探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 9月初頭のレースにも勝利し、いよいよ次は神戸新聞杯への出走が決まったヒシミラクル。大一番である菊花賞への優先出走権を得られるレースであったが、流石に条件戦でしか勝ってこなかった彼女にはGⅡで戦い抜くだけの確信は得られていない。後輩に過大なる期待を寄せるタキオンも、これまで通りのトレーニングにあと一押し必要だと考えたのか、その日のトレーニングには予想外の併走練習相手を連れ込んできていた。それはヒシミラクルのためでもあり、またその練習相手自身の胸中を揺さぶる意味もタキオンは想定していたのであった。


途上の夢、バッカスの御出座し

 ヒシミラクル、神戸新聞杯への出走決定。野分特別で得たデビュー以降の三勝目によって、出走登録に求められる実績を認められての滑り込みだった。

 

 そのニュースは、もっと大きな話題性を有するシンボリクリスエスやノーリーズンの名を前にして霞んでしまっている感こそ否めなかったものの、トレセン学園内ではミラ子に近しい友達が盛り上がる程度には知れ渡っていた。

 

 菊花賞へと挑むための優先出走権を得られるレース、そこに参戦できるということは、彼女がこの年のクラシック級最後の一冠を手にする可能性もあるということなのだ。

 

 ヒシミラクルと同じく鷹木を担当トレーナーとする先輩ウマ娘、アグネスタキオンが歓喜し期待を最大限に膨らませていることは言うまでもない。

 

「菊花賞は3000mの長丁場、まさにヒシミラクルくんのように、豊富なスタミナを有し持久戦に強いウマ娘の独壇場だねぇ!きっと勝てるとも!そうだ昨年の菊花賞を獲ったカフェに直接の助言を得てもいい!カフェも国内のシニアGⅠ路線へ進むと決めたことだし、まぁ9月中ならまだヒマもあるだろう!」

 

「いやいや、カフェ先輩も来月の天皇賞に向けての準備を進めてるでしょうし……それに私、神戸新聞杯ですらマトモな勝負になるか怪しいんですよ。」

 

「弱気になることは無いねぇ!確かにシンボリクリスエスくん、ノーリーズンくんは強敵だが、しかし他の面々は恐るるに足らずだ!優先出走権を得るためには三着以内に入れば良いのだからねぇ!」

 

「いやいやいや……神戸新聞杯はGⅡですよ、GⅡ……私、ようやく2勝クラスの条件戦で勝てたばかりだってのに……。」

 

 タキオンがこの上なく楽観的に後輩の行く先を祝福している一方、当のヒシミラクルは自分があまりに格の違いすぎるレースへと赴くことに気後れを感じずにいられない様子であった。

 

 とはいえ、今年の初め頃のように、レースで勝ちを獲りに行く姿勢自体が無いわけではない。

 

 あくまでも、勝つことを前提として考えられるようになったからこそ、その難しさを実感した上での気後れであることは傍から見ていても明白だった。

 

 鷹木は、残り2週間という限られた期間に為すべき調整スケジュールをぎっちりと書きこんだノート、タブレット端末を抱え、寝不足で隈が浮いている目を擦りつつも今後の予定をミラ子に告げた。

 

「神戸新聞杯は、阪神レース場芝2000m……って条件だけを見れば、野分特別と同じだが、流石に競走相手の質が違いすぎるのは否めない。現状のシンボリクリスエスは間違いなく最強格だ、単なる身体能力の完成だけじゃない、青葉賞なんかで見せた正確なコース取りや仕掛けどころでしっかりと加速する強さ、間違いなく更に磨きがかかっているだろう。」

 

「あ、あのー、さっきもタキオン先輩から言われましたけど、そんな最強格の相手を気にするよりは、三着以内に入る算段を立てた方が確実なのでは?」

 

「ダメだ、ミラ子は前へ前へと行き過ぎるぐらいのつもりで走って丁度良い。シンボリクリスエスもノーリーズンも、最後の直線で差し切るつもりで出走するんだ。」

 

 鷹木がそう言うのは、ヒシミラクルを諭すためばかりではなく、自分自身に言い聞かせるためでもあった。

 

 アグネスタキオンのように易々とGⅠのステージで勝ってしまうウマ娘が普通とは違いすぎるだけで、本来はGⅡのレースに出走できる権利を得るだけでも普通ではないのだ。

 

