9月に入って間もなく本番レースの日程を迎えていたヒシミラクルと、タップダンスシチー。
これまた、どちらも同じく阪神レース場へと向かうこととなっていたが、本番はタップの方が一日早い。9月7日のチャレンジカップ、50年以上の歴史ある重賞、GⅢレースである。
オープンクラスに上がってから、GⅡやGⅢレースへの出走こそ繰り返していたものの勝ちきれない展開が続いていたタップ。自分のペースを貫ければ勝機は見えることにも変わりはないのだが、いかんせんGⅢともなれば周囲のレベルも高い。
出走メンバーが確定した時にも、出走者リストを見つめながら片桐は勝算と手ごわさの両方を味わっていた。
「春秋の天皇賞に有馬記念の出走経験まであるイブキガバメント、昨年のクラシック三冠にも参戦したビッグゴールド……相手にとって不足なし、ですね。しかし1番人気は今年クラシック級のトゥルーサーバスになりました。出走経験が条件戦ばかりとはいえ、一着二着と好成績を多く残していますね。」
「Ha!Don't make a fool of me、こっちの方が走りまくってきた経験はずっと上なんだ!そう簡単に後輩に追いつかれる私じゃないさ!」
自分よりも下の世代が優秀な実績や能力を示す場面は散々見てきた上に、なおのこと自意識に曇りを見出さないタップの強靭なメンタルはやはり揺るぎないものであった。
片桐も担当トレーナーとしての立場から、タップの自信には裏付けを見出していた。
競り合いや瞬発力勝負に持ち込ませず、スタートからゴールまできっちりと正確なペースを維持して走り抜くスタイル、それを可能とする身体能力は、これまでの数え切れぬほどのトレーニング、そして通算22戦も繰り返してきた実戦の中でしっかり確立されている。
残すところは、常に固定されたペースを維持するばかりに、対策されてしまうと不利な位置に押し込まれてしまいかねないコース取りの問題であった。が、これも先月の函館記念にて痛い目を見て以来、タップ自身が位置取り調整に積極的となっていた。
「えぇ、積み上げてきた時間だけは間違いなく他の面々よりも長いですからね。臨機に判断するための材料は、タップさんの記憶の中で充分に揃っているはずです、今回のレースも、迷いなく走って来てください。」
「すでにもうビジョンが見えちまってるからな、私が大喝采を受けるスタンド前の光景がな!You can look forward to it!」
頼もしい言葉と共に、カツンカツンと蹄鉄の金属音を小気味よく響かせながら地下バ道へと向かっていくタップダンスシチー。
彼女の背を見送りながら、片桐は以前に担当していたメイショウドトウのことを思い出していた。むろん、性格はタップとは真逆、常に自信なさげな言動ばかりが目立ったドトウであったが、いくら勝てずとも折れぬどころか、信念に揺らぎを見せない強みは同等であった。
「鷹木さんところほど明確ではなくとも、やはりトレーナーのメンタルがウマ娘によって支えられているところは少なからずあるものでしょうね……。」
負け続ける中でどうにか勝機を見出し、ようやく一矢を報いるという粘りは片桐の十八番ではあった。が、仮に自分独りきりで挑み続けていたとしたら、デビューから3年目に突入した現在に至るまでの道程を、険しく感じずにはいられないだろう。
先の見えぬ荒海を越える時、タップダンスシチーの朗らかな声と笑いが大きな力となっていたのは事実だった。担当トレーナーに導かれるウマ娘としての立場であると同時に、彼女は確かに担当トレーナーを導く存在でもあった。
「この子は普通のウマ娘じゃない、と感じたのはドトウさん以来、ですね……。」
ブツブツと呟きながら、片桐も控室を出て、観戦スタンド最前列のトレーナー用ブースへと入る。
真っ先に視線をターフ上へと走らせるのは常通りであったが、ここにきて片桐は出処の不明な違和感を抱き始める。本来、担当を出走させるトレーナーとして主に意識を向けるべき対象ではなかったがゆえ、違和感の正体に気づくまでには少々時間がかかった。
アグネスタキオンの“観測”結果を常々より知らされていた鷹木ならば既に意識に上らせていたことだったが、何も情報を与えられていない片桐がそれに気づくのは初めてのことであった。
「なんか……観客席、静かじゃないですか……?」
誰に問いかけるでもなく、トレーナー用ブースの中で独りきりの片桐は呟きながら背後のスタンド席を振り返る。
