盛り上がりがいまひとつだったウイニングライブで、タップダンスシチーが即興の歌とダンスを披露し、一気に客席を沸き立たせた様はその夜のうちにニュース記事となり、ネット上でも話題となった。
翌日に備えて阪神レース場近くの宿泊施設に居た鷹木も、そのニュース記事をスマホで確認していた。きっと、片桐トレーナーはタップが客席を沸かせたことは好意的に捉えつつも、彼女が費やした体力を回復する算段に頭を悩ませていることだろう……と思いつつ。
現地での最終調整を済ませたヒシミラクルが、万全の体調を維持して寝室へ向かったのを見送った後、スマホから呼び出し音が鳴る。
送信元はアグネスタキオンであったが、応答して通話画面に映ったのは彼女だけではなかった。
〈見たかいトレーナーくん!今日のタップくんのウイニングライブを!彼女が感じた不本意が可能性世界からの干渉ゆえか否か、それは観測なくして断定できないが、しかし彼女が示したのはウマ娘の新たな特異点としての在り様だと言えるのではあるまいかねぇ!〉
〈“ART”……“わたし”たちが『イベントホライズン』を越える“PATH”は、“レースをする”だけじゃない。“WNLV”の“コヒーレンス”は“REEN”を広げるよ。〉
「ま、待ってくれ、一気にふたりで喋らないでくれ……まず聞きたいんだが、タキオン、ユニヴァース、もう夜なのに同じ部屋に居るのか?」
ウマ娘の中でも特に言葉遣いの難解な両名からワッと発言を浴びせかけられ、鷹木は無理やり脳を回転させられる感覚を味わいながら、質問を辛うじて口にした。
アグネスタキオンとネオユニヴァースは、そもそも寮では別室だったはず。夜になっても一緒に居るということは、どちらかが本来の寝室から離れているか、あるいはそもそも寮に戻っていないかと推測された。トレーナーとして、真っ先に案じたのはその点である。
〈ユニヴァースくんと話し合いをしていただけだ、門限を破ることなく寮には居るのだから心配は不要だねぇ。そんなことよりも、今日のタップくんのウイニングライブ、動画を一つでも見たかと聞いているんだ!あれほどの話題、SNSを覗けば誰かしらが現地での様子をアップしているねぇ!〉
「あぁ、というか、そもそも今、阪神レース場近くの旅館に居るからな……確かに、ライブの音源が止んだ後になって、妙にレース場から盛り上がる歓声が響き続けていたのは聞いている。」
〈たくさんの“ENJI”が集まったよ。『軌道に戻る』はしていないけれど、“SASA”は“STDA”ながら“KELT”を抱いているよ。〉
タキオンが興奮状態にあるのは確かめるまでもなく、いつもより若干早口になり、相手が理解しやすい言い回しをあまり選んでいない状態のネオユニヴァースもまた、今回の現象に強く関心を惹かれている様子であった。
他のトレーナーよりは、普段からタキオンの仮説を聞かされている鷹木の方が彼女らの言わんとするところを掴みやすかっただろう。自分に期待されている役割を探りつつ、鷹木は返答する。
「こちらとしては、お前たちが寝不足になる恐れの方が気がかりなんだが……わざわざ通話を掛けてきたってことは、ちゃんと話を聞いてやらないと昂揚感も収まらなさそうだな。」
〈それもまたあながち否定できる見解ではないが、トレーナーくんへ伝える目的もきちんとあるねぇ!明日のヒシミラクルくんのレースでも、同様のことが起きる可能性がある、という話だ。〉
〈既に、この世界は“WTDL”……『離脱速度を超える』をしている。“MAZN”の声は“KTSQ”される限り『遠ざかる』よ。〉
相変わらず独特過ぎるネオユニヴァースの言葉を理解することは難しかったが、タキオンの喋りであれば聞き慣れた鷹木はどうにか意味を追うことは出来た。
今年に入ってから、鷹木にも認識できるようになった異変のひとつが、レース場に響く歓声が本来よりも小さく聞こえる現象である。観戦スタンドがほぼ満席、レースの盛り上がり自体が十分であったとしても、なぜか幾万人のあげる歓声が小さく……遠く聞こえることが増えてきていた。