「あとは、これまで通り、同じレースに出走する相手とはしばらく合同で走ることはできない。本番まで、お互いの作戦を晒すわけにはいかないからな。もちろん休憩時間を合わせられれば会うだけは出来るが。」

 

「気軽に会いに行くってわけにもいかなくなりますね……併走練習の相手も、ちゃんと選ばなきゃ、ですね。」

 

 ヒシミラクル自身も普通の感覚を抱いたままでは勝利争いに加わること自体出来ないし、鷹木もまた至難の業を担当ウマ娘に行わせようとしている実感を抱かねばならない。

 

 ここから先は、中央トレセンに属するウマ娘の中でも、さらに一握りの存在だけが踏み込める世界。生半可な覚悟では、早々にはじき出される。

 

「幸いながら、練習環境は一流のものが揃っている。個別練習場こそ得られていないが、練習相手としては他ならぬ芝2000mでの無敗を誇るアグネスタキオンがここに……。」

 

「タキオン先輩なら、さっきまで喋るだけ喋ってどっか行きましたけど。」

 

「えっ……アイツもトレーニング、サボってる場合じゃないだろうに……。」

 

 つい先ほどまで好き放題に喋っていたはずだと言うのに、確かにアグネスタキオンの姿はいくら見回しても近くに無かった。

 

 とはいえ、タキオンを担当し始めたばかりの頃とは違い、彼女なりの考えでこの場を離れたのだろう、と鷹木には分かった。練習時間を削る理由など、今のタキオンにはない。

 

 鷹木が案じて探しにいくまでもなく、タキオンがこの場に戻ってきたのはヒシミラクルがウォーミングアップを終えてコース上を走り出した頃であった。

 

「やぁやぁ待たせたねぇ、私もヒシミラクルくんが十分に走りを磨けるように、相応しい練習相手を探し出していたのだよ。」

 

「それはタキオン、お前自身でいいだろうに……まさか、マンハッタンカフェを本当に連れてきたんじゃないだろうな。」

 

 天皇賞秋への出走を控えているカフェを無理矢理引っ張ってきたとなれば、またも結城トレーナーの前で幾度も頭を下げて謝罪しなければならない。そもタキオンも天皇賞の出走を予定しているのだから、一緒に練習することは出来ない。

 

 が、その懸念はタキオンも理解していたらしく、連れてこられていたのは全く予想外の存在であった。

 

「ワタシという不滅の価値(イデア)は未だ宝物庫(オルコメノス)に埋もれてなどいなかったか!ククッ……ハッハッハ!ならば再びの酩酊を与えてもくれよう……刹那の眩い輝き(ギムレット)、研鑽を求む嘆息(こえ)に応えここに参じた!」

 

「……タニノギムレット……!?ダービーを最後に引退したんじゃ……。」

 

「流石にデビュー2年目、トレセン学園そのものを卒業するには早すぎるねぇ。現役レースには出ておらずとも、ギムレットくんも普通に学園には居るに決まっているねぇ。」

 

 久々に聞く、ギムレット特有の口上を前にして目を丸くしている鷹木の傍らで、タキオンがそっと口添えする。確かに、レースを引退したからといってトレセン学園を即座に去らねばならぬわけではない。

 

 トレセン学園は、現役レースを続ける道を選ばなかったウマ娘にも、進学や就職の機会が得られるように勉学を続ける場がある。まさに、当初はレースの道に進まぬ予定だったヒシミラクルが、進学のクラスへ入ろうとしていたように。

 

 とはいえ、タニノギムレットの場合は……その余りある才覚を学園そのものが惜しみ、手放したからず、彼女が去る前の猶予期間を引き延ばしている側面もあるようではあった。

 

 練習コースを一走りしてきたヒシミラクルの耳にも既にギムレットの声は届いていたらしく、鷹木の元に戻ってくる頃には驚きの表情は薄れていたものの、想定外の来訪者を前に戸惑いは確かに浮かんでいた。

 

「えぇ……ギムレットくんだ、久しぶり……既に運動服に着替えてるけど、もしかして……」

 