条件戦ならばいざ知らず、中央のGⅢクラスのレースともなれば、阪神レース場の観戦席は指定席・自由席問わず満席となる。今回も指定席チケットは完売しており、自由席のスタンドも立ち見エリアも他人で溢れかえっている。
視野いっぱいに観客たちで埋め尽くされたスタンドの光景を確認した今、片桐はいつも聞き慣れたレース場の喧騒が妙に小さく感じることがますます不思議であった。
「いつもタップやノーリーズンの大声を耳元で聞かされているから、耳が遠くなりましたかね……自分自身がそんな年齢じゃないとは思いたいんですが。」
確かに毎度のことながらタップダンスシチーは過剰な声量であるが、しかし先ほどまでの会話での聞こえ方はいつも通りであった。
すなわち、何万人も集まっている観客席、それも間もなくメインレースが始まるという直前の高揚感で沸き立っていたことは間違いないはずだというのに、妙に静かであったのは事実なのだ。
間もなく地下バ道から姿を現したウマ娘たちへと駆けられる声援の大きさも十分である。確実に盛り上がっているはずのレース場が、やけに静かに聞こえる原因は……現状の片桐には理解できなかった。
〈いよいよ発走の瞬間が近づいてまいりました、9月7日の阪神レース場、第11レース、朝日チャレンジカップであります。全10名のウマ娘、ゲートインも着々と進んで、今収まりました。体勢完了……スタートしました!まずは先行争いに入ります一周目の直線、まずはふわっとトウカイパルサー、あるいはグランパドドゥが行きました、あとはタップダンスシチーが3番手、さらにトーホウドリームも3番手に上がって、ウチ側のタップダンスシチーに並びます。〉
2000m、中距離の中でもゴール前の上り坂を二度越えなければならない阪神レース場の内回りコース。
一気に駆け上がって決めるには求められるスタミナも多く、十分な余力を残そうとするペースで進めるウマ娘は多い。そんな中、真っ先に先頭へと上がっていったのはグランパドドゥ、昨年の関門橋ステークスや但馬ステークスにてタップと競った相手でもある。
「逃げのペースは既に確立しているようですね、グランパドドゥ。昨年末の中日新聞杯では綺麗に勝てたようですが、そうそう同じ手は通用しませんよ。」
タップダンスシチー自身も経験していることではあるが、一度自分の作戦がハマって勝てたとしても、以降のレースでは競走相手から研究され、対策されるのが常である。
今も、先頭で自分のペースへと持ち込もうとしているグランドドゥを急かすように、トウカイパルサーが追い立てていた。
〈1コーナーを回っていきます、先頭変わらずグランパドドゥ、続くはトウカイパルサー。3番手はウチにタップダンスシチー、並んでトーホウドリームそしてトウショウアンドレが固まって、ビッグゴールド、その後イブキガバメントが中団の後ろ。更に続きますはタヤスメドウ、後ろから2番手はトゥルーサーパス、最後方、5バ身6バ身ほど空けてオースミブライトという形です。中団かなり詰まった形で、1400の標識を通過、間もなく2コーナーを抜けて向こう正面へ入ります。〉
そして、対策を立てられていることに関しては、タップダンスシチーも同様である。
今、先頭の面々を追いかけるように3番手の位置についているタップダンスシチー。むろん、そのままのペースでゴールへ向かえる速度を維持しているわけだが、既にすぐ外側にはぴったりと2名が並び続けていた。
「そのまま上がっていこうとすれば、先頭に前を塞がれ、外側にも蓋をされて動きを封じられてしまう、といった形ですね。しかし焦りは要りません、阪神レース場ならば抜け出せる機会は充分にあります。」
片桐は独りでそう呟きながら、じっとタップの周囲に視線を注ぎ続けていた。
タップダンスシチーのメンタルならば、いかに周囲からプレッシャーを掛けられようとも走りのペースを乱す心配はない。
それよりも、先月の函館記念のごとく、完全に包囲されてどうにも動けない状態に陥りかねない状況を、先んじて察知する集中力、先読みが重要であった。
〈タップダンスシチー、3番手でインコースを回っていきます。トウショウアンドレ4番手、更に5番手トーホウドリーム、ほとんど差が無く外側に並んでいます。中団はイブキガバメント、タヤスメドウ、さらにビッグゴールドが間に、こちらもほぼ並んだ形。トゥルーサーパスがその後に続き、3バ身差まで詰めました最後方はオースミブライトであります。残り1000mを切りました、先頭は向こう正面の出口、これから3コーナーのカーブへ差し掛かってまいります。〉