レース場に響く歓声が、ウマ娘レースへの世間からの注目度であり、存在の認知度であるとするなら……それが薄まることは、世界からの関心が薄れていることの表れかもしれない、とタキオンは危惧していた。
その日のタップダンスシチーが出走した朝日チャレンジカップでも同様の現象は起き、さらにはレース後のウイニングライブまでも妙に静かだったのだが、タップの即興パフォーマンスによって盛り上がりは取り戻されたのだ。
〈可能性世界において、我々の居る現実世界と同様のウイニングライブが行われているかどうか、更には同じ楽曲までもが存在するか否かについては断言のしようも無いが、しかしタップくんの歌、そして振り付けが完全に即興である以上、これは全く新しい可能性が開かれ、そして観客たちの印象および記憶によって現実として繋ぎ止められた現象だ、と言えるのではないかねぇ!〉
「お……おう……お前がこれまで言ってきた仮説に従えば、そうなるのかな。」
〈“SNFT”ヒシミラクルに、『確実に伝える』をしてほしい。もしも“KELT”が薄れていても“シンチレーション”は要らない。レースを見せれば“MMBL”の輪は、広がっていく。〉
ひたすら早口のアグネスタキオン、そして難解な言い回しのネオユニヴァース、それぞれの発言を理解するためには脳の全く別の部位を働かせねばならなかったが、鷹木は懸命に思考を回転させながら意図を汲み取ろうとしていた。
それはもちろん、ヒシミラクルのことを案じてのアドバイスであろうことが明白だったためだ。
「えぇと、要するに……明日の野分特別レースで歓声が静まり返っていたとしても、ヒシミラクルが心配する必要はない、ってことか?」
〈そうとも、無論タップくんのように即興のパフォーマンスを見せることは少々難しいだろうがねぇ。しかしレースであれライブであれ、その結果如何に拘わらず、観客たちを感動させることが現実性の確立に繋がることが立証されたも同然なのだから、ヒシミラクルくんはこれまで通り、いやこれまでにも増して、全力のレースを披露してくれれば良いねぇ!〉
〈アファーマティブ。レースを『楽しみにする』ことに“TRBL”は無いよ。"EXAL"でも『現実』でも、ヒシミラクルは『待ち望む』されている。〉
ようやっと興奮が落ち着いてきたのか、ネオユニヴァースの扱う言葉は多少なりと平易なものが選び出されていた。
タキオンの方はまだまだ、後輩ウマ娘のレース前日ということもあって高揚感が収まらず話し足りない様子であったが、鷹木としてはこのまま長々と話し続けるわけにもいかない。
「分かった、まぁヒシミラクルなら、そうすぐに深刻な受け止め方はしないと思うが、不安を抱えないよう俺からも伝えておく……そろそろ通話、切るぞ。タキオンもそうだし、ネオユニヴァースが寝不足状態となったら、そちらの担当トレーナーさんに申しわけが立たない。」
〈“NVEM”タキオンとの交流は、“SETO”も有意義だと認めている。〉
〈おやおや、そう言われてしまうとますます張り切ってユニヴァースくんとの議論に熱が入りそうだねぇ!〉
「いいから早く寝るんだ、秋からのGⅠ戦線に出走するウマ娘が、そろって夜更かしするんじゃないぞ。」
下手をすれば夜通し語り明かしかねない両名に念を押し、鷹木は通話を切る。
時計を見れば、既に夜の10時。身体状態を第一とするアスリートならば、十分な睡眠をとるため寝床にはついていてもらいたい時間帯である。
「そりゃあ、この世界そのものが何だか変だ、ってことに気づいてしまったら、おちおち寝ても居られないだろうけどな……俺たちの立場で出来る事といえば、最高のレースを実現するための努力が全てだ。」