「ククク……理解なぞ不要だ。巡り(フォーチュン)とは、顧みればこそ必然の帰結であれ、訪れには常に衝撃(クオリア)を伴うものだ。さぁ、ベルフェゴールをも翻弄せし奇跡(ヒシミラクル)よ、貴様の魂(プシュケー)のすべてを賭けて!ワタシを酔わせに来るがいい!ハーッハッハッハーッ!!」

 

「要するに、ヒシミラクルくんの練習相手になってくれるということだねぇ。今日はアポなしではあったが来てもらえないかと頼みに行ったら、その場で快諾してくれたねぇ。」

 

 タキオンによる翻訳を経ずとも、既に運動服に着替えているギムレットが乗り気であるという状況が全てを物語っていたが、ヒシミラクルの表情から戸惑いは消えなかった。

 

 むろん、唐突過ぎる展開を前にして鷹木も同様ではあったが……すでに担当トレーナーとしての感覚は、ヒシミラクルにとって大きなプラスとなる要素を目の前に見出していた。

 

 かつては結城トレーナーの担当ウマ娘であったタニノギムレットが、今は自身の意思で併走を承諾してくれている。才能の塊のようなウマ娘が練習相手になってくれる状況など、好機でないはずがなかった。

 

「じゃあ、ギムレット自身が乗り気だ、っていうのなら……せっかくだし、一緒に走ってもらおうか、ヒシミラクル。」

 

「ま、まぁ確かに、せっかく来てもらったわけですから、走らない理由はないですけどぉ……私よりずっと実力が上の相手で、マトモな併走になるんでしょうか。」

 

「おやおやヒシミラクルくん!GⅠウマ娘相手にマトモな勝負になる見込みがあるからこそ、菊花賞を目指すのではないのかい!それに、この私、アグネスタキオンを相手に芝2000mでの勝負を挑むならばまだしも、2000mでは勝っていないギムレットくんが、更には現役レースを離れてブランクがある状態ならば、こちらの勝ち目は充分にあるだろう?」

 

「いやいやいや……」

 

 タキオン流の理屈を前に、“いやいやいや”しか言えなくなっているヒシミラクル。タニノギムレットが芝2000mを一度も勝てていないのは事実ではあったが、それも短期間に複数のレースへ出走する鬼のようなローテの中でのことであり、マイルである1600m、およびダービーの2200mで勝てているのは言うまでもない。

 

 ヒシミラクルに発破をかけるためのタキオンの言葉であったが、同時にタニノギムレットの心にも火をつけたらしい。

 

「熟成前の美酒(ニューポット)を味わうならば舞踏(テレプシコラー)も吝かではないと思っていたが、どうやら退屈(インタールード)はワタシを捨て置きはしないようだ……―――超限を期する探求者(アグネスタキオン)よ、ならば見せてやろう!この俺によるワアシの、破壊の戦史(クロニクル)、その歓喜(フロイテ)のいまだ褪せぬ様を!」

 

「ふぅン?ヒシミラクルくんが本気になってくれさえすればよかったのだがねぇ、なかなかどうして冷めきってはいないじゃないか、タニノギムレットくん。まさか、この私に勝てるつもりでいるのかい、ンンッ?構わないさ、芝2000mであることは神戸新聞杯も天皇賞秋も同様だ、私も共に走ろう。」

 

 両者ともにあり余る声量での会話は周囲に響き渡っており、その対戦カードが注目を浴び、噂となって付近のウマ娘たちからの注目を集めるのも時間の問題であった。

 

 今年のダービーを最後に引退したタニノギムレットが、芝2000mでアグネスタキオンと併走する。その様を見ようとして、合同練習場には野次ウマ娘たちが早くも集まりつつあった。鷹木が担当のために個別練習場を得ることが出来ていないのも、この騒動に一役買っていた。

 

 ウォーミングアップをタキオンとギムレットが始めれば、練習コース上からも他のウマ娘たちは既に退いて、観戦する気満々である。

 

 集団指導を事実上中断されてしまったトレーナー達に向かって、鷹木がペコペコ頭を下げて謝っている傍ら、もはやついでのような存在と化してしまったヒシミラクルが耳打ちする。

 

「あ、あのぉ、こんな豪華な対決のなかで……私も一緒に走ったら、邪魔になっちゃわないですかね?」

 