阪神レース場の3コーナーから4コーナーの区間は、緩やかな下り坂に、半径の大きいカーブ、と速度の出やすい条件が揃っている。
仕掛けどころを見極めながら、前へ出る準備を進めているのだろう、中団以降のウマ娘たちは上へと上がっていく位置取りを牽制しあっている。
「前との差が詰まってきましたが、そのままでいいですよ、タップ。こちらはブロックされていると見せて、警戒を外から上がってくる他のウマ娘へと逸らすのです。」
タップダンスシチーに実際に聞こえるわけはなかったが、片桐は刻々と変化するレース状況に合わせて語り続けていた。
確かに、このタイミングであれば大外を回って上がってくる面々が、ゴール前直線での脅威となる。阪神レース場名物、仁川の坂が待ち構えているにせよ、後ろから差し切られる警戒は常に存在するのだ。
そんな展開のなか、今回は5番人気のタップダンスシチーは、巧みにライバルからの警戒視をかいくぐりつつコース内側を淡々と進めていった。
〈さぁ先頭はグランパドドゥですが、外からトウカイパルサー並びかけて殆ど差がない、1番人気トゥルーサーパスは後ろから2頭目、インコースで脚を溜めている様子です。3番手タップダンスシチーがじわっと前へ距離を詰めていくが、4番手トウショウアンドレ、5番手トーホウドリームちらっと後ろを見たか、ウチを突いてトゥルーサーパスも上がってきた、外へ膨らみながら4コーナーを抜けていよいよ最終直線です、タップダンスシチーがここで外から先頭へ並びかける!〉
片桐はぐっと握り締めた拳を抱え込むように、腕を組んでコース上の展開を凝視していた。
ここまでは作戦通り、コース内側に閉じ込められたと見せかけ、他のウマ娘へと注意がそれている内にタップダンスシチーが先頭へと出るコースを取る。後は残り約300m、上り坂を含めての競り合いである。
「一周回ってきて、タップはスタミナのロスをしていません。十分に勝てるペースではありますが……やはり実力は健在ですね、イブキガバメント……!」
万が一、外側を塞がれ続けたとしても、遠心力でバ群が膨らんだウチを突くように抜け出す想定もあったタップだが、今回は余計なリスクを取ることなく先行する面々の外に出るコースを取った。
……そして、空いた隙間を突いて駆け上がってきたのがイブキガバメントであった。実力も、観察眼も、ベテランの域に達しているウマ娘の蹄音は、タップの真横で響き続けた。
(Okay,I'm on a roll……だが、ここまで完璧に抜け出した私に追いついてきやがる奴と、マジの競走が出来るってのなら私も完璧を超えちまえるな!)
天皇賞や有馬記念を走った相手の走りが、紛うことなく一線級の実力を有している実感で肌を打たれつつ、タップダンスシチーは懸命に脚を速めた。
もはや余裕など無かったが、だからこそ彼女の胸の奥から湧き上がってくる嬉しさが風を切りつつも笑みを浮かべさせていた。
〈イブキガバメント、3番手から抜けて上がってきた!タップダンスシチー先頭か、タップダンスシチー先頭!イブキガバメントはウチにコースを取って2番手!残り200を切りました!最ウチからはトゥルーサーパスが追い上げてくる!先頭はしかし、タップダンスシチー!ウチからイブキガバメント!並んだ!並んだ!タップダンスシチー、今一度加速して突き放す!タップダンスシチー、先頭でゴールイン!先頭二名、ほとんど並んでいましたが、最後にタップダンスシチーが一伸びしました!〉
「これは行けるっ!来たっ!勝った!!……勝ちましたね、ついにGⅢで。」
片桐は硬く腕組みを続けて自身の感情をも抑え続けていたが、タップがゴールラインを越えた瞬間、いつになく跳びあがって拳を突き上げ、喜びを爆発させていた。
ゴールを越えた直後は、流石に周囲を見回す余裕もない様子のタップダンスシチーであったが、まもなく顔を上げ、そして喜んでいる片桐の姿を目聡く見出したらしい。
汗まみれの顔に笑みを浮かべながら、「今の、見たぞ」と言わんばかりに片桐へと指をさしていた。平常時にはクールな振る舞いの多い片桐に対し、いたずらっぽくも喜びを分かち合う表情であった。
タップダンスシチーは、そのまま差し出した指を上へと向け、一着でのフィニッシュをアピールする。
「そりゃあ、自分だって喜ばずにいられませんよ……3年間諦めずにトレーニングを続け、ついに、GⅢで勝つところまで来れたんですから。」
片桐は、気を落ち着かせるために上を向き、深呼吸した。レース場を包む大歓声が今初めて聞こえるように感じたのは、それほどまでにレース中の意識をタップへと注いでいたためだろうか。