以前まではタキオンから教えられなければ気づかない程度だった異変の数々は、今や教えられずとも認識するほどのものになっている。現に、タップが即興パフォーマンスを披露したのは、実際に歓声が小さく聞こえていたためだろう。
ともすれば、明日のレースでも、ヒシミラクルは自分に向けられる歓声が妙に少なく、遠く聞こえるのかもしれない。
鷹木はそっと足音を忍ばせ、旅館の廊下に出て、ヒシミラクルの部屋の前まで向かった。聞き耳を立てるまでもなく、ドア越しにミラ子の暢気なイビキが響いていた。
「……ミラ子に関しては、まだ心配は要らなさそうだな。」
自身の勝敗のみならず、現実世界での異変がウマ娘のメンタルに与える影響を案じさせる状況だったが、細かな事では揺るがぬヒシミラクルの精神面が今は頼もしかった。
しかし翌日、タキオンから告げられた可能性は、そのまま現実となっていた。
最終調整を済ませて阪神レース場へと入り、パドックでのアピールを終えて控室へ戻ってきたヒシミラクルは、開口一番に言う。
「ねぇトレーナーさん。今日、観客さんの数、少なくありません?」
「そそっ……そっ、そうか?」
歓声の大小など一切気にすることなくレースに入るかと思われたヒシミラクルであったが、流石に言及せずにいられないほどの状況だったのだろう。
危惧のど真ん中を突かれた鷹木が盛大にどもっているのを傍らに、ミラ子は喋り続ける。
「いやー、数は少なくないですね、パドックでもお客さんぎっしり詰めかけてましたし。やっぱ、歓声が小さいんですかねぇ。そりゃまぁ、GⅢレースと比べれば、2勝クラスの条件戦なんてそこまで盛り上がらなくてもしょうがないですかねー。」
「うん、まぁ、GⅢレースと比べてしまうと、そうかもしれないが……」
昨日の朝日チャレンジカップもあったが、今日の阪神レース場では短距離レースの重賞であるセントウルステークスが行われる。
中でもカルストンライトオやビリーヴといった人気のあるウマ娘たちが本日出走ということもあり、阪神レース場の観戦スタンドはまたも満席状態となっていた。
それでも、ヒシミラクルの出走するレースに期待が向けられていないわけではない。
「いいかヒシミラクル、野分特別ではお前が1番人気なんだぞ。」
「分かってますって、だから今回もレース中にマークされる前提で走りを何度も確認したじゃないですか。」
「それもそうだが、観客たちは一番にヒシミラクルの走りを楽しみにしているんだ。今は歓声が小さく聞こえてたって、ひとたびレースが始まれば皆が夢中になるのは間違いない。」
「そーですかね。ま、あんまり期待されるのもプレッシャーですし、私としてはほどほどの盛り上がりでいいかなーって。」
昨晩、タキオンやユニヴァースから伝えられた通りに、歓声の小ささを気にせぬよう伝える鷹木。
しかし、当のミラ子はもとより細かな事で気に病む性格ではない。少々拍子抜けな反応を前に、鷹木は気にし過ぎていたのは他ならぬ自分自身であった、と考えなおしていた。
それでも、今の鷹木の言葉が、ヒシミラクルの胸中にプラスにならなかったわけではない。
「ですけど、そう言ってもらえたら、ちょっとばかりは頑張ろうって気も湧いてきますかね。先輩方の前座だとしても、いっちょ本気を見せてやりますか。」
「本気なら常に見せてくれ。ここでの勝利は、次のステップに繋がるんだ。行ってこい。」
緊張しすぎもせず、調子を狂わせることもなく、鷹木の言葉を背に送り出されたヒシミラクルは最高の状態をキープして地下バ道へと向かっていった。
観戦席最前列のトレーナー用ブースに顔を出した鷹木は、もはや誤魔化しようもなく歓声が遠くに聞こえることを確認していた。
背後には、阪神レース場の巨大な観戦スタンドを埋め尽くす数万人の観客が詰めかけている。
「この後のセントウルステークス目当てで来た観客も多いだろうが、それにしてもざわめきが小さく聞こえるな……。」