「何を言ってるんだ、そもそもミラ子の練習がメインなんだ。堂々と走ればいい、脚を鈍らせるんじゃないぞ。」

 

 これからGⅠレースの舞台へと上がっていくヒシミラクルが、その競いの場が分不相応だと感じず全力で勝ちを狙い続けるための練習の場でもあった。

 

 タキオンとギムレットはウォーミングアップを済ませ、ヒシミラクルも含めて3名が練習コースのスタートラインに並ぶ。

 

 練習コースを観戦しに来たほとんどの視線はタキオンやギムレットの走りばかりを期待している様子であったが、いずれヒシミラクルの走りからも目を離せなくだろうことは、鷹木もタキオンも、ギムレットも確信していた。

 

「そも、私は常々より合同練習場に居るのだがねぇ。やはりギムレットくん、キミの走りをこそ皆は再び見たがっているのではないかい?」

 

「フッ……ワタシは存分に走りを刻み終えた。新たなる混沌(ノヴァ・エラ)の行く末を今は座して楽しむのみだ……さぁ、メネラーオスの水先案内人よ、帆を上げろ!束の間の楽園(エリュシオン)は今、刹那に創られる!」

 

「えぇと……私もスタートの準備、オッケーです、トレーナーさん。」

 

「あぁ、全力で行けよ、ミラ子。じゃあ位置について、用意……スタート!」

 

 合図を出したのはゲートの音ではなく、鷹木の声でしかなかったが、それでもGⅠレースの発走の瞬間の如く、熱量と気迫に圧縮された空気がターフ上を駆け抜けていくようであった。

 

 本番さながらの歓声が、集まってきたウマ娘たちのみならず、周辺のトレーナー達の口からも上がる。前年度皐月賞ウマ娘アグネスタキオンと、今年度のダービーウマ娘タニノギムレット。この幻の対決が、今ここに実現したとなれば興奮せぬ者はいない。

 

 が、彼女らが並んでいたのは僅かの間であり、まもなく各々が得意とするペースへと持ち込んでいった。

 

「やはりタキオンが前に出るか、先行を得意とする相手と競うミラ子のためを思って、だよな……ギムレットは後方に控えて、あの追い上げを終盤に見せてくるだろう。」

 

 完全におまけのような立場で脚を進めているヒシミラクルだったが、これまで積み重ねてきたトレーニングの成果は出ており、先行するタキオンからさほど引き離されることなく1コーナーへと入っていく。

 

 尽きることなど無いかと思われるほどの潤沢なスタミナが一番の強みである、ヒシミラクル。スピードに乗るまでの遅さが短所であるが、序盤から可能な限り前につけていれば、中盤以降の加速で十分に先頭を捉えられる位置まで上がれる、というのが基本的な作戦である。

 

 ただし、猛者揃いのGⅠクラスでも同じ手が通用するわけではない。

 

「タキオン、いかにもハイペースで上がっていくような走りだが、かなり負荷は軽くしているな。あれにミラ子が気づけるか、試しているのか。」

 

 自分の特性を活かすために結果的に先行の位置へ上がっているヒシミラクルと違い、元より先行が得意なウマ娘ならば、絶妙な速度調整によって周囲のペースをコントロールすることが出来る。

 

 十分なスピードを出して前を追っているつもりが、実際には十分に息を入れるだけの余裕を作られている。

 

 いくらヒシミラクルが無尽蔵のスタミナを有していても、気づいた時には相手の加速に追いつけず……どうにかスピードが乗ってくる頃には、既に一着のウマ娘がゴールラインを越えている、という状況に陥ってしまいがちなのだ。

 

 だが今、ヒシミラクルも相応に実戦経験を積んでいる。2コーナーを出て向こう正面に出る頃には、早くも先頭のアグネスタキオンに並びかけるほどに前へと詰めていた。

 

「おぉ……気づいたか、ミラ子……!いいぞ、大きな成長だ、自力で気づけるようになったのは、本当に大きい……!」

 

 ざわめいてタキオンやギムレットらの走りを見つめている群衆に囲まれつつも、ブツブツと独り言を言いながら興奮している鷹木。

 

 レースが終わった後に、その映像を見返して敗因を指摘するだけなら、いくらでも出来る。それはむろん重要な取り組みではあったが、しかし次のレースで競走相手たちが全く同じ走りをするわけではない。