……だが、レース場に響き渡る歓声の大きさは実際に変化していた。そんなことに気づくはずもない片桐とタップダンスシチーであったが、この後間もなく明瞭な異変に遭遇することとなる。
レースの最中は当然走ることに専念しているため、歓声の大小など聞き取っている余裕はない。
しかし、ウイニングライブとなれば話は別であった。その日の阪神レース場で行われる全レースが完了し、場内にライブ用のステージ、音響設備などが組まれた後も、ほぼ全ての観客たちは観戦スタンドに残っている。
人間よりもはるかに聴覚に優れたウマ娘たちが、異変に気付くのはすぐであった。ましてや、心に浮かんだことをそのまま喋るタップが黙っていないのも当然であった。
「Hey,片桐トレーナー。客、減ってないよな?まさか、私がセンターに立つウイニングライブで、帰っちまう客がいるってのか?」
「えぇ、ライブのリハーサルを皆さんが行っている間に入退場ゲートの方も確認しに行きましたが、予定があるのか早めに帰るお客さんは数えるほどしかいませんでしたよ。」
タップの疑問に対し即座に答えられたのは、片桐もまた違和感を抱き、ウイニングライブを待たずに帰ってしまう客がどれほどいるのか直接確かめに行ったためである。
ごく一部、今後の予定があるのか先んじて帰宅する観客が居ないわけではなかったが、それでも現在、場内には幾万人ものウマ娘ファンが詰めかけている事には違いない。蹄鉄型のペンライトやサイリウムが暗い観戦スタンドで幾本も揺れ、視覚的にはほぼ満席であることが確認できる。
それでも……GⅢレースのウイニングライブ開始直前だとは思えぬほどに、空間が静まり返っていたのである。
「Hmm……オペラ座じゃねぇんだから、んなお行儀よく待ってるこた無ぇんだがな。」
「えぇ、阪神レース場に集まるお客さんとなれば殊に、全国でもノリの良い方たちばかりという印象があるのですが。」
違和感を抱きながらも、観客がライブを待ち、出走ウマ娘たちも全員怪我なく揃っているならば、予定通りにライブを開始しない理由などない。
間もなく予定していた通りの時刻となり、ベテラン揃いのウマ娘たちは滞りなくステージへと上がっていった。眩い照明が彼女らを照らし、大型スピーカーが広大な場内に音楽を震わせている。
センターに立つ経験は、全出走回数を思えば相対的に少なくなってしまうタップダンスシチーであるが、それでも大舞台に臆する性格では勿論無く、その大柄な全身から内なる昂りを大きく表現して踊り、歌唱を響かせた。
「疾走れ!未来の中へ 新しく吹く風の様に、今……!」
その日の演目は『BLOW my GALE』、自らの道を貫き、新たな地平を築いたと評される優駿たちのために作られた、熱さと疾走感を味わわせてくれるロックナンバーだ。
タップダンスシチーがこの曲を歌うのは初のことであったが、彼女の優れた体躯を以て繰り出されるパフォーマンスは非常に曲調と合っていた。
「しかし……どうしてでしょうか、やはり、客席からの歓声が少ないような気がしてなりません。」
担当がせっかくセンターで歌っているのだから、その姿を凝視していたい気持ちは山々だったのだが、片桐は幾度か背後を振り返り、幾万人もの観客たちが確実にそこに居ることを確かめずにいられなかった。
歓声は無論上がっていたのだが……スピーカーから流れる楽曲からかき消される程度、数百人ほどの客しかいないのか、と錯覚させるほどであったのだ。
今日、他に観客たちの気が沈むようなニュースでもあったか、あるいは彼らは丸一日中レース場にでも居て、疲れ切ってしまっているのか……と片桐は考えを巡らせたが、現実的に理由付けできる理屈は浮かばない。
「……夢を見ること 叶うこと Keep on trying……始まりへ さぁ挑め……!」
やがて曲も最後まで歌い切り、タップが高く掲げた手に夢を掴む決めポーズを魅せた際も、湧き起こった拍手の数はあきらかに少なかった。既にスピーカーからの音楽は止んでいるのだから、かき消されているはずもない。
せっかくのウイニングライブで、観客たちが思ったほどの盛り上がりを示していない、となれば自信を無くしてしまうウマ娘が居てもおかしくはない。現に、タップの両脇に立っている二着三着のウマ娘は、その表情に訝しさを隠しきれていない。
だが、自分のパフォーマンスに自信を持たぬタップダンスシチーではなかった。