タキオンの立てた仮説、昨晩も告げられた理論が正しければ、ヒシミラクルの走りが最も盛り上がる最終直線に差し掛かる時、歓声は本来の大きさとなって響くはずである。
ミラ子のレースでの勝敗と、現実として響く歓声の程度、その両方に懸念を向けつつも、鷹木はターフ上に出てくるヒシミラクルへ心の中から全力のエールを送った。
〈9月8日の阪神レース場、曇りですが芝状態は良。第9レース、2勝クラス野分特別、間もなく発走時刻です。全ウマ娘、枠に収まりまして、体勢完了……スタートしました。さぁまず1コーナーを目指しての先行争い、まず間から抜け出してきましたエルウェースターです、果敢に前に出て先頭に立ちました。2番手は外からチトセサクセス、そしてシルクフェイマス、ウチを突いて今回1番人気のヒシミラクルが4番手です。一周目の坂を上りましてマヤノボイジャー中団の位置、あとはリキアフリート、ウォーターゴーラン並んで、1コーナーへと入っていきます。〉
昨日のタップダンスシチーが走ったのと同じ、阪神レース場内回りコース2000mという条件。
スタートから間もなく、仁川の坂ことスタンド前直線の上り坂を駆けあがる構成のため、そこまでハイペースにならないのはヒシミラクルにとっての追い風であった。
「一番内側に押し込まれてしまったが、先行の位置には入れたか。まずはそのままでいい、前に入られるんじゃないぞ……。」
2枠からの出走となったヒシミラクルは、やはり1番人気であるだけに周囲からマークされ、外側に2名も並んでコースの最ウチを走る形となっている。
芝状態が荒れていることの多いコース内側であるが、それでも幾度も繰り返して来た練習の成果、ヒシミラクルはスタートから速度を出し、先行のペースにまず追いつくことが出来ていた。
〈ジンパーフェクトは2バ身差で最後方、先頭から最後方までの差は12バ身の圏内という形で、現在の先頭はエルウェースター、リード2バ身で淡々と進めています。2番手にチトセサクセス、3番手はシルクフェイマス、ウチ側へと入っています。ヒシミラクル4番手、少々外側へとコースを取ったか。その後に並んでじわっと上がりましたリキアフリート、マヤノボイジャー。ウォーターゴーランは後方2番手、ジンパーフェクトが差を詰めて最後方です。〉
このレースではヒシミラクルよりもベテランにあたるウマ娘が揃っており、今まさに先頭で進めているエルウェースターなどはミラ子の3年先輩である。
条件戦の2勝クラスとはいえ、油断していては勝ちを逃す状況がずっと続いていた。
「1,2コーナーの時点で位置取りの駆け引きが進んでいるか。だが、ミラ子……成長したな。外コースに出る判断が遅れていない。」
先ほど、直線を進んでいる段階では最ウチを通っていたミラ子。しかし今、その位置には3番手のシルクフェイマスが入ってきている。
さらに外側から上がってくるウマ娘が居れば、完全に前方も外側もブロックされて前に上がれない状態になりかねないところだったが、ミラ子はそうなる前にコーナーの外側へと位置取りをずらし、進路を確保できる形を作っていた。
〈各ウマ娘、向こう正面へと入っていきます。徐々に差が詰まって、隊形が一団となってきています、先頭のエルウェースターへと2番手チトセサクセスが早くも並びかけようというところ。そのすぐ後にシルクフェイマスですが、外からすーっとヒシミラクルが3番手まで接近、リキアフリート、その外ならんでマヤノボイジャーという形で残り1000mを通過、1分3秒。ウォーターゴーランに最後方ジンパーフェクトも詰めてきています、これから3コーナーを迎えます。〉
以前までと違ってコース取りの駆け引きにも応じられるようになったヒシミラクルは、この時点で理想的なペースを実行できるようになっていた。
狙い通り、既に外から上がれる形を作っていたヒシミラクルの加速を阻む者はいない。向こう正面に入った時点で前へと距離を詰めていき、豊富なスタミナをもってじわじわと加速していく。