 

 常に、レース展開は未知である。誰がどのような作戦をとるのか、見知ったうえで出走できるわけではない。

 

 だからこそ、レースの最中に、臨機に応じてペース配分を調整し、コース取りも自力で決定できるだけの判断力を身につけることが重要なのだ。

 

「タキオンも流石に、ミラ子に対してはリードを詰めさせないか。だが、脚を使う分にはミラ子の消耗はほぼ気にしなくていい、これはミラ子、勝てるか?」

 

 器用に速度を調整できるわけではなく、掛かりの遅いエンジンでじわじわ加速していくのが精いっぱいのヒシミラクルは、どうしてもレース中の目論見が相手にバレやすいのが別の短所となっていた。

 

 今も、向こう正面というかなり早い段階で距離を詰めてきたヒシミラクルに対し、アグネスタキオンがリードを広げている。普通のウマ娘なら、ゴール前に残しておくべきスタミナを使わされたにもかかわらず、望んだ位置を取れなかったという局面になる。

 

 実際、この併走を見つめているウマ娘たちの中には、ヒシミラクルが焦って仕掛けるタイミングを早めすぎたのだ、とささやき合う声も聞かれたが……彼女のこれまでの出走レースを見知っている現役ウマ娘やトレーナー達は、ヒシミラクルが確かな観察眼を養っていることに気づいていた。

 

「残り800m、阪神レース場ならすでに3コーナーを回っている辺りだが、順調に速度を上げられているな、ミラ子。ギムレットも来たか、引退のブランクもほぼ感じさせないな……!」

 

 アグネスタキオンのペースに載せられれば最終直線での急加速で突き放されてしまうだろうし……さらに今、じりじりと後方から迫ってきているタニノギムレットの追い込みに捉えられてしまうと、もはや差し返すことは不可能である。

 

 ここにきて、ヒシミラクルは先頭に立っていた。さすがにタキオンも、直線に向いた際の加速に備えて一旦脚を緩めている。

 

 ……ということは、4コーナーを回り切った後、容赦なくほぼ本気の走りで抜き去るつもりなのだろう。ゴール地点へと近づいてきたミラ子に向けて、鷹木は大声を放った。

 

「ミラ子!もっと速く!本番は仁川の坂がある!駆け上がっていくつもりで踏ん張れ!!」

 

 唐突に響いた鷹木の大声に、近くに居たウマ娘たちはビクッと跳びあがるも、その余波はそのままヒシミラクルに対する声援となって広がっていった。

 

 タキオンとギムレットの一騎打ちばかりを期待して集まってきた野次ウマ娘たちも、いつしかそんな面々と肩を並べて力走を披露しているヒシミラクルから視線を外せなくなっていたのである。

 

 当のヒシミラクルは、すでに必死であったが。コースのウチ側にはタキオンの蹄音が並び続け、外からは上がってくるギムレットの気配が振り返らずとも迫り来ていた。

 

(んなこと言ったって、今の世代で最強クラスのおふたりに挟まれてんですよ!前までの私だったらここで気持ち、折れてますってぇ……!)

 

 そう、とても勝ち目を見出せぬ相手を前にしては、精神面から挫けてしまうのが普通である。

 

 もしかすると、それこそタキオンが言う所の“可能性世界”によって既に定められた勝敗の運命に屈することであるのかもしれない。

 

 しかし今、ヒシミラクルは本気で、勝つつもりでいた。ミラ子自身は決して強気な発言をしなかったが、ウマ娘の走りは嘘をつかない。

 

 本番のレース場ほどの大歓声が周囲を轟かしているわけではない中、こちらも必死になった鷹木の叫びが過剰な声量で響き渡っていた。

 

「行け!行け!ミラ子!並び続けてる!勝てるぞ!差し返せ!まだ余裕ある!余裕あるから!勝て!差せ!前に出ろ!あぁ……ゲッホ!!」

 

 鷹木は叫びながらも、ミラ子がゴールライン上を駆け抜けたのと同時にストップウォッチを押し、盛大に噎せて咳をした。

 

 さすがにそうそう勝てるものではなかった……仮にも皐月賞ウマ娘、ダービーウマ娘が相手では。

 