ステージの端、進行役のスタッフが撤収の合図を出そうとするのを片手で制し、タップダンスシチーはマイクを握り直して観客席へ呼びかけた。
「Ey,Eyy!Turnin' up dude!わたしのステージを見せてんだ、まだまだ燃え上がれるはずだろ!?」
言いながら、タップダンスシチーは左右、そして自分の背後へと視線を向ける。そこには無論、今日のレースで共に競ったウマ娘たちが、バックダンサーとして控えている。
手筈通りであればステージからすでに降りていっても良い状況だったのだが、この不完全燃焼なウイニングライブでタップダンスシチーが為そうとしていることに皆が興味を惹かれているのか、誰一人ステージを降りようとはしていなかった。
「Rivalたちも、わたしと一緒に漕ぎだしてくれるか!同じStageに上がった仲間だ、船を降りるにゃまだ早いだろ!」
ステージ裏でバタバタしているのはスタッフたちであった。それも当然のことで、これは完全にタップダンスシチーが即興で開始したパフォーマンス、これ以降の楽曲は用意されていないのである。
だが、タップはそのまま歌い始めた。
「こっからセカンドステージだ!波に呑まれちまうぞ!船を漕げDude!Stand up Everyone!Clap your hands!」
スピーカーからは音楽も流れず、ただ自分の脚でリズムを取り、蹄鉄の響きがそのままに彼女の歌声を支える拍子となっていく。
磨き上げられた声と振り付けで、タップが阪神レース場という広大な空間を掌握したようであった。
「Hey!Ships set sail.I'm radey now.Dreams of wealth,echoing through tha land!Say.Fooooo!」
無論、他のウマ娘たちも振り付けなど知らない。
が、タップダンスシチーの足踏みの音、そして全身でノッてくるよう求めるパフォーマンスを前に、観客席からも手拍子が響き始める。
いつしか、見様見真似ながら、タップを取り囲んでいるウマ娘たちも足踏みを合わせ、そして即興のライブに加わり始めた。
「Get it now get it now, C'mon. I'll go toword a new frontier ! Get it now Get it now,C'mon!Oh,海原を越えてく!」
タップダンスシチーは、アメリカから単身、この国のトレセン学園に入ることだけを目標に渡ってきた。そこには予定されたスケジュールも、彼女を出迎えて受け入れる体制も用意されてなどいなかった。
友も、地盤もない状態から、今こうしてウイニングライブでセンターを飾るまでの道程をタップダンスシチーは刻んできたのだ。その生き様が、完全に即興のライブという形で表れていた。
臆することを知らない彼女の歌声、ただそこに居るだけで、全てがタップダンスシチーの後についてくるかのようであった。
「歓声が……本来あるべき大きさに、戻っていますね……。」
いつの間にか耳を聾する大きさとなっていた観客たちの手拍子、口笛、歓声、そしてタップダンスシチーの名を呼ぶ声々に、片桐は少々遅れて気付いた。
先ほどまで抱かれていた違和感を意識していなければ、タップダンスシチーのパフォーマンスに全ての印象を持っていかれそうなほどであった。
「逃げ切るようにYou and me いまRichな夢、奏でろ! Everyday Everytime Everyone 踊ってよ Ah Ta-ta-ta-ta-ta-ta-Tap to dance!Oh Dance!Ah ずっとやまないこの“Roman”!」
タップダンスシチーが完全即興の歌をすっかり歌い切り、付き従えていたウマ娘たちとともに踊りを締めくくった頃には、阪神レース場は地を轟かすほどの大歓声に沸き立っていた。
まるで、本来あるべき盛り上がりを、この時間軸そのものが思い出したかのように空気が一変していた。
「あぁ、やはり……タップさん、あなたは普通のウマ娘ではない。」
片桐も、数万人の大歓声に埋もれつつ惜しみなく拍手を送りながら、独り胸打たれていた。
ただでさえ、普通を自称するウマ娘が並みならぬ存在であることの多いトレセン学園。元から並みの存在に収まらぬことを自覚しているウマ娘は、レースでなくとも数万人もの観客の心を一気に掴むことが出来るのだ。
片桐の視点からは、タップダンスシチーがその存在感でファンたちの心を動かした、という事実ばかりが認識されていたのだが……この現象は、タキオンやネオユニヴァースにとってはかなり興味深い観測対象でもあった。