「よし、よし!そのまま上がって行け!さほど大外回りにはならない、十分に勝てるぞ!」
これまでになく作戦が順調に進んでいることを実感し、鷹木は夢中になって叫んでいた。
ヒシミラクルの走りを凝視し続けていた彼が敢えて意識することはなかったが……その時、阪神レース場に響いている歓声は、確かに声量が上がり始めていた。
まさに、レースが盛り上がる所。3コーナーから4コーナー、そして最終直線へと近づくにつれ、幾万人もの観客が立てる声は地を轟かすほどに盛り上がっていったのである。
〈先頭のエルウェースターはリード半バ身、2番手のチトセサクセスが続きますが、外からヒシミラクルがさらに並んで残り800を通過!後はシルクフェイマス、マヤノボイジャーも現在先頭に向けてぐんぐんと接近、2バ身差でウォーターゴーラン、リキアフリートならんで依然最後方はジンパーフェクト。600を通過しまして、僅かに先頭はエルウェースターですが、外からヒシミラクルが並んできてこのまま先頭を取ろうという勢い、残り400を通過、間もなく最後の直線へと向かいます!〉
向こう正面から脚を使い始めたヒシミラクルが、全く衰えぬ速度で先頭のエルウェースターに並び続け、最後の直線へとそのまま入ろうとしている。
この白熱した展開に、ウマ娘ファン達が沸かぬはずもない。鷹木はヒシミラクルに向けた叫びが大歓声に埋もれるのも気にせず、叫び続けていた。
「振られるな、外に振られるな!……よし、よし!いいぞ!行け!そのまま、そのまま!並び続けて差し切れ!」
4コーナーの出口まで、ヒシミラクルは遠心力でコース外側へと振られることも無く、間にはチトセサクセスが入り続けていたため、ウチを突いて抜け出そうとするウマ娘もいない。
ここまで組み立てた展開で最終直線へと持ち込みさえすれば……あとは、先頭で粘り続けているエルウェースターとの根競べであった。
ヒシミラクルは無論、まだまだスタミナに余裕もあったろうが、エルウェースターとて十分な経験あるウマ娘。
易々と先頭が譲られることはなく、両者は大歓声を浴びながら最後の直線を突き進んでいった。
〈先頭争いは外からヒシミラクル、ウチからエルウェースター!チトセサクセスも並び続けているが、これは3番手争いか!中からシルクフェイマスも上がってくる、残り200を通過!先頭はヒシミラクルだ、ヒシミラクル僅かに前に出た!3番手にはシルクフェイマス、エルウェースター食らいつき続けるが、坂を上ってもヒシミラクル譲らない!ヒシミラクル、粘り強い走りだ、まったく縮まらない差をキープしたまま先頭でゴールイン!勝ちましたヒシミラクル、これで通算3勝目をあげました!〉
「勝ったぁっ!勝っ……た!あぁ……あぁ、やったなミラ子!これで、いよいよ……!」
鷹木は拳を振り下ろしかけ、以前思い切り柵を殴って痛い目を見たことを思い出して寸前でその挙動を止めた。が、興奮自体は収まらぬはずもなく、大声はおのずと彼の喉から迸り出た。
だとしても、鷹木の少々間抜けな挙動が目立つことはなかった。最後の直線、先頭で2名が並び続けるデッドヒートに魅せられ、阪神レース場の観客たちは熱狂の渦の中にあったためだ。
ターフ上でヒシミラクルはゆっくりと減速し、これまで浴びたことのない、そしてレース前には全く予見していなかった大歓声に初めて気づいたように、気おされつつもはにかんで笑顔を見せ、手を振っている。
「そうだ、これほどのレースに、感動が無いはずがない。ここで勝てたなら、もう、決めてあるぞ、次走は。」
鷹木は呟きながら、トレーナーの姿をすぐには見つけられず少々気の抜けた顔を示しているヒシミラクルに向けて手を振り続けていた。
この大歓声は、鷹木の下した大それた決断を確かに後押ししていた……菊花賞への優先出走権を獲るレース、神戸新聞杯へのヒシミラクルの出走登録を鷹木が行ったのは間もなくのことである。