファインモーションくんが出走した阿寒湖特別の映像を、今は繰り返し確認している。ほぼ必然によって導かれた勝利のように見えるが、別な可能性が紛れ込んでいないかと……。」
「『可能性の揺らぎ』は“NIZR”だよ。“フラックス密度”に変化はない。」
ネオユニヴァースからの返答は、即座であった。
タキオンは再びネオユニヴァースの顔に視線を向け、そして目を伏せながら小さく頷きを繰り返した。限りなく確定に近かった仮説が、ネオユニヴァースの言葉によって証明された瞬間であった。
「ならば、ファインモーションくんは本来の可能性の通り……可能性世界の既定通りに勝利した、というわけだねぇ。」
「ファインモーションの進む先に“トワイライトゾーン”は無いよ。この勝利は、間違いなく“XACF”。」
午後に入った夏の陽射しが、ほとんど直上から窓から差し込む部屋は、眩しい窓外と相対して薄暗い。
その暗がりの中で全く表情を動かすことなく、淡々と語るネオユニヴァースの様には、いつも以上に無機質な印象があった。
が、PC画面の中でタキオンが幾度もリピートしている、ファインモーションの阿寒湖特別の映像の中で、ゴールを前にした盛り上がり、観客席の大歓声が沸き起こるたび、ユニヴァースの目の内にも静かな興奮が閃くようであった。
タキオンは、冷めかけた紅茶を啜り、円形の染みがいくつもこびりついているテーブルにティーカップを置きつつ、今度は自らの考えを整理するようにゆっくりと口を開いた。
「私は、今までは可能性世界からの干渉を脱することを最大の目標として模索を続けてきた。我々の世界で起きる出来事、ウマ娘レースの結果までもが、既に別の世界で決められた通りにしかならないなどということを、許せるはずがない。しかしだねぇ、可能性世界の定めの通りに勝利したファインモーションくんは……心から幸せそうじゃないか。」
「幸せそう……“MABTE”。ファインモーションの、これまでの“TIPS”、努力と、意思は本物。」
別世界によって定められた運命に、敗北や引退を余儀なくされる故障があるのなら、それは拒むべきものとなる。だが同時に、既定の可能性によって勝利を約束されている存在もまた居るはずだ。
まさに、阿寒湖特別で必然的な勝利を獲たファインモーションのように。この勝利は全出走ウマ娘が本気で勝負した結果であり、予定調和だとは決して言えない、本来あるべきレースの結果に間違いない。
自分の勝利が既定されていたか否か、現実世界に生きるウマ娘たちは知る手段などない。
レースで勝利するための飽くなき努力と鍛錬の先に待っているのが、自分の与り知らぬ世界でとっくに決められていた運命なのか、それを乗り越えて自分が切り拓いた全く新しい境地なのか。
タキオン自身、可能性世界からの既定に縛られず、独自の運命を紡ぎだせる“特異点”を希求してきたが……実際にレースを走る時には、勝利を必然へと近づける手段を数多繰り返しているのだ。
「世界は“正常”でもあるべきなのだろうねぇ。特異点によって可能性を捻じ曲げるのが“異常”であるとするのならば。これまで毎年、同じレース展開が繰り返される異変は、特異点が引き起こした歪みを元に戻すための荒療治だったのかもしれないねぇ。」
「“QOAX”の“来訪”は、これまでと同じ。“MAZN”の光が……集う。これからも。」
毎年同じレース出走者が揃い、同じレース展開となり、同じレース結果が出るという、異常事態。これが発生したからこそ、現実世界の可能性、運命に初めて疑念を抱いたのだ。
以前までは、いかなるレース結果が出ても、それこそ事実であり、「たられば」の入る余地などないというのが常識だった。
“可能性世界”だの“特異点”だの、これまでにない概念を持ち出す必要もなく、現実は現実として過ぎ去っていくのみだ。
「だからこそ、私は今になって……何も、する必要などなかったんじゃないかと考えだしたんだ。私という個の存在、その認識が届く範囲でいくら懸命に探求しようとも関係なく、放っておくだけで現実世界はあるべき姿へと自然に戻るのではないかと。」
「ネガティブ。“INTI”による探求は、必要だよ。」
これまでになくハッキリとした意思を帯びて発されたネオユニヴァースの声に、タキオンは視線を上げる。
ネオユニヴァースは、真っすぐにタキオンの目の内を覗き込んでいた。相変わらず表情は動いていなかったが、明確にタキオンの胸中へと届かせようとする色が宇宙のごとき瞳の中にあった。
「スターフルイドは、もう『欠ける』をしていない。“SETO”も、皆のことを知っている。今年こそ、最終散乱面に“SERR”は『到達する』よ。」
「あぁ、先輩たちや、私たちの世代だけではない、クリスエスくんやヒシミラクルくんの世代も加わったからねぇ。本来居るべきウマ娘は揃っている。ならば、なおのこと、世界はおのずから正常へと戻るのではないのかい?」
「それでも、異なる“XACF”を選んだ者たちが、共に居る。彼女たちは、イベントホライズンに到達できない、外宇宙に引かれてしまう……ハビタブルゾーンに辿り着けない。タキオン、きみも。」
ネオユニヴァースからの言葉を理解するのに、本来はさして時間を要するはずはなかったが、それでもタキオンが眼を見開くのは数秒経ってのことであった。
あまりにも当然すぎること、わざわざ考慮に含む必要もないとして、思考のテーブル上の隅に追いやっていた要素。
そこに手を伸ばすのは、久々のことであった。
「……そうか……私は……そうだったねぇ。いや、確証は得られないが、ほぼ実感していたねぇ。私は、“アグネスタキオン”は、去年の皐月賞を最後に、引退しているはず、と……可能性世界では既定されていたのだねぇ……。」
「これまでは、つながりも“SCFS”だった。“XACF”に『存在しない』皆も、一緒に居られた。でも……“PATH”は、もう『分岐する』をしない。その先に、アグネスタキオンも、アドマイヤベガも、マンハッタンカフェも……『ぼく』も、居ない。」
確認のしようがなかったが、おそらく可能性世界とは異なる運命をたどり、その結果として現役ウマ娘であり続けている存在はタキオン以外にも想定されている。
アドマイヤベガは、クラシック級の年、菊花賞の出走を最後に現役へと戻ることが無いと思われていた。が、実際には早期の治療が功を奏し、無事に現役復帰している。
マンハッタンカフェは、今年の春の天皇賞ののち、故障のリスクをおしてでも凱旋門賞へ遠征に向かうことをカフェ自身が熱望していた。これは夏合宿中、“お友だち”からの干渉を元に説得を行ったタキオンやシャカールの言葉を聞き入れ、カフェ自身が秋以降も国内のレースに打ち込むことを決意している。
そして、ネオユニヴァースは……春の天皇賞の後、故障が発覚。これも発見が遅れていたら引退を余儀なくされかねない事態だったが、宝塚記念を回避して治癒に専念、現在は秋の天皇賞出走に向けて調整を始めている。
いずれも、ウマ娘自身や、その担当トレーナーの意思あってこそ、繋がれた選手生命である……あるいは、本当の意味での生命であったかもしれない。
この世界が『正常』な状態に戻るとき、本来の可能性において存在するはずの無かったウマ娘たちは、居場所を消されるのだろうか?
「けれども、『わたし』たちの存在を『認識する』存在はある。計り知れない“KELT”、熱を帯びた声。それに、私たちの走りを愉しみにする“REVE”も。」
「あぁ、レース場に集まった、幾万人もの観客、ファン達が響かせる声援、歓声だねぇ。彼らはレースに関心を寄せるからこそ、レース場へと足を運び、莫大な感情の塊となって私たちのレースを記憶に刻む。可能性の既定がどうあれ、現実に巨大な感動を生んだ事象は、この世界そのものの記憶として刻まれるだろうねぇ!」
タキオンは、これまでの観測結果を裏付けするネオユニヴァースの言葉を受け取り、勢いづく。
以前までも、たびたび観客の数に対して歓声が妙に小さく聞こえるという現象は起きていた。しかし、いずれのレースでも最終直線での競り合いにウマ娘ファンたちが熱狂しないはずもなく、ゴール前後の歓声は充分に大きくなっていた。
それは単にレースに対する興奮の度合いを示しているのみならず、レースに参加したウマ娘の存在が真実であったことを、この世界に、この歴史に刻む瞬間でもあるのだろう。
長く続く安泰の光よりも、一瞬の鮮烈な煌めきをこそ求めた、タニノギムレットの信念が今は痛いほど理解できた。
「もう“PONR”だから、『わたし』たちは『正常』のまま、在り続けることは出来ない。『消えること』を拒まないなら、“FYAM”でも構わないけれど。」
「構わないはずがないねぇ、それに私たちだけではない、将来的にも受け入れがたい可能性が迫るウマ娘は現れるだろう!私たちの居る現実世界は、可能性世界の参照だけに甘んじるばかりではないねぇ!」
「じゃあ、“ランデブー”。一緒に走って、『つながり』を未来に、だね。」
ネオユニヴァースと顔を見合わせ、目の色を明るくしていたタキオンであったが、とあることに気づいたのか、気恥ずかしそうに顔を俯ける。
「……なんだい、結局は、一生懸命にレースをしさえすれば、未来は繋がりうるということだねぇ。やはり私が小難しい探求などに着手する必要など、最初から無かったのかねぇ?」
「“IRST”は不必要なんかじゃ、ない……『消える』かもしれない不安は、『可能性を塗り替える』をしたウマ娘たち……あるいは、そのトレーナーたちが“ICLD”するよ。」
「確かに、無知なままに不安に駆られては、無用の混乱や苦悩を抱えてしまいかねないねぇ。私の研究レポートが一助となる将来は、今後も十分あり得るということかねぇ。」
再び顔を上げたアグネスタキオンの目の前で、ネオユニヴァースは微かに、しかしハッキリと分かる程度には頬を緩めて頷き返していた。
本来の既定された可能性の中で存在していたはずのウマ娘たちが現役レースの場に出揃い、帰結すべき展開のピースが出揃えばなおのこと、すでに望まぬ運命を塗り替えたウマ娘たちには試練が降りかかるだろう。
何も身構えず、現実ではあり得ない状況に見舞われたとき、不安が走りを鈍らせてしまっては、ますます表舞台から遠ざかる羽目になる。そんな時、タキオンの探求は、きっと十分な助けになる。
そして……タキオンが抱えていた懸念が空論の域を出て、現実に起きる現象となり始めるまで、さほど間が空くことはなかった。