 だが、タキオンもギムレットも手を抜かずにほぼ本気の走りを披露したのは事実であったし、ヒシミラクルはそんな彼女らに1バ身未満の差まで食らいつき続けてゴールしたのだ。

 

 結果は、アグネスタキオンの後、ハナ差でタニノギムレットが2番手、そしてヒシミラクルが半バ身差で3番手であった。4カ月近いブランクの末に、これほどの走りを示せるタニノギムレットの凄まじさも際立つ結果ではあった。

 

「ククク……とんだ定めの鎖(フェイト)を見出せたものだ……オマエの道行き(メニュー)は必ずや、集う観客を酩酊へといざなうだろう!あぁ、俺の、ワタシの魂(プシュケー)の滾りがなお欲し、渇いている!嗚呼……嗚呼……!ハッハッハ!ハァーッハッハッハ!破壊の先の理想郷(アルカディア)を鑑賞者(ビホルダー)たちが望むなら、ワタシは第二幕も厭わんぞ!」

 

「いっ、いや、流石にここまでにしよう、専属のトレーナーが居ない状態のギムレットに、無理をさせるわけにはいかないし……それに、他のウマ娘たちも練習場を使いたいだろうし。」

 

 周囲から向けられる視線は、どちらかというと今の熱戦を再度見ることを肯定的に捉える質のものばかりであったが、鷹木は色々と案じつつ、今走った三名にクールダウンを指示した。

 

 いつも息切れには程遠いヒシミラクルも、流石に極限の緊張状態からようやく解放されたおかげか、今は息を整えるために無口になっていた。

 

「今の走り、序盤で先行のペースに持ち込まれかけていたのに気づいたのは良かったぞ、ヒシミラクル。タキオンも、良い形で先行策を見せてくれた。」

 

「むろん私が本番で実行するならば、より分かりづらく速度調整を行うがねぇ、しかし競走中に相手の策を看破できるというのは確かな成長だねぇヒシミラクルくん!神戸新聞杯ばかりか、菊花賞でも通用するだけの自信は持って良いねぇ!」

 

「そっ、そうですかねぇ?今は勝てませんでしたけど、あそこまで迫れるのなら、行ける……と思いたいです。」

 

 純粋な身体能力の成長に加え、前を目指す意気、さらに競走中の駆け引き。それぞれが確実に向上しつつあるヒシミラクルは、GⅠという舞台での勝利を必然へと近づけていけているのだろう。

 

 世間からは、条件戦でくすぶっていたウマ娘がポッと出でクラシック路線に上がってきたように見られるかもしれないが……ヒシミラクルが着実な努力を積み上げて、確かな素質を成長させてきた結果、手が届いたことには間違いない。

 

 一方で、アグネスタキオンは、彼女なりのもう一つの狙いにも手を付けていた。

 

「ところで、ギムレットくん。歓声を浴びて風を切り走るのは久々のことだったろうが、やはり心地の良いものだったろう?この高揚感は、そうそう捨て去れるものではないと思うがねぇ?」

 

「フッ……ワタシの輝きは刹那、だが恒久的に刻まれた。世界を駆ける風(シルフ)の噂に、ギムレットの名が響き続けるならば、長く光ることは求めない。だが、この至高天(エンピレオ)にも昇らん気分は……事実だ。礼を言うぞ、タキオン。」

 

「無意識(イド)に隠された渇望は本物、と言ったところかい?ならばなおさら、レースの場に戻ってくる気はないのかい?」

 

「ククッ、俺の意識(コギト)が、今はワタシを呼ばぬからな。」

 

 言い回しが相変わらず無駄にややこしいやり取りであったが、要するにタキオンはタニノギムレットに、現役復帰を持ち掛けていたらしい。

 

 マイルカップとダービーの連戦で疲弊していた脚も、既に十分に癒えており、走りの鋭さもそのまま。何よりもライバルと肩を並べて駆けるギムレットの情熱が今なお健在だと、今の併走を通じてタキオンは感じ取ったのだろう。

 

 が、当のタニノギムレットは、まだ復帰するつもりは無いようだった。

 

 まだ何か喋りたそうなタキオンに背を向け、練習グラウンドから散っていく野次ウマ娘たちの中に紛れ、まるで陶酔が冷めていくのと合わせるようにこの場を去っていった。